海の中の呼吸法
きっと何かわかったんだと思っていた。
たくさん書いたんだ。昼からシノが俺の家に来るまでの時間ノンストップで。
仮説だけで言えば尋常じゃないほどの数。ただ、仮説でしかなくそれ以上ではない。そしてその仮説を検証する術もほとんどない。
もう何分ほど絶望していたのだろう。部屋はもう藍色から暗闇へと変化していた。
「なあ、部屋の電気つけてもええ?」
静寂の中、口を開いたのはシノだった。その声で部屋にいるのが自分だけでないと思いだした。
「ああ、暗くなってきちまったな。つけてくれてかまわない。」
もう俺の脳は何かを考えることをやめたがっていたのだろう。何も考えず、ただ事務的な応答だけをしている状態に等しかった。
前日からの疲労も、今日一日の疲労も今になって波のように押し寄せる。
「すまねえ。少し眠いからもう寝ることにする。早めに帰ってくれ。」
寝落ちというのは感覚的にこんなものなのだろう。最後の力を振り絞りこんなセリフを吐く。もう瞼を開く力より閉まりたがる意思が勝っている。
「お疲れなん?じゃあゆっくりおやすみね。うちは早めに帰るから安心してな~」
その言葉に妙な安堵を覚えた俺はすぐに眠りについてしまった。
その日の夢はなんだかボヤっとして覚えていない。
深海のようなところをなにもかんがえず一人漂っていた。深海のはずなの好き通った青色が周囲に満ちている
目を開ける。
気泡が自分を取り巻くように、上へとあがってゆく。夢ながら『なぜ呼吸ができているのか』そんな疑問が頭に浮かぶ。なぜなのかわからない。しかし確実に俺は呼吸ができている。
何もわかっていない。ただ俺はこの場面での解決策、すなわち呼吸を無意識的にできていた。
なぜなのか、理論なんか夢では通用しないのはわかっている。
ただ、俺は。
ゆっくりと瞼を開ける。見慣れたごつごつした白い天井。いつの間にか部屋にいた。隣を見るとシノが眠っていた。わざわざあそこから運んでくれたのか。時計を見るともう深夜二時を回っていた。
おそらく、昔の一周間ではこんなことはなかった。バタフライエフェクトというものだろう。現実だったものが改変されている。
「そうか。夢のなかで見つけた、海の中の呼吸法を。」
何もわからなくてもきっとどうにかなる。理論が通用しないのは初めてのループの時からだった。それでも二回目のループはやってこれただろう。現状の打開策を見つけずとも必ずいつか見つかるはずだ。
シノのほうを再び見てみる。気持ちよさそうに寝ているようだ。
「帰れって言っただろ。それでも、いてくれてありがとうな。」
眠っているとわかっていても小恥ずかしいセリフを小さく吐いてみた。
シノの頭を静かになで、再び横になった。
「ええんやで~」
「は?」
ぼんやりとしていた頭から一瞬にして眠気の霧が晴れた。こいつ起きてたのか?
上半身を起こしシノを見る。スースーと寝息を立てていた。どうやら寝言だったようだ。
「脅かすなよ。」
そういい再び就寝体制へとついた。
ゆっくりと瞼を開く。部屋は淡い青色に包まれていた。
時計を見ると時刻は4時20分。クロノスタシス的なものなのだろうか。
腕を上部でクロスし、肩に力を入れて一気に抜く。
「ふぅ。」
一度目が覚めてから再び睡眠をとって2時間とは思えないほど疲れが取れていた。ふと隣を見るとまだシノは眠っている。
体を起こし、洗面所へと向かう。顔を洗い、水を少し飲む。空腹な腹に入ってくる水は何とも言えない気持ちの悪さを感じさせてくる。
「8日まであと四日。ひとまず、解決策として浮かんだのはやっぱりハッチくらい…か。」
手で水を汲み、頭からかぶる。
水が服の隙間から背中に入るのはいくら夏といえどびっくりするほど冷たい。
「俺は、進み続ける。」
今止まっても意味がない。進まなければ先は見えない。今でも先が見えないことにかわりはないが、可能性があるならそれにすがるべきだ。
「ほな、龍馬はんはどないしたいん?」
後ろからいきなり聞こえた声に驚き、振り向く。シノが立っていた。いつもロングできれいにまとまってい髪は寝起きにはさすがにぼさぼさらしい。
「なんだ。起きてたのか。何か食うか?」
今更聞かれたところであいつが何も理解できていないならただ恥ずかしいだけで問題はない。
「昨日の机の上の紙、龍馬はんの小説の設定か何か…ってわけではないやんな。」
寝た後にあれを読まれていたのか。
「小説の設定だ。」
うまい言い訳なんか用意しているわけがない。
「この町を舞台にした?」
「この町を舞台にした小説の設定だ。」
「うちらを主人公にした?」
「俺らを主人公にした小説の設定だ。」
何も思い浮かばずおうむ返しのようになってしまっているが、これが現状精一杯の返答だった。
思い返せば俺はバタフライエフェクトを何度も体験した。それは俺がこの世界にもともと存在しなかったものを存在させてしまっていたからだ。もし、これが悪い方向に流れてしまうのならば…きっとあの時の俺みたいな悲惨な結果をどこかで迎えてしまうかもしれない。だから元の世界でなかったことはこの世界でしてはいけないのだ。
「せやったか。ほな完成したら見せてな、楽しみにしてるわ!」
パッと顔色を変えてそう言い放ったシノはきっとあの雑で適当な言い訳に納得してくれたのだろう。
「えーっと、朝食はなんでもええわ。ちょっとお部屋戻ってるわ~」
少し焦ったが特に何も深堀されなくて本当に助かった。
「じゃあ朝食買ってくるからおとなしく待っとけよ。」
そういい服を着替え、濡れた頭を拭き、出かける準備をした。
財布を持ち、ドアを開けると外はまだ青かった。
「いってらっしゃーい。」
少し遠くから聞こえる声を背に、家を出た。
そうだな、今日はあいつの好きな塩パンでも買ってくか。
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