Episode 7 覚悟の代償

 空気が凍っている。

 八倉の脚が震えもしないほど動けない。

 拘束されたように目の前で差し出された退職届の文字をただ見つめていた。


「私は言ったよ。覚悟はしておきなさいと」

「え、ええ、もちろんですが」

「君の話というのはこういうことだろう? 瑠璃香からなのか君からなのかは分からないが、逃げずにここに来たことは評価してるよ。でもね、君も知っての通りこの事務所は当分の間許される立場にないんだ」

「はい。社員として重々承知の上ではあります」

「会社として立場を保つ為には君が犯罪者のような扱いを受けてしまう報告をしなければならない。こちらに同情してもらうことが何よりの防御になるからね」


 そうなってしまったら隠れてでも彼らがこれからも共に過ごす道は確実に途絶えてしまう。つまり、どう転ぼうと彼に生き残れる道はないということ。身代わりになる者がいなければ。


「…………」


 彼は返す言葉が思い浮かばない。初めて就職した職場の社長だ。これは彼の努力の結果でもあるが入社初期から期待をかけてもらい、例の事件後にも多くの社員が経費削減のため職を失っていったのに残してくれた。

 彼からすれば社長は恩人といっても過言ではない。普段は陽気でちょっと抜けてるところがあって仲間思いだ。辞めざるを得なかった社員たちにも望めば次の就職先が同業のなかで見つけられるように奔走していたぐらいに。


「将太郎くん、もう詰んでいるんだ。もしその道を進もうとするなら助けてもやれない。だから、考え直してはくれないか」

「僕は……」

「何もここで人生を棒に振る必要なんてないじゃないか。瑠璃香とは何もなかった。今日の話というのは引越し先の物件を相談しに来たってだけでいい。

別に瑠璃香とこれから関係を持つなと言ってるわけじゃない。親しい友人としていればいいし、元仕事仲間としてなら何もおかしなことはないだろ。ファンのみんなだって君たちのことは知ってるからそこまで不思議がらないだろうし、噂が立ったとしてもいつかは消えていく。だろ?」


 建前上、上に立つ者としての決断を示すため退職届を置いてはいるが社長も彼には残って欲しいと考えている。

 それはこれほどまでに人との関係を築くことに長けている人間が少ないからだ。ただ気さくなだけでも多趣味でも知識が豊富でも密な人付き合いには向いているとは決して言えない。その全てを加味した総合力とその人物の人間性というものが何より影響しているから。

 ここまで話には出なかったが彼は研修中に付き人をしていたタレントとも今でも食事に呼ばれるぐらいには仲が良い。

 その過程と結果を見ているからこそ、社長にとって八倉将太郎という存在を失うことは大きな損失と認識されている。


「社長にそんな言葉をかけて貰えて本当に喜ばしい限りではあるんですが、これは僕ただ一人の問題じゃないんです。

瑠璃の気持ちを踏みにじるなと言ったのも社長じゃないですか。僕は僕なりに覚悟はしてきたつもりです。

仕事はここでハッキリと辞めさせていただきます。ですが、彼女との関係を絶つ気も事務所存続のための理由付けとして利用される気もありません。

当然反感を買い、瑠璃にも誹謗中傷が集まる可能性は低くはないでしょう。僕にはそんな彼女を支えられる勇気が初めはなかった。でも、馬鹿みたいに分かりやすく諦めきれなくて、猪みたいに真っ直ぐに突進してくる瑠璃を見て考えが変わりました。僕と瑠璃なら乗り越えられる壁だと。壊せる壁だと」

「…………それが答えか」

「はい」


 彼の目は真っ直ぐに社長を見つめていた。信念がそこに宿っていると傍から見ても分かるぐらいに。

 話の節々で社長の肩がピクっと反応しているのは怒りなのか悲しみなのかは分からないが、たしかに感情は揺れ動かせられているようだ。


「君がそこまでの思いを既に抱いていたとは思わなかった。瑠璃香の一方的な愛情に君が動かされているだけだと思っていたがそれは間違いだったようだな」


 社長は深く息を吐いた。その表情には呆れが現れ、どうしてこうなってしまったのかと嘆いている。


「君の覚悟とやらはよく分かった」

「それでは──」

「だが、まだ認められん」

「どうしてですかっ!」

「どうしても、だ。また時が来たら話そう。今日のところはもう帰りなさい」

「ふざけないでください! 今日は社長の答えを貰うためにもここに来たんです。僕の答えは示しました。だから──」

「いいから帰りなさい」


 全てを有耶無耶にしようとしているようにしか感じられず語気が強くなる彼を冷静に社長は押し返す。彼が暴走しないよう退職届を自分の足元に落として両手を握りしめる。

 振り払おうとする彼をものともせず、ただ目を見つめ気持ちを抑えるよう宥め続けた。

 そして数分後、落ち着きを取り戻したというよりは失望から怒ることさえ馬鹿に思えてきた彼はもう一度ソファーに座る。


「とにかく今日のところは帰りなさい。先も言ったが君の覚悟は伝わった」

「わかりました……」


 返される言葉には覇気がない。

 すっと立ち上がり一礼して帰っていこうとする背中からも先程見えた強さというのは消え去っている。


「ああ、ちょっと待ちなさい。ファンからまた届いたグッズがあるんだ」

「今度持って帰ろうと思います。今日はちょっと……」

「そうか」


 普段は事務所に入ってすぐのところに送られたものはまとめられているが彼女は人気ゆえにその数が他のタレントと比べものにならず、溢れてしまった分が社長室に置かれていた。

 ただ今日はもう家に帰りたくないと気が参ってしまっている彼には今は関係ない。

 すぐに彼が事務所から出た音が聞こえてきた。社長はまた深く息を吐いて、天を仰ぐ。

 事務所を壊すわけにはいかない。これは社員とタレントを守るためにも最優先事項だ。そのためにあの日から日々頭を悩ませて過ごしてきた。

 どうすればこういうときに奇跡を起こせるのか。一縷の望みにかけることができるのかと。


 他に誰もいない静かな空間で社長はポツリと呟いた。


「二人のためだと思って…………な」

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