時代小説ミステリィシリーズ 家康の神策(ゴッド・オペレーション)

長尾景虎

第1話 時代小説ミステリィ 家康の神策(ゴッド・オペレーション)

時代小説ミステリィ

家康の(ゴッド・)神(オペレー)策(ション)

~どうする徳川家康の天下泰平!家康は本当に鯛の天麩羅で死んだのか?!<徳川家康最新研究>



                 ーとくがわ いえやす 徳川家康ー

                ~「天才策士」徳川家康の戦略と真実!

                   今だからこそ、家康


                 total-produced&PRESENTED&written by

                   NAGAO Kagetora

                   長尾 景虎


         this novel is a dramatic interpretation

         of events and characters based on public

         sources and an in complete historical record.

         some scenes and events are presented as

         composites or have been hypothesized or condensed.


        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


    家康の神策(ゴッド・オペレーション) あらすじ

 家康が三河に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。家康はすぐに織田や今川の人質に出される。そして、信長の恐ろしさをしる。なんといっても織田信長を有名にしたのは桶狭間合戦で、大国・駿河の大将・今川義元の首をとったことだ。そして、秀吉の墨俣一夜城築城。サル(秀吉)は信長の絶対的信用を得る。そして、さらに危機がやってくる。義兄弟同然だった浅井らがうらぎり、武田信玄などの脅威で、信長は一時危機に。しかし、機転で浅井朝倉連合に勝利、武田信玄の病死という奇跡が重なり、信長は天下統一「天下布武」を手中におさめようとする。家康は信長に従属し、寺や仏像を焼き討ちに。足利将軍も追放する。しかし、それに不満をもったのは家臣・明智光秀だった。信長の家臣・柴田勝家は北陸、滝川一益は関東、秀吉は中国……ときは今、雨がしたしる五月かな、明智光秀は謀反を決意する。そして、中国・九州攻めのため秀吉と合流しようとわずか百の手勢で京へ向かう信長。しかし、本能寺で光秀に攻撃され、本能寺は炎上、織田信長は自害し、すべてが炎につつまれる。家康と、秀吉との戦い。家康は秀吉に従い利用するだけ利用する。秀吉が馬鹿な戦争をして死ぬと、家康は豊臣家滅亡に策をめぐらす。関ケ原で、大坂冬、夏の陣で勝ち、世は太平の徳川時代に。家康は天下をとったのだ。



 


 第一章 家康の立志



 この作品はノンフィクションの最新研究の文献資料としての側面と、小説形態の物語部分があります。基本的にはノンフィクション作品+小説……のような作品です。

それ以上に、これは新ジャンル『時代小説ミステリィ』でもあります。

殺人事件=ミステリィ、ではありません。歴史の謎を解く。歴史ミステリィであります。

何故、物語部分・小説があるのか? それは只、だらだらと文章で研究を説明するより、ドラマ性、物語部分(小説部分)を載せることにより〝遊び〟の部分を残したためです。

よって、完全なノンフィクションではなく、小説でもあります。

 その点においては何卒ご理解のほどを宜しくお願い致します。


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  徳川家康最新研究の徳川家康、その真実  一

 ミステリィの謎解きのその最初のパートです。

まずは、徳川家康の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。



人物・逸話

人物

身長

家康着用の辻ヶ花染の小袖は、身丈139.5cm、背中の中心から袖端まで59cmの長さがあるため、身長は155cmから160cmと推定される。

容貌

家康に謁見したルソン総督ロドリゴ・デ・ビベロは、著作の『ドン・ロドリゴ日本見聞録』で、家康の外貌について「彼は中背の老人で尊敬すべき愉快な容貌を持ち、太子(秀忠)のように、色黒くなく、肥っていた」と記している。

下腹が膨れており、自ら下帯を締めることができず、侍女に結ばせていた(『岩淵夜話』)。

後世の書には非常な肥満体で醜男であったとされている(神沢杜口『翁草』1776年)。

武術の達人

剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱の新陰流の流れをくむ神影流 剣術開祖で家来でもある奥平久賀(号の一に急賀斎)に元亀元年(1570年)から7年間師事。

文禄2年(1593年)に小野忠明を200石(一刀流剣術の伊東一刀斎の推薦)で秀忠の指南として、文禄3年(1594年)に新陰流の柳生宗矩を召抱える。

塚原卜伝の弟子筋の松岡則方より一つの太刀の伝授を受けるなど、生涯かけて学んでいた。

ただし、家康本人は「家臣が周囲にいる貴人には、最初の一撃から身を守る剣法は必要だが、相手を切る剣術は不要である」と発言したと『三河物語』にあり、息子にも「大将は戦場で直接闘うものではない」と言っていたといわれる。

馬術も、室町時代初期の大坪慶秀を祖とする大坪流を学んでいる。

小田原征伐の際に橋をわたるとき、周囲は家康の馬術に注目したが、家康本人は馬から降りて家臣に負ぶさって渡った。

豊臣軍の諸将は要らぬ危険を避けるのが馬術の極意かと感心したという(『武将感状記』)。

弓術については三方ヶ原の戦いにおいて退却途中に、前方を塞いだ武田の兵を騎射で何人も射ち倒して突破している(『信長公記』)。

鉄砲も名手だったと云われ、浜松居城期に5.60間(約100m)先の櫓上の鶴を長筒で射止めたという。

また鳶を立て続けに撃ち落としたり、近臣が当たらなかった的の中央に当てたという(『徳川実紀』)。

好学の士

家康は実学を好み、板坂卜斎は家康について「『論語』『中庸』『史記』『貞観政要』『延喜式』『吾妻鑑』を好んだ」と記載している。

家康はこれらの書物を関ヶ原以前より木版(伏見版)で、大御所になってからは銅活字版(駿府版)で印刷・刊行していた。特に『吾妻鑑』は散逸した史料を集めて後の「北条本」を開板し、また林羅山に抄出本を作成させており、吾妻鑑研究の草分け的存在と言える。また『源氏物語』の教授を受けたり、三浦按針から幾何学や数学を学ぶなど、その興味は幅広かった。

古典籍の蒐集に努め、駿府城に「駿河文庫」を作り、約一万点の蔵書があったという。これらは御三家に譲られ、「駿河御譲本」と呼ばれ伝わっている。

南蛮から贈られた薄石が瑪瑙と知らされたおり、『本草綱目』で確認させたように実証的であった。

多趣味

鷹狩と薬作りが家康の趣味として特に有名であるが、他にも非常に多くの趣味があった。

鷹狩は、府中御殿に滞在しながら お鷹の道で行われたとの記録が残っているほか、家康の鷹狩にちなむ地名や青山忠成や内藤清成の駿馬伝説などの伝説を各地に残すことになった。

家康の鷹狩に対する見方は独自で、鷹狩を慰め(気分転換)のための遊芸にとどめずに、政治的・軍事的視察も兼ねた。

身体を鍛える一法とみなし、内臓の働きを促して快食・快眠に資する摂生(養生)と考えていた(『中泉古老諸談』)。

薬作りは、八味地黄丸など生薬調合を行い、この薬が、俗に「八の字」とよばれていたことから、頭文字の八になぞらえ、八段目の引き出しに保管していた。

「薬喰い」とも言われる獣肉を食すなど記録が多い。

駿府城外には家康が開いた薬園があり、死後に廃れたが享保年間に復興した。

猿楽(現在の名称は能)は、若いころから世阿弥の家系に連なる観世十郎太夫に学び、自ら演じるだけでなく、故実にも通じていた。

このためもあってか、能は江戸幕府の式楽とされた。特に幸若舞を好んだという。駿府城

三の丸には能楽専用の屋敷があり、家康は度々家族や大名・公家と共に観覧した。

囲碁の本因坊算砂を天正15年(1587年)閏11月13日、京都から駿府に招いている。家臣の奥平信昌が京都で本因坊の碁の門下となり下国の際に駿府へ連れてきたとされる。

自身で嗜んだのみならず家元を保護し、確立した功績から、家康は囲碁殿堂に顕彰されている。

将棋は一世名人・大橋宗桂に慶長17年(1612年)に扶持を与える。

この功績により、平成24年(2012年)の名人制度400年を記念して、将棋十段の推戴状が贈呈される。

香道を好み薫物(たきもの)の用材として、東南アジア各国へ宛てた国書の中で特に極上とされた伽羅を所望する記述があり、遺品にも高品質の香木が多数遺されている。

なお有名な蘭奢待については、慶長7年6月10日、東大寺に奉行の本多正純と大久保長安が派遣されて正倉院宝庫の調査を実施し、現物の確認こそしたものの、切り取ると不幸があるという言い伝えに基づき切り取りは行わなかった(『当代記』)。

同8年2月25日、開封して修理が行われている(続々群書類従所収「慶長十九年薬師院実祐記」)。


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         1 立志




         竹千代




徳川家康は天文十一年(一五四二年)十二月二十六日、三河岡崎城で誕生した。 父は松平広忠、母は於大である。赤子の名は竹千代、のちの徳川家康である。

「でかした! 於大! みごとな嫡男じゃ!」

 松平広忠はふとんに横たわる妻にいった。妻はにこりと笑い、とんでもありませぬ。女子が子を産むのは当然の仕事ですから、といった。

「当然の仕事?」ふたりは笑った。

 しかし、三河は小国で、まわりは大国の敵だらけである。駿河(静岡県)の今川、尾張(愛知県)の織田、関東の北条、越後(新潟県)の長尾(上杉)、美濃(岐阜)の斎藤、甲斐(山梨県)の武田……。三河は愛知県東部のちいさな国に過ぎない。四方八方敵だらけ、四面楚歌である。広忠は赤子を抱き抱えたが、内心、不安でいっぱいであった。

「この子が大きくなるまで三河はもつだろうか……」

「だいじょうぶですわ、御屋形様」於大は夫の心の中を読んだかのように微笑んだ。「竹千代は強い子です。きっとよい大名になりまする」

「……於大」

「いえ」於大はにやりとした。「竹千代は天下人になりますわ」

「それはいい! 竹千代が天下人か」ふたりはまた笑った。しかし、祖母の華陽院だけは笑わなかった。笑っている場合ではない、というのだ。

 家康が誕生したとき、武田(晴信)信玄二十一歳、長尾景虎(上杉謙信)十九歳、信長九歳、浮浪児秀吉は七歳であった。時は戦国乱世、群雄かっ歩の下剋上の時代であった。 松平広忠は必死に戦った。しかし、領土拡大は難しかった。

 そんなおり、於大の美貌を耳にした今川義元が「於大殿を今川にくれ」といってきた。 当然、子を産んだばかりの於大は反発した。

「わらわは竹千代を産んだばかり…」於大はあえぎあえぎ続けた。「竹千代はどうなりまする? わらわは今川などにいって”てごめ”にされるのですか?」

 夫・松平広忠は何もいわなかった。只、つらそうに唇をかんだ。

「於大」祖母の華陽院は彼女を諭した。「今は戦国乱世……たがいに食うか食われるかの時代です。わが三河は小国、大国の今川義元殿に歯向かえばたちまち食われてしまう」

「されど…」

「於大、駿河へいきなさい。それが松平家のため、そして竹千代のためなのですよ」

 華陽院はいった。於大は涙を流して、竹千代をしっかり抱きしめた。強く。強く。強く抱いていれば竹千代の中にも自分の愛が伝わるに違いない、そう信じて。

「竹千代、竹千代」於大は泣き崩れた。時代が時代とはいえ……母と子が…なんとむごい。

 天文十六年(一五四七年)岡崎城では、六才になった竹千代が剣道で、剣の腕を磨いているところだった。竹千代はハンサムで、賢い嫡男だった。家臣たちの評判もよかった。しかし、三河では大変な選択に悩まされていた。今川義元が人質を出せ、といってきたのだ。しかも、竹千代を……

 竹千代を人質に出して今川と同盟するか、それとも従わず今川と戦うか。しかし、大国今川軍と戦えば敗色濃厚で、勝ち目はまずない。兵力が違い過ぎる。

「よし、竹千代を人質に出そう」松平広忠は決心した。

 家臣たちは反対した。家臣たちは、例え勝ち目がなくとも”城をまくらに討ち死に”などといっていたのだ。広忠はその案には乗らなかった。

 まずは三河松平家の維持、これが肝要だった。

「竹千代、今川義元公の元へ人質としてまいれ」

 広忠は座敷にやってきた竹千代にいった。「わかるか? 人質じゃぞ」

「はい!」竹千代は答えた。まだ六歳の竹千代(のちの家康)は、父であり主君である松平広忠に答えて平伏した。まだ童子なのに…哀れなことじゃ…父は竹千代を憐れに思った。 しかし……いたしかたなし…



         2 道三と信長




        人質家康




 山岡荘八が小説『徳川家康』を書いて、”家康は狸ではなく、律義な正義感の強い正直者の武将”という家康像を打ち出したのはもう半世紀も前のことだ。

 しかし、山岡荘八の家康像は間違いだと思う。長編小説として何十巻も書くためには主人公の家康が、策士で、狸で、権謀術数の持ち主……としてはよんでもらえないと判断したのであろう。

 史実の家康をもっと目をひらいて見てほしい。若い頃ならまだしも、家康は秀吉の死後、豊臣家滅亡のため策をめぐらせ、ついには淀殿(茶々)や秀吉の実子・秀頼を自害に追い込んだではないか。片桐且元を謀略によって追放したり、さまざまな策略をめぐらせたりした。家康は勝つためには何でもやった。小早川秀秋をまるめこんで関ケ原でも勝利した。

 十分、策士で、狸で、権謀術数の持ち主であるのだ。

 日本人が尊敬する歴史上の人物の中で、一番人気なのが織田信長と坂本龍馬だという。どちらも悲劇的な最期によって”永遠のヒーロー”となった。しかし、本当の成功者である頼朝や家康の人気は低い。それは日本人の心の中の「子孫に美田を残さず」という考えからだろう。しかし、家康は信長にも秀吉にも勝った。本当に天下を獲り、二七〇年もの徳川幕府太平の世をつくったのだ。信長はテロルで殺され、秀吉は朝鮮出兵という馬鹿なことをし、病死した。家康はそれらを反面教師として長生きし、勝った。

 本当の勝利者は徳川家康なのだ。


  

 のちの徳川家康(松平竹千代(松平元康))少年が織田家に転がりこんだのは、まだ、信秀が生存中のことだ。家康は今川の人質だった。その頃、織田信長の父・織田信秀は斎藤道三の美濃(岐阜)の攻略を考えていた。道三は主君だった美濃国守護土岐頼芸を居城桑城に襲って、彼らを国外に追放したという。国を追われた土岐頼芸らは織田信秀を頼ってきた。

 いくら戦国時代だからといって何の理由もなく侵略攻撃はできない。しかし、これで大義名分が出来た訳だ。

「どうかわが国を取り戻してくだされ」

「わかり申した」

信秀強く頷いた。

「必ずや逆臣・道三を討ち果たしてみせましょう」戦いはこうして始まった。

 吉法師もこの頃、元服し、信長と名乗る。そして、初陣となった。斎藤氏との同盟軍・駿河(静岡)の今川の拠点を攻撃することとなった。信長少年の武者姿はそれは美しいものであったそうだ。織田勢は今川の拠点の漁村に放火した。

 ごうごうと炎が瞬く間に上り、炎に包まれていく。村人たちは逃げ惑い、皆殺しにされた。信長少年はその炎を茫然とみつめ、「これが……戦か」と、力なく呟いたという。

「信長はどうかしたのか?」信秀は平手に尋ねた。

「いや。わかりませぬ」平手政秀は首をかしげた。なぜ若大将がたかが放火と皆殺しだけで、そんなに心を痛め、傷ついてしまったのか…。典型的な戦国武士・平手政秀には理解できなかった。父・信秀も、あんな軟弱な肝っ玉で、大将になれるのか、と不安になった。 この頃、織田家に徳川家康(松平竹千代(松平元康))少年が転がりこむ。

 なんでも渥美半島の田原に城をかまえる戸田康光という武将が、信秀のところにひとりの少年を連れてやってきたという。

 戸田は「この童子は、松平広忠の嫡男竹千代です」といって頭をさげた。

「なんじゃと?」信秀は驚きの声をあげた。

 戸田が隣で平伏する少年をこづくと、「松平竹千代(松平元康、徳川家康)…に…ござります」と、あえぎあえぎだが少年は、やっと声を出して名乗り、また平伏した。

「戸田殿、その童子をどこで手に入れたのじゃ?」

「はっ、もともとこの童子は三河の当主・松平広忠の嫡男で、今川と同盟を結ぶための人質でござりました。それを拙者が途中で奪ってつれてきたのでござります」

 戸田はにやりとした。してやったりといったところだろう。

 織田信秀は当然喜んだ。「でかした、戸田殿!」彼はいった。「これで…三河は思いどおりになる」

 そして、信秀は松平竹千代を熱田近辺の寺に閉じ込めた。

 この頃、尾張(愛知県)の当主・織田信秀は三河(愛知県東部)攻撃がうまくいかず苛立っていた。当主の松平広忠の父松平清康が勇猛な武将で、結束したその家臣団は小規模な集団ながら、西からは織田、東からは今川に攻められたが孤軍奮闘していた。

 しかし、やはり織田か今川につくことにして、結局、今川につこうということで今川に人質・竹千代を送ったのである。

 松平は拡大を続け、次第に松平姓を名乗る部族が増えていった。しかし、数がふえれば諍いが起こる。松平家は内部分裂寸前になり、そこに尾張の織田信秀と駿河(静岡)の今川義元が入り込んできた。

 義元はすでに「京都に上洛して自分の旗をたてる」という野望があった。

 この有名な怪人は、顔をお白いで真っ白にし、口紅をつけ、眉を反り落とし、まるで平安時代の公家のような外見だったという。自分のことを「まろ」とも称した。

 上洛といっても京都の足利将軍を追い立てて、自分が将軍になるという訳ではない。

 今川家はもともと足利支族の家柄で、もし足利本家に相続人がいなければ、今川家から相続人をだせる。ただ、今川義元とすれば駿河一国の守護として終わるより、足利幕府の管領となるのが目標であった。邪魔になるのは三河の松平と尾張の織田だ。

 美濃(岐阜)の斎藤氏については織田などをやぶったあとで始末してやる…と思っていた。そんな野望のある今川義元は、伊勢に逃れた松平広忠を救済した。

「まろが織田を抑えるうえ、三河にもどられよ」

 当然、松平広忠は感謝した。今川義元は大軍を率いて三河に出陣した。そんな頃、人質・竹千代が戸田に奪われ、織田家にやってきたのだ。

 織田信秀は松平家の弱体と、小豆板での勝利に狂喜乱舞した。

今川は策を練った。

「松平広忠殿、もはや織田家に下った竹千代は帰ってはこぬ。そこで、まろの今川の家来となったらいかがか?」

 当然、小勢力の松平家は家臣となろうとした。しかし、「そんなことはできない。竹千代様の帰りをあくまでも待って、われらは松平家を再興するのじゃ」と頑張る者たちもいた。徳川家普代の家臣群にそれがのちになっていったという。




         帰蝶



 今川義元の家臣で、名は大原雪斎という勇猛なお坊さんがいた。戦いにはいつも勝ったという軍師である。天文十八年(一五四九年)十一月に、その大原雪斎が、突然、軍を動かした。織田の城を落とした。そのとき、城主の織田信広は捕虜となった。

 軍師・大原雪斎は頭を働かせた。

「松平家を完全に服従させるためには、織田家にいる竹千代を取り戻して、今川の人質にしなければならぬと思いまする。よって、捕らえた織田信広と竹千代を交換しましょう」

「……なるほど」

今川義元は妙策だと膝を打った。「そちの策、妙策である」

 織田に使いが走った。

そして、まもなく、織田信広と竹千代は交換された。織田信秀は苦々しい思いだったが、いたしかたなし、と思った。

 しかし、今川にかえされたといっても竹千代(のちの家康)がそのまま拠城である岡崎城にかえる訳ではなかった。そのまま駿河に連れていかれた。岡崎城も今川の武将の手にあり、城下町の奉行には鳥居元忠がついていたが今川のコントロール下にあったという。

完全に三河は今川の手におちていた。

 天文十九年(一五五〇年)正月、駿河城で今川義元らは酒席の場にあった。竹千代少年は女子たちにかこまれて、上座の義元と対面していた。

「竹千代、その両側にいる女子のうち誰が好きじゃ?」義元はふざけた。「鶴姫(瀬名)と亀姫……どちらがいい?」

 竹千代は鶴姫のほうを指差し、「こちらの女子が好きにござります」といった。

 義元は大笑いして、「なら、鶴姫は竹千代が元服すれば嫁にやるわな」

「ありがとうございまする!」竹千代は平伏した。そののち竹千代は屋敷の軒下で豪胆にも立ち小便をしてみせたという。

「これ、若!」今川義元は「これはこれは肝に毛の生えた豪胆な小童じゃ!」と笑って竹千代の無礼を許した。

 竹千代は今川の人質のまま、臨斎寺の雪斎禅師に学問や兵法を習った。そして、こんなエピソードもある。安部川の河原で、子供達が石合戦をしていた。

「若君、どちらが勝つと思われますかな?」今川の家臣がきくと、幼い竹千代は「うん、人数の少ない方が勝つ」と真面目にいった。

「少ないほうが真剣にやっておるからじゃ」

 結果、竹千代のいう通り、数が少ない方が勝ったのだった。

 そんな竹千代も十二歳になった。まだ今川の人質ではあったが、弘治三年(一五五七年)初春、竹千代は元服し、瀬名(鶴姫)と結婚した。

 信長の父・信秀は幸運にも竹千代を手にしたが、大原雪斎という坊さんの活躍で手放さざる得なくなった。彼にしてみれば、息子の織田信広はふがいないうつけに思えたに違いない。 信長はこの頃、十五か十六歳である。彼はあいかわらず鷹狩りとうつけにうつつを抜かしていた。そして、この時期、織田信秀は美濃の斎藤道三軍に大敗して、和議をむすぶことになったという。大事件勃発である。

 天文十一年に道三は、守護職の土岐一族を追放して、美濃の国主となっていた。昔はガマの油売りをしていた下郎である。しかし、彼は間もなく隠居した。自分の愛人深芳野という女性が産んだ義竜に家督を継がせた。道三の後をつぎ、義竜は右京大夫・美濃守となった。「義竜君は、実は土岐頼芸公の実子だ」という噂が美濃に流れ、策略家の道三は家督を義竜に譲ったのだ。だが、それは本心ではない。噂を消すための一次的なものだ。

いずれは義竜の欠点をあげつらって、廃嫡においこむ気でいたという。

 そんな忙しい時期に、織田信秀は攻めてきた。

 そして、結局、和議となった……という次第である。

 和議の内容は、土岐頼芸とその兄・盛頼を美濃に戻す、ということと政略結婚だった。つまり、信長と道三の娘帰蝶(濃姫)を結婚させるということだ。道三は譲歩し、それを受け入れた。天文十七年(一五四八年)和議は成立、織田信長は道三の娘帰蝶(濃姫)と結婚した。濃姫は十歳、信長は十五歳であり、まるでままごとのような夫婦であった。

 濃姫を嫁に出すとき、父・道三は短刀を渡した。

姫の母は名門の生まれで、美貌であり、道三は剃髪して髭を生やしてはいるが結構美男子だった。当然、帰蝶(濃姫)も美少女であったという。短刀を渡しながら道三はいった。

「織田信長というのは尾張ではうつけと評判がたっておる。もし、お前の目からみて本当にうつけ者だったら、この短刀ですぐ殺せ。そして美濃に帰ってまいれ」

 が、帰蝶(濃姫)は「さて、どうでしょうか。逆にこの短刀で父上を殺すかも知れません」と答えたといわれている。冗談めかしだが、顔は真剣そのものだ。

「…さようか」道三はにこりと笑った。が、心の中では、この娘も俺が父親だということを疑っているのだろうか、と不安になっていた。

 しかし、帰蝶(濃姫)は父の望み通り、信長の近況をスパイし、美濃に知らせた。

 そんな彼女のことを信長はよく理解していた。信長は天守閣に登り、毎晩、美濃の方角を眺めるようになったという。

「毎晩、何をごらんになっているのでござりまするか?」

 濃姫は不思議に思って信長に尋ねた。信長は冷ややかな、真面目で真剣な表情で、

「わしの意を汲んだ斎藤氏の家臣が道三を殺して狼煙をあげることになっておるのだ」

といった。えっ?! 濃姫は驚きのあまり声をあげた。そして、死ぬほどびっくりもした。仰天した。なんといってもまだ小娘の妻である。「その家臣とは誰でござりまするか? 名は?」あえぎあえぎだが、やっと尋ねた。信長はなになにとなになにだ、と名をあげた。

