Episode 2 世間の声

 あれは悪夢だったのか、それとも将太郎の今後を左右する幸せへの分岐点だったのか。

 端的に言えば瑠璃香は自身の好意を表明した。持っていた紙は過去に我慢していた想いを吐きだすために作詞したものだった。


 将太郎は答えを曖昧にして考えさせて欲しいと自室に篭ってしまい、瑠璃香も困らせてしまうことを自覚していながらも実行にうつったことを反省した様子でしっかりと答えを貰えるまでは待とうと部屋に戻った。

 それから四時間。リビングは静寂に包まれている。外は暗くなり始め、昼頃あった喧騒も今はもう聞こえてこない。

 カチャと扉が開く音が異様に大きく響きわたった。先に戻ってきたのは将太郎の方だ。


「水あげないと」


 この家のリビングにはファンから貰った食物以外のものが多数ある。事務所に届いたなかから瑠璃香が好きなものを持って帰っているからだ。お気に召さなかったものは将太郎が貰ったり、残念ながら放棄されたり。


 その内のひとつである花に水をあげ忘れていたことを思いだした彼は部屋から出てきた。だが、同時に扉の音を聞いて遅れて彼女も姿を現した。彼の決意が固まったと勘違いして。


「あっ」


 つい彼女を見て足を止めてしまう。ここまでの間、もちろん彼なりに返す言葉を考えてはいたがどうしても本人を前にするとすっとは出てこない。

 それをサポートするように彼女から話を切り出していく。


「ちゃんと話聞いて、ワガママにしないから。だから、将太郎さんの言葉が聞きたい」

「……わかった」


 二人はソファに横並びに座る。距離の近さが余計に昼の言葉を意識させて彼の胸は激しく波打っていく。

 一人でいた間、彼はこれまでのことをいくつも思い出していた。

 初めて会った日、まだまだ子供な彼女との距離感に戸惑い自分が上手くマネジメント出来るか不安になったこと。

 同棲を始めて一ヶ月、徐々に仲も良くなり無駄な気遣いが少なくなっていったこと。

 元々動画投稿からスカウトしただけに多少の知名度があったとはいえ初リリースの曲が想定以上の売上を見せて家で盛大に祝ったこと。

 初めての彼女の誕生日。ファンからの祝いとして色々なプレゼントが事務所に届き、そのなかからぬいぐるみなり花なりを持って帰ってリビングに飾ったこと。それから彼がプレゼントとは別に何か願いはあるかと聞いたところ、将太郎さんと呼ばせて欲しいと言ってくれたこと。

 もちろんまだまだ多くの思い出が溢れるように浮かび上がったが、特別初めの頃は記憶に残っている。


「僕らのこの生活が始まってから瑠璃のことを意識したことがないと言えばそれは嘘になる。ただ、君と僕は所属タレントとそのマネージャーだ。

 事務所の方針で同棲という形を取っているとはいえ、そんな二人が付き合うなんてことになったら本末転倒。それは瑠璃も分かってくれるね?」

「うん。でもさ、みんなが皆そういうわけじゃないじゃん。私が偶然、将太郎さんを好きになっちゃったってだけで、私以外にもこんな風にしてる子いるよね?」

「それはそうだけど……」


 今の世間は芸能人の恋愛にいちいちうるさいからその過程にどうしても目がいく。特に女性に対しては過激なファンがいることも多々ある。

 素直に推しのことを応援してあげれば良いのにわざわざ口を出してまでその人生に関わりを持とうとする。

 残念なことに瑠璃香にもそんなファンがいる。顔を見せてこなかったからこそ、想像で作られた美貌に魅了された者たちだ。


 当時者である彼女もそういう話じゃないということは理解している。ただ、その理由で断られるのだけは理不尽だと納得できない。彼の気持ちじゃないから。


「もし必要なら私がこの仕事辞めます。前みたいに動画で活動すればいいし、それに──」

「馬鹿言うなっ! 瑠璃はまだ若いからチャンスはあるかもしれないけど、そう簡単に手に入るものじゃないんだぞ!」

「だったら、だったらはっきり言ってよっ! わたしのこと、好きじゃないって……」

「それは…………」


 その先が出せない。どちらに転んでも何かが終わってしまうから。

 このままの関係で居続けたいと言えるのは子供までで彼も結果を表さないといけないのは分かっている。だからこそ、こんなに葛藤しているのだ。


 瑠理香はそれ以上言葉が続かないと感じて将太郎を見る瞳に潤いが増してきた。しかし、卑怯な手は打ちたくない性分がために最後の武器を使わないようギュッとこぶしを握って耐えている。

 対して将太郎は俯きはしないものの申し訳なさからか目を合わせられていない。


 一秒、また一秒と時は経っていく。彼らにとってこの時間は果てしなく感じていることだろう。

 彼は社長からのメッセージを思い出した。あくまで世間体という話だと受け取っていたが、相手は二十歳になって大人の仲間入りしたばかりのまだまだひよっこ。なるほど、そりゃ説得しようとしたところで簡単に引くなんてことはないだろうなと。

 だからこそ、大人の事情に触れてきた彼だからこそこの掛け合いを易々と終わらせることができないでもいる。そして、言葉を吐き出した。


「僕にとって瑠璃はとても大事な存在だ。でも、この一時の感情で僕らは互いに仕事を失う可能性だってある。その感情に人生のすべてを任せられる覚悟はあるかい?」

「…………」

「つまりそういうことだ。瑠璃の気持ちは十分伝わったし、凄く嬉しかった。けど、この話は隠しておこう。僕たちの、二人だけの思い出にしてしまおう」


 彼は俯いてしまった彼女をそっと抱き寄せた。ズルいとわかっていても必要だと信じて。自分の情けなさを痛感しながら……。

 ただ、彼女は違った。まだまだ冒険し足りない。本当なら叶えられた恋をたかだか世間体なんてものに阻まれて諦めるなんてことしたくない。だから、今は説得されたふりをしていよう。

 今日見た社長さんのメッセージ、ちょっとしか見えなかったけどまだ期限は一ヶ月ある。

 絶対に将太郎さんを知らない誰かに渡したくないから。

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