無知の知

あの考えが浮かんでから何分が経過したのか。しっかりと見えているはずの視界の端がだんだん狭まるような感覚に陥る。

もし仮に今回の世界で運よくハッチを見つけ、運よく彼女を救えたとしてその後どうなる。さっき自分で結論付けた『死んだ地点から巻き戻される』という考えが正しいのなら、あの天災を生き残れたとて、寿命か事故かで死んでしまえばまた事前に戻ってしまう。またこの地獄を繰り替えさなくてはならない。

最後の一回でやっと人間らしく生を全うでき、そこで死ねばもう戻ることはない。

そこで成功させなければ本当の成功とは言えない。

汗をかいて蒸れた服が首元の服と肌の隙間から熱を発する。

「はぁ…」

一つ大きなため息をついた。今まで呼吸を忘れ、していなかったのかのごとく大きな息を吐いた。

頭がぐらっとし、目の前がちかちかする。本当に呼吸を忘れていたのだろうか。

一瞬の目眩の後、頭がスーっと冷たくなる。そこでやっと自我を取り戻した。


一度、帰るか。

昼下がりの暑い外の世界でこんな憂鬱なことを考えても意味がない。


ほんの少し前はウキウキで歩いていたこのほんの数十メートルの道を、今では哀愁漂わせトボトボと歩いている。明るくて目がくらんでいたこの世界に今では絶望し目眩がする。


扉を開け、家へ入る。涼しさより生暖かい空気が漂っていてなんだか気持ちが悪い。

玄関にかけてあるカレンダーに目をやる。7月3日、今日は月曜日らしい。

今頃シノは何をしているのだろうか。何も知らず学校で勉強をして、友達と話して、幸せな日常を体験しているのだろう。幸せか。そうならいいんだが。

最後のその時まであいつには幸せでいてほしい。本当の最後には必ず幸せに。

それなら今ぼーっとしていられない。

一度頭を左右に大きく振る。先ほどの考えを頭から追い出すように大きく。

目を閉じ大きく息を吸い、大きく息を吐く。

いつもやっているリフレッシュ方法だ。すっきりした頭が保てるうちにリビングへと向かった。ついてすぐに椅子に座り、そのへんに散らばってる紙をかき集めペンを持ちテーブルに向かう。

わかっていること、仮説を無作為に図にしたり、言葉で書いてみたりする。忘れないように、脳内を整理するために、無我夢中で書き続けた。汗がたれ文字が滲む。そんなこと関係なしに書き続けた。ループについて、何が原因か、どう戻されるのか、細かい時間はどうなるのか、助かる方法、助かった後。

かき集めた紙切れがすべて埋まるまで書き続けた。なんだか満足したというか何かを理解した気になれたが、明確に何を理解したのかはわからなかった。

気づけば夕焼けが窓から差し込み部屋が橙色に染められる。

どっと疲れが押し寄せ瞼が閉じかける。


その時、ガチャンと鍵を閉める音が聞こえ、さらには廊下から軽い足音が聞こえてきた。ペタペタとこちらへ近づいてくる。

一瞬で眠気から覚醒し、息を殺す。人影がぬっとあらわれ、リビングの扉の前を通り過ぎる。

まさか。最悪だ、ここの治安の悪さは身をもって体感したはずなのに。鍵を閉め忘れてしまったのか。

少し離れたところから扉を開ける音が聞こえ、そして閉める音がすぐに聞こえた。

ペンを握りしめる。武器としては心もとないが拳よりはマシだ。

ペタペタと足音が聞こえ、こっちに向かってくる。

リビングの扉のとってがひねられる。

せっかくペンを持ったのに手に力が入るだけで恐怖で動けない。

動くな!と声を出したはずなのに口から出たのは気の抜けた小さな息だけだった。

ドアが開いていくのに俺はそれを眺めることしかできなかった。

目をつむる。諦めがいいほうが来世に期待できるだろう。

「なんや。いるなら言ってくれればよかったのに。」

聞き覚えのある声に恐る恐る目を開ける。

視界に写ったのは橙色に照らされたシノの姿だった。

こっちを静かに不思議そうに見るシノ。そんな俺たちの間にこだましている時計の秒針の音。それより大きく存在を放っていたのは俺の心臓の鼓動だった。

「こっちのセリフだ。」

やっとの思いで出たのは間の抜けた声とこんなセリフだった。

再び静けさに包まれた部屋で先に口を開いたのは俺だった

「学校はもう終わったのか?」

真っ白だった頭の中には会話のネタなんかなかった。そしてとっさに安心して思い浮かばせられるほどの対応力も人と関わってこれなかった俺にあるわけもなかった。

「うん?今日は学校の創立記念日やで?」

シノに俺は死ぬほど会いたかったはずなのに、今ではぶん殴りたいという感情に心は制圧されていた。

「来てもいいがせめてインターホンくらいならせよ。」

「あら、来てもええん?いつもは来るなっていうのに。」

少しうれしそうにそういうシノを見ると殴りたかった気持ちもだんだん減っていく。

「ああ。どうせ来るなといっても来るだろお前。」

あきれたようにそう言いながら再びシノを見ると、シノがこっちに近づいてきていた。そして近くまで来て机の上に散らばる紙を発見し、こういった。

「これは何の紙なん?」

そういわれた俺は少し迷ってしまった。これを何と説明すればいいのか、今までのことをすべて話すか。

いや、今でなくてもいいか

「ああ、これか。少し考え事をしててな。」

そういいながら席を立ち、机の上の紙を束ね再びパっと目を通す。

一枚1秒もかからないくらいのスピードでちらっとすべての紙に目を通していく。

書いてた時のことをカメラロールのごとく思い出していく。


そして全ての紙に目を通した後に、俺は何を分かった気になったのかやっと理解した。

たくさんの紙に字を書き連ね、図を描いて、時には同じ内容について反復して書いた。それらの多くのペンの跡は俺の努力やフル回転させた脳を象徴していた。


しかし、書いてあることのすべてが考察でしかなかった。


俺は何もわかっていなかったのだ。


あの時俺が感じた何かを理解したんだという感覚はこれだけ頑張り、満足するまで作業をしたのにもかかわらず、収穫は自分の『無知の知』を知ったということだった。

「ははっ…」

俺の意思に反して口から洩れた声は自分ではどうしようもないんだと悟った俺が、正気を保つために発せられた現状唯一の俺の中でのプラスのエネルギーだった。

そんな俺を見たシノはどんな顔をしていたのだろう。


橙色の部屋は徐々に、しかし確実に藍色へと染め変えられていた。


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