 当然、それを知った道三は怒りにふるえ、その家臣たちを打ち首にした。しかし、これは信長の策略だった。「借刀殺人の計」で、斎藤氏の有力な家臣を駆逐したのだ。

 しかし、帰蝶(濃姫)は信長を裏切らなかった。彼のことを好いていた。気の強い少年と純粋可憐な少女は、互いにひかれあっていたのである。


 鉄砲の威力は予想以上だった。なにせ、百メートル離れた的をこっぱみじんに破壊したのである。城外で、信長は家臣を連れて、鉄砲を撃っていた。彼はいつものように髪を茶せんにし、汚れたよれよれの着物姿だった。蒼天のよい天気だった。

「種子島はすごいのう」信長は鉄砲で狙いをつけながらいった。

「そうですなぁ」家臣のひとりは頷いた。鉄砲はすごい迫力と轟音で弾が飛ぶ。反動もすごい。しかし、信長はにやにやしていた。これは使える、と思ったからだ。

「よし、この種子島を千丁都合いたせ」信長は飄々といった。

「せ、千丁? でごさりまするか?」家臣はびっくりして動揺した。「しかし…南蛮鉄砲は値段が高くて……とても千丁も買えませぬ」あせった。

 信長は家臣を睨みつけた。「なんとかいたせ!」怒鳴った。

「御屋形様! わたしにも撃たせてくださりませ」突然、側にいた羽織袴の帰蝶(濃姫)が笑顔でいった。「わたしも鉄砲を撃ちとうござりまする」

「よし。さすがは斎藤道三の娘だのう」信長は笑った。そして、大きな鉄砲を渡した。

「いけませぬ! 濃姫さま、女子には危のうございます」家臣は焦ってとめた。

「よい!」濃姫はいった。「わらわは斎藤道三の娘、是非に及ばぬ」

 姫は発砲した。すごい反動で、倒れそうになった。信長は笑った。「さすがは斎藤道三の娘だ。この調子で、濃に鉄砲を買う矢銭(軍費)も都合してもらえぬかのう」

 ふたりは笑った。

 いったいどうして彼女が、美濃の城で寵愛を受けて育った、美しい、きびしいしつけを受けて育った、頭のいい娘が、どうして”尾張のうつけ殿”と呼ばれて蔑まれている信長なんかとめぐり合うことになったのだろう。もっといい人生も送れたはずの彼女がどうして。なぜ、うつけの若妻になったのだろう。

 そうだ、思い出した。………帰蝶(濃姫)は彼をみつめて長いあいだ立ち尽くした。疑問の余地はない。彼女がいままで目にした男たちの中で、信長こそ一番の色男だ。長身、みごとな筋肉、だが、そのわりに細くてしなやかな十七歳の身体を持った織田信長、髪を茶せんにし、もえぎ色の糸でむすんである。目は切れ長で、大きく、きらきら輝くはしばみ色で、濃いまつげが影を落としている。唇はふっくらしていて、笑みを浮かべるまでは少女の唇といってもいいほどだ。信長が笑みを浮かべると……あぁ、誰がその微笑にうっとりせずにいられよう。戦国の習いに従って尾張に嫁いだ帰蝶(濃姫)だが、けして後悔はしていなかった。なぜなら、信長がハンサムで、自分にだけは優しくしてくれるからだ。

 父・織田信秀の葬儀が終わると弟・信行が食ってかかってきた。

 座敷の上座には、またもうつけ殿そのものの信長が、よれよれの汚い服で座って、瓜をむしゃむしゃとほうばっているところであった。

 弟・信行は正装のぴしっとした身形である。信行は兄に猛烈に腹がたっていた。

「兄上!」珍しく声を荒げた。「織田の当主ならば、もっとちゃんとした身形でいて下され! 父上はあの世で泣いておられまするぞ!」

 信長は笑った。なにがあの世だ、そんなものあるものか、というのだ。

「織田の当主が、そのような乞食同然の格好をしていては資質を問われまするぞ!」

「乞食か」信長はにやりとした。「まぁ、お前と一緒に町をあるけば、お前は殿様、わしは乞食か雑兵にみられるわな」

「兄上!」

 信行は眉をひそめたが、また兄・信長のほうを向いた。信長はほうばっていた瓜を弟に突然なげつけた。この信長をなめるな、と怒鳴った。急に”キレた”

 弟の信行は一瞬、その場で凍りついた。

 彼は慌てて振り向いた。信長の顔は暗く、目は怒りの炎でぎらぎらしていた。「この信長に指図しようとは百年早いわ」怒鳴りつけた。「なめるな!」

 弟の信行は彼になぐられたようにすくみあがったが、唇をきゅっと結び、彼が四方八方から受けている圧力のことを考慮に入れた。兄・信長はカッとなりやすく、圧力釜に長いこと入り過ぎていたため、釜のバルヴが壊れて、あらゆるものが噴きこぼれていた。うつけと呼ばれ、攻撃され、嘲笑され、罵倒され、危なっかしく生活しながら、何もかもひとりでまとめようと奮闘している。

「兄上、兄上の苦しみ……この信行にはわかります」説得しようとした。

 しかし、無駄な努力だった。信長は怒りで顔を真っ赤にして、「わしの何がわかるというのだ!」と歯をぎりぎりしながら立ち上がり、座していた弟に強烈な蹴りを食らわした。 そして、厳しい視線を向ける弟に怒鳴るようにいった。

「信行! おぬしに林通勝を授ける。お前のいう資質とやらを教えてもらえ!」

 弟は崩れた身体を起こしながら、兄をにらみつけた。やはり、兄上は只のうつけ(阿呆)だ。少しでも同情したわたしが馬鹿であった。信行が茫然と黙り込むと、信長はどかどかと歩き去った。……うつけを始末せねば織田家もあやうい…信行は強く思った。それは、嫉妬というより怒り、激しい怒りであった。




         平手の諫死



 林通勝はいった。「うつけもここに極まれりか」

柴田勝家も「あれほどうつけがひどいとはな」と頭をふった。

 そしてふたりは、信長様を廃し、弟の信行様に当主になって頂こう、と決心した。

 ますます守役の平手政秀は窮地においやられた。

 信長を、平手政秀は放任主義で育ててきた。しかし、うつけになった。信長は我儘で、癇が強く、すぐ怒って暴力をふるううつけ殿になった。そして、葬儀での事件である。

 平手政秀は絶望的な気分だった。

 あるとき、酒席で信光(信秀の弟)が平手政秀に文句をいった。あのうつけ者(信長のこと)の責任は平手にある、というのだ。平手政秀はぐっと唇を噛んだ。

 すると、平手政秀の息子・平手五郎左衛門が

「しかし、大殿さまに信長さまの補佐を承ったのは父上だけではありませぬ。林殿、柴田殿、青山殿、内藤殿…皆同罪です」

と意義を申したてた。

だが、泥酔の信光は

「平手政秀は守役筆頭であろう。すべては平手の無能と馬鹿ぶりのせいじゃ」とのたまった。

「許せぬ! その言い方はゆるせぬ!」五郎左衛門は太刀を抜き、信光を斬り殺そうとした。が、同僚たちに抑えられとめられた。

「後生だ! 斬らせて下され!」暴れた。

 そこに信長がやってきた。「どうしたのじゃ?」と尋ねた。

「おぉ、信長。こやつ、わしを斬り殺そうとしたのじゃ! こやつの首をはねよ!」

 泥酔の信光は真っ赤な顔であえぎあえぎいった。

「五郎左衛門! ……まことか?!」

「いえ、殿!五郎左衛門は……酒に酔って乱心しただけにござりまする!」

家臣たちは平手五郎左衛門を抑制しながらいった。

「嘘じゃ! 信長。こやつ、わしを斬り殺そうとしたのじゃ! こやつの首をはねよ!」

「後生です! 斬らせて下され! 信光を斬り、わたしは切腹いたしまする!」暴れた。

ぜいぜいと肩で息をし、信光を睨みつけた。

「馬鹿者めが! 外で頭を冷やせ!」信長は怒りに震え、平手五郎左衛門の顔を殴りつけた。五郎左衛門はもんどりうって倒れた。一瞬、場が静まった。いや、凍りついた。

 信長はそれ以上は何もいわなかった。只、平手五郎左衛門をにらみつけるだけだった。 平手政秀は平伏した。


 白無垢姿の平手政秀が信長の前に現れたのは、その次の週のことであった。

天文二十二年(一五五三)閏一月十三日の朝である。

「平手政秀、切腹するそうじゃな?」信長は真剣な顔になった。「なにゆえ、息子の平手五郎左衛門ではなく、そちなのじゃ?」

「はっ、息子の罪は親の罪にござりまする。みどもは腹切って、殿に忠節を示しまする」「ならぬ! 平手! おぬしが腹を切って何がかわるというのか!」

「殿!」平手政秀は強くいった。「もっともっと強くなって下され!」

「な……何っ」

「鬼のように、まるで鬼神、阿修羅のこどく!」平手は続けた。「今、尾張には問題が山積しておりまする。東の三河の松平家、さらに東の駿河の今川家、美濃には斎藤家、都には三好一族や松永弾正などの脅威がありまする。また、大殿さまの死によって尾張も分裂ぎみで、連中は虎視眈々と尾張を支配しようと企んでおりまする。また、弟君の信行さまには織田家累代の重臣たちがついておりまする。殿、強くなって尾張を、そしてこの日の元の国を救ってくだされ。もっともっと強くなって下され!」

「………で、あるか」信長は頷いた。そして、平手政秀は切腹した。それは、信長を諫め、そして一国一城の主へと変身させるための壮絶な教えでも、あった。




         道三



 尾張と美濃の狭間にある富田の正徳寺で会見しよう、と舅・美濃の斎藤道三は、信長にもちかけてきた。信長はその会見を受けることにした。

 舅の斎藤道三の方は興味深々である。尾張のうつけ(阿呆)殿というのは本当なのかどうか? もし、うつけが演技で、本当は頭のいい策士ならどえらいやつを敵にまわすことになる。しかし、うつけは演技ではなく、只の阿呆なら、尾張はまちがいなく自分の手に落ちる。阿呆だったら、攻撃も楽なものだ。しかし……本当の正体は……

 斎藤道三は、自分の家臣八百人あまりを寺のまわりに配置し、全員お揃いの織目高の片衣を着せた。そして、自分は町の入口にある小屋に潜んだ。信長の行列をここから密かに眺めようという魂胆である。やがて、信長一行が土埃をたててやってきた。信長は無論、斎藤道三が密かに見ていることなど知らない。

 信長のお共の者も八百人くらいだ。

ところが、その者たちは片衣どころか鎧姿であったという。完全武装で、まるで戦場にいくようであった。家臣の半分は三メートルもの長い槍をもち、もう半分が鉄砲をもっている。当時の戦国武将で鉄砲を何百ももっているものはいなかったから、道三は死ぬほどびっくりした。

「信長という若僧は何を考えておるのだ?!」彼は呟いた。

 側には腹心の猪子兵助という男がいた。道三は不安になって、「信長はどいつだ?」ときいた。すると、猪子兵助は「あの馬にまたがった若者です」と指差した。

 道三は眉をひそめて馬上の若者を見た。

 茶せんにしたマゲをもえぎ色の糸で結び、カタビラ袖はだらだらと外れて、腰には瓢箪やひうち袋を何個もぶらさげている。例によって、瓜をほうばって馬に揺られている。

 通りの庶民の嘲笑を薄ら笑いで受けている。道三は圧倒された。

「噂とおりのうつけでございますな、殿」猪子兵助は呆れていった。

 道三は考えていた。舅の俺にあいにくるのにまるで戦を仕掛けるような格好だ。しかも、あれは織田のほんの一部。信長は城にもっと大量の槍や鉄砲をもっているだろう。若僧め、鉄砲の力を知っておる。あなどれない。

 道三は小屋を出て、急ぎ富田の正徳寺にもどった。

 寺につくと信長は水で泥や埃を払い、正装を着て、立派ないでたちで道三の前に現れた。共の者も、道三の家臣たちもあっと驚いた。美しい若武者のようである。

「あれが……うつけ殿か?」道三の家臣たちは呆気にとられた。

「これはこれは婿殿、わしは斎藤道三と申す」頭を軽く下げた。

「織田信長でござりまする、舅殿」

 信長は笑みを口元に浮かべた。

「信長殿、尾張の政はいかがですかな?」

「散々です。しかし、もうすぐ片付くでござりましょう」

「さようか。もし、尾張国内のゴタゴタで、わしの力が借りたい時があれば、いつでも遠慮なく申しあげられよ。すぐ応援にいく。なにせお主は、可愛い娘の立派な婿殿だからな」

「ありがたき幸せ」信長は頭を下げた。

「ところで駿河の今川が上洛の機会をうかがっておるそうじゃ。今川の兵は織田の十倍……いかがする気か? 軍門に下るのも得策じゃと思うが」

「いいえ」信長は首をふった。「今川などにくだりはしませぬ。わしは誰にも従うことはありませぬ。今川に下るということは犬畜生に成りさがるということでござる」

「犬畜生? 勝ち目はござるのか?」

「はっ」信長は言葉をきった。「………戦の勝敗は時の運、勝ってみせましょう」

「そうか」道三は笑った。「さすが育ちのいい婿殿だ。ガマの油売り上りのわしとは違う気迫じゃ」

「舅殿がガマの油売り上りなら、わしはうつけ上りでござる」

 ふたりは笑った。こうして舅と婿は酒を呑み、おおいに語り合った。斎藤道三は信長にいかれた。そして、それ以後、誰も信長のことをうつけという者はいなくなったという。 信長二十歳、道三六十歳のことである。

 信長は嘲笑や批判にはいっさい動じることはなく、逆に、自分にとってかわろうとした弟や重臣たちを謀殺した。病だといつわって、信長を見舞いにきた弟・信行を斬り殺して始末したのだ。共の柴田勝家は茫然とし、前田利家は憤った。しかし、信長は怒りの炎を魂に宿らせ、横たわる信行の死骸を睨みつけるだけであった。

 こうして、織田家中のゴタゴタはなくなった。

 そして、織田信長の天下取りの勝負がいよいよ始まるのであった。          

         3 桶狭間合戦


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  徳川家康最新研究の徳川家康、その真実  二

 ミステリィの謎解きのその次のパートです。

まずは、徳川家康の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。


新しいもの好き

南蛮胴、南蛮時計など新しい物好きだった。

日光東照宮には関ヶ原の戦いに行くまでの道中で着用したとされる南蛮胴具足が、紀州東照宮には徳川頼宣が奉納した防弾性能を試したらしい弾痕跡が数箇所ある南蛮胴具足があり、渡辺守綱や榊原康政には南蛮胴を下賜し伝世している。

晩年の家康は、日時計、唐の時計、砂時計などを蒐集しており、時計が好きだったようだ。

遺品として、けひきばし(コンパス)、鉛筆、眼鏡、ビードロ薬壺などの舶来品が現存している。

芸事は好まない

今川家での人質時代に今川義元に舞を所望されたが、猿楽にして欲しいと請い、見かねた家臣が代わりに舞っている。

当時は中世文化が非常に盛んだった駿府で育ちながら、京文化への関心は元々少なかったようである。

家康は幼少期より茶の湯の世界が身近にあったが、信長や秀吉と異なり茶の湯社交に対する積極性は見られない。

家康の遺産である『駿府御文物』には足利将軍家以来の唐物の名物・大名物が目白押しだが、久能山東照宮にある家康が日常に用いた手沢品はそれらに比べ質素な品が多い。

ただし茶を飲むこと自体は好んでおり、天正12年(1584年)に松平親宅と上林政重に製茶支配を命じ、毎年茶葉を献上させている。なお、親宅は家康へ肩衝茶入『初花』を献上し、政重は後に宇治の茶畑の支配を任せられ、伏見城の戦いで戦死している。

家康が尊敬していた人物

家康は、中国の人物として劉邦、唐の太宗、魏徴、張良、韓信、太公望、文王、武王、周公を尊敬している。着目すべきはすべて周・漢・唐時代の人物で前王朝の暴君を倒して長期政権を樹立した王(皇帝)とその功臣の名が挙げられている。日本の人物では源頼朝を尊敬していた(『慶長記』)。

師は武田信玄

武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。

軍令に関しては重臣・石川数正の出奔により以前のものから改める必要に駆られたという事情もある。

天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保する。

と、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ水戸藩を治めさせている。

書画

『翁草』(神沢貞幹)や『永茗夜話』(渡辺幸庵)には「権現様(家康)は無筆同様の悪筆にて候」とある。

しかし、少年から青年期の自ら発給した文書類には、規矩に忠実で作法通りの崩し方を見せ、よく手習いした跡が察せられる。

特に岡崎時代の初期の書風には力強い覇気が溢れ、気力充実した様子が窺える。

こうした文書類には、普通右筆が書くべき公文書が含まれており、初期には専属の右筆が置かれていなかったようだ。

天正年間には、家臣や領土も増えて発給する文書も増加し、大半は奉行や右筆に委ねられていく。

しかし、近臣に宛てた書状や子女に宛てた消息、自らの誠意を披露する誓書は自身で筆を執っている。

家康は筆まめで、数値から小録の代官に宛てたとみられる金銭請取書や年貢皆済状が天正期から晩年まで確認できる。

家臣や金銀に関する実務的な内容なものから、薬種や香合わせなどの趣味的な覚書、さらに駿府城時代の鷹狩の日程を記した道中宿付なども残っている。

文芸として家康の書を眺めると、家康は定家流を好み、藤原定家筆の小倉色紙を臨模し、手紙でも定家流の影響を受けたやや癖の強い筆跡が窺えるようになる。

が、一方で連綿とした流麗な書風を見せる和歌短冊も残っており、家康が実学ばかりでなく古典や名筆にも学んだ教養人でもあった一面を表している。

ただし『慶長記』には、先述の実学との対比で、根本・詩作・歌・連歌は嫌ったとある。絵も簡略な筆致の墨画が10点余り伝わっている。

が、確実に家康の遺品と言われるものはなく、伝承の域を出ない。

しかし、『寛政重修諸家譜』に家康が描いた絵を拝領した記録があり、余技として絵を描いていたことが窺える。

健康指向

家康は健康に関する指向が強く、当時としては長寿の75歳(満73歳4ヵ月)まで生きた。

これは少しでも長く生きることで天下取りの機会を得ようとした物と言われ、実際に関ヶ原の合戦は家康59歳、豊臣家滅亡は74歳のときであり、長寿ゆえに手にした天下であった。

その食事は質素で、戦国武将として戦場にいたころの食生活を崩さなかった。

麦飯と魚を好み、野菜の煮付けや納豆もよく食べていた。

決して過食することのないようにも留意していたといわれる。

酒は強かったようだが、これも飲みすぎないようにしていた。

和漢の生薬にも精通し、その知識は専門家も驚くほどであった。海外の薬学書である本草綱目や和剤局方を読破し、慶長12年(1607年)から、本格的な本草研究に踏みだした。

調合の際に用いたという小刀や、青磁鉢と乳棒も現存する。腎臓や膵臓によいとされている八味地黄丸を特に好んで処方して日常服用していたという。

松前慶広から精力剤になる海狗腎(オットセイ)を慶長15年(1610年)と慶長17年(1612年)の2回にわたり献上されており、家康の薬の調合に使用されたという記録も残っている(『当代記』)。

欧州の薬剤にも関心を示しており、関ヶ原の戦いでは、怪我をした家来に石鹸を使用させ、感染症を予防させたりもしている。東照大権現の本地仏が薬師如来となった所以は家康のこの健康指向に由来している。

致命的な病を得た際にも自己治療を優先し、異を唱えた侍医の与安を追放するほど、見立に自信を持っていた。

が、自惚れではなく、専門的な知識に裏付けられたものである。

本草研究も、後の幕府の薬園開設につながることから、医療史上に一定の役割を果たしたといえる。

家康の侍医の一人、呂一官が創業した柳屋本店は今も現存する。

寡黙な苦労人

幼少のころから、十数年もの人質生活をおくり、譜代家臣の裏切りにより祖父と父を殺されており、そもそも織田家の人質になったのも家臣の裏切りによってともいわれている。

家督相続後は三河一向一揆において後の腹心・本多正信らにも裏切られている。

また、小牧・長久手の戦い後には重臣・石川数正にも裏切られている。

働き者で律儀者・忠義者が多く、結束が固い強兵と賞賛される三河国人だが反面、頑固で融通が利かず内向的で自負心が高い。

結束も縁故関係による所が大きい。

こうした家臣たちを統御していくには日ごろからかなり慎重な態度が求められたようで、自然言葉数が少なくなったものと推察され、家臣たちの家康評には「なにを考えているかわからない」、「言葉数が非常に少ない」といった表現が多い。

倹約

家康の倹約にまつわる逸話は多い。

侍が座敷で相撲をしているときに畳を裏返すように言った(『駿河土産』)。

商人より献上された蒔絵装飾を施した御虎子(便器)の不必要な豪華さに激怒し、直ちに壊させた(『膾餘雑録』)。

代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させた(『翁草』)。

三河にいたとき、夏に家康は麦飯を食べていた。

ある時部下が米飯の上に麦をのせ出した所、戦国の時代において百姓にばかり苦労させて(夏は最も食料がなくなる時期)自分だけ飽食できるかと言った(『正武将感状記』)。

厩が壊れても、そちらのほうが頑強な馬が育つと言い、そのままにした(『明良洪範』)。

家臣が華美な屋敷を作らないよう与える敷地は小さくし、自身の屋敷も質素であった(『前橋旧聞覚書』『見聞集』)。

蒲生氏郷は秀吉の後に天下を取れる人物として前田利家をあげ、家康については人に知行を多く与えないので人心を得られず、天下人にはなれないだろうといった(『老人雑話』)。

この結果、家康は莫大な財を次代に残している。『落穂集追加』では家康のは吝嗇でなく倹約と評している。

普段は質素な生活に努めたが、必要な際には必要な出費を惜しむことはなかった。

例えば『信長公記』に記された織田信長の接待においては京から長谷川秀一を招いて巨費を投じ、趣向を凝らした接待を行っている。

大井川の舟橋などは信長を感動させるものだったと記されている。

家康公遺訓

家康の遺訓として「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず。不自由を常とおもへば不足なし、こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもへ。勝事ばかり知りて、まくる事をしらざれば、害其身にいたる。おのれを責て人をせむるな。及ばざるは過たるよりまされり」という言葉が広く知られている。

が、これは偽作である。明治時代に元500石取りの幕臣・池田松之介が徳川光圀の遺訓と言われる『人のいましめ』を元に、家康63歳の自筆花押文書に似せて偽造したものである。これを高橋泥舟らが日光東照宮など各地の東照宮に収めた。

また、これとよく似た『東照宮御遺訓』(『家康公御遺訓』)は『松永道斎聞書』、『井上主計頭聞書』、『万歳賜』ともいう。

これは松永道斎が、井上主計頭(井上正就)が元和の初め、二代将軍・徳川秀忠の使いで駿府の家康のもとに数日間滞在した際に家康から聞いた話を収録したものという。

江戸時代は禁書であった。一説には偽書とされている。

家康と刀剣

家康は、武家の棟梁として古い名刀を蒐集し、「日光助真」(国宝、東照宮蔵)など多くの名物がその手元にあった。

また、晩年の慶長19年(1614年)春には、大坂冬の陣に備えるために、伊賀守金道という刀工に1000振りの陣太刀を急造発注し、その政治的見返りとして朝廷に対し金道を「日本鍛冶惣匠」に斡旋している。

一方で、家康を始めとする徳川家臣団が、戦場で使う武器として愛用していたのが、当時の「現代刀」だった伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)の刀工、千子村正(せんご むらまさ)と千子派(村正の一派)、そしてその周辺流派の作である。

家康自身も村正の打刀と脇差を所有し、これらは尾張徳川家に「村正御大小(むらまさおだいしょう)」として伝来した。

脇差は大正期に売却されたが、打刀は現在も徳川美術館に所蔵され、村正に珍しい皆焼(ひたつら)刃の傑作として名高い。

家康がこの大小を一揃いで差し実戦で使用したのか確実なところは不明だが、少なくとも今も打刀にはわずかに疵の跡が残っている。

この「皆焼」の刃文を持つ村正は相当な稀少品で、現存するのは他に短刀「群千鳥(むらちどり)」や短刀「夢告(むこく)」などの数点しかなく、そのいずれもが評価の高い名作とされている。

お膝元の駿河には村正と作風を共有する島田義助(元今川氏のお抱え刀工)がいて、六代目の義助に御朱印を与えるなど厚遇している。

村正と義助は直接の師弟関係ではないが、お互いの派で技術的交流を続けていたから、作風が近づくことがよくあった。

なお、かつては家康が村正を忌避していたという俗説があったが、現在では完全に否定されている。

村正は徳川家に祟るとする妖刀伝説が江戸時代に広く流布していたことそのものは事実(村正#妖刀村正伝説)で、村正は銘を潰されるなどの悲惨な被害を受けた。

が、そうした伝説は家康の死後に発生したものである。

徳川美術館は、家康が村正を忌避していたとするのは後世の創作、家康は実際は村正を好んでいた、と断言している。

妖刀伝説が広まった理由としては、以下の理由が考えられる。

『三河後風土記』で、家康が村正を忌避し、織田有楽斎が家康を憚って村正の槍を打ち捨てたという逸話が捏造された。

これは正保年間(1645-1648年)後に書かれた著者不明の偽書だが、江戸時代後期までは慶長15年(1610年)に平岩親吉が自ら著した神君家康の真実と信じられていた。

