1 えんぴつ事件(5)

 海鳥は考え終わると同時に、行動を開始する──座っていた便座から転げ落ちる。

「──!? な、何を!?」

 驚く女性の味方に、うみどりは不敵な笑みを向ける。そして床に転がったまま、右手の人差し指で、ウォシュレットのスイッチを押し込んでいた。

らえっ! このトイレのウォシュレットの水圧は最大だぁぁぁっ!」

 海鳥自身、試したことはなかったが、女性の味方が立っている場所くらいまでなら水が届くはずだった。そして女性の味方がひるんだ隙に、体当たりして組み伏せる。それから包丁を奪ってしまえば、こちらのもの──という算段である。

「…………あ、あれ?」

 しかし果たして、水は出なかった。

 海鳥は知る由もないことだったが、ウォシュレットには人が座っているかどうか確認するセンサーが付けられているのだ。人が座っていない時は、スイッチを押しても水は出ない。

「…………」

 気の毒そうな目で、女性の味方は海鳥を見つめていた。海鳥は真っ青になる。もう何も考えられない。

「く、くそぉぉぉぉぉぉ!」

 叫びながら、わめきながら、海鳥は半狂乱で女性の味方に突進する。包丁のことなど見えてすらいない。目を血走らせた彼女には、もはや何も見えない。

 目前に包丁の切っ先が迫っていようと、彼女は止まらない。

「──っ!?」

 ──海鳥の身体からだかには刺さっていただろう。

 そして包丁を手放した女性の味方は、驚くほどあっさりと、海鳥の体当たりを喰らってしまう。女子とはいえ、170㎝××㎏の全力の体当たりである。女性の味方はドアにたたきつけられ、そのまま床に倒れ込んでいた。

「うわぁぁぁぁっ! うわぁぁぁぁっ!」

 海鳥はなおも動きを止めない。女性の味方の小柄なたいに馬乗りになり、彼女の手から包丁を奪い取ろうとする──そこで彼女が、既に包丁を持っていないことに気付く。体当たりの衝撃で落としたのだろうと、海鳥は考え、辺りを見渡す。果たして包丁は、ちょうど海鳥の手の届くところに転がっていた。彼女は慌ててそれを拾い、やっと一息ついてから……股下で寝そべる少女をにらけていた。

「はぁっ……はぁっ……」

 海鳥は息を切らせながら、包丁を構える。「散々、好き勝手やってくれたね、女性の味方さん。こんな簡単に形勢がひっくり返るなら、最初からこうすればよかったよ。命乞いする必要なんて全くなかった……それで今度は、あなたが命乞いする番だ」

 うみどりは極度の興奮状態にある。頭に血が上り、今にも包丁を振り下ろしかねない。それでもかろうじておもとどまっているのは、相手が自分よりも年下の少女だから、だろうか?

「まあでも、命乞いなんてしないよね? だってあなたは、女性の味方なんだもんね? まさか自分の敵に向かって、『助けて下さい』なんて言える訳がないよ。誇りを捨てるくらいなら死を選ぶ、あなたはそういう人間なんだから」

 あおるように海鳥は言うが、しかし挑発が目的なのではない。海鳥自身、『このままでは相手を刺してしまう自分』に気付いていた。だから少しでも会話をすることで、頭を冷やそうとしているのだ。

 一方で、女性の味方は──

「ちょ、ちょちょちょちょっ、ちょっと待ってちょっと待って! ちょっと待ってください! ごめんなさい私が悪かったです! やめてください!」

「…………え?」

 全力の命乞いだった。

「こ、殺すとか言われて熱くなっちゃったんですか? やだなぁ、ジョークじゃないですか! 可愛かわいい女の子の可愛い冗談ですよ! そんなに目くじら立てることもないでしょ? えへへ、えへ…………」

「…………は?」

「……あ、あの、えず上からどいてもらえませんか? ちょっと重いっていうか、怖いっていうか…………い、いえなんでもないです、変なこと言ってすいません。だからその、せめて包丁だけは下ろして欲しいかなって……」

 少女の口調は、先ほどまでと打って変わって、抑揚が激しい。よく言えば明るい、悪く言えば頭の悪そうなしやべり方である。

「…………その、一応確認なんですけど。まさか、まさか海鳥さんがそんなことするとは思ってないんですけど…………痛いこととか、しませんよね? その包丁で、痛いこととか、しませんよね? ね? …………えへへ、私痛いの、嫌だから」

「…………」

「……ご、ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさい! ゆ、許してください! 今までのこと全部謝ります! だから許して! 刺さないでぇ!」

 ──なんだこれは? 海鳥は眩暈めまいがしてくる思いだった。

「……ちょ、ちょっと待ってよ。あなた、女性の味方なんでしょ? 今まで何人もの女性の敵を葬ってきて、今も私を殺そうとしたわけだよね? それが、いざ自分がピンチになった途端に、変わり身早すぎない?」

