Episode 6 天国か地獄か
時刻はようやく二十時を過ぎる頃。
八倉は一通りの資料に目を通し終え、重要な箇所をさらにまとめたものを作り上げた。
事務所には数人がちらほらといる程度で彼同様に同棲役を担う人々がその殆どだ。
今朝先輩から聞かされた社長の機嫌の悪さだが、たしかにその後帰ってきた社長は鬼の形相とまではいかないものの何かに苛立っていた。
さてどうしたものかと考える。
ご機嫌取りをするつもりは毛頭ない。なぜなら社長がそもそも接待の場以外でそういった行為を受けるのを好まないからだ。
では何を考えているのか。それはどう説得させるかということだ。
彼は時間が欲しいと瑠璃香に言っておきながらそれなりに覚悟は出来ている。昨日の彼女の懸命な態度を見て迷っていた心がはっきりと傾いた。必ず彼女と共になりたいと。
ただその思いを実現するためには多くの代償が必要になってしまう。
これは社長から承諾の返事を得た前提での話だが、まず第一に彼は職を失うことだろう。事務所方針として同棲したとはいえ、そこでタレントとそのマネージャーが付き合うなんて本末転倒もいいところだ。仕事に対する真摯な態度というものが欠けている証拠とも捉えられる。
そして次にこちらは可能性が低いと彼は踏んでいるが彼女が職を失うことだ。たしかにこちらは現実的ではなく、現在進行形で売れている若い逸材を事務所がそう易々と手放すはずがない。しかし、後者の可能性を限りなく無にしたい彼は自分の身を存分に売ってでも話をつけようと決意する。
仕事終わりまではあと一時間ほど。緊張を紛らわすためにいつもは飲まないコーヒーを飲んでみたり、それを片手にデスク周りをうろちょろしたりして過ごす。
途中、気が散るから座ってくれと注意されてからは三度目になるが自分でまとめた資料を一から確認して時間を潰していった。
こう目的の時間が迫ってきているときは何故か時間の進みが遅く感じるもので、彼も例に違わず逐一時計を確認してはまだかまだかと焦りが見える。
「ダメだ。こんなんじゃ冷静に話なんて出来るわけない」
一度頭を冷やすためにフロアから出て自販機でお茶を買う。グッと飲み込んで息を吐くと、すこし凝り固まっていた体が柔らかくなった。
彼の人生のなかでこれほどまでに緊張していたことはないだろう。
事務所のなかの空気から解放されたい。そんな気持ちでいっぱいだ。それから数分してまた重い空気のなかに足を入れる。
次は何をしていようかと彼が周りを見渡しているとちょうど社長室の扉が開き、社長が顔を出して皆に言う。
「皆、今日の業務はここまでだ。八倉くん以外は素早く帰るように。八倉くんは全員の帰りを確認してから来るように」
「は、はい! わかりました」
彼の返事を聞いて社長はまた部屋に戻っていった。残った場は冷えきっている。それもそうだ。
今まで社長が名指しで部屋に呼ぶなんてこと殆どなかった。クビになる人は個人的に話をしていると噂なので本当の一大事のときぐらいしか使われない。
一番近くだと以前の未成年タレントが襲われたときだから尚のこと皆はいそいそと帰りの支度を済ませ次々に事務所から去っていく。
「何したか知らんが無事に帰ってこいよ。将太郎なら多分やましいことではないだろ」
先輩が気にかけながら最後に事務所から出ていった。
シーンとした空間は居心地が悪い。これから入る社長室はもっと酷いが。
彼は慎重に二度誰もいないことを確認してからノックした。
「入りたまえ」
「失礼します」
ここで止まってはいけないと躊躇せず部屋のなかに入っていく。
「まあ、まずは掛けなさい」
「失礼します」
普段の社長であればもっと気さくに話しかけている。茶菓子や飲みものを出してもくれていた。だが、今テーブルに置かれているのは一枚の紙だけだ。
「さて、本題に入る前に先に言っておこう。瑠璃香をあそこまで育ててくれてありがとう。あの子の躍進には君が必要不可欠だった。別の者に任せていればここまでは上手くいかなかっただろうからな」
「そう仰って頂けて安心しました。責任を持って三年過ごしてきた甲斐があったと」
対面に座る社長からは今のところ怒りが見えないことに安堵して素直な労いだと受け取った。
彼はこのまま穏便に済んでほしいと願う。ただ、現実は非情だ。
「では、昨日君から貰った電話の真相を聞こうか。内容次第ではここにサインをしてもらうことになるだろうがね」
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