家康の親族が村正で傷つけられたという妖刀伝説の逸話も、出処が怪しいものが多くそもそもどこまでが真実か極めて疑わしい。

主家の家康自身が村正を好んだように、徳川家の重臣には村正や千子派(村正派)の作を持つ者が多かった。

仮にそれらの傷害事件が事実としても、確率の問題でたまたま用いられたのが村正だったとしても不思議はなく、また、嘘だとしても、家臣団に普及していた村正を物語に登場させるのは説得力があった。

家康の村正愛好のせいで逆に忌避伝説につながった皮肉な例と言える。

その他

居城

家康の生誕地は、三河国・岡崎だが、生涯を通じて現在の静岡県(浜松・駿府)を本城あるいは生活の拠点としている期間が長く、岡崎にいたのは、尾張国の織田氏のもとで人質として過ごした2年を含め、幼少期および桶狭間の戦い後10年と極めて短い。

幼少から持っていた洞察力

10歳のころ、竹千代(家康)は駿河の安倍川の河原で子供達の石合戦を見物した。

150人組と300人組の二組の対決で、付添いの家臣は人数の多い300人組が勝つと予想した。

だが竹千代は「人数が少ない方が却ってお互いの力を合わせられるから(150人組が)勝つだろう」と言った。

家臣は「何をおかしなことを言われるのですか」と取り合わなかった。

が、竹千代の予想通り、150人組が勝ったので、竹千代は家臣の頭を叩き、「それ見たことか」と笑ったという。

肖像画

平成24年(2012年)、徳川記念財団が所蔵している歴代将軍の肖像画の紙形(下絵)が公開された。

家康の紙形は「東照大権現像」(白描淡彩本)とされており、よく知られている肖像画とは違った趣で描かれている。

信長の兄弟

『フロイス日本史』では、「信長の姉妹を娶り」とあり、家康は一貫して「信長の義弟」と書かれている。

しかし現在のところ、この女性の存在を裏付ける史料は見つかっていない。

神君伊賀越え

本能寺の変直後の神君伊賀越えでは伊賀・甲賀忍者の力添えを受けて三河国まで逃走した。その道中、甲賀忍者の多羅尾氏の居館に着いたとき、家康は警戒して城に入ろうとしなかった。

が、城主・多羅尾光俊が赤飯を与えたところ、信用して城で一泊した。

その後は伊賀の豪族・百地氏、服部氏、稲守氏、柘植氏の柘植清広等の護衛で白子まで辿り着き、この功で多羅尾氏は近江国で8,000石を領する代官に、柘植氏は江戸城勤めの旗本となった。

他の伊賀・甲賀忍者らは「伊賀同心」として召し抱えられ後に江戸へ移った。また、このときの礼として百地氏には仏像を与え、これは現在も一族の辻家が所有している。

影武者説

大坂夏の陣の際に家康は真田信繁に討ち取られ、混乱を避け幕府の安定作業を円滑に進めるために影武者が病死するまで家康の身代わりをしていたとされる説。

一説に異母弟の樵臆恵最もしくは小笠原秀政ではないかといわれる。

大阪府堺市の南宗寺には家康の墓とされるものがある。

「徳川氏」について

戦国時代から江戸時代の大名の佐竹氏の家中には、徳川氏と遠祖を同じくするとした得川義季の子孫を称する新田氏流得川氏の末裔という常陸徳川氏がいて、親藩ですら限られた家系しか徳川氏の名乗りが許されない中、単なる秋田藩大名の家臣の立場で徳川氏を堂々と名乗っていた。

源氏への復姓時期について

家康は永禄4-6年ごろの文書では本姓として「源氏」を使用しており、永禄9年(1566年)に「徳川」を名乗った際に藤原氏に改姓している。

が、氏を源氏に復姓した時期については、はっきりしない。

かつては近衛前久による年代不明の書状が「(改姓は)将軍望に付候ての事」としていることから、関ヶ原の戦いの勝利後、征夷大将軍任官のため吉良氏系図を借用して系図を加工し、源氏に戻したというのが通説であった。

しかし米田雄介が官務壬生家の文書を調査したところ、天正20年9月の清華成勅許の口宣案において源氏姓が用いられているなど、秀吉生前からの源氏使用例が存在している。

笠谷和比古は、天正16月4月の後陽成天皇の聚楽第行幸の様子を収めた『聚楽行幸記』には、家康が「大納言源家康」と誓紙に署名しているという記述があることから、源氏への復姓は少なくともこの時期からではないかと見ている。

他に天正14年(1586年)、安房国の里見義康(新田一族)に送った同年3月27日付の起請文では、徳川氏と里見氏は新田一族の同族関係にあることを主張している。

ただし、これ以降も「藤原家康」名義の書状が現存しており、この起請文は偽文書の可能性が指摘されている。

また、天正14年には藤原氏を用いた寺社への朱印状も残っている。

天正19年(1591年)、家康が発給した朱印状で姓が記されているものは「大納言源朝臣」ないし「正二位源朝臣」と記されており、藤原氏は使用されていない。

笠谷は家康が源氏復姓の時期が将軍であった足利義昭の出家時期と重なっており、左馬寮御監・左近衛大将など将軍家しか許されてこなかった官をうけていることから、“豊臣政権下で家康はすでに源氏の公称を許され将軍任官の動きが公然化し、豊臣関白政権の下での徳川将軍制を内包する形での、権力の二重構造的な国制を検討していた”と記述している。

阿部能久は、天正16年は足利義昭が正式に征夷大将軍を辞任した年であり、豊臣秀吉は家康が将来の「徳川将軍体制」を見越して源氏改姓をしたことを認識しつつ、それを逆手に取って関東地方を治めさせたと捉え、さらに清和源氏の正統な末裔である足利氏の生き残りと言える喜連川家に古河公方を再興させることで、家康と喜連川家+佐竹氏など関東諸大名との間に一定の緊張関係をもたらすことで家康の野心を封じ込めようとしたと推測している。

江戸幕府の支配に関して

徳川家康の名で発行されたオランダとの通商許可証(慶長)14年7月25日(1609年8月24日)付

家康が礎を築いた徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の支配体系は完成度の高いものである。江戸幕府は京、大坂、堺など全国の幕府直轄主要都市(天領)を含め約400万石、旗本知行地を含めれば全国の総石高の1/3に相当する約700万石を独占管理(親藩・譜代大名領を加えればさらに増加する)し、さらには佐渡金山など重要鉱山と貨幣を作る権利も独占して貨幣経済の根幹もおさえるなど、他の大名の追随を許さない圧倒的な権力基盤を持ち、これを背景に全国諸大名、寺社、朝廷、そして皇室までをもいくつもの法度で取り締まり支配した。

これに逆らうもの、もしくは幕府に対して危険であると判断されたものには容赦をせず、そのため江戸幕府の初期はいくつもの大名が改易(取り潰し)の憂き目にあっており、これには譜代、親藩大名も含まれる。これは朝廷や皇室でさえも例外ではなく、紫衣事件などはその象徴的事件であった。

幕府に従順な大名に対しても参勤交代などで常に財政を圧迫させ幕府に反抗する力を蓄えることを許さず、また、特に近世初期は多くの転封をおこない「鉢植え」にした。

些細な問題でも大名を改易、減封に処し、神経質に公儀の威光に従わせるように仕向けた。

大名への叙位任官、松平氏下賜(授与)で、このように圧倒的な権力基盤を背景にして徳川将軍家を頂点に君臨させた。

全国の諸大名・朝廷・皇室を「生かさず殺さず。逆らえば(もしくはその危険があるならば)潰す」の姿勢で支配したのが江戸幕府であった。

このように徳川将軍家を頂点とする江戸幕府の絶対的な支配体系については「保守的・封建的」との見方もできる一方、強固な支配体系が確立されたからこそ、戦国時代を完全に終結させ、そして江戸幕府が250年以上におよぶ長期安定政権となったことは否定できない事実である。

後の鎖国政策につながるような限定的外交方針を諸外国との外交基本政策にしたことから、幕末まで海外諸国からの侵略を防げたという評価もあるが、これらの「業績」は家康の死後に、当時の情勢において行われたものである。また明が海禁策をとるなど、当時の世界的な趨勢であるとも言える。

家康は朝廷を幕府の支配下におこうとした。慶長11年(1606年)には幕府の推挙無しに大名への官位の授与を禁止し、禁中並公家諸法度を制定するなどして朝廷の政治関与を徹底的に排除している。

大坂冬の陣の最中である12月17日、朝廷は家康に勅命による和睦を斡旋したが、家康はこれを拒否した。

さらに家康は秀忠の五女・和子を入内させ、外祖父として皇室まで操ろうとしたのである(入内の話は慶長17年(1612年)から始まっていたという。和子の入内が元和6年(1620年)まで長引いたのは、家康と後陽成天皇が死去したためである)。

家康の死後、幕府は紫衣事件などを経て、天皇および朝廷をほぼ完全に支配することに成功した。この力関係は幕末の尊王運動が起こるまで続いた。

一族・譜代の取り扱いに関して

息子や家臣に対しても冷酷非情な面を見せる人物だったとされることが多いが、情に流されず息子や一族に対しても一律に公平であったと見る向きもある。

長男・信康の切腹に関しては、信長の要求によるものではなく、家康自らの粛清説も近年唱えられている。また、生母の身分が低い次男・結城秀康、六男・忠輝を、出生の疑惑や容貌が醜いなどの理由で常に遠ざけていたとされるが、これには異論もある。

関ヶ原の戦いにおいて江戸留守居役を命じられた秀康は、戦功を挙げるために秀忠に代わり西上したいと申し出たが容れられなかった。

かねてから秀康には石田三成との交流があり、豊臣方に内通する恐れがあったとも考えられる一方で、武将として実績のある秀康に三成と友誼が深く西軍に呼応する恐れが強い佐竹義宣を監視させ、東北戦線で上杉氏と戦う伊達政宗・最上義光らの後詰め役として待機させたとされる。

秀康は後の論功行賞において破格の50万石を加増、官位も権中納言まで昇進しており、最終的に67万石もの大封を与えられ、

江戸への参勤免除、幕府からの使役の免除、関所を大砲で破壊しても黙認されるなど、別格の扱いを受けている。

将軍継嗣がならなかったのは、豊臣秀吉の養子で、後に結城家に養子に入り名跡を継いでいることなどが理由とされる。また秀康の子・松平忠直には、秀忠の娘・勝姫を嫁がせている。

忠輝についても嫌われ、冷遇されたといわれたが、それを示す史料はなく、改易前には御三家並の所領(越後国・高田55万石)が与えられていた。

しかし秀康はともかく、嫡子・忠直や忠輝は家康よりもむしろ秀忠と不仲であったとされる。松平忠直は大坂の陣で真田信繁(通称、幸村)らを討ち取る功績を挙げた。

が、論功行賞に不満を言い立てた。

家康の死後は幕政批判や乱行が目立ったために秀忠によって隠居させられ、越前福井藩を継いだのは忠直の弟・忠昌であった。忠輝も秀忠により数々の不行状を追及されて改易させられた。

徳川四天王である本多忠勝や榊原康政を関ヶ原の戦い後に中枢から外し、この2人に次ぐ大久保忠隣を改易・失脚させている。

しかし、榊原康政は老臣が要職を争うことを嫌い自ら老中職を辞退していることに加え、康政の跡を継いだ榊原康勝が大坂の陣で没した後に起こった騒動を家老の処分にとどめ、本多忠勝に対しては、その子・本多忠政と孫・本多忠刻に自分の孫・熊姫(松平信康の娘)と千姫を嫁がせるなど、譜代大名に相応の配慮は示しており、その例は例外も多いが鳥居家、石川家など枚挙に暇がない。

大久保氏も忠隣の孫・忠職は大名として復権し、家康の死後は加増が行われ次代・大久保忠朝は旧領小田原への復帰と、11万石という有力譜代大名としての加増を受けている。

ただし、忠職が家康の曾孫であるから、という見方もできるのも否めない。

しかし、忠隣自身が家康死後に家康の誤りを示すとして秀忠からの赦免要請を拒否していることから、大久保氏を避けていたわけではないと思われる。

家康は吏僚の造反行為には厳しく、三河時代に武田勝頼と内通した寵臣・大賀弥四郎を鋸引きという極刑で処刑している。

大久保長安についても、幕府中枢にある者の汚職・不正蓄財と扱い殊更に厳しくすることで、綱紀粛正を促したとする見方もできる。さらには、人材の環流は組織の活性化に必須であり、一連の行為はあくまで幕府の体制固めとして行われた政治的行為として解釈することもできる。

また、松平信康を含め、秀康・忠輝に共通するのは武将としての評価が高かったことにあり、武将としては凡庸とされ失敗もあり兄を差し置いて将軍となった秀忠の手前彼らを高く評価することは憚られたことが背景にある。

また、家康はかつて敵対していた今川氏・武田氏・北条氏の家臣も多く登用し、彼らの戦法や政策も数多く取り入れている。『故老諸談』には家康が本多康重に語った言葉として「われ、素知らぬ体をし、能く使ひしかば、みな股肱となり。勇功を顕したり」と記されている。



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         今川義元



 戦国時代の二大奇跡がある。ひとつは織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦、もうひとつが中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。

 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。

 斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。

 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。

 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。

「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。

「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。

「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。

「は?」

「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。

 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。

 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。

 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのいい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。

 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。

 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。

 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。

「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたする」義元はいった。

 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。

 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。信長の勝つ確率は極めて低い。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。

 今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。

 特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。

 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。

 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしたもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、

「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」

今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。

しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。

「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」

そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。

 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。

 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。

 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。家臣たちは訝しがった。なにを夢ごとを。



         元康の忠義



  

 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。

 今川義元は軍議をひらいた。今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。

「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。

 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」

 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。

 柴田勝家は「そうか……とは? …お館! 何か策は?」と口をはさんだ。

 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。羅生門を宮福太夫という猿楽師に、舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。

「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」

 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。

 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。

「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。

「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」

「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」

「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。

「なんてお館だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」

「まったくあきれる。あれでも大将か?」

 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」

 信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。

「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」

「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」

「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」

 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。

「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」

「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」

 日吉は迷ってから

「奇襲にでればと」

「奇襲?」

信長は茫然とした。

「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」

「さしでがましいわ!」

信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。

「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。

 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろだ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。

「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。

「なんじゃ、猿」

「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」

「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」

「八百あまり」

「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。

「いま何刻じや?」

「うしみつ(午前2時)でござりまする」猿はいった。

「よし! 時は今じや!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」

 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。

そして有名な「敦盛」を舞い始める。

 「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。

「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎のわずか五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。

 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。

「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」

 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。

 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。

 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。

 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」

 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。

「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。

 信長は叫んだ。

「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」

 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。

「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」

 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせた。にやりとなる。

「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形さまである」と感心した。

 織田軍は密かに進軍を開始した。







         桶狭間の合戦



                

 丘の上で信長軍は太子ケ根を登り、待機した。

 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。

部下は嵐の中で「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。

 しかし、信長はその策をとらなかった。

「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」

 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」

 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。喚声をあげて山から下ってくる軍に今川本陣は驚いた。

「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」

陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。

「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」

 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!

 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。

 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!

「御屋形様をお守りいたせ!」

 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。

「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、人差し指に噛みつき、新助のそれを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。

 義元はこの時四十二歳である。

「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。

 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。

「勝った! われらの勝利じゃ!」

 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。

 かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が

「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。

「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」

「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。

「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。

 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。

 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。

 今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。

 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。

 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。

 これに対して信長は

「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」

と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。

 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。

 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方に血相をかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。

 清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。

 信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」

 意味がわからず家臣達は顔を見合わせたという。                




第二章 天下布武





       4 秀吉 墨俣一夜城




         タヌキ家康



 奇跡を織田信長は起こした。桶狭間の合戦で勝利したことで、かれは一躍全国の注目となった。信長はすごいところは常識にとらわれないところだ。圧倒的不利とみられた桶狭間の合戦で奇襲作戦に出たり、寺院に参拝するどころか坊主ふくめて焼き討ちにしたり……と、その当時の常識からは考えられぬことを難なくやってのける。

 しかし、信長のように常識に捕らわれない人間というのは、いつの時代にも百人にひとりか千人にひとりかはいるのだという。その時代では考えられないような考えや思想をもった先見者はいる。しかし、それを実行するとなると難しい。周りからは馬鹿呼ばわりされるし(現に信長はうつけといわれた)、それを排除しよう、消去しよう、抹殺しようという保守派もでてくる。毎日が戦いと葛藤の連続である。信長はそれを受け止め、平手の死も弟の抹殺もなんのそのだった。信長の偉いところは嘲笑や罵声、悪口に動じなかったことだ。

 さらに信長の凄いところは家臣や兵たちに自分の考えや方針を徹底して守らせたこと、そうした自由な考えを実行し、流布したことにある。自分ひとりであれば何だってできる。馬鹿と蔑まれ、罵倒されようが、地位と命を捨てる気になれば何だってできる。しかし、信長の凄いところは、既成概念の排除を部下たちに浸透させ、自由な軍をつくったことだ。 桶狭間の合戦での勝利は、奇襲がうまくいった……などという単純なことではなく、ひとりの裏切り者がでなかったことにある。清洲城から桶狭間までは半日、十分に今川側に通報することもできた。しかし、そうした裏切り者は誰ひとりいなかった。「うつけ殿」と呼ばれてから十年あまりで、織田信長は領民や家臣から絶大の信頼を得ていたことがわかる。

 既存価値からの脱却も信長はさらに、おこなった。まず、「天下布武」などといいだし、楽市楽座をしき、産業を活発にして税収をあげようと画策した。さらに、家臣たちに早くから領国を与える示唆さえした。明智光秀に鎮西の九州の名族惟任家を継がせ日向守を名乗らせた。羽柴秀吉には筑前守を、丹羽長秀には明智と同じ九州の惟住家を継がせたという。また、柴田勝家と前田利家を北陸に、滝川一益を東国担当に据えた。ともに、出羽、越後、奥州を与えられたはずであるという。そうだとすると中部から中国、関東、北陸、九州まで、信長の手中になっていたはずである。実に強烈な中央集権国家を織田信長は考えていたことになる。まさに天才・織田信長であった。阿修羅の如き。天才。



 今川からの伝令が松平元康(のちの徳川家康)のもとに届いた。

「今川義元公が信長に討たれました」というのだ。

「馬鹿を申すな!」と元康は声を荒げた。しかし、心の中では……あるいは…と思った。しかし、それを口に出すほどかれは馬鹿ではない。あるいは…。信長ごとき弱小大名に? 今川義元公が? 元康は眉をひそめた。味方からそんな情報が入る訳はない。かれはひどく疲れて、頭がいたくなる思いであった。そんな…ことが…今川と織田の兵力差は十倍であろう。ひどく頭が痛かった。ばかな。ばかな。ばかな。元康は心の中で葛藤した。そんなはずは…ない。ばかな。ばかな。悪魔のマントラ。

 しかし、松平元康は織田信長のことを前から監視していたから、あるいは…と思った。しかし、これからどうするべきか。織田信長は阿修羅の如き男じゃから、敵対し、負ければ、皆殺しになる。どうする? どうする? 元康はさらに葛藤した。

 しばらくすると、親戚筋にあたる水野信元の家臣である浅井道忠という男がやってきた。「織田の武将梶川一秀さまの命令を受けてやってまいりました」

 元康は冷静にと自分にいいきかせながら、無表情な顔で「何だ?」と尋ねた。是非とも答えが知りたかった。

「今川義元公が織田信長さまに討たれました。今川軍は駿河に向けて敗走中。早急にあなたさまもこの城から退却なされたほうがよいと、梶川一秀さまがおおせです」

 じっと浅井道忠の顔を凝視していた元康は、何かいうでもなく表情もかえず何か遠くを見るような、策略をめぐらせているような顔をした。梶川一秀というのは織田方に属してはいるが、その妻が元康の姉妹だった。しかも浅井の主人水野信元も梶川一秀の妻の兄だった。

「わかりもうした。梶川一秀殿に礼を申しておいてくれ」元康は頭を軽くさげ、表情を変えずにいた。浅井が去ると、元康は表情をくもらせた。家臣を桶狭間に向かわせ、報告を待った。

「事実にござりました!」その報告をきくと、元康はガクリとして、「さようか」といった。声がしぼんだ。がっかりした。そしてその表情のまま「城から出るぞ」といった。時刻は午後十一時四十二分頃だと歴史書にあるという。ずいぶんと細かい記録があるものだ。桶狭間合戦が午後四時であるから、元康はかなり城でがんばっていたということになる。味方だった今川軍は駿河に敗走していたというのに。

 このことから元康は後年「律義な徳川殿」と呼ばれたという。

 部下は当然、元康が居城の岡崎城に戻るのだと思っていた。

 しかし、かれは岡崎城の城下町に入っても、入城しなかった。部下たちは訝しがった。「この城は元々松平のものだが、今は今川の拠点。今川の派遣した城主がいるはず。その人物をおしのけてまで入城する気はない」

 元康は真剣な顔でいった。もうすべて知っているはずなのに、部下がいうのをまっていた。このあたりは狸ぶりがうかがえる。

 部下は「今川はすべて駿河に敗走中で、城はすべて空でござります」といった。

 それをきいてから元康は「では、岡崎城は捨て城か?」と尋ねた。

「さようでござる」

「さようか」元康はにやりとした。「ならば貰いうけてもよかろう」

 元康は今更駿河に戻る気などない。いや、二度と駿河に戻る気などない。しかし、元康は狡猾さを発揮して、パフォーマンスで駿河の今川氏真(義元の子)に「織田信長と一戦まじえて、義元公の敵討ちをいたしましょう」と再三書状を送った。しかし、氏真はグズグズと煮え切らない態度ばかりをとった。今川氏真は義元の子とはいえ、あまりにも軟弱でひよわな男であった。元康はそれを承知で書状を送ったのだ。

「よし! われらは織田信長と同盟しよう」元康はいった。

 元康はどこまでも狡猾だった。かれは不安もない訳ではなかった。しかし、織田信長があるいは天下人となるやも知れぬ可能性があるとも思っていた。十倍の今川を破り、義元の首をもぎとったのだ。信長というのはすごい男だ。

 元康は同盟は利がある、と思った。信長は敵になれば皆殺しにし、怒りの炎ですべてを焼き尽くす。しかし、同盟関係を結べば逆鱗に触れることもない。確かに、信長は恐ろしく残虐な男である。しかし、三河(愛知県東部)の領土である松平家としては信長につくしか道はない。

「組むなら信長だ。松平が織田と組めば、東国の北条、甲斐の武田、越後の長尾(上杉)に対抗できる。わしは東、信長は西だ」元康は堅く決心した。自分の野望のために同盟し、信長を利用してやろう。そのためにはわしはなんでもやゆるぞ!