「……か、変わり身なんてしていませんよ。だって私、

「…………は?」

「じょ、女性の味方なんて、そんな人は、。て、適当に考えたキャラ設定だから、細部に矛盾とかあったと思いますけど、むしろ話のつじつまとかほどよく合わない方が、よりっぽくていいかなって」

「…………??」

 少女が何を言っているのか、うみどりにはよく分からない。「…………女性の味方じゃないのなら、あなたは一体誰なの?」

「わ、私ですか? 私は──」

 引きつった笑みを浮かべつつ、少女は答える。

「──私は、でたらめちゃんって言います」

「……?」

「でたらめちゃん。ちゃんまで含めて名前です。平仮名七文字きっかりで、でたらめちゃんです」

「……なんて?」

 外国人? と海鳥は一瞬考える──いや平仮名七文字とか言っているし。でたらめちゃん? どこからみようでどこから名前? キラキラしているってレベルじゃないけれど。

。だから海鳥さんを殺すつもりというのはうそだし、女性の味方というのも嘘です。私は嘘しかけないんです。嘘しか吐けないでたらめちゃんです」

「…………なにそれ? ふざけてるの?」

 海鳥はいらったように言い、少女の眼前で包丁を振りかざしてみせた。

「きゃ、きゃあぁぁぁ!? な、何恐ろしいことするんですか!? やめて下さい!」

「じゃあふざけないで、ちゃんと本名を教えなさい。日本人で、そんなとんちんかんな名前の人がいるはずないでしょう?」

「……い、いや、そんなこと言われても。私、これが本名なのでぇ」

 少女──自称・でたらめちゃんはおびえを目に浮かべながら、なおもそんな言葉を返してくる。本気で言っているのか、やはりふざけているのか……海鳥には後者としか思えないのだが、よくよく考えてみれば、今は本名などさして重要でもなかった。とりあえず呼ぶ名前さえあればいいのだ。確認すべきことは、他にある。

「じゃあ、まあ……でたらめちゃんだっけ? あなたが女性の味方じゃないんだとしたら、今まで何人もの人間を葬って来たっていうのも、嘘なの?」

「は、はい! 嘘です! 人殺しなんて、そんな恐ろしい出来ません!」

「……私を殺すっていうのも?」

「嘘です! 嘘八百です!」

「…………」元気よく叫んでくるでたらめちゃんに、うみどりは言葉を失う。信じられない思いだった。あれほどまでに自分をおびえさせた少女が、あからさまにびたような笑みでこちらを見上げて来ている。先ほどまでの言動は、全てうそなのだと言う。ふざけるなという思いが、海鳥の中でふつふつと湧き上がった。冗談じゃない。こっちは目の前で包丁を振り回されて、危うく腰を抜かすところだったというのに。

「……意味が分からないよ。なんでそんな嘘くの? いきなり人の部屋に押し入ってきて、本物の包丁で『殺す』なんて言って脅かすなんて、子供の悪戯いたずらのレベルを超えてるよ。っていうかそもそも、女性の味方として私を成敗しに来たんじゃないのなら、あなたは一体何をしにここに来たの? 目的はなに?」

「……『テスト』ですよ」

「え?」

「『海鳥とうげつは嘘を吐けない』。私はそれを知っていました。そして、それが本当なのか確かめるために、今日この部屋を訪ねたんです」

 いつの間にかでたらめちゃんは、なにやら意味深な表情を浮かべて、海鳥を見上げて来ていた。「より正確に言えば、嘘を吐けない海鳥東月という人間が、果たしてこの私の『パートナー』たり得るのかどうか、『テスト』しに来たんですけどね」

「……『テスト』? 『パートナー』? 何の話?」

「つまり、さっきまでの私のでたらめな言動はすべて、海鳥さんをわざと動揺させて、その『本質』を暴き出すための演技だった、というわけですよ……そして実際に、その試みは成功しました。やはりあなたは、私の『パートナー』に適格な人物のようです。

 単刀直入に言います──海鳥さん。私と一緒に、嘘を殺してくれませんか?」

 海鳥の方をぐに見据えたまま、でたらめちゃんは朗々と告げてくるのだった。

「…………。は? なんて?」

 しばしの沈黙のあと、海鳥は眉をひそめて、

……? なにそれ? どういう意味?」

「そのままの意味ですよ。嘘を吐けない海鳥東月と、嘘しか吐かないでたらめちゃん、この二人でタッグを組んで、この世に蔓延はびこる邪悪な嘘どもを根こそぎやっつけてしまおうというお話です」

「…………?」

「今はまだ、その自覚がないかもしれませんが……海鳥さん、あなたには、たぐいまれな〈嘘殺し〉の才能があります。その力を、私にお貸しいただきたいのです」

「…………いやだから、意味がぜんぜん分からないんだけど」

 まるで要領を得ないでたらめちゃんの話に、海鳥は困惑の息を漏らす。まさかこの期に及んでまた訳の分からないことをのたまって、海鳥をけむに巻こうとでもしているのだろうか?