 信長は桶狭間で今川には勝った。しかし、美濃攻略がうまくいってなかった。

「今のわしでは美濃は平定できぬ」信長はそんな弱音を吐いたという。あの信長……自分勝手で、神や仏も信じず、他人を道具のように使い、すぐ激怒し、けして弱音や涙をみせないのぼせあがりの信長が、である。かれは正直にいった。

「まだ平定にはいたらぬ」

 道三が殺されて、義竜、竜興の時代になると斎藤家の内乱も治まってしまった。しかも、義竜は道三の息子ではなく土岐家のものだという情報が美濃中に広まると、国がピシッと強固な壁のように一致団結してしまった。

信長は清洲城で「斎藤義竜め! いまにみておれ!」と、怒りを顕にした。怒りで肩はこわばり、顔は真っ赤になった。癇癪で、なにもかもおかしくなりそうだった。

「殿! ここは辛抱どきです」柴田(権六)勝家がいうと、「なにっ?!」と信長は目をぎらぎらさせた。怒りの顔は、まさに阿修羅だった。

しかし、信長は反論しなかった。権六の言葉があまりにも真実を突いていたため、信長はこころもち身をこわばらせた。全身を百本の鋭い槍で刺されたような痛みを感じた。

くそったれめ! とにかく、信長は怒りで、いかにして斎藤義竜たちを殺してやろうか………と、そればかり考えていた。



         尾三同盟



 永禄五年(一五六二)正月のこと、松平元康は清洲城にやってきた。ふたりの間には攻守同盟が結ばれた。条件は、「元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳を結婚させる」ということだったという。

 そこには暗黙の条件があった。信長は西に目を向ける、元康は東に目を向ける……ということである。元康には不安もあった。妻子のことである。かれの妻子は駿河の今川屋敷にいる。信長と同盟を結んだとなれば殺害されるのも目にみえている。

「わたくしめが殿の奥方とお子を駿河より連れてまいります」

 突然、元康の心を読んだかのように石川数正という男がいった。

「なにっ?!」元康は驚いて、目を丸くした。そんなことができるのか? という訳だ。

「はっ、可能でござる」石川はにやりとした。

 方法は簡単である。今川の武将を何人か人質にとり、元康の妻子と交換するのだ。これは松平竹千代(元康)と織田家の武将を交換したときのをマネたものだった。

 織田信長の美濃攻略には七年の歳月がかかったという。その間、信長は拠点を清洲城から美濃に近い小牧山に移した。清洲の城の近くの五条川がしばしば氾濫し、交通の便が悪かったためだ。

 元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳は結婚した。元康は二十歳、信長は二十九歳のときのことである。元康は「家康」と名を改める。家康の名は、家内が安康であるように、とつけたのではないか? よくわからないが、とにかく元康の元は今川義元からとったもので、信長と攻守同盟を結んだ家康としては名をかえるのは当然のことであった。

「皆のもの」信長は家康をともなって座に現れた。そして「わが弟と同格の家康殿である」と家臣にいった。「家康殿をわしと同じくうやまえ」

「ははっ」信長の家臣たちは平伏した。

「いやいや、わたしのことなど…」家康は恐縮した。「儀兄、信長殿の家臣のみなさま、どうぞ家康をよろしい頼みまする」恐ろしいほど丁寧に、家康は言葉を選んでいった。

 また、信長の家臣たちは平伏した。

「いやいや」家康はまたしても恐縮した。さすがは狸である。

 井ノ口(岐阜)を攻撃していた信長は、小牧山に拠点を移し、今までの西美濃を迂回しての攻撃ルートを直線ルートへとかえていた。




       サル



 織田家に猿(木下藤吉郎)が入ってきたのは、信長が斎藤家と争っているころか、桶狭間合戦あたり頃からであるという。就職を斡旋したのは一若とガンマクというこれまた素性の卑しい者たちであった。猿(木下藤吉郎)にしても百姓出の、家出少年出身で、何のコネも金もない。猿は最初、織田信長などに……などと思っていた。

「尾張のうつけ(阿呆)殿」との悪評にまどわされていたのだ。しかし、もう一方で、信長という男は能力主義だ、という情報も知っていた。徹底した能力主義者で、相手を学歴や家柄では判断しない。たとえ家臣として永く務めた者であっても、能力がなくなったり用がなくなれば、信長は容赦なくクビにした。林通勝や佐久間父子がいい例である。

 能力があれば、徹底して取り上げる……のちの秀吉はそんな信長の魅力にひきつけられた。俺は百姓で、何ひとつ家柄も何もない。顔もこんな猿顔だ。しかし、信長様なら俺の良さをわかってくれる気がする。

 猿(木下藤吉郎)はそんな淡い気持ちで、織田家に入った。

「よろしく頼み申す」猿は一若とガンマクにいった。こうして、木下藤吉郎は織田家の信長に支えることになった。放浪生活をやめ、故郷に戻ったのは天文二十二、三年とも数年後の永禄元年(一五五八)の頃ともいわれているそうだ。木下藤吉郎は二十三歳、二つ年上の信長は二十五歳だった。

 だが、信長の家来となったからといって、急に武士になれる訳はない。最初は中間、小者、しかも草履取りだった。信長もこの頃はまだ若かったから、毎晩局(愛人の部屋)に通った。局は軒ぞいにはいけず、いったん城の庭に出て、そこから歩いていかなくてはならない。しかし、その晩もその次の晩も、草履取りは決まって猿(木下藤吉郎)であった。 信長は不思議に思って、草履取りの頭を呼んだ。

「毎晩、わしの共をするのはあの猿だ。なぜ毎晩あやつなのだ?」

 すると、頭は困って「それは藤吉郎の希望でして……なんでも自分は新参者だから、御屋形様についていろいろ学びたいと…」

 信長は不快に思った。そして、憎悪というか、怒りを覚えた。信長は坊っちゃん育ちののぼせあがりだが、ひとを見る目には長けていた。

 ……猿(木下藤吉郎)め! 毎晩つきっきりで俺の側にいて顔を覚えさせ、早く出世しようという魂胆だな。俺を利用しようとしやがって!

 信長は今までにないくらいに腹が立った。俺を……この俺様を…利用しようとは!

 ある晩、信長が局から出てくると、草履が生暖かい。怒りの波が、信長の血管を走りぬけた。「馬鹿もの!」怒鳴って、猿を蹴り倒した。歯をぎりぎりいわせ、

「貴様、斬り殺すぞ! 貴様、俺の草履を尻に敷いていただろう?!」とぶっそうな言葉を吐いた。本当に頭にきていた。

 藤吉郎が空気を呑みこんだ拍子に喉仏が上下した。猿は飛び起きて平伏し、「いいえ! 思いもよらぬことでござりまする! こうして草履を温めておきました」といった。

「なにっ?!」

 信長が牙を向うとすると、猿は諸肌脱いだ。体の胸と背中に確かに草履の跡があった。信長は呆れた顔で、木下藤吉郎を凝視した。そして、その日から信長の猿に対する態度がかわった。信長は猿を草履取りの頭にした。

 頭ともなれば外で待たずとも屋敷の中にはいることができる。しかし、藤吉郎はいつものように外で辺りをじっと見回していた。絶対にあがらなかった。

「なぜ上にあがらない?」

 信長が不思議に思って尋ねると、藤吉郎は「今は戦国乱世であります。いつ、何時、あなた様に危害を加えようと企むやからがこないとも限りませぬ。わたくしめはそれを見張りたいのです。上にあがれば気が緩み、やからの企みを阻止できなくなりまする」と言った。

 信長は唖然として、そして「サル! 大儀……である」とやっといった。こいつの忠誠心は本物かも知れぬ。と思った。信長にとってこのような人物は初めてであった。

 あやつは浮浪者・下郎からの身分ゆえ、苦労を良く知っておる。

 信長も秀吉も家康も、けっこう経営上手で、銭勘定にはうるさかったという。しかし、その中でも、浮浪者・下郎あがりの秀吉はとくに苦労人のため銭集めには執着した。そして、秀吉は機転のきく頭のいい男であった。知謀のひとだったのだ。

 こんなエピソードがある。

 あるとき、信長が猿を呼んで「サル、竹がいる。もってこい」と命じた。すると猿は信長が命じたより多くの竹を切ってもってきた。そして、その竹を竹林を管理する農民に与えた。また、竹の葉を城の台所にもっていき「燃料にしなさい」といったという。

 また、こんなエピソードもある。冬になって城の武士たちがしきりに蜜柑を食べる。皮は捨ててしまう。藤吉郎は丹念にその皮を集めた。

「そんな皮をどうしようってんだ?」武士たちがきくと、藤吉郎は「肩衣をつくります」「みかんの皮でどうやって?」武士たちが嘲笑した。しかし、藤吉郎はみかんの皮で肩衣をつくった訳ではなかった。その皮をもって城下町の薬屋に売ったのだ。(陳皮という) 皮を売った代金で、藤吉郎は肩衣を買ったのだ。同僚たちは呆れ果てた。

 また、こんなエピソードもある。戦場にでるとき、藤吉郎は馬にのることを信長より許されていた。しかし、彼は戦場につくまで歩いて共をした。戦場に着くとなぜか馬に乗っている。信長は不思議に思って「藤吉郎、その馬を何処で手にいれた?」ときいた。

 藤吉郎は「わたくしめは金がないゆえ、この馬は同僚と金を折半して買いました。ですから、前半は同僚が乗り、後半はわたくしめが乗ることにしたのです」

 信長はサルの知恵の凄さに驚いた。戦場につくまでは別に馬に乗らなくてもよい。しかし、戦場では馬に乗ったほうが有利だ。それを熟知した木下藤吉郎の知謀に信長は舌を巻いた。桶狭間での社内の物音や鳩のアイデアも、実は木下藤吉郎のものではなかったのか。

 桶狭間後には藤吉郎は一人前の武士として扱われるようになった。知行地をもらった。知行地とは、そこで農民がつくった農作物を年貢としてもらえ、また戦争のときにはその地の農民を兵士として徴収できる権利のことである。

 しかし、木下藤吉郎は戦になっても農民を徴兵しなかった。かれは農民たちにこういった。「戦に参加したくなければ銭をだせ。そうすれば徴兵しない。農地の所有権も保証する」こうして、藤吉郎は農民から銭を集め、その金でプロの兵士たちを雇い、鉄砲をそろえた。戦場にいくとき、信長は重装備で鉄砲そろえの部隊を発見し、

「あの隊は誰の部隊だ?」と部下にきいた。

「木下藤吉郎の部隊でござりまする」部下はいった。信長は感心した。あやつは農民と武士をすでに分離しておる。




         浜松城築城



 家康は息子を信長のところへ参謁させた。

「信長公にはごきげんうるわしゅう」家康と幼少の息子・信康は平伏した。上座の織田信長は、にやりと笑って「家康殿、よくきたのう」といった。

「ははっ」

「ところで家康殿…」信長は続けた。「貴殿の若君とわしの娘・徳姫(まだ幼少)の結婚に反対かな?」

「いいえ」家康は首をふった。「とんでもござりませぬ。ありがたきことと思いまする」「さようか?」

 信長は笑った。「まぁ、まだ幼い夫婦で、まるで”ままごと”のようじゃが、これで織田家と松平家は親戚関係じゃ、のう? 家康殿」

「ははっ」家康は平伏した。

 その頃、家康の居城・浜松城築城が完成していた。ある日、信長から三匹の鯉が届いた。家康は感涙した。一匹が織田、二匹目が松平、三匹目がそれぞれの子たちという意味であった。家康はまだ若くて、信長を信じていた。そして、このような配慮も出来るのが信長様である、と感激した。しかし、事件が起こる。家臣がその鯉を刺身にして食べた、というものだ。家康は激怒し「なぜ、鯉を食べた?! 切腹せよ!」と暴れた。

 すると、家臣の石川数正が諫めた。

「殿! 鯉ごとき何です」

「なにっ?!」

「鯉などいずれは死ぬもの。すべての生き物は死にまする。鯉も腐らぬうちに、新鮮なうちに食べてもらえて本望でしたでしょう」

「しかし…」家康は口をつぐんだ。そしてあえぎあえぎ続けた。「だが…あれ…は…信長公からの……土産じゃぞ?」

「鯉ごときで家臣を切腹させるのは愚行でござる! 殿、もっと賢くなりなされ!」

 家康はそれをきいて、グサッときた。そして、そのまま何もいわずに頷いた。

 なるほどのう……賢く…か…

 まさに家臣のいう通りであった。


                        


         石垣修復



 織田信長は武田信玄のような策士ではない。奇策縦横の男でもなければ物静かな男でもない。キレやすく、のぼせあがりで、戦のときも只、力と数に頼って攻めるだけだ。しかし、かれはチームワークを何よりも大事にした。ひとりひとりは非力でも、数を集めれば力になる。信長は組織を大事にした。

 信長はあるとき城の石垣工事が進んでいないのに腹を立てた。もう数か月、工事がのろのろと亀のようにすすまない。信長はそれを見て、怒りの波が全身の血管を駆けめぐるのを感じた。早くしてほしい、そう思い、顔を紅潮させて「早く石垣をつくれ!」と怒鳴った。すると、共をしていた藤吉郎が

「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます」

とにやりと猿顔を信長に向けた。

「なんだと?!」そういったのは柴田勝家と丹羽長秀だった。

「わしらがやっても数か月かかってるのだぞ! 何が一週間だ?! このサル!」わめいた。

 藤吉郎は「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます。もし作れぬのなら腹を斬りまする!」と猿顔をまた信長に向けた。

「サル、やってみよ」信長はいった。

サルは作業者たちをチーム分けし、工事箇所を十分割して、「さあ組ごとに競争しろ。一番早く出来たものには御屋形様より褒美がでる」といった。こうして、サルはわずか一週間で石垣工事を完成させたのであった。

 信長はいきなり井ノ口(岐阜)の斎藤竜興の稲葉山城を攻めるより、迂回して攻略する方法を選んだ。それまでは西美濃から攻めていたが、迂回し、小牧山城から北上し、犬山城のほか加治田城などを攻略した。しかし、鵜沼城主大沢基康だけは歯がたたない。そこで藤吉郎は知恵をしぼった。かれは数人の共とともに鵜沼城にはいった。

 斎藤氏の土豪の大沢基康は怪訝な顔で「なんのようだ?」ときいた。

「信長さまとあって会見してくだされ」藤吉郎は平伏した。

「あの蝮の娘を嫁にしたやつか? 騙されるものか」大沢はいった。

 藤吉郎は「ぜひ、信長さまの味方になって、会見を!」とゆずらない。

「……わかった。しかし、人質はいないのか?」

「人質はおります」藤吉郎はいった。

「どこに?」

「ここに」藤吉郎は自分を指差した。大沢は呆れた。なんという男だ。しかし、信じてみよう、という気になった。こうして、大沢基康は信長と会見して和睦した。しかし、信長は大沢が用なしになると殺そうとした。

 藤吉郎は「冗談ではありません。それでは私の面子が失われます。もう一度大沢殿と話し合ってくだされ」とあわてた。

信長は「お前はわしの大事な部下だ。大沢などただの土豪に過ぎぬ。殺してもたいしたことはない」

「いいえ!」かれは首をおおきく左右にふった。「命を助けるとのお約束であります!」

 こうして藤吉郎は大沢を救い、出世の手掛かりを得て、無事、鵜沼城から帰ってきた。


         竹中半兵衛



 信長はこの頃、単に斎藤氏の攻略だけでなく、いわゆる「遠交近攻」の策を考えていた。松平元康との攻守同盟をむすんだ信長は、同じく北近江国の小谷山城主・浅井長政に手を伸ばした。攻守同盟をむすんで妹のお市を妻として送り込んだ。浅井長政は二十歳、お市は十七歳である。お市は絶世の美女といわれ、長政もいい男であった。そして三人の娘が生まれる。秀吉の愛人となる淀君、京極高次という大名の妻となる初、徳川二代目秀忠の妻・お江、である。また信長は、越後(新潟県)の上杉輝虎(上杉謙信)にも手をのばす。謙信とも攻守同盟をむすぶ。条件として自分の息子を輝虎の養子にした。また武田信玄とも攻守同盟をむすんだ。これまた政略結婚である。


「サル!」

 あるとき、信長は秀吉をよんだ。秀吉はほんとうに猿のような顔をしていた。

「お呼びでござりまするか、殿!」汚い服をきた猿のような男が駆けつけた。それが秀吉だった。サルは平伏した。

「うむ。猿、貴様、竹中半兵衛という男を知っておるか?」

「はっ!」サルは頷いた。「今川にながく支えていた軍師で、永禄七年二月に突然稲葉山城を占拠したという男でござりましょう」

「うむ。猿、なぜ竹中半兵衛という男は主・斎藤竜興を裏切ったのだ?」

「それは…」サルはためらった。「聞くところによれば、城主・斎藤竜興が竹中半兵衛という男をひどく侮辱したからだといいます。そこで人格高潔な竹中は我慢がならず、自分の智謀がいかにすぐれているか示すために、主人の城を乗っ取ってみせたと」

「ほう?」

「動機が動機ですから、竹中はすぐ斎藤竜興に城を返したといいます」

「気にいった!」信長は膝をピシャリとうった。「猿、その竹中半兵衛という男にあって、わしの部下になるように説得してこい」

「かしこまりました!」

 猿(木下藤吉郎)は顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。お辞儀をすると、飄々と美濃国へ向けて出立した。この木下藤吉郎(または猿)こそが、のちの豊臣秀吉である。


 汚い格好に笠姿の藤吉郎は、竹中半兵衛の邸宅を訪ねた。木下藤吉郎は竹中と少し話しただけで、彼の理知ぶりに感激し、また竹中半兵衛のほうも藤吉郎を気にいったという。 しかし、竹中半兵衛は信長の部下となるのを嫌がった。

「理由は? 理由はなんでござるか?」

「わたしは…」竹中半兵衛は続けた。「わたしは信長という男が大嫌いです」ハッキリいった。そして、さらに続けた。「わたしが稲葉山城を乗っ取ったときいて、城を渡せば美濃半国をくれるという。そういうことをいう人物をわたしは軽蔑します」

「……さようでござるか」木下藤吉郎の声がしぼんだ。がっくりときた。

 しかし、そこですぐ諦めるほど藤吉郎は馬鹿ではない。それから何度も山の奥深いところに建つ竹中半兵衛の邸宅を訪ね、三願の礼どころか十願の礼をつくした。

 竹中半兵衛は困ったものだと大量の本にかこまれながら思った。

「竹中半兵衛殿!」木下藤吉郎は玄関の外で雨に濡れながらいった。「ひとはひとのために働いてこそのひとにござる。悪戯に書物を読み耽り、世の中の役に立とうとしないのは卑怯者のすることにござる!」

 半兵衛は書物から目を背け、玄関の外にいる藤吉郎に思いをはせた。…世の中の役に?  ある日、とうとう竹中半兵衛は折れた。

「わかり申した。部下となりましょう」竹中半兵衛は魅力的な笑顔をみせた。

「かたじけのうござる!」

「ただし」半兵衛は書物から目を移し、木下藤吉郎の猿顔をじっとみた。「わたしが部下になるのは信長のではありません。信長は大嫌いです。わたしが部下となるのは…木下藤吉郎殿、あなたの部下にです」

「え?」藤吉郎は驚いて目を丸くした。「しかし…わたしは只の百姓出の足軽のようなものにござる。竹中半兵衛殿を部下にするなど…とてもとても」

「いえ」竹中は頷いた。「あなたさまはきっといずれ天下をとられる男です」

 木下藤吉郎の血管を、津波のように熱いものが駆けめぐった。それは感情……というよりいいようもない思い出のようなものだった。むしょうに嬉しかった。しかし、こうなると御屋形様の劇鱗に触れかねない。が、いろいろあったあげく、竹中半兵衛は木下藤吉郎の部下となり、藤吉郎はかけがえのない軍師を得たのだった。


         墨俣一夜城



  当面の織田信長の課題は美濃完全攻略、であった。

 そして、そのためには何よりも斎藤氏の本拠地である稲葉山城を落城させなければならなかった。稲葉山城攻撃も、西美濃からの攻撃だけでなく、南方面からの攻撃が不可欠であった。が、稲葉山城の南面には天然の防柵のように木曾川、長良川などの川が流れている。攻撃にはそこからの拠点が必要である。

 信長は閃いた。墨俣に城を築けば、美濃の南から攻撃ができる。しかし、そこは敵陣のどまんなかである。そんなところに城が築けるであろうか?

「サル!」信長はサルを呼んだ。「お前は墨俣の湿地帯に城を築けるか?」

「はっ! できまする!」藤吉郎は平伏した。

「どうやってやるつもりだ? 権六(柴田勝家)や五郎左(丹羽長秀)でさえ失敗したというのに…」

「おそれながら御屋形様! わたくしめには知恵がござりまする!」藤吉郎はにやりとして、右手人差し指をこめかみに当てて、とんとんと叩いた。妙案がある…というところだ。「知恵だと?!」

「はっ! おそれながら築城には織田家のものではだめです。野伏をつかいます。稲田、青山、蜂須賀、加地田、河口、長江などが役にたつと思いまする。中でも、蜂須賀小六正勝は、わたくしめが放浪していた頃に恩を受けました。この土豪たちは川の氾濫と戦ってきた経験もあります。すぐれた土木建設技術も持っております」

「そうか……野伏か。なら、わしも手をかそう」

「ならば、御屋形様は木材を調達して下され」

「わかった。で? どうやるつもりか?」信長は是非とも答えがききたかった。

「それは秘密です。それより、野伏をすぐに御屋形様の家来にしてくだされ」

「何?」信長は怪訝な顔をして「城ができたらそういたそう」

「いえ。それではだめです。城が出来てから…などというのでは野伏は動きません。まず、取り立てて、さらに成果があればさらに取り立てるのです」

 信長は唖然とした。

 下層階層の不満や欲求をよく知る藤吉郎なればの考えであった。しかし、坊っちゃん育ちの信長には理解できない。信長は「まぁいい……わかった。お前の好きなようにやれ」と頷くだけだった。藤吉郎は、蜂須賀小六らに「信長公の部下にする」と約束した。

「本当に信長の家臣にしてくれるのか?」蜂須賀小六はうたがった。

「本当だとも! 嘘じゃねぇ。嘘なら腹を切る」藤吉郎は真剣にいった。

 信長はいわれたとおりに木材を伐採させ、いかだに乗せて木曾川上流から流させた。その木材が墨俣についたらパーツごとに組み立てるのである。まさに川がベルトコンベアーの役割を果たし、墨俣一夜城は一夜にして完成した。




         5 焼き討ち





         浅井長政の裏切り




 確執も顕著になってきていた。織田信長と将軍・足利義昭との不仲が鮮明になった。

 義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。

 義昭は信長に剣もホロロに扱われてしまう。

 かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。

「あなたを副将軍にしてもよい」

 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。

 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつかえつかえいった。「では、まろに忠誠を?」

「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。

「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」

 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。 しかし、おのれ信長め……とも思った。

 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!

 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。

 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。

 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。

 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。

 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。

 義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。

 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。

 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。

若狭にはいった信長軍はさっそく朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。

「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。

 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。

 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。

 浅井長政には妹のお市(絶世の美女であったという)を嫁にだした。いわば義弟だ。裏切る訳はない、と、タカをくくっていた。

 浅井長政は味方のはずである…………

 そういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、”美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかってるだろう”、という考えで快進撃を続けた。

 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。

 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。

 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。

 金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。

 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。

 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。

 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!

 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。

「御屋形様……これは……」秀吉が何かいおうとした。秀吉もハッとしたのだ。

 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。

 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!

 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。

……殿(後軍)を誰にするか……

 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。

「殿は誰がいい?」信長は迷った。

 柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 信長は三人の顔をまじまじと見て、決めた。

「サル、殿をつとめよ」

「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。

 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は”両腕”として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。

「サル、頼むぞ」信長はいった。

「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。

 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。

 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。

「悪党ども、案内いたせ」

 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。

 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。

 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。

 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、

「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。

 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。

「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」

 信長は長政を罵った。

 岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その際、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。

 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。

 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。

 信長は思った。皆殺しにしてくれる! 





         姉川の戦い



 浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃していた。

 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。

「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。

 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」

 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。

 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。

 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。

 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。

 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、

「よく参られた」と声をかけた。

 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。

 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、

「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!

 すると家康が進みでていった。

「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」

 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。

 家康はうきうきして軍儀の場を去った。

 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。

 するとサルが「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのでござりましょう? 御屋形様」といった。

「そうよ、サル! さすがはサルじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。

 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんた。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。

「押せ! 押せ! 押し流せ!」

 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。

 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。

 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。

 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。

「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」

 秀吉は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。

「ひきあげるぞ、サル」

 秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつものお館らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………

 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。




         焼き討ち



  三好党がたちあがると石山本願寺は、信長に正式に宣戦布告した。

 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。

 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。

 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。

 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。

 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。

「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。

 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。

 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。

 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。

 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」

「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。

「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」

「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」

「天罰が下りまするぞ!」

 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。

「わしに反対しようというのか?!」

「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」

 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。

「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」

 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”家臣たちは恐ろしくなった。

 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず、日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。

 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。     


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  徳川家康最新研究の徳川家康、その真実  三

 ミステリィの謎解きのその次のパートです。

まずは、徳川家康の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。



家康と同時代の人々

家康は、武田信玄を尊敬し、武田氏の遺臣から信玄の戦術や思想を積極的に学んだ。

その反面、信長のように身分や序列を無視した徹底的な能力主義をとることはなく、秀吉のように自らのカリスマ性や金、領地を餌に釣って家臣を増やすこともなかった。

家康の重臣のほとんどは三河以来の代々仕えてきた家臣たちであった。

そのためか、彼らに天下を統一され遅れをとったが、代わりに自身は信頼できる部下だけで周囲を固め、豊臣政権の不備もあって天下人となった。

とはいえ、その部下の中には今川氏・武田氏・北条氏等の自身が直接(主導)的には滅ぼしてはいない大名の家臣も含まれているため一種の漁夫の利(統一の際の汚れ役を信長・秀吉が被ってくれた)ともいえる。

一方で偉大な先人から学びとり、それを取捨選択しその時流や自分の状況にあう行動をとったことは十分に名君と呼ぶに値するという見方もできる。

その戦振りに関しては、秀吉から「海道一の弓取り」と賞賛されたと伝わる。

家康は常に冷静沈着な知将だったとされているが短気で神経質な一面も持ち、関ヶ原の戦いでは開戦間際において一面に垂れ込める霧の中で使番の野々村四郎右衛門が方向感覚を失い陣幕に馬を乗り入れた際に苛立ち、門奈長三郎という小姓に侵入者が何者か尋ねる。

が、門奈は侵入者が誰だか知っていたが当人に責任が掛からないように配慮し答えなかった。

家康は門奈のこの態度に腹を立て、門奈の指物の竿を一刀のもとに切り捨てたという。

さらに家康は苛立ったり、自分が不利になったりすると、親指の爪を常に噛み、時には皮膚を破って血を流すこともあったという。

その一方怒りに任せ家臣や領民を手打ちにするようなことは生涯ほとんどなかった。

幼少期に今川家の人質だったころ自分に辛く当たった今川方の孕石元泰を後年探しだし切腹させた(『三河物語』)のは例外的処置である。

情を排する冷徹な現実主義者との評価がある一方、法よりも人情を優先させた事例もある。

例えば三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなって討死した夏目吉信の子が規律違反を犯しても超法規的に赦し、関ヶ原の合戦後に真田信之、本多忠勝らの決死の嘆願で真田昌幸を助命している。

特に苦労を共にしてきた三河時代からの家臣たちとの信頼関係は厚く、三方ヶ原の戦いで三河武士が背を向けず死んで行ったという俗説をはじめ、夏目吉信・鳥居元忠らの盲目的ともいえる三河武士たちの忠節ぶりは敵から「犬のように忠実」と言われたこと(『葉隠覚書』)から、少なくとも地元である三河武士が持つ家康への人望は非常に厚かったようだ。

が、一向一揆を起こされたことも考慮する必要がある。無論、有能な人材も重視し、安祥・岡崎譜代だけでなく今川氏・武田氏・北条氏の旧臣を多く召抱え、大御所時代には武士のみならず僧・商人・学者、さらには英国人ウィリアム・アダムス(外国人に武士として知行を与えたのは家康のみ)と実力も考慮して登用し、江戸幕府の基礎を作り上げていった。



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本能寺の変









        6 どくろ杯





        三方が原の戦い




    

 武田信玄は、信長にとって最大の驚異であった。

 信玄は自分が天下人となり、上洛して自分の旗(風林火山旗)を掲げたいと心の底から思っていた。この有名な怪人は、軍略に優れ、長尾景虎(上杉謙信)との川中島合戦で名を知られている強敵だ。剃髪し、髭を生やしている。僧侶でもある。

 武田信玄は本願寺の総帥・光佐とは親戚関係で、要請を受けていた。また、将軍・足利義昭の親書を受け取ったことはかれにいよいよ上洛する気分にさせた。

 元亀三年(一五七二)九月二十九日、武田信玄は大軍を率いて甲府を出発した。

 信玄は、「織田信長をなんとしても討とう」と決めていた。その先ぶれとして信玄は遠江に侵攻した。遠江は家康の支配圏である。しかし、信玄にとって家康は小者であった。 悠然とそこを通り、京へと急いだ。家康は浜松城にいた。

 浜松城に拠点を置いていた家康は、信玄の到来を緊張してまった。織田信長の要請で、滝川一益、佐久間信盛、林通勝などが三千の兵をつけて応援にかけつけた。だが、信長は、「こちらからは手をだすな」と密かに命じていた。

 武田信玄は当時、”神将”という評判で、軍略には評判が高かった。その信玄とまともにぶつかったのでは勝ち目がない。と、信長は思ったのだ。それに、武田が遠江や三河を通り、岐阜をすぎたところで家康と信長の軍ではさみ討ちにすればよい……そうも考えていた。しかし、それは裏目に出る。家康はこのとき決起盛んであった。自分の庭同然の三河を武田信玄軍が通り過ぎようとしている。

「今こそ、武田を攻撃しよう」家康はいった。家臣たちは「いや、今の武田軍と戦うのは上策とは思えません。ここは信長さまの命にしたがってはいかがか」と口々に反対した。 家康はきかなかった。真っ先に馬に乗り、駆け出した。徳川・織田両軍も後をおった。 案の定、家康は三方が原でさんざんに打ち負かされた。家康は馬にのって、命からがら浜松城に逃げ帰った。そのとき、あまりの恐怖に馬上の家康は失禁し、糞尿まみれになったという。とにかく馬を全速力で走らせ、家康は逃げた。

 家康の肖像画に、顎に手をあてて必死に恐怖にたえている画があるが、敗戦のときに描かせたものだという。それを家臣たちに見せ、生涯掲げた。

 ……これが三方が原で武田軍に大敗したときの顔だ。この教訓をわすれるな。決起にはやってはならぬのだ。………リメンバー三方が原、というところだろう。

 もし信玄が浜松城に攻め込んで家康を攻めたら、家康は完全に死んでいたろう。しかし、信玄はそんな小さい男ではない。そのまま京に向けて進軍していった。

 だが、運命の女神は武田信玄に微笑まなかった。

 かれの持病が悪化し、上洛の途中で病気のため動けなくなった。もう立ち上がることさえできなくなった。伊那郡で枕元に息子の勝頼をよんだ。

 自分の死を三年間ふせること、遺骨は大きな瓶に入れて諏訪湖の底に沈めること、勝頼は自分の名跡を継がないこと、越後にいって上杉謙信と和睦すること、などの遺言を残した。そして、武田信玄は死んだ。

 信玄の死をふして、武田全軍は甲斐にもどっていった。

 だが、勝頼は父の遺言を何ひとつ守らなかった。すぐに信玄の名跡を継いだし、瓶につめて諏訪湖に沈めることもしなかった。信玄の死も、忍びによってすぐ信長の元に知らされた。信長は喜んだ。織田信長にとって、信玄の死はラッキーなことである。

信長は手をたたいて喜んだ。「天はわしに味方した。好機到来だ」




         室町幕府滅亡



 信玄の死を将軍・足利義昭は知らなかった。

 そこでかれは、武田信玄に「信長を討て」と密書を何通もおくった。何も返事がこない。朝倉義景に送っても何の反応もない。本願寺は書状をおくってきたが、芳しくない。

 義昭は七月三日、蜂起した。二条城に武将をいれて、槙島城を拠点とした。義昭に忠誠を尽くす真木氏がいて、兵をあつめた。その数、ほんの三千八百あまり……。

 知らせをきいた信長は激怒した。

「おのれ、義昭め! わしを討てと全国に書状をおくったとな? 馬鹿めが!」信長は続けた。「もうあやつは用なしじゃ! 馬鹿が、雉も鳴かずばうたれまいに」

 七月十六日、信長軍は五万の兵を率いて槙島城を包囲した。すると、義昭はすぐに降伏した。しかし、信長は許さなかった。

”落ち武者”のようなザンバラ髪に鎧姿の将軍・足利義昭は信長の居城に連行された。

「ひい~つ」義昭おびえていた。殺される……そう思ったからだ。

「義昭!」やってきた信長が声をあらげた。冷たい視線を向けた。

 義昭はぶるぶる震えた。小便をもらしそうだった。自分の蜂起は完全に失敗したのだ。もう諦めるしかない……まろは……殺される?

「も…もういたしませぬ! もういたしませぬ! 義父上!」

 かれは泣きべそをかき、信長の足元にしがみついて命乞いをした。「もういたしませぬ! 義父上!」将軍・足利義昭のその姿は、気色悪いものだった。

 だが、信長の顔は冷血そのものだった。もう、義昭など”用なし”なのだ。

「光秀、こやつを殺せ!」信長は、明智光秀に命じた。「全員皆殺しにするのじゃ!」

 光秀は「しかし……御屋形様?! 将軍さまを斬れと?」と狼狽した。

「そうじゃ! 足利義昭を斬り殺せ!」信長は阿修羅の如き顔になり吠えた。

 しかし、止めたのは秀吉だった。「なりませぬ、御屋形様!」

「なんじゃと?! サル」

「御屋形様のお気持ち、このサル、いたいほどわかり申す。ただ、将軍を殺せば松永久秀や三好三人衆と同じになりまする。将軍殺しの汚名をきることになりまする!」

 信長は無言になり、厳しい冷酷な目で秀吉をみていた。しかし、しだいに目の阿修羅のような光が消えていった。

「……わかった」信長はゆっくり頷いた。

 秀吉もこくりと頷いた。

 こうして、足利義昭は命を救われたが、どこか地方へと飛ばされ隠居した。こうして、足利尊氏以来、二百四十年続いた室町幕府は、第十五代将軍・足利義昭の代で滅亡した。










         どくろ杯




 大軍をすすめ信長は、越前(福井県)に突入した。北近江の浅井長政はそのままだ。一乗谷城の朝倉義景にしてもびっくりとしてしまった。

 義景にしてみれば、信長はまず北近江の浅井長政の小谷山城を攻め、次に一乗谷城に攻め入るはずだと思っていた。しかし、信長はそうではなかった。一揆衆と戦った経験から、信長軍はこの辺の地理にもくわしくなっていた。八月十四日、信長は猛スピードで進撃してきた。朝倉義景軍は三千人も殺された。信長は敦賀に到着している。

 織田軍は一乗谷城を包囲した。義景は「自刀する」といったが部下にとめられた。義景は一乗谷城を脱出し、亥山(大野市)に近い東雲寺に着いた。

「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。

 城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。 朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………

 朝倉義景は自害、享年四十一歳だったという。

  そして、北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。

 長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。

 お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。

「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。

 お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。

 しかし、長政は頑固に首を横にふった。

「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい」

「しかし…」

「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」

 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。

 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。

 浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、

「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。

 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。


 天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。

 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。

「酒の肴を見せる」

信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。どくろにはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。

「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」

 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……

 お市などは失神しそうだった。秀吉たちも愕然とした。

「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。

「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。         


         7 本能寺の変




         長篠の合戦と安土城





 正室・築山殿と嫡男・信康が武田勝頼と内通しているという情報を知った信長は、激怒した。そして、家康に「貴殿の妻と息子のふたりとも殺すように」という書状を送った。

「……何?」その書状があまりにも突然だったため、家康は自分の目をほとんど信じられなかった。築山と、信康が武田勝頼と内通? まさか!

「殿!」家臣が声をかけたが、家康は視線をそむけたままだった。「まさか…」目をそむけたまま、かれはつぶやいた。「殺す? 妻子を……?」

「殿! ……なりませぬ。今、信長殿に逆らえば皆殺しにされまする」

 家臣の言葉に、家康は頷いた。「妻子が武田と内通しているとはまことか?」

「わかりませぬ」家臣は正直にいった。「しかし、疑いがある以上……いたしかたなし」

 家康は茫然と、遠くを見るような目をした。暗い顔をした。

 ほどなく、正室・築山殿と嫡男・信康は殺された。徳川家の安泰のためである。

 家康は落胆し、憔悴し、「力なくば……妻子も……救えぬ」と呟いた。

 それは微かな、暗い呟きだった。


 信長は”長島一揆””一向一揆”を実力で抑えつけた。

 そして、有名な武田信玄の嫡男・勝頼との”長篠の合戦”(一五七五年)にのぞんだ。あまりにも有名なこの合戦では鉄砲の三段構えという信長のアイデアが発揮された。

 信長は設楽が原に着陣すると、丸たん棒や木材を運ばせ、二重三重の柵をつくらせた。信長は武田の騎馬隊の恐ろしさを知っていた。だから、柵で進撃を防ごうとしたのだ。

 全面は川で、柵もできて武田の騎馬隊は前にはすすめない。

 信長は柵の裏手に足軽三千人を配置し、三列ずつ並ばせた。皆、鉄砲をもっている。火縄銃だ。当時の鉄砲は一発ずつしか撃てないから、前方が撃ったら、二番手、そして三番手、そして、前方がその間に弾をこめて撃つ……という速射戦術であった。

 案の定、武田勝頼の騎馬隊が突っ込んできた。

「撃て! 放て!」信長はいった。

 三段構え銃撃隊が連射していくと、武田軍はバタバタとやられていった。ほとんどの武田軍の兵士は殺された。武田の足軽たちは「これは不利だ」と見て逃げ出す。

 武田勝頼は刀を抜いて、「逃げるな! 死ね! 死ね! 生きて生き恥じを晒すな!」と叫んだ。が、足軽たちはほとんど農民らの徴兵なので全員逃げ出した。

 武田の足軽が農民なのに対して、信長の軍はプロの兵士である。最初から勝負はついていた。騎馬隊さえ抑えれば信長にとっては「こっちのもん」である。

 こうして、”長篠の合戦”は信長の勝利に終わった。

 これで東側からの驚異は消えた訳だ。

 残る強敵は、石山本願寺と上杉謙信だけであった。


 絢爛豪華な安土城を築いた。信長は岐阜から、居城を安土に移したのだ。

 城には清涼殿(天皇の部屋)まであったという。つまり、天皇まで京から安土に移して自分が日本の王になる、という野望だった。それだけではなく、信長は朝廷に暦をかえろ、とまで命令した。明智光秀にとってはそれは我慢のならぬことでもあった。

 また、信長は「余を神とあがめよ」と命じた。自分を神と崇め、自分の誕生日の五月十二日を祝日とせよ、と命じたのだ。なんというはバチ当たりか……

「それだけはおやめくだされ!」こらえきれなくなって、林通勝がくってかかった。信長はカッときた。「なんじゃと?!」

「信長さまは人間にござりまする! 人間は神にはなれませぬ!」

 林は必死にとめた。

「……林! おのれはわしがどれだけ罵倒されたか知っておるだろう?!」怒鳴った。そして、「わしは神じゃ!」と短刀を抜いて自分の肩を刺した。林通勝は驚愕した。

 しかし、信長は冷酷な顔を変えることもなく、次々に短刀で自分をさした。赤赤とした血がしたたる。………

 林通勝の血管を、感情が、熱いものが駆けめぐった。座敷に立ち尽くすのみだ。斧で切り倒されたように唖然として。

「お……お……御屋形様…」あえぎあえぎだが、ようやく声がでた。なんという……

「御屋形様は……神にござる!」通勝は平伏した。信長は血だらけになりながら「うむ」と頷いた。その顔は激痛に歪むものではなく、冷酷な、果断の顔であった。











         本能寺の変




  明智光秀は居城に帰参した。天正十年(一五八二)、のことである。

 光秀は疲れていた。鎧をとってもらうと、家臣たちに「おまえたちも休め」といった。「殿……お疲れのご様子。ゆっくりとお休みになられては?」

「貴様、なぜわしが疲れていると思う? わしは疲れてなどおらぬ!」

 明智光秀は激怒した。家臣は平伏し「申し訳ござりませぬ」といい、座敷を去った。

 光秀はひとりとなった。本当は疲れていた。かれは座敷に寝転んで、天井を見上げた。「………疲れた。なぜ……こんなにも……疲れるのか…? 眠りたい…ゆっくり…」

 明智光秀は空虚な、落ち込んだ気分だった。いまかれは大名となっている。金も兵もある。気分がよくていいはずなのに、ひどく憂欝だった。

「勝利はいいものだ。しかし勝利しているのは信長さまだ」光秀の声がしぼんだ。「わしは命令に従っているだけじゃ」

 明智光秀は不意に、ものすごい疲労が襲いかかってくるのを感じ、自分がつぶされる感覚に震えた。目尻に涙がにじんだ。

「あの方が……いなくなれ…ば…」

 明智光秀は自分の力で人生をきりひらき、将軍を奉り利用した。人生の勝利者となった。放浪者から、何万石もの大名となった。理知的な行動で自分を守り、生き延びてきた。だが、途中で多くのものを失った………家族、母、子供……。ひどく落ち込んだ気分だった。さらに悪いことには孤独でもある。くそったれめ、孤独なのだ!

「あの方がいなくなれば……眠れる…眠れる…」明智光秀は暗く呟いた。

 かれは信長に「家康の馳走役」をまかされていた。光秀はよくやってのけた。

 徳川家康は信長に安土城の天守閣に案内された。

「家康殿、先の武田勢との合戦ではご協力感謝する」信長はいった。そして続けた。「安土城もできた当時は絢爛豪華なよい城と思うたが、二年も経つと色褪せてみえるものじゃ」「いえ。初めて観るものにとっては立派な城でござる。この家康、感動いたしました」

 家康は信長とともに立ち、天守閣から城下町を眺めた。

「家康殿、わしを恨んでいるのであろう?」信長は冷静にいった。

「いえ。めっそうもない」

「嘘を申すな。妻子を殺されて恨まぬものはいまい。わしを殺したいと正直思うているのであろう?」

「いいえ」家康は首を降り、「この度のことはわが妻子に非がありました。武田と内通していたのであれば殺されるのも当たり前。当然のことでござる」と膝をついて頭をさげた。「そうか? そうじゃのう。家康殿、お主の妻子を殺さなければ、お主自身が殺されていたかも知れぬぞ。武田勝頼は汚い輩だからのう」

「ははっ」家康は平伏した。

 明智光秀は側に支えていた。「光秀、家康殿とわしの関係を知っておるか?」

「……いいえ」

「家康殿は幼少の頃よりわが織田家に人質として暮らしておったのじゃ。小さい頃はよく遊んだ。幼き頃は、敵も味方もなかったのじゃのう」

 信長はにやりとした。家康も微笑んだ。


 しかし、明智光秀はそれからが不幸であった。信長に「家康の馳走役」を外されたのだ。「な……何かそそうでも?」是非、答えがききたかった。

「いや、そうではない。武士というものは戦ってこその武士じゃ。馳走役など誰でもできる。お主には毛利と攻戦中の備中高松の秀吉の援軍にいってほしいのじゃ」

「は? ……羽柴殿の?」

 光秀は茫然とした。大嫌いな秀吉の援軍にいけ、というのだ。中国の毛利攻めに参加せよと…? 秀吉の援軍? かれは唖然とした。言葉が出なかった。

 信長は話しをやめ、はたして理解しているか、またどう受け取っているかを見るため、明智光秀に鋭い視線をむけた。そして、口を開いた。

「お主の所領である近江、滋賀、丹波をわしに召しとり、かわりに出雲と石見を与える。まだ、敵の領じゃが実力で勝ちとれ。わかったか?!」

 光秀は言葉を発しなかった。かわりに頭を下げた。かれは下唇をかみ、信長から目をそむけていた。光秀が何を考えているにせよ、それは表には出なかった。

 しかし、この瞬間、かれは信長さえいなければ……と思った。明智光秀は信長が去ったあと、息を吸いあげてから、頭の中にさまざまな考えをめぐらせた。

 ……信長さまを……いや、織田信長を……討つ!


 元正一〇年(一五八二)六月一日、信長は部下たちを遠征させた。旧武田領を支配するため滝川一益が織田軍団長として関東へ、北陸には柴田勝家が、秀吉は備中高松城を水攻め中、信長の嫡男・信孝、それに家臣の丹羽長秀が四国に渡るべく大坂に待機していた。 近畿には細川忠興、池田恒興、高山右近らがいた。

 信長は秀吉軍と合流し、四国、中国、九州を征服するために、五月二十九日から入京して、本能寺に到着していた。京は完全な軍事的空白地帯である。

 信長に同行していた近衆は、森蘭丸をはじめ、わずか五十余り………

 かれは完全に油断していた。


 明智光秀は出陣の前日、弾薬、食糧、武器などを準備させた。そして、家臣たちを集めた。一族の明智光春や明智次右衛門、藤田伝五郎、斎藤利三、溝尾勝兵衛ら重臣たちだった。光秀は「信長を討つ」と告げた。

「信長は今、京都四条西洞院の本能寺にいる。子息の信忠は妙覚寺にいる。しかし、襲うのは信長だけじゃ。敵は本能寺にあり!」

 この襲撃を知って重臣たちは頷いた。当主の気持ちが痛いほどわかったからだ。

 襲撃計画を練っていた二七日、明智光秀はあたご山に登って戦勝の祈願をした。しかし、何回おみくじを引いても「凶」「大凶」ばかり出た。そして、歌会をひらいた。

 ……時は今、雨がしたしる五月かな…

 明智光秀はよんだ。時は土岐、光秀は土岐一族の末裔である。雨は天、したしるは天をおさめる、という意味である。

 いつものかれに似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでる。この数十年のあいだ、光秀は自分のことは自分で処理してきた。しかも、そうヘタな生き方ではなかったはずだ。確かに、気乗りのしないこともやったかも知れない。しかし、それは生き延びるための戦だった。そして、かれは生き延びた。しかし、信長のぐさっとくる言葉が、歓迎せぬ蜂の群れのように頭にワーンと響いていた。

 ……信長を討ち、わしが天下をとる!

 光秀は頭を激しくふった。


「敵は本能寺にあり!」

 明智光秀軍は京都に入った。そして、斎藤利三の指揮によって、まだ夜も明け切らない本能寺を襲撃した。「いけ! 信長の首じゃ! 信長の首をとれ!」

 信長の手勢は五~七十人ばかり。しかも、昨日は茶会を開いたばかりで疲れて、信長はぐっすり眠っていた。

「なにごとか?!」本能寺に鉄砲が撃ちこまれ、騒ぎが大きくなったので信長は襲われていることに気付いた。しかし、敵は誰なのかわからなかった。

「蘭丸! 敵は誰じゃ?!」急いで森蘭丸がやってきた。「殿! 水色ききょうの旗……明智光秀殿の謀反です!」

「何っ?」

「…殿…すべて包囲されておりまする」

「是非に及ばず」信長はいった。

 信長は死を覚悟した。自ら弓矢をとり、弓が切れると槍をとって応戦した。肘に傷を負うと「蘭丸! 寺に火を放て! 光秀にはわしの骨、毛一本渡すな!」と命じた。火の手がひろがると、奥の間にひっこんで、内側の南戸を締めきった。

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬもののあるべきか」炎に包まれながら、信長は「敦盛」を舞った。そして、切腹して果てた。

 享年四十九、壮絶な最期であった。 


 

 

     天下人







        8 天下を獲る






         中国大返しと山崎・牋ケ岳




信長は”本能寺の変”で、死んだ。

 その朝、家康や千宗易はバッとふとんから飛びおきた。何かの勘が、信長の死を知らせたのだ。しかし、秀吉は京より遠く備中にいたためその変を知らなかった。

 本能寺は焼崩れ、火が消えても信長の骨も何も発見されなかったという。光秀は焦りながら「信長の骨を探せ!」と命じていた。もう、早朝だった。

 天正十年(一五八二)五月、秀吉は備中高松城を囲んだ。敵の城主は、清水宗治で毛利がたの武将であった。城に水攻めをしかけた。水で囲んで兵糧攻めにし、降伏させようという考えであった。たちまち雨が降り頻り、高松城はひろい湖のような中に孤立してしまった。もともとこの城は平野にあり、それを秀吉が着眼したのである。城の周辺を堤防で囲んだ。城の周り約四キロを人工の堤防で囲んだ。堤防の高さは七メートルもあったという。しかも、近くの川の水までいれられ、高松城は孤立し、外に出ることさえできなくなったという。飢えや病に苦しむ者が続出し、降伏は時間の問題だった。

 前年の三木城、鳥取城攻めでも水攻め、兵糧攻めをし、鳥取の兵士たちは飢えにくるしみ、ついには死んだ人間の肉をきりとって食べたという、餓鬼事態にまで追い込んだ。そして、今度の高松城攻め、である。

 秀吉軍は二万あまりであった。

 大軍ではあるが、それで中国平定するにはちと少ない。三木城攻めのとき竹中半兵衛が病死し、黒田官兵衛がかわりに軍師になった。蜂須賀小六はこの頃はすでに無用の長物になっていた。野戦をすれば味方に死傷者が大勢出る。そこで水攻め、となった。

 それにしても、三木城、鳥取城、高松城、と同じ水攻めばかりするのだから毛利側も何か手を打てたのではないか? と疑問に思う。が、そんな対策を考えられないほど追い詰められていたというのがどうやら真相のようだ。

 山陽の宇喜多氏や山陰の南条氏はあっさり秀吉に与力し、三木城、鳥取城、には兵糧を送ることは出来なかった。しかし、高松城にはできたはず。しかし、小早川隆景、吉川元春の軍が到着したのは五月末であり、水攻めあとのことであったという。

 秀吉の要求は、毛利領五ケ国の割譲、清水宗治の切腹などであった。

 しかし、敵は湖の真ん中にあってなかなか動かない。

「よし!」秀吉は陣でたちあがった。人工の湖と真ん中の高松城をみて「御屋形様の馬印を掲げよ!」と命じた。「御屋形様の? 信長公はまだ到着されておりませぬ」

「いいのじゃ。城からみせれば、御屋形様まできた…と思うじゃろ? それで諦めるはずじゃで」秀吉はにやりとした。

 時代は急速に動く。

 天正十年六月二日未明、京都本能寺の変、信長戦死……

 六月三日夜、高松城攻めの陣中で挙動不審の者が捕まった。光秀が放った伝令らしかったが、まちがって秀吉のところに迷いこんだのだ。秀吉はどこまでも運がいい。小早川隆景宛ての密書だった。「惟任日向守」という書がある。惟任日向守とは明智光秀のことである。

 ……自分は信長に恨みをもっていたが、天正十年六月二日未明、京都本能寺で信長父子を討ちはたした。このうえは足利将軍様を推挙し、両面から秀吉を討とうではないか…


 秀吉は驚愕した。

「ゲゲェっ! 信長公が光秀に?!」

 秀吉は口をひらき、また閉じてぎょっとした。当然だろう。世界の終りがきたときに何がいえるだろうか。全身の血管の血が凍りつき、心臓がかちかちの石になるようだった。 秀吉軍は備中で孤立した。ともかく明智光秀は京をおとしたらしい。秀吉の居城・長浜、それから中国攻めの拠点となった姫路城がどうなったかはわからない。もう腰背が敵だ。さすがの秀吉も思考能力を失いたじろいだ。

「どうしたらええ? どうしたらええ?」秀吉はジダンダを踏んだ。

「よし! 今日中に姫路城に撤兵しよう…」

 黒田官兵衛は「このまま撤兵すれば吉川、小早川らが信長公の死を知って追撃してくるでしょう。わが軍も動揺するし、裏切るものもでるかも知れません。ここは天下を獲るかとらぬかの重大な”天の時”……わたくしに策があります」と策を授けた。

 官兵衛の策によって、毛利側と和議を結ぶことになった。幸、まだ毛利側は信長の死を知らない。四日未明、恵瓊を呼んで新しい和議の内容を提示。毛利側は備中、備後、美作、因幡、伯耆の五ケ国をゆずりわたし、そのかわり高松城の水をひいて城兵五千人を助ける。     という内容である。安国寺恵瓊は、その足で毛利側の陣にはよらず、船で人工湖の城に入城、清水宗治を説得した。宗治は恵瓊の腹芸とは知らずに承諾。

 恵瓊はその足で、小早川隆景、吉川元春の陣へ、かれらは信長の死を知らないから署名して和睦。四日午後、無人の城に兵を少しいれて警戒。五日、小早川隆景、吉川元春の軍が撤兵、それを見届けてから、六日、二万の兵を秀吉は大急ぎで撤兵させた。世にいう”中国大返し”である。その兵はわずか一日で姫路城に帰陣したという。

 その頃、毛利方は信長の死を知るが、あとの祭……。毛利方は歯ぎしりして悔しがった。騙しやがって、あのサルめ! だが、小早川隆景も吉川元春も秀吉軍を追撃しなかった。 このことも秀吉の幸運、といえるだろう。

 特筆すべきなのは二万あまりの秀吉軍は温存されたということだ。まったく無傷で、兵士は野戦などで戦うこともなかった。三木城、鳥取城、高松城攻めもすべて、調略、軍略であった。兵士たちは退屈な日々を送ったという。

 姫路城に帰陣してから、「信長公の弔い合戦をする」と秀吉は宣言した。そして、兵士たちを二日間休ませたうえで銭と食料を与えた。

 本能寺の変から十一日で、明智光秀と羽柴秀吉との「山崎の合戦」が始まる。秀吉は圧倒的な戦略と兵力で、勝った。明智光秀が落ち武者になって遁走する途中、百姓たちの竹槍で刺されて死んだのは有名なエピソードである。

 とにかく、こうして秀吉は勝ち、明智光秀は敗れて死んだ。光秀の妻・ひろ子も自害して果てた。かくして、天下の行方は”清洲会議”へともちこまれた。

 故・信長の居城・清洲城に家臣たちが集まっていた。天正十年六月のことである。

 織田家の跡目は誰にするか……。長男の信忠は本能寺の変のとき光秀に殺されている。   残るは、次男・信雄、三男・信孝か?