「……はあ、もういいよ。これ以上あなたの話に付き合っていてもらちが明かなそうだし。とりあえず、警察は呼ばせてもらうからね」

「……え? 警察? なんでですか?」

「当たり前でしょ。今回あなたがやったことは、子供の悪戯いたずらじゃすまされない、完全な犯罪行為なんだから。ちゃんと捕まって、ちゃんと怒られなさい。学校の先生や、それから保護者の方にもね」

「…………」

 諭すようなうみどりの言葉に、でたらめちゃんは困ったような顔をして、「……いや、海鳥さん。大変申し上げにくいんですけど、警察とか呼んでも時間の無駄だと思いますよ? 私はなんていうか、そういう国家権力みたいなものが有効な存在ではないので……」

「……はあ? なに言ってるの? そんなわけないでしょ? 言っとくけど、今さらしおらしく謝ったって私は許してあげないからね」

 まるで取りつく島もなく、スカートのポケットからスマートフォンを取り出して、画面を操作し始める海鳥。そんな彼女を、でたらめちゃんは何やら歯がゆそうな顔で見上げていたが……やがて意を決したように、唇をめて、

「……致し方ないですね。痛いのは、出来れば避けたいところなんですけど」

「……?」

「海鳥さん。その包丁で、今すぐに私を刺してください」

「…………は?」

 その突拍子もない物言いに、海鳥は思わずスマートフォンを床に落としてしまっていた。

「どうか、ひと思いにお願いします。手首のあたりをちょっと切りつけるくらいでいいんですけど……これが一番、海鳥さんに理解してもらいやすい方法だと思うので」

「…………え? いや、やらないけど、え?」

 海鳥は困惑したように、でたらめちゃんを見つめ返す。いきなり何を言い出すのだろう? まさか海鳥を傷害犯に仕立て上げて、今回の事件をにしようとでも? そんなちやちやな……。

「そうですか。やっていただけませんか……ならば、かくなる上は!」

「──わっ!? な、何するの!」

 海鳥の悲鳴が上がる。何を思ったのか、でたらめちゃんが無理やり身体からだを起こして、海鳥につかみかかってきたのだ。

「暴れないでください! 下手に動くとをしますよ!」

「……っ! そ、それはこっちの台詞せりふだよ! あなたまさか、こんな力技でここから逃げ出そうとでも……!?」

「違います! いいから大人しくしてください!」

「で、できるわけないでしょ! このっ、このっ……!」

 ……。……。そうしてしばらくの間、両者の間でみあい、へし合いが続いた結果──

「──ぎゃっ!?」

 ──ふとした拍子に、でたらめちゃんの腹部めがけて、うみどりの持つ包丁が深々と突き刺さってしまっていた。

「……う、い、痛い……」

「……!? きゃぁぁぁぁぁ!?」

 海鳥は包丁から手を離し、悲鳴を上げる。でたらめちゃんの腹部からは、どくどくと、大量の血液が流れ出て来ている。

「……お、おなかは予想外……予想外に痛い……」

「い、いやああああ!? ちょっ、救急車! 救急車呼ばないと!」

 ぐるぐると目を回しながら、その場にへたり込んでしまった海鳥に、でたらめちゃんは引きつった笑みを浮かべて、

「……だ、大丈夫です。痛い、だけなんで」

「……ば、馬鹿言わないでよ。大丈夫な訳ないでしょ?」

「…………いいえ、大丈夫ですよ。だって、ほら」

 でたらめちゃんは腹部に刺さった包丁をぐっと握りしめ、ひと思いに引き抜いていた。大量の返り血が海鳥に降りかかる。それでなくても、床の上は既に真っ赤に染まっている。

 鮮血に海鳥は思わず顔を覆い──そして腕の隙間から、

 ──

 でたらめちゃんの腹部からあふれ出した大量の鮮血が、まるで時間を巻き戻すように、彼女の体内へと戻っていくのだ。床から赤い染みが消える。海鳥の身体からだを真っ赤に染めていた返り血さえも、たちまちの内にがれちてしまっていた。

「……え? え?」

「──この通り」

 そうして『元通り』になったでたらめちゃんは、今度こそ完璧な笑みを浮かべて言うのだった。「私は人間じゃないのです。人間の世界の常識なんて、私には一つも通用しません。だから警察とか呼ばれても、意味ないですね」

「…………」

 いよいよ海鳥は、腰を抜かして動けなくなった。

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