 しかし、秀吉はここでも策をめぐらす。信忠の嫡男・三法師(わずかに三才)を後継者にし、自分がそのサポートをする、というのだ。幼い子供に政は無理、これは信長にかわって自分が天下に号令を発する、という意味なのである。

 秀吉は赤子の三法師を抱いて、にやりとした。

「謀ったな……秀吉…」柴田勝家は歯ぎしりした。しかし、まだ子供とはいえ、信忠の嫡男なら織田家の跡目としては申し分ない。しかし、勝家は我慢がならなかった。

 ……サルめ! 草履とりから急に出世してのぼせあがっている。許せん! わしはあんなやつの下で働く気はもうとうないわ!

 秀吉は信長の妹・お市をも手籠めにしようとした。お市は反発し、柴田勝家の元へはしった。彼女は勝家がまえから好きだったので、意気投合し、再婚した。浅井長政との遺児・茶々、初、江も一緒にである。

 そして、琵琶湖の近くでついに、柴田勝家と羽柴秀吉は激突する。世にいう牋ケ岳の合戦である。そして、ここでも秀吉は勝った。勝家は炎上する城の天守閣で、妻のお市と娘たちに逃げるようにいった。しかし、お市は「冥途までお共いたします」と勝家とともに死ぬ覚悟だ、と伝えた。「わらわはサルのてごめにはなりたくありませぬ。お供します」「市……娘たちは助けてくれようぞ。あのサルめは子供までは殺さぬからのう」

 ふたりは笑って自害した。娘たちは秀吉にひきとられていった。

 農民たちは戦を楽しんでいたという。牋ケ岳の合戦のときも、農民たちは弁当片手で戦をまるでスポーツのように観戦していたのだという。また、合戦のあとは庶民の貴重な稼ぎ場となった。死傷者や敗者の武具・着衣を奪えることができたからだ。また、敗者の武将をとらえれば多額の賞金までもらえる。そのため、合戦のあとはかならず農民の落人狩りがおこなわれた。天王山から坂本城にもどる途中で竹やりで刺された明智光秀らは、庶民の強欲の犠牲者であるという。


「信長公のあとつぎだと天下に宣言するため安土城よりでっかい大坂城を築こうぞ」

 秀吉は大坂に城を築城しはじめた。

 この頃、奥州(東北)の伊達、徳川、北条氏が三国同盟を結んでいた。その数、十万、秀吉軍は十七万であったという。大坂城の大工事をやっている最中に、信長の次男の信雄が家康と連合してせめてきた。

「わしは信長の子じゃ、大坂城にはわしが住むべきじゃ!」信雄はいった。

 家康は「そうですとも」と頷いた。

 濃尾平野の小牧山と犬山城で、秀吉と家康は対陣した。小牧長久手の戦い、天正十二年(一五八四年)である。

 数年間、野戦の攻防をしたことがなかった秀吉は、山崎、賤ケ岳と白兵戦で勝ち続けた。  そして、小牧長久手の合戦である。この合戦で秀吉は大将を秀吉の甥子・秀次とした。しかし、この秀次という男は苦労知らずののぼせあがりで、頭も悪く、戦略をたてるどころか一方的にコテンパンにやられてしまう。池田恒輿は戦死、その他の大将も家康に散々にやられる。この合戦は家康の大勝利のようにも見える。が、そうではないという。

 きっかけは信長の次男・信雄がつくった。秀吉にまるめこまれた信雄は柴田攻めで、柴田らがかついだ信長の三男・信孝を尾張・内海で死においこんだ。秀吉にいいように踊らされたのだ。信雄は美濃の領地をもらった。

 秀吉はその年、出来たばかりの大坂城に諸将をよんだ。自分に臣下の礼をとらせるためだ。信雄はこなかった。すると秀吉は巧みに津川義冬ら三人の家老をまるめこみ、三人が秀吉に内通しているという噂をばらまいた。信雄はその策(借刀殺人の計)にまんまとひっかかり三人を殺してしまう。秀吉の頭脳勝ちである。

 信雄攻めの口実ができた。そんな信雄は家康に助けを求め、そこで小牧長久手の合戦が勃発したという。この合戦は引き分け。しかし、徳川の世になってからこの合戦は家康が勝って秀吉が負けたように歪曲されたのだ。

 数にたよって信長のように徳川滅亡をたくらめば出来たろう。家康の首もとれたに違いない。しかし、秀吉はそれをしなかった。なぜなら秀吉は天下を獲ろうという願望があったからである。家康と戦って勝利するために兵力を磨耗するより、家康と手を結んだほうが得策だと考えた訳だ。

徳川家康だって調略をめぐらせた。秀吉包囲網をつくっていたという。四国の長曽我部や、越中(富山県)の佐々成政、紀州の根来寺、雑賀衆などと連携をとった。長引けば毛利も黙ってはいまい。そこで秀吉は謀略を用いた。家康を飛び越え、信雄に講和を申しこんだのだ。元来、臆病者で軟弱な信雄は、自分が原因となっているのにも関わらず、恐怖心からか和議を結ぶことになる。単独講和し、家康は形勢不利とみて大局をなげだした。 織田信雄がいなくなれば秀吉と対決する大儀がないからである。

 家康の使者・石川数正が秀吉の大坂城にきた。

 秀吉は上機嫌で、「よくまいられた、石川殿」とにこりとした。そして、「わしはな家康殿とは戦いたくないのじゃ。家康殿とは義兄弟となりたい」

「ぎ、義兄弟でござりまするか?」石川数正は平伏し、不思議な顔をした。上座の秀吉はにこにこして「そうじゃ。家康殿とわしは義兄弟である。」

家康は「そうですとも」と頷いた。

 濃尾平野の小牧山と犬山城で、秀吉と家康は対陣した。小牧長久手の戦い、天正十二年(一五八四年)である。

 数年間、野戦の攻防をしたことがなかった秀吉は、山崎、賤ケ岳と白兵戦で勝ち続けた。 そして、小牧長久手の合戦である。この合戦で秀吉は大将を秀吉の甥子・秀次とした。しかし、この秀次という男は苦労知らずののぼせあがりで、頭も悪く、戦略をたてるどころか一方的にコテンパンにやられてしまう。池田恒輿は戦死、その他の大将も家康に散々にやられる。この合戦は家康の大勝利のようにも見える。が、そうではないという。

 きっかけは信長の次男・信雄がつくった。秀吉にまるめこまれた信雄は柴田攻めで、柴田らがかついだ信長の三男・信孝を尾張・内海で死においこんだ。秀吉にいいように踊らされたのだ。信雄は美濃の領地をもらった。

 秀吉はその年、出来たばかりの大坂城に諸将をよんだ。自分に臣下の礼をとらせるためだ。信雄はこなかった。すると秀吉は巧みに津川義冬ら三人の家老をまるめこみ、三人が秀吉に内通しているという噂をばらまいた。信雄はその策(借刀殺人の計)にまんまとひっかかり三人を殺してしまう。秀吉の頭脳勝ちである。

 信雄攻めの口実ができた。そんな信雄は家康に助けを求め、そこで小牧長久手の合戦が勃発したという。この合戦は引き分け。しかし、徳川の世になってからこの合戦は家康が勝って秀吉が負けたように歪曲されたのだ。

 数にたよって信長のように徳川滅亡をたくらめば出来たろう。家康の首もとれたに違いない。しかし、秀吉はそれをしなかった。なぜなら秀吉は天下を獲ろうという願望があったからである。家康と戦って勝利するために兵力を磨耗するより、家康と手を結んだほうが得策だと考えた訳だ。

 徳川家康だって調略をめぐらせた。秀吉包囲網をつくっていたという。四国の長曽我部や、越中(富山県)の佐々成政、紀州の根来寺、雑賀衆などと連携をとった。長引けば毛利も黙ってはいまい。そこで秀吉は謀略を用いた。家康を飛び越え、信雄に講和を申しこんだのだ。元来、臆病者で軟弱な信雄は、自分が原因となっているのにも関わらず、恐怖心からか和議を結ぶことになる。単独講和し、家康は形勢不利とみて大局をなげだした。 織田信雄がいなくなれば秀吉と対決する大儀がないからである。

 家康の使者・石川数正が秀吉の大坂城にきた。

 秀吉は上機嫌で、「よくまいられた、石川殿」とにこりとした。そして、「わしはな家康殿とは戦いたくないのじゃ。家康殿とは義兄弟となりたい」

「ぎ、義兄弟でござりまするか?」石川数正は平伏し、不思議な顔をした。上座の秀吉はにこにこして「そうじゃ。家康殿とわしは義兄弟である。そのために…」



「………義兄弟?」

 居城で、家康はもどった石川に尋ねた。「秀吉公がそう申されたのか?」

「ははっ。つきましては秀吉殿の妹君を殿の妻にと…申されました」

「妹君?」家康は茫然とした。「秀吉公の…?」

「はっ。朝日の方。年は四十三でござる」

「それは…」家康は続けた。「年増じゃのう」

「連れ添った夫と離縁して、嫁ぐそうでござりまする」

 家康の家臣たちは反対した。秀吉の妹などいらぬ! というのである。しかし、石川数正だけは冷静で、「受けたほうがよろしいかと存ずる」とがんといった。

 家康は遠くを見るような目をして、口をとじた。何にせよ、家康が何を考えているのかは、誰にもわからなかった。



          関白・秀吉



 頼朝や足利義満のような源氏の子孫では秀吉はないので征夷大将軍とはなれなかった。将軍でなければ幕府は築けない。しかし、そこで秀吉は一計を案ずる。まず、天皇から関白の位をもらい、独裁政府をつくるのだ。関白・豊臣秀吉の誕生である。

 秀吉は元同役の前田利家を五大老に加えた。五大老とは大臣クラスのことで、前田利家、徳川家康、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景らである。それと五奉行、浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家である。そして、それを実現させるためには家康をまるめこまなければならない。

 秀吉はここでも一計を講じた。


「おふくろさまを……家康の人質にですと?」石田三成は仰天して上座の秀吉に尋ねた。 秀吉は頷き「そうじや。家康とは和睦したぁがぜよ。おっ母を渡せば、家康とて人間……わしの気持ちがわかるはずじゃ」といった。

 秀吉は自分の母・大政所(なか)を家康の人質に出すというのだ。

「しかし、家康がおふくろさまを殺して…また戦をしかけてきたらどうなさりまする?」「そんときは…」秀吉は暗い顔をして「そんときよ」

 かくして、秀吉の母・大政所(なか)は人質として家康の居城・岡崎城にきた。大変なババァを人質にしたものだ……家康は苦笑してしまった。しかし、秀吉は自分の母でさえも、家康のために人質に出すとは…。

 家康は何ともいえない感情にとらわれた。

 なかはにこにこと笑って、家康と握手した。そこに四十三歳の年増の朝日の方も到着し、なかと朝日の方は抱き合った。抱擁だ。家康はいたみいった。大政所と朝日の方、なかと朝日の方、母と娘………。

 これは秀吉と和睦するしかない。家康は決心した。

 家康は十月二十日、上洛した。もう夜だった。

 徳川家康は座敷で辛抱強く待った。座敷は蝋燭のほのかな明りでオレンジ色だ。秀吉はやがて上機嫌でやってきた。「家康殿、よくぞまいられた!」

「関白殿にはごきげんよろしゅう」

 秀吉はにこりと笑って「堅い挨拶なぞなしじゃ、家康殿」といい、饅頭を渡して「これでも食ってくだされ。腹が減ってるにゃら、おまんまも用意するでぇが」

「いいえ。関白殿、おかまいなく」

「家康殿、悪いんじゃが、わしを立ててはくれまいか?」

 秀吉は続けた。「わしのつくる政府の五奉行のひとりになってほしいのじゃ」

「……秀吉殿の家来になれと?」

「いや、形式だけ。形だけじゃで」

 家康は平伏し、「わかりもうした。この家康、関白・豊臣秀吉公の下で働きまする」

「そうか? かたじけない、家康殿!」

「関白殿にはもうそのような陣羽織りは着せません。関白殿にかわって戦は私が指揮し、関白殿はゆっくりと後方で休んでわれらを見守ってくだされ」

 家康は下手にでて、平伏した。秀吉は感激し、そして、次の日の大名たちとの会議でもわしに平伏する演技をしてくれ、と頼んだ。そして、家康はみごとに演技をした。

 こうして、徳川家康は秀吉の”形式”だけの家来と、なったのである。       


話を戻す。

秀吉は公家の菊亭晴季に”征夷大将軍”の位をもらいたいと朝廷に頼み込んだが、百姓上がりの秀吉はなれなかった。そのかわりとして”豊臣”の名を授かり『豊臣秀吉(とよとみのひでよし)』となった。征夷大将軍にはなれなかったが関白職を授かり、やがては長じて太閤殿下とまでなった。寧々を悩ませたのは秀吉の”女癖の悪さ”である。

秀吉は絶倫で、愛人を何百人も囲う。しかし、”種なし”の秀吉には子供が出来ない。

そんな中で寧々の心を傷つけたのが茶々のちの淀君への秀吉の溺愛である。

……憧れたお市の方さまの娘だからか。仕方なし。しかし、本当に殿下の子供なのか?

秀吉は狂っていく。最初の茶々との子供・鶴松が死ぬと朝鮮出兵・唐入りを決意し、攻めた。また子供が茶々との間に出来る。のちの秀頼で、ある。

だが、秀吉は幼い秀頼を残して死んでしまう。

こうなれば後は天下を治められるのは徳川家康しかいない。

『関ヶ原の合戦』も寧々は傍観した。幼い秀頼や淀君では駄目だ。天下はまた乱れ乱世に逆戻り、である。

寧々は出家し、髪をおろし、高台院と称して高台寺に隠遁した。

話を戻す。






         夢のまた夢

        





        天下統一



 天下統一作戦は秀吉の命令で始まった。

 秀吉は牙をむきだしにして、各個撃破の戦を開始する。天正十二年三月、紀州に出兵して、根来寺・雑賀衆を制圧した。六月には四国に出兵し、長曽我部を屈服させ、引き続き、北陸に出兵し、佐々成政を降ろす。秀吉は抵抗勢力の抹殺を行った。

 そして、秀吉は十二万の大軍で九州を制圧した。そんなおり、側室となっていた淀(茶々)が秀吉の子を産む。天正十七年五月のことである。名は鶴松。男の子だった。

 秀吉は大変な喜びようで、妻の寧々(北政所)とは子がなかったから、やっと世継ぎが出来た、とおおはしゃぎした。

 あとは関東の北条と奥州の伊達だけが敵である。

 そんなとき、伊達政宗は六月になって”秀吉軍には勝てない”と悟り、白無垢で秀吉の元に現れた。まだ政宗は若かったが、判断は正しかった。トゥ レート、ではあったが、判断は正しかった。あとは関東の北条だけが敵である。

 秀吉は三十万の兵を率いて関東にむかった。

「寒いのう」秀吉は小田原城の近くの城でいった。家康は「そうですな、閣下」と下手にでた。まさに狸である。

「小田原城内の兵糧にも限りがあろう。兵糧攻めじゃ」秀吉はわらった。

 三月十九日、開戦。四月六日には小田原城を包囲し、秀吉は”兵糧攻め”を開始した。船に敵の子女を乗せて、小田原城にたてこもる北条氏たちにみせた。北条氏側は上杉謙信が北条氏の小田原城を攻めたときのことを思いだしていた。上杉は一ケ月で兵糧が尽き、撤退した。秀吉もそうなるに違いない。北条氏政は思った。

しかし、秀吉の兵糧は尽きない。加藤や久鬼の水軍が海上から兵糧をどんどん運んでくる。二十万石(二十五万人の兵を一ケ月もたせる)が次々と船でやってくる。

「わははは」秀吉は陣でわらった。「日本中の軍勢を敵にまわしてはさすがの北条も勝ち目なしじゃ!」

 秀吉はまた奇策を考える。一夜城である。六月二十八日、小田原城の近くの石岡山に一夜城をつくった。山の木に隠れてつくっていた城を、木を伐採して北条氏たちにみせたのだ。忽然と、城が現れ、北条氏たちはこのとき唖然とし、格闘を諦めようと決意した。もともと勝ち目はない。日本中の軍勢を敵にまわしているのだ。

 天正十八年七月五日、北条氏政は切腹し、息子の氏直は切腹をまぬがれた。こうして、北条氏は滅亡した。

「家康殿、此度は小田原攻めに協力かたじけない。お礼として今の領地のかわりに旧北条氏の領地だった関東を与えよう。さぁ、遠慮はいらぬぞ」

 秀吉はにやりとした。

 家康はしぶしぶ受け入れた。今、関東は都会ではあるが、この頃は、草が生い茂る一面の湿地帯で、”田舎”であった。家康はそれを知りながらも受け入れた。家康は関東を江戸と称して開拓にあたった。大都会・江戸(東京)をつくるのに邁進した。

「ふん、家康を関東の田舎におっぱらってやったぞ。京都と大坂はがっちり守っていかねばのう」秀吉は高笑いをした。これで………天下を獲れる。そう思うと、胸がうち震えた。 天下人じゃ! 天下人じゃ!  秀吉は興奮した。



          唐入り



 大和と河内、紀州の一部をふくめ百万石の大名と小一郎秀長がなると、神社仏閣からいろいろ文句がではじめた。しかし、一年もたたないうちに抗議がなくなった。秀吉は不思議に思い「小一郎、大和はどうかな?」と尋ねると「うるさくてこまっている」という。「具体的にはどうしておるのじゃ?」ときくと「金でござるよ」といったという。

 これは今でこそ珍しくないが、領土の代わりに銭を渡して納得させた訳だ。「新しい領土は与えられないけれども、そのかわり銭をやる」……ということだ。米や土地ではなく、銭、これは新しいアイデアだったに違いない。

 しかし、そんな小一郎秀長は死んでしまった。病気で早死にしたのだ。

 秀吉はそんな弟の亡骸にふっして「小一郎! おまえがいなければ豊臣家はどうなるのじゃ?」と泣いたという。小一郎は秀吉のために銭をたんまりと残した。矢銭である。

 しかし、秀吉は暴走していく。”良き弟”を亡くしたために……

「家康や大名たちをしたがわせるためには、豊臣の戦力を拡大することだ。それには矢銭(軍資金)をしっかりためこむことだ。まず農民からきびしく年貢米を取り立てよう」

 太閤となった秀吉は、一五八二年から太閤検地で農民から厳しく年貢を取り立てた。次に、農村に住んでいた武士を城下町に集合させ、身分をはっきりとわけた。

「次は、農民が一揆をおこせないように武器をとりあげることじゃ」秀吉はいった。「一向一揆や土一揆にはまいったからのう。信長公も刀狩をやられたがこの秀吉はもっと大掛かりな刀狩をやるぞ!」

 京都や奈良の大仏よりもでっかい大仏をつくる、そんな理由で秀吉は刀狩を行った。農民や僧侶から刀をとり、反乱をおこせなくした。

「年貢にはかぎりがある。商業をおこしてお金をがっぽりもうけるのじゃ。信長公のまねをして、市場の税や座という組合をなくそう! いままでは大名の領地によって違った銭が流通しているが、全国に通用する銭をつくろうぞ!」

 秀吉は経済政策をうった。大名用の天正菱大判をつくった。商工業がさかんになった。秀吉は貿易は自由にしなかった。主君よりも神をとうとぶキリスト教を弾圧した。キリスト教を禁止し、貿易だけできるようにしたのだ。

 そんなおり、息子の鶴松が死んだ。まだ赤子だった。

 秀吉はショックをうけた。何ともいわなかった。当然だろう。世界の終わりがきたときになにがいえるだろう。全身の血管の血が氷になり、心臓が石のようにずしっと垂れ下がったような気分だった。

 北政所(寧々)は眉をひそめたが、また秀吉のほうを見た。秀吉はその場で凍りつき、一瞬目をとじた。秀吉は急に「そうじゃ、唐入りじゃ! 唐入りじゃ! 鶴丸は死んで唐入りをわしに命じたのじゃ」とぶつぶついいはじめた。もう全国を平定して、大名たちに与える領地はない。開拓されていない東北北部と蝦夷(北海道)くらいだ。そうだ! 明国だ。朝鮮を平定し、明まで攻め入り大陸の領地をとるのだ!

 北政所はなぐられたかのようにすくみあがり、唇をきゅっと結び、秀吉が四方八方から受けているであろう圧力について考えた。秀吉は圧力釜に長いこと入りすぎていたためすべてのものがこぼれて、とんでもないことになっている。もう誰も秀吉をとめられなかった。「信長公以上の天下人となるのだ」秀吉は念仏のようにいった。


 家康と秀吉は会談した。

 家康は五十歳になり、秀吉は六十代であった。家康は朝鮮・中国出兵に反対しなかった。というより、これで豊臣家の軍費がかさみ、徳川方有利となる。朝鮮や明国など屈服できる訳はない。これで、勝てる……家康は顔はポーカー・フェイスだったが内心しめしめと思ったことだろう。バカなことを……

 秀吉と家康は京を発して九州の名護屋城へ入った。

 秀吉の朝鮮戦争はバカげたことであった。それ自体があまり意味があるとは思えないし、秀吉の情報不足は大変なものだった。秀吉は朝鮮の軍事力、政治、人心についてまったく情報をもっていなかったのだ。家康は腹の底でしめしめと笑った。

 加藤清正と小西行長が先発隊としていき、文禄元年(一五九二年)六月から十一月ぐらいまでの最初の六ケ月は実にうまくいき、京城、平譲を取り、さらに二王子を虜にすると、秀吉はずっといけると思った。しかし、この六ケ月の日本軍の勝利は、属国に鉄砲を持たせないという、明国の政策によって、朝鮮軍が鉄砲を持っていなかったからにすぎない。    で、十二月、李如松という明の将軍が大軍を率いて鴨緑江を渡ってくると、明軍は鉄砲どころか大砲まで装備していたそうで、日本軍はたちまち負けてしまったのだという。

 秀吉は、朝鮮を属国にして明国を攻める足場にしたいと考えていた。つまり、明と朝鮮との関係に関しても無知だったのだ。

 小西行長と宗義智はそれを知っていたため必死にとめようとしたのだ。家康も知っていた。朝鮮や大陸での戦がいかに難しいか、を。本来なら二人の王子を捕虜にした時点で、その王子たちを立てて傀儡政権をつくって内部分裂をおこさせるのが普通であろう。しかし、秀吉はそれさえしなかった。若き日、あれだけ謀略の限りで勝利していた秀吉ではあったが、晩年はすっかりボケたようだ。

 やはり”絶対的権力は絶対的に腐敗する”という西洋の格言通りなのである。天下人となった秀吉は頭がまわらなくなった。

「なんたることじゃ!」日本軍不利の報に、秀吉は名護屋城の前線基地でジダンダをふんだ。「太閤殿下、そう焦らずとも……まだ先がござりまする」家康はなだめた。

(もっと苦しめ、秀吉のもっている銭がなくなるまで……戦させよう)

 家康は自分の謀略に心の底でにやりとした。

 しかし、狸ぶりも見せ「私を朝鮮攻めの前線へ!」と真剣に秀吉にいった。ふくみ笑いを隠し通して。石田三成も黙ってはいない。「いや! おやじさま、この三成を前線へ!」「よくぞ申した!」秀吉は感涙した。

 すっかり老いぼれた大政所(なか)は、名護屋城を訪ねてきた。なかは秀吉の顔をみると飛びかかり、「これ! 秀吉!」と怒鳴った。家臣たちは唖然とした。

「なんじゃい? おっかあ」

 なかは「朝鮮のひとがおみゃあになにをした?! 朝鮮や明国を攻めるなどと……このバチ当たりめ!」と怒鳴った。

 秀吉はうんざりぎみに「おっかあには関係ねぇごとじゃで」と首をふった。

「おみゃあはこのかあちゃんを魔王のかあちゃんにしたいんか?! 朝鮮を攻める、明国を攻める、何にもしとらんものたちを殺すのは魔王のすることじゃ!」

(魔王とは…)

 家康は思わず笑いそうになったが、必死に堪えた。

 秀吉は逃げた。なかはそれを追った。すると座敷には家康と前田利家しかいなくなった。「魔王だそうですな」家康はにやりとした。利家は笑わなかった。









          母の死とやや




 大政所(なか)が死んだ。北政所(寧々)に見守られての死だった。

 秀吉は名護屋城であせっていた。うまいこと朝鮮戦争がいかない。そこに文が届く。またしても淀(茶々)が身籠もったというのだ。これをきいて、関白となっていた秀次は狂い、家臣や女たちを次々殺した。殺生関白とよばれ、この頭の悪いのぼせあがりは秀吉の命令によって切腹させられる。秀次は泣きながら切腹した。

 朝鮮の使者がきて、両国は和平した。文禄六年(一五九八年)お拾い(のちの秀頼)が産まれた。秀吉にとってたったひとりの世継ぎである。秀吉は小躍りしてうれしがった。「でかしたぞ! 淀!」秀吉はひとりで叫んだ。

 明国からの使者がきた。「豊臣秀吉公を日本国の王とみとめる」と宣言した。

 当然だろう。いや、わしはもうこの国の王だ。いまさら明国などに属国するものか!

「ふざけるな! わしをなめるな!」秀吉は怒った。

 戦前の日本では、これは秀吉が”天皇が日本国の王なのにそれを明国が認めなかったこと”に腹を立てた……などと教えていたらしい。が、それはちがう。秀吉にとって天皇など”帽子飾り”にすぎない。もうこの国の王だ。いまさら明国などに属国するものか、と思って激怒しただけだ。それで、和睦はナシとなり、家康の思惑通り、秀吉は暴走していく。出陣。秀吉は大陸に十二万の兵をおくった。

 そんなおり、秀吉は春、”お花見会”を開いた。秀吉は家臣や大名たちとひさしぶりのなごやかな日を過ごした。桜は満開で、どこまでもしんと綺麗であった。

 秀吉は家康とふたりきりになったとき、いった。

「わしが死んだら朝鮮から手をひいて、秀頼を天下人に奉り上げてくだされ」

 家康は「わかりもうした」と下手にでた。秀吉が死ぬのは時間の問題だった。家康は心の底でふくみ笑いをしていたに違いない。

 だが、どこまでも桜はきれいであった。



          夢のまた夢




 秀吉は伏見城で病に倒れた。

 秀吉は空虚な落ち込んだ気分だった。朝鮮のことはあるが、世継ぎはできた。気分がよくていいはずなのに、病による熱と痛みがひどくかれを憂欝にさせていた。秀吉の死はまもなくだった。家康たちは大広間で会議中だった。石田三成らと長束、小西が激突しようと口ゲンカをしていた。家康は「よさぬか!」と抗議した。自分の武装した兵士たちにより回りを囲み「騒ぐでない!」といった。冷酷な声だった。家康の目は危険な輝きをもっていた。「ここより誰も一歩たりとも出てはならん!」

 そして、慶長三年(一五九八年)八月十八日、秀吉は「秀頼を頼む…秀頼を頼む…」と苦しい息のままいい、涙を流しながら息をひきとった。前田利家は涙を流した。が、家康は悲しげな演技をするだけだった。


「徳川だの豊臣だのといってばかりでは天下は治められない。今の豊臣には誰もついてはこない。豊臣恩顧だの世迷い言じゃ。現に豊臣恩顧の大名衆はすべて徳川方。そのような豊臣にしてしまった。されど豊臣は百万石から六十五万石になっても一大名でも豊臣が残るならよいではありませんか?滅ぶよりマシです」

高台院(寧々)はいうが、秀頼や淀君は反発した。

「自分には子供がいないからと!あなたさまをこれ限り豊臣のひとだとは思いません!」

「この秀頼、豊臣秀吉の御曹司として徳川と戦いまする!」

……確かに、例え一大名になっても……とは子供がいないからかも知れぬ。

高台院の停戦工作は失敗した。

高台院は淀君と秀頼が籠城した大坂城が炎上している炎を遠くからみる。

涙を流し合掌し黙祷した。真夜中なのに煌煌と明るい炎の明かり……

「お前様。許して下され。私の力がおよばずとうとう豊臣がこんなことに……」

すると秀吉の亡霊が言った。

「おかか! これでええではないがじゃでえ。豊臣は一代でも役を果たした。それでええ。天下を徳川に渡した。おかかの役目もおわったのじゃ。おかか、ごくろうじゃった!」

「お前様………」

「わしのおかかになり苦労させたのう」

「いいえ。……わたしはお前様のおかかになったこと後悔はありません。またお前様の女房になりとうございまする。できれば戦のない世で……」

「はははは。まっておるぞ、おかか」

亡霊は消えた。

「…お前様?」

高台院(寧々)は再び涙を流し合掌した。「お前さま。……豊臣はお前様と私だけのものでした」

高台院(寧々)は再び合掌して涙し、やがて、その場を歩き去った。

豊臣家の滅亡……そして永遠の豊臣…。すべては夢の中。夢の又夢。

こうして秀吉と寧々の物語は、おわった。


 ……露といで、露と消えにしわが身かな、なにわの夢も夢のまた夢……


  こうして、波乱の風雲児・豊臣秀吉は死んだ。

 享年・六十三歳。秀頼がわずか六歳のことで、あった。




最終章 天下人 徳川家康







        10 関ケ原合戦

        





          石田三成




 秀吉が死んだあと、五大老の筆頭で二百五十万石の巨大大名である家康は、秀吉が豊臣家を守るために決めておいた掟をやぶり、何事もひとりで決めていた。

 当然、豊臣家恩顧の大名たちに不満が生まれていた。

 しかし、時代はもう徳川だ、とするどい見方をする大名も多かった。

 家康は大坂城に入って、秀吉の子・秀頼とあった。守り役は前田利家である。前田利家は加賀百万石の大名で、秀吉の無二の親友でもあった。

「わしが秀頼さま、ひいては豊臣家を守る」前田利家そういって憚らなかった。

 しかし、そんな利家も病死した。

 家康にとっては煩いやつがいなくなって、ラッキーに思っただろう。

「このままでは豊臣家は危ない。家康さえいなくなれば…」

 石田三成は家康の暗殺を企てた。が、失敗した。慶長九年九月、秀吉の葬儀が行われた。これを機に、徳川方の武将・加藤清正が三成を殺そうとして兵をだした。

 だが、それに気付いたのか、石田三成は夜陰に乗じて船で逃げていた。

 三成は複雑な心境だったに違いない。秀吉の生きているうちは我が物顔でなんでもやってきたのに、秀吉が死ねば、自分は暗殺の対象にまでなってしまう。

 かれはリターン・マッチを誓った。「豊臣家に恩のある大名を集めて、家康と一戦交える!」とにかく、かれはそのことで頭がいっぱいだった。

 石田三成の政治目標は、太閤の死で先行きが不安となった豊臣政権の護待と安泰、発展を計ることであったという。そのためには太閤の政権を破壊する危険のある家康を殺すことだった。家康さえ殺せば、諸大名はなびく。幼主・秀頼をトップに、三成が宰相となって天下に号令する。戦略としては正しかった。近江佐波山二〇万石の下級大名の三成が、上杉や毛利、島津という大大名を美濃の山奥・関ケ原まで出兵させるのに成功したからだ。

 上杉らは西側が勝つと思ったから出兵したのだ。結局は負けたが、石田三成の企てだけは正しかった。まず大義名分を掲げ、有力なスポンサーを確保し、有名な大物を旗頭にすえる……まさに企てとしては正確である。

 しかし、しょせん石田三成など近江佐波山二〇万石の下級大名に過ぎない。家康のような知謀や軍事力がない。だから負けたのだ。

関ヶ原合戦までの有力大名のトップ10の禄高をここで載せよう。*9位 佐賀  鍋島直茂36万石*9位 名島(福岡)小早川秀秋36万石*8位 水戸 佐竹義宣54万石*7位 岡山 宇喜多秀家57万石*6位 仙台 伊達政宗59万石*5位 鹿児島 島津義久60万石*4位 金沢 前田利家84万石*3位 上杉景勝120万石*2位 毛利輝元121万石*1位 徳川家康256万石

  さて、徳川方の武将・加藤清正が三成を殺そうとして兵をだして、それに気付き逃げた三成は、なぜか家康のところへ助けを求めにきた。なぜだろう? よく分からない。

「三成殿、腹は空いておらぬか?」家康は上座で、石田三成を労った。

「いいえ」三成は続けた。「ひとつおききしたいことがござる」

「なにかのう?」

「家康殿は……豊臣家を何とこころえるのか?」

「……三成殿」家康はかれを諭した。「何事もせいてはことをしそんじまするぞ。三成殿、まずは頭を冷やし、佐波山に帰参してそれから考えてはいかがか?」

 石田三成は何もいわなかった。只、無言のまま下唇を噛むのだった。





         秀頼と淀




 九月九日、家康は大坂城に入城した。

「よくまいられた、家康殿」

 幼少の秀頼とともに上座にすわった淀殿は笑った。淀殿(茶々)は秀吉の側室として秀頼を産んで権威をもっていた。元々、彼女の父は信長にやぶれた北近江の浅井長政で、母は信長の妹・お市の方である。牋ケ岳の戦いで義父・柴田勝家と母・お市が自害して、はや数十年が経っていた。淀殿とて、目尻の皺までは隠せない。

 しかし家康は、淀殿の端正な美顔をながめ、そして男心をそそらずにはおけない愛らしい豊満な身体をながめた。なぜこれほどの美女が秀吉なんぞに……。家康はもう六十代だったが、絶倫だった。

 この淀殿もてごめにしたい……家康は彼女との夜のことを考えた。

 しかし、口では次のようにいった。

「世の中は物騒であります。しかし、ご安心くだされ。この家康、この大坂城にあって秀頼さまをお守り申す」

「よくぞ、よくぞ申された、家康殿!」淀殿は感激した。

 家康の演技を見抜けなかったのである。


 近江・佐波山城では石田三成の妻・お袖が「殿……家康と戦って下され!」とかれにせまっているところだった。三成は決心した。

「わが命、豊臣家に捧げようぞ! あのにっくき家康を討つ!」

 太閤亡きあとの豊臣家は内ゲバだらけだった。石田三成たちと加藤、福島、浅野らの抗争は激化していた。家康が逃げ込んできた石田三成を殺さなかったのも、かれの策略を読んだからだ。もし三成を殺せば、豊臣家の内ゲバはピタッとおさまってしまう。

 三成だけが死んでも、増田、長束、前田玄以、大谷吉継、小西行長などの官僚は生き残ってしまう。できるだけ内ゲバを長引かせ、崩壊に導く。そのためにあえてリスクを覚悟で、家康は石田三成を野に放ったのである。

 まことに狸としかいいようがない。




         関ケ原合戦




          

「三成め、会津(福島県)の上杉景勝と手を組んだらしい」

 家康は伏見城の上座で、いった。それにたいして家臣の鳥居元忠が「それで上杉が戦の準備をして、挑戦状をよこしたのですな」と頷いた。

 上杉景勝は上杉謙信の甥(謙信の姉の子、謙信は結婚もせず子ももうけようとはしなかった)で、越後(新潟県)より領地を会津に転封されていた。

「上杉との戦いに出陣する前にこの伏見城によったのは、じつはその方に話しておきたいことがあったからじゃ」

「ははっ」元忠は平伏した。

「わしが関東へ向かって出陣すれば三成は秀頼の名において、この伏見城を攻めるであろう」

「そうなればわが徳川は正々堂々と豊臣と戦える名目ができまするな」

「しかし……主力を率いての今度の出陣だ。この城にはいくらも兵は残せぬのだ」

 元忠は頷いた。強くいった。「ご心配にはおよびません。この鳥居元忠、徳川家のためなら堂々と戦ってごらんにいれます!」

「よくもうした!」家康は感激で、目がしらに涙がうっすらうかんだ。

 徳川家康に軍による上杉征伐は慶長五年(一六〇〇年)四月におこなわれた。

 こうして、家康軍は伏見城にわずかな兵だけ残し、会津に向けて出陣した。しかし、家康は軍をゆっくりゆっくりすすませ、なかなか上杉を攻撃しようとはしなかった。

「殿、上杉を早く討ちましょう!」家臣が催促した。

「まて、せいてはことをしそんじる」

 家康はどこまでも冷静だった。

 そこに早馬の伝令が届く。

「殿、三成は四万の軍勢で伏見城を攻め落としました」

「三成め、やりおったか!」

「元忠殿はよく戦い、自害して果てました」

「元忠…が」家康は暗くいった。

 家臣のものが「すぐに引き返し、豊臣の軍を打ち破りましょう!」といった。すると家康は右手をあげて掌で制し、「この中には秀吉公の恩を受けた武将もおられよう。その大名の方は大坂へ帰って、三成に味方してもこの家康決してうらみはせぬ」

 陣の一同はしんとなった。

「この福島正則、秀吉公の恩を受けたとはいえ、三成ごときめの味方などできません」

 正則がいうと、続けて鎧姿の大名たちは「われらに指図しようなどかたはら痛いわ」といった。「この黒田長政、あんなやつに天下をとられては腹の虫がおさまらん」

 家康は意を決した。

 そして「元忠、おぬしの死を無駄にはせぬぞ。……よし! 出陣じゃ! 西方にむけて出陣! 三成の首をとるぞ!」と全軍に激を飛ばした。

 こうして、西へむかって進む家康軍(東軍)は、福島正則を先頭とて、以下、黒田長政、細川忠興、池田輝政など総勢十万五千であった。

 家康の政治目標は天下統一であった。そのため一六〇〇年になると、石田三成たち豊臣家の官僚たちを一掃する必要があった。また、石田三成たち豊臣家の官僚たちは標的を家康一本にしぼっていた。三成は幼少の秀頼を頭にしているから大義名分もたつ。

 しかし、家康はそんな錦の御旗もない。

 家康は情報戦もやった。関ケ原合戦までに諸大名におくった書状は三ケ月で百八十四通にもなるという。こうして、三成嫌いの福島正則や”風見鶏”伊達政宗たちを虜にした。 つまり、勝ったら褒美の領土をやる……ということだ。

 これは二百万石以上の大大名の家康にしかできないことだ。所詮、三成など二〇万石の小大名にしか過ぎない。

 しかし、西軍には大儀があった。東軍にはうしろめたい影があったという。豊臣系は、北政所(おね)を中心とする尾張閥と、淀と秀頼、三成を中心とした近江閥に分裂した。 毛利家も、恵瓊と吉川・小早川の門閥に割れた。

 福島正則などの東軍の先発隊は、八月十四日、正則の居城である清洲城に入った。一方、伏見城をおとしていた三成の西軍は、八月十日、大垣城に入っていたのだった。家康は三成の動向を江戸で眺め、そして、江戸を出発、九月十四日には赤坂南方の、岡山の本陣にはいったのである。

「家康は佐波山城をおとし、一気に大坂をねらうつもりだな。馬鹿め! よし関ケ原に陣をひいて決戦だ」三成はにやりとした。

 東軍は十万あまりの兵力、西軍は八万五千、東軍優位だった。しかし、合戦に参加したのは東軍七万六千、西軍は三万五千といわれ数のうえで東軍が有利である。

 東軍は、浅野幸長(甲斐府中)、有馬豊次(遠江横須賀)、山内一豊(遠江相良)、堀尾吉晴(遠江浜松)、金森長近(飛騨高山)、池田輝政(三河吉田)、福島正則(尾張清洲)、前田利長(越中一国)、九鬼守隆(志摩鳥羽)、筒井定次(伊勢上野)、細川忠興(丹後宮津)、蜂須賀至鎮(阿波徳島)、生駒一正(讃岐高松)、加藤嘉明(伊予松崎)、藤堂高虎(伊予板島)、黒田長政(備前中津)、寺沢広高(備前唐津)、加藤清正(肥後熊本)。他に伊達や最上義光も参戦発表したが、実際には参戦していないという。

 西軍は、上杉景勝(会津若松)、佐竹、真田、赤座、宇喜多、長曽我部、小早川、島津島……。西軍は「鶴翼の陣」で、のちの世にドイツのメッケル将軍はその図をみて「西軍が勝ったのだろう?」と、にやりとしたという。

 家康は桃配山に陣をしき、石田三成は伊吹山に麓に陣をひいた。慶長五年(一六〇〇年)九月十五日、朝八時、関ケ原の霧が晴れると同時に戦の幕がきっておとされた。

「東軍の先頭は福島正則なり! 正面の宇喜多軍を討て!」

「攻め反せ!」合戦ははじまった。

宇喜多秀家VS福島正則……

大谷吉継VS藤堂高虎……

石田三成VS細川忠興……

 家康に伝令がくる。「藤堂は大谷の陣へ、織田は小西の陣へ討ち入りました!」

「よし! 田中、黒田、細川の隊は三成の本陣をせめよ!」

 家康はにやりとした。石田三成の元にも伝令がくる。

「本陣の兵力がかなり不足してきました」

 三成は不安な顔を隠し「毛利は何をしておるのじゃ?! 一万五千の兵をもちながら……早く戦を始めるように伝えよ!」

 毛利の元にも伝令がくる。「早く戦をはじめよとの三成様からのことばです!」

 毛利秀元(毛利輝元は大坂城にいた)は「この戦、わしの思いとおりにやる。出過ぎた指図はせぬように三成殿に伝えよ」と不快な顔でいった。

 伝令が去ると、「すこしばかり頭がよくて秀吉公に可愛がられたとはいえ、たかだか二十万石の大名ではないか。加藤清正におわれたときは家康に助けをもとめたほどの腰抜けのくせに…百二十万石の毛利に指図などかたはら痛いわ」と秀元は思った。

 このように豊臣軍の中には三成に反感をもつものが多かったという。

 間もなく昼になるが、戦は一進一退でなかなか勝負がつかない。

「家康を叩き潰せ! 軍勢を家康本陣に向けよ!」

三成は唾を吐きながら叫んだ。「大筒を家康陣に浴びせかけよ!」

「われらには大坂に豊臣秀頼さまと毛利殿がついておるぞ! 負けぬ!」

大砲が炸裂する。

「…三成の小童め! 舐めた真似を…!」

家康も大砲や軍勢をさしむける。「負けんぞ、三成! 戦に負ければさらし首ぞ!攻めよ!逆賊石田三成の首をねらえ!」

大砲、大筒、鉄砲の雨あられである……

福島正則は「戦は殺し合いじゃ! 三成! その首を血でかざれ!」などという。

「なにをしておる! もっと毛利に動くようにつたえんかぁ! 馬鹿者!」

「三成如き! 蹴散らせ! 黒田長政、横っ腹にせめかかれ!」

三成は額に汗をしながら我鳴った。

「小早川(秀秋)さまは何をなされているのだ! 数万の兵はまだ動かんのか?」

もう激戦で互いに激突して数時間が経った。

「死にもの狂いでやれ! 戦じゃぞ!」

三成は当たり前のことを檄を飛ばす。「勝ったら官軍! 負けたら賊軍じゃぞ!」

「三成め! なかなかしぶとい! だが、小早川が我が方に寝返ればわれらの大勝利じゃ」

家康はにやりとして「三成! 自分の首を血でかざれーっ! おせー!」と檄をとばした。

石田三成方もなかなかに奮闘している。

………これは互角じゃな?

「何にせよ、これで小早川金吾さまの二万騎が家康陣になだれ込めば西軍の大勝利じゃ!豊臣の勝利をつかみとれ! いけーっ!」

数万もの兵が殺戮の合戦で刃や鉄砲や槍で戦う。

まさに戦争!戦、である!

次第に西軍の中にも獅子奮迅の働きをする兵たちもでてくる!

「よし! いいぞ! 家康の首を秀頼さまの手土産にせよ!」

三成は檄を飛ばす。

もうすぐ小早川さまが動く。家康め、これでお前の最期じゃ!

「小早川秀秋は何をしておるのじゃ?」三成は焦った。「二万もの兵をもっておるのに」

家康陣でも小早川秀秋のことで軍儀していた。「どうじゃ、秀秋の軍はまだ動かぬか」「はっ、まだ動きませぬ!」

 家康は策をめぐらせた。「わが東軍にねがえると約束しておきながら臆病風にでもふかれとるのか…よし!」家康は小早川のたてこもる松尾山へ向けて鉄砲を一斉射撃させた。

 わすが二十二歳の小早川秀秋は動揺した。とうとう家康が怒った……とびびった。ふつう鉄砲をうちかけられたらその相手を敵としてうちかかるのが普通であろう。しかし、秀秋は軟弱な男であったため、びくびく震えて、

「……よし……西軍の横ばらへせめかかろう…」あえぎあえぎだが、声を出した。

「殿!」

「大谷の陣へ攻めよ!」小早川秀秋は寝返った。

最初、三成は小早川軍2万騎が動いたとき「これで勝利は豊臣西軍じゃ! 小早川殿が家康陣にせめかかれば大勝利!」と笑った。

だが、違った。

小早川が大谷の陣へ攻めかかり「裏切り」が明らかになると三成は動揺して手足が震えた。「馬鹿な! 小早川金吾は豊臣血族ではないか!」

思わずそんな言葉がでた。

大谷勢壊滅……宇喜多勢総崩れ……

「殿! この嶋左近、敵をふせぎますゆえ、一事、撤退を!」

「いや……左近! まだ負けぬ!」

「…負けで御座る! 小早川陣が寝返ればもはやこれまで! 毛利も動きませぬ」

「そ…そんな馬鹿な! わしは…豊臣…」

「殿! まずはお命をおつなぎくだされ! おさらばでござる、ごめん!」

石田三成は遁走する以外に道はない。

「…馬鹿な! …馬鹿…な! 左近! 小早川! ば…か…な!」

「殿、こちらへ! …佐和山城へ逃げましょう…!」

家臣が手を引いて、三成たちは遁走する。

脇坂、小川、朽木、赤座の諸隊も家康陣営にねがえった。こうして、西軍は敗走しだした。

 午後四時頃、八時間におよんだ関ケ原合戦はついに家康の率いる東軍の大勝利に終わった。この合戦では二万五千丁もの鉄砲がつかわれたという。その数は世界の鉄砲の三分の一にものぼるという。こうして、家康は勝利した。息子・秀忠の十万の兵は間に合わなかったが、とにかく家康は勝った。

 上杉景勝は会津にいた。上杉は読みあやまった。関ケ原の戦いはもっと長引くとみていたのだ。それから出陣すればよい……しかし、短期で戦はおわってしまう。上杉のさらなる誤算は、合戦が終わると、総大将の毛利輝元が大坂城から出ていったことだという。大坂で毛利がもっと頑張っていれば、もう少し局面は違っていただろう。しかし、いつの時代もひとは利益より恐怖に弱い。家康が、毛利百二十万石に手をつけないというと、吉川広家という毛利の甥がそれに乗り、毛利自身も大坂城を後にして川口の屋敷に逃げてしまう。こうして、関ケ原のあと、世は確実に徳川の世になった。

 石田三成は遁走した。

「くそう……佐和山に戻って再起を計ぞ!」

 しかし、三成は愕然とする。彼の居城・佐和山城が炎上している……

 やったのは小早川軍だった。

 三成は空腹のあまり生水と生米を食べて下痢になった。百姓たちの住む村に逃げ込んで「すまぬ。しかしわしは家康ともう一度戦ってやぶり、再び豊臣家の世としてみせる」という。農民たちは感銘を受けたが、隣村の村長が裏切って追っ手がきた。

 三成は農民姿にバケて洞穴に隠れ住んだ。しかし、残念ながらみつかってしまう。

「三成じゃ! 石田三成じゃ!」

 家康は三成を後ろ手に縛り、城内部へとつれてきた。

 黒田は三成に同情した。

「三成殿……戦の勝ち負けもときの運じゃ…」

 三成はがくりと憔悴している。次々と家康側の武将がくる。しかし、小早川秀秋がくると三成は怒昴した。「奸賊、小早川秀秋! 武士の名折れ! 裏切り寝返りは歴史の汚点ぞ! 小早川秀秋! そちが徳川の腐敗の世をつくった俗物なり!」

 小早川秀秋は動揺した。まだ二十二歳の若造である。

 家康は「山中に連れていって首をはねい!」と家臣に命じた。

 黒田長政や福島正則は「……武士らしく切腹を!」と願った。

「……三成は斬首じゃ!」

 家康は頑固にそういって場を去った。

 三成は山中に連れてこられた。喉がかわいた。「水をくれまいか…?」と野武士にいう。「水はない。干し柿ならあるで」

「いや、干し柿は体に毒じゃ」

 三成の言葉に野武士たちは笑った。「この恨み百年…三百年と忘れるな。かならず徳川の世の終りがくる。歴史が語るのよ、歴史がどちらが正しかったか…」「黙れ!」

 石田三成は斬首された。慶長五(一六〇〇)年十月六日……

 享年・四十一歳であった。

  辞世の句は、

 …筑摩江や芦間に灯すかがり火と、ともに消えゆく我が身なりけり…

 石田三成は遁走中に捕らえられ、切腹させられた。享年・四十一歳であった。

 息子の秀忠は遅刻した。

 かれがきたときにはもう合戦はおわっていたのだ。

「秀忠……遅かったではないか」家康はせめた。息子は「申し訳ござりません! 父上!」と平伏した。「まあ、よい……勝ったのだから…もし……わしが負けてたらどうした?」「いいえ」秀忠は首を振り「父上が三成ごときに負ける訳がございませぬ」

「さようか?」家康は笑った。

 まあ、何にせよ勝ったのだ。あとの”目の上のタンコブ”は大坂城の淀殿と秀頼だけだ。  関ケ原の戦後処理で、家康は九〇の大名を廃し、約四四〇万石を没収、減封分をくわえると六七〇万石を手中におさめ、事実上の天下人となった。が、名目上の資格はいわば「将軍代行」であったという。まぁ、さいわいなことに秀吉は征夷大将軍のタイトルがなかったから、「将軍代行」とは少し正確ではない。それが家康にさいわいした。

 家康が征夷大将軍となり、豊臣家をつぶせばいいのだ。家康は策をめぐらせた。   



       11 天下人 家康

       





        征夷大将軍




 慶長八年(一六〇三年)二月十二日、家康は朝廷に働きかけて「征夷大将軍」に任命された。そして、さらに策をめぐらす。孫娘の千姫と秀頼を結婚させた。まだ十代半場の年同しの”ままごと”結婚であった。

「家康殿、きょうはめでたい日じゃ」淀殿は上座でいった。

「そうですなぁ」家康はいった。「いずれ……淀殿と秀頼さまに江戸にきて頂きたいものですな」

 淀殿は言葉を呑んだ。家康の心がわからなかったからだ。

 家康の息子(次男)、秀忠は副将軍となった。

 家康は大坂をアンタッチャブルにしておいた。もし、今、秀頼を殺せば、福島正則や黒田長政や毛利、上杉、島津、もどう動くかわからない。

 自分の立場を確固としたものにしなければならない。今、自分が秀頼をたてず天下人になる……という正体を隠しておいた。世の中には、秀頼が成長するまでの代役、と思わせた。家康は六十二歳。家康が死んだらどうなるか? 大坂側がまっているのは老将軍・家康の死である。

「秀頼公は若くて未来がある。しかし、家康はもう年……」大坂がたは時間をにらんでいる。家康は焦る。時間とかけっこをすれば、秀頼に勝てない。当時の平均寿命は四〇歳、家康は六十二だが、当時は九十歳くらいといったところか。

 家康の趣味は薬つくりで、その薬によって長生きしたという。

「家康の死をまとう」これが大坂方の願いであり、消極的ながら戦略であった。政略結婚は家康が大坂に気を配った結果だ。

 慶長一〇年(一六〇五年)二月二十四日、秀忠は一〇万人もの大軍を率いて江戸を出発して上洛した。京都で、家康は将軍職を秀忠にゆずる、と奉上した。将軍の世襲、つまり秀頼が成人しても将軍にはなれない、将軍職は渡さない、と内外に宣言したのである。

 大坂方は感昴したが、手も足もだせない。




         家康と淀



 家康は将軍を秀忠にゆずり、江戸幕府を開いた。

 城下町に外様大名をまねき、その子や妻らを人質に城に住まわせた。上杉景勝は会津百二十万石から、米沢三十万石に転封された。毛利も太閤時代には、山陽、山陰など九ケ国を領していたが、関ケ原のあとには、長門、周防の二ケ国でたったの二二万石の小大名にされた。また、家康は大名の力をそぐために、江戸の修繕や開拓などをさせた。

 つまり銭をださせ、二度と家康・徳川家にさからえないようにしたのである。

 薩摩の島津の扱いもひどかった。島津には、輸送船三〇〇隻がわりあてられた。石や木材を運ぶものだ。そんなに船などもっていないから、新たに造船しなければならない。石船一隻には、約二〇〇人の労務者で運搬できるのは巨石が二個しか運べなかったという。 金をドブにすてるように働きかけて、戦の根を絶とうと、家康は策をめぐらせた。

 同じ戦略は、大坂の豊臣家にもむかわせた。

「腐っても鯛」という通りに、太閤秀吉が残した遺産は江戸に匹敵していたという。大坂の城には金銀がたんまりとあった。これを削がなければ家康は枕を高くして眠れない。

 家康は、政治をまったく知らない淀殿をそそのかして、軍用費を浪費させる。

 寺院仏閣への投資である。

 家康は巧妙に方広寺の再建をすすめた。京都・方広寺は秀吉が天正十四年(一五八六年)に建立した贅美な寺院であった。慶長元年(一五九六年)の大地震で崩壊したままだったので、家康は淀君に「太閤供養のため……」ともちかけた。

 淀君はその気になって、慶長七年(一六〇二年)に巨額を投じて工事をはじめた。ところがその年の暮れに火事で焼けた。失火というが果たして……

 大坂方は、そのあと方広寺をそのままにしておいたが、慶長十四年(一六〇九年)になって家康が再、再建をすすめた。そこでも政治にうとい淀君は大工事に着手する。

 慶長十六年(一六一一年)が転機となった。

 家康は、自分の目が黒いうちに大坂の豊臣家を滅亡させよう、とやっきになった。ときに七〇歳。あまり時間はない。

 豊臣家は指折り数えて家康の死を待った。「家康さえいなくなれば、家康の息子・秀忠には大坂を攻めるような器量はない。いずれは大坂方に組みする大名もでてくるでしょう」 宰相の片桐且元は淀君にいった。

「さようか…?」淀君はきいた。彼女は何も知らなかった。すべて、且元や大野らにまかせっきりだった。片桐且元はのちに裏切り者となるが、もし家康が七十五歳まで生きていなかったらどうなっていたかわからないという。家康が死んで、豊臣家の時代がまたくれば、忠義の家臣、となっていたかも知れない。

 だが、何の理由もなく大坂を攻める訳にはいかない。

 大義名分が必要だった。

「わしが死ぬのをまっている豊臣家……目の上のタンコブは片桐且元じゃ」

 家康はしわくしゃな顔をゆがませた。家康は大坂のもっている銭ほとんどを神社再建にそそがせる。誇り高い淀君まで涙を流し、「もう銭がない…」と泣いたとか。家康は「しめしめ」と思ったことだろう。

 方広寺は莫大な金をかけて完成した。そこで、家康はいちゃもんをつける。鐘に刻まれた文字「国家安康」「君臣豊楽」を、「”国家安康”とは家康の名を破壊し、”君臣豊楽”とはふたたび豊臣家の天下をとるということじゃ。謀反の疑いあり!」家康はいった。

「何を家康め!」

 とうとう大坂方も激怒する。淀君は「徳川と一戦交えようぞ!」とまでいった。

 そんな人々を片桐且元はなだめる。強行派の中には疑いがでてきた。「まさか且元は家康と通じているのでは……」


 ともかく、大坂城攻略には片桐且元を追放する必要がある。

 そこで家康はまた一計をこうじた。和平、慎重派こそ家康にとって邪魔な存在なのだ。   且元が駿府まできたが、家康はあわなかった。家臣の本多正純から、口頭で三箇条の要求をつきつけた。

 一、秀頼を人質にだす

 二、秀頼がだめなら淀君を人質にだす

 三、豊臣家が大坂を去って国替えに応ずる

 このような要求を大坂の豊臣方が応ずるはずはない。しかも、家康は文章ではなく、口述によって片桐且元に伝えた。且元は「豊臣家が大坂を去って国替えに応ずるというほかはない」と思った。そう判断するしかないと家康は踏んだのだ。しかも、何の証拠もない。大坂城では、片桐且元にたいしての不満が吹き荒れていた。裏切り者では…ないか?                     淀君は且元とは別に、大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)を駿府まで派遣した。且元は信用できない、という訳である。局は大野治長(淀君の愛人)の母である。

 すると家康は大蔵卿局とただちに面会し、あいそよく振る舞った。

「わしは秀頼公に悪感情などもってはおりませぬ」家康はいった。

 大蔵卿局は感激し、「さすがは家康さま、わが豊臣家を大事にしてくださる」

「秀頼公にどうかよろしくお伝えくだされ」

 家康は真にせまる演技で、頭を下げた。

 これでは、片桐且元が勝手に”人質”だの”国替え”などと主張していることになる。 大蔵卿局が大坂にかえって家康との会見を報告すると、強行派はとうとう家康の策にはまってしまう。片桐且元は必死になって「家康殿がそう申したのです!」と訴えたが、あとの祭……暗殺されそうになって、やむなく且元は城外に退去し、封地の茨木にひそんでしまう。国替えを提案したのに拒否したことは、「謀反」にあたる。豊臣家は一大名である。大名が将軍の命を阻むのだから立派な「謀反」で、征伐の大義名分がついたのである。 家康は高山右近を追放した。そして、豊臣家を揺さぶりはじめる。淀君は大量の浪人衆を大坂城に招集した。「家康と一戦交えようぞ!」ということであった。

 そんな中に真田幸村の姿もあった。家康、ときに七十三歳。息子、秀忠とともに大坂にはいり、茶臼山で軍儀を開いた。

「今度こそ、大坂の豊臣家を成敗せねばならぬ」家康はいった。

 秀忠は「しかし、秀吉公の築いた大坂城は難攻不落……おとせるでしょうか?」と疑問を投げかけた。すると家康は「なぁに、時間と知恵をかければいいだけじゃ」と笑った。


         大坂冬の陣



 慶長十九年(一六十四年)十一月二十六日、大坂冬の陣の幕はきっておとされた。

 真田幸村が「真田丸」で頑張る。しかし、数におとる豊臣軍はしだいに劣勢になる。

「天守閣や城に大砲を打ち込め!」家康は命ずる。

 こうして、大坂城の天守閣には昼夜大砲が打ち込まれる。淀君と秀頼は恐怖に震え、狼狽した。ひいい~っ! ふたりは恐怖で声も出せないほどであった。

 和睦のため、家康の方から阿茶局がきて、淀君と大坂城で会談をもった。淀君は恐怖心から和睦を受け入れた。条件は大坂城の堀を埋める、というものだった。

 その程度なら……淀君はどこまでも無知だった。

「皆のもの、わしは……悔しい」まだ若い秀頼は泣き崩れた。こうして、大坂冬の陣おわり、豊臣家はいよいよ風前の灯となった。

 家康は朝廷にも働きかける。「武家への叙勲は徳川将軍の推挙によるべきこと」

 申し入れは以上であった。一見なんということもないが、源頼朝と義経の例がある。頼朝が天皇に叙勲しないようにいってあったのに、天皇は義経に勲位を与えた。そういうことがないように、との家康の配慮である。

 家康は「秀頼は、どんな人物になっているのか」と、秀頼の器量を計った。大坂であったときに、秀頼は軟弱者ではあるが秀吉のような知恵がある、と見方をもった。

 秀頼は秀吉とは違い、猿顔ではなく、美男子の成人であった。

 家康は秀忠を信用してなかったので、自分の死後、秀頼と秀忠でどちらが勝つか……? と不安になった。だから、豊臣家を滅亡させよう、自分が死ぬ前に滅亡させよう、と誓ったのである。 家康は条件通りに、大坂城の堀を埋めた。しかも、全部埋めた。難攻不落とさえいわれた大坂城は丸裸状態となった。

 それから数か月後、豊臣家にまた不穏な動きがあった。

 常高院(淀君の妹・初、京極高次の未亡人)を招集し、淀君と会談した。

「秀頼殿には大坂を出て、郡山にうつされること」常高院はつげた。家康の口状通りだった。淀君は「そんな話のめるものか!」と反発した。

「姉上! 家康殿に今、逆らえば……豊臣家は滅亡の運命にござりまするぞ」

「かまうものか!」淀君は激怒した。「家康なんぞに…」

 常高院は秀頼とも話した。しかし、秀頼は無知だった。徳川家康ともう一戦交えよう、などとぬかしたのだ。秀頼は家康が評価したような「頭のいい知恵者」ではなかったのだ。 これは家康にとって、嬉しい誤算であったことだろう。

 豊臣家の重臣・大野治長は、寺を焼き討ちにした。

「伏見城も二条城も焼き払ってくれる!」大野治長はいった。

 そんなおり、家康の孫娘・千姫が大坂より救出された。



         大坂夏の陣



 慶長二十年(一六十五年)夏、大坂夏の陣の幕がきっておとされた。しかし、大坂城は堀をうめられて丸裸……攻略も容易だった。大坂方はわずかな浪人たちだけで、家康方は全国の大名軍を率つれている。どちらが勝つのは馬鹿でもわかることだ。

 そんな中、真田幸村だけは善戦し、単独で家康の本陣まで迫って、もう少しで家康を殺すところまでいった。しかし、それは失敗し、幸村は討ち死にする。

 大坂城を家康は包囲した。何十万という軍勢で、大坂城をかこんだ。やがて大坂城は炎上し、陥落する。

 早朝、秀頼と淀殿は城の外側の蔵にいた。家康はそこも囲った。

「……秀頼殿、このおろかな母を許してくだされ」淀君は泣き崩れた。蔵の中にはふたりと家臣わずかしかいなかった。蔵の窓から朝日がうっすらと差し込んでくる。

「母上……この秀頼、太閤殿下の子として……立派に自害してみせましょうぞ」

 家康は蔵の前で、「蔵に鉄砲を撃ちかけよ!」と兵に命じた。鉄砲が撃たれると、秀頼と淀殿は、蔵にあった火薬に火をつけ、爆発がおこった。

 こうして秀頼と淀殿は死んだ。家康は「たわけ! なぜ死んだ?!」と驚愕の演技をした。「わしは秀頼殿と淀殿を助けようと思うてたのに…」

 秀忠はその演技を見抜けず「なんということだ…」と落胆した。

 しかし、家康はどこまでも狸だった。秀頼には側についていた女子との間に三歳の娘と七歳の男子がいたという。家康はその子らを処分した。つまり、殺した。豊臣家を根絶やしにするためである。落ち武者も虐殺した。何千人も殺した。まるで信長のように。ジェノサイドだ。しかし、これは治安対策と、やはり豊臣家を根絶やしにするためであった。  家康はそのあと、尼となっていた秀吉の妻・高台院(おね)と寺ではなした。

「もう世は徳川の時代……豊臣家はもうありません」高台院はいった。なぜか、冷静で丁寧な態度であった。

 家康は「高台院さま、この家康、天下太平のため、徳川幕府を開き、平和な世の中をつくりたく思いまする」と丁寧にいった。

「それはよきことです」高台院はいい、続けて「これからは無益な戦がない世の中に……なるのですね?」

「さようにござる、もう戦などなくなりもうす」

 家康は微笑んだ。すべて……おわったのだ。

 その顔は恍惚のものであり、登りつめたひとの顔であった。


 家康は厠で倒れた。

 すぐに寝室に運び込まれた。家康は虫の息だった。

 長らく鯛の天麩羅を食べての食中毒とされていたが、病気は胃癌だという。

床についているあいだ、家康の血管を、思い出が洪水のように駆けめぐった。信長のこと、秀吉のこと、そうしたものではなく、じっさいの出来事ではなく、感情……遠い昔に失ってしまった思い出だった。涙があとからあとから溢れ出た。

 家臣たちは口をひらき、何もいわずまた閉じた。世界の終りがきたときに何がいえるだろう。心臓がかちかちの石になり垂れ下がると同時に、全身の血管が氷のようになるのを家臣たちは感じた。すべておわりだ。家康公がとうとう死んでしまう。

「わしが……死んだら…日光に東照宮をつくり、わしの亡骸を葬ってくれ…」

 家康はあえぎあえぎだがいった。

「…と、殿!」家臣たちは泣き崩れた。

「わしは…」家康はあえぎあえぎ続けた。「……勝利…したのだろか?」

 空が暗くなり、明るくなり、世界がひっくりかえった。家康が七十五年間抱きつづけた感情が胸から溢れ出て、麻痺した指先を伝って座敷の畳みに零れ落ちた。

 そして、家康は死んだ。

 元和二年(一六一六年)四月十九日、家康死去、享年七十五歳で、あった。


 ……ひとの一生は重き荷を背負いて遠き道を行くが如し、焦るべからず……


 家康の格言で、ある。

 こうして、家康の策により徳川政権は二百六十年続いた。

 家康の知恵の策略の勝利、であった。


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  徳川家康最新研究の徳川家康、その真実  四

 ミステリィの謎解きのその最終のパートです。

まずは、徳川家康の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。



家康と宗教

戦国時代最大の武装宗教勢力であった一向宗は第11世門主・顕如の死後、顕如の長男・教如と三男・准如が対立し、教如が独立する形で東本願寺(真宗大谷派)を設立、後にこれに対して准如が西本願寺(浄土真宗本願寺派)を設立し、東西本願寺に分裂する。

が、この分裂劇に関与しているのも家康である。

一説によると、若き日に三河一向一揆に苦しめられたことのある家康が、本願寺の勢力を弱体化させるために、教如を唆して本願寺を分裂させたと言われている。

が、明確にその意図が記された史料がないため断定はできない。

しかし、少なくともこの分裂劇に際し、教如を支持して東本願寺の土地を寄進したのが家康であることは確かである(真宗大谷派も教如の東本願寺の設立に家康の関与があったことは認めている)。

現在の真宗大谷派は、このときの経緯について、「教如は法主を退隠してからも各地の門徒へ名号本尊や消息(手紙)の配布といった法主としての活動を続けており、本願寺教団は関ヶ原の戦いよりも前から准如を法主とするグループと教如を法主とするグループに分裂していた。

徳川家康の寺領寄進は本願寺を分裂させるためというより、元々分裂状態にあった本願寺教団の現状を追認したに過ぎない」という見解を示している。

東西本願寺の分立が後世に与えた影響については、『戦国時代には大名に匹敵する勢力を誇った本願寺は分裂し、弱体化を余儀なくされた』という見方も存在する。

が、前述の通り本願寺の武装解除も顕如・准如派と教如派の対立も信長・秀吉存命のころから始まっており、また江戸時代に同一宗派内の本山と脇門跡という関係だった西本願寺と興正寺が、寺格を巡って長らく対立して幕府の介入を招いたことを鑑みれば、教如派が平和的に公然と独立を果たしたことは、むしろ両本願寺の宗政を安定させた可能性も否定出来ない。

ちなみに、三河一向一揆が起こった際、敵方の一向宗側には本多正信や夏目吉信など、家康の家来だった者もいた。

だが家康は彼らを怨まず、逆に再び召抱えている。彼らは家康に恩を感じ、本多正信は家康の晩年までブレーンとして活躍し、夏目吉信は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって戦死した。

また、同様に町衆に対し強い影響力を有する日蓮宗に対しても、秀吉が命じた方広寺大仏殿の千僧供養時に他宗の布施を受けることを容認した受布施派と、禁じた宗義に従った不受不施派の内、後者を家康は公儀に従わぬ者として日蓮宗が他宗への攻撃色が強いことも合わせて危険視した。

そのため、後の家康の出仕命令に従わぬ不受不施派の日奥を対馬国に配流したり、他宗への攻撃が激しい日経らを耳・鼻削ぎの上で追放した。

家康死後も不受不施派は江戸幕府の布施供養を受けぬことを理由として、江戸時代を通じて弾圧され続けた。

これら新興の宗派以外の古い天台宗・真言宗・法相宗にも独占した門跡を通じ朝廷との深い繋がりを懸念し、新たに浄土宗の知恩院を門跡に加え、さらに天台宗の関東における最高権威として輪王寺に門跡を設けた。

これら知恩院・輪王寺は江戸幕府と強い繋がりを持った。

一方でキリスト教に対しては秀吉の死後、南蛮貿易による収益などの観点から当初は容認しており、実際に江戸時代初期にキリスト教は東北地方への布教を行っている。

しかしマードレ・デ・デウス号事件や岡本大八事件を経て、慶長18年(1613年)にバテレン追放令を公布する。

家康の死後、幕府は寺請制度等により、寺社勢力を完全に公儀の下に置くことに成功している。また、家康自身が東照神君として信仰対象になった。

近現代における評価

江戸期を通じて神格化され、否定的評価は禁じられており、明治維新後に家康の自由な評価が解禁された。

山岡荘八の小説『徳川家康』では、幼いころから我慢に我慢を重ねて、逆境や困難にも決して屈することもなく先見の明をもって勝利を勝ち取った人物、泰平の世を願う求道者として描かれている。

この小説をきっかけに家康への再評価が始まっている。

司馬遼太郎は家康について記した小説『覇王の家』あとがきで、家康が築いた江戸時代については「功罪半ばする」とし、「(日本人の)民族的性格が矮小化され、奇形化された」といった論やその支配の閉鎖ないし保守性については極めて批判的である。

但し、司馬は家康本人に対しては、必ずしも否定的では無い。

初陣を15歳で経験し、大坂夏の陣では73歳でありながら総大将として指揮を採り、その生涯では三方ヶ原の戦いなど大敗も経験した。

が、晩年まで幾多もの戦争を経験し、指揮も執り、戦死しなかったことを、「歴史上、古今東西見渡しても滅多に類を見ない」とし、「戦が強くはなかったが、戦上手であった」と評している。

2000年に朝日新聞社が実施した識者5人(荒俣宏、岸田秀、ドナルド・キーン、堺屋太一、杉本苑子)が選んだ西暦1000年から1999年までの「日本の顔10人」において、家康が得票数で1位を獲得した。




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                おわり




         あとがき



 関ケ原の役から大坂落城、豊臣家の滅亡まで、家康は根気強く足かけ十六年の歳月をかけた。そして、すべての懸案を解決したのを見届けて、死んだ。彼は非常に幸運だったといわねばなるまい。当時としてはまれな長寿といい、わずか一年の差で大坂の豊臣家を滅亡させたことといい、天運がつきまくっていた。

 家康は登りつめたひとであった。

 かれは勝つためには何でもやった。策略をめぐらした。徳川政権維持のため、さまざまなひとをおとしいれた。そのため、徳川家康の人気は低い。”狸おやじ”…というイメージがつきまとう。しかし、家康こそ本当の成功者であり、勝利者である。

 最後に、家康のモットーを紹介して、おわりにしたい。


 *ケチに徹する *律義に徹する *臆病をする *信用をつむ

 *小心に徹する *マネる *会議では口をださず家臣にまかせる

 *冒険しない  *逃げる *じっくり待つ *根回しする

 *独善にならない*大儀にまどわされない  *火種を消す

 *うえを見るな *身の程を知れ


                                 おわり    

「参考文献」

ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)「それ、時代ものにはNGです2」若桜木虔(叢文社)等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。

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時代小説ミステリィシリーズ 家康の神策(ゴッド・オペレーション) 長尾景虎 @garyou999

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