時代小説ミステリィシリーズ 秀吉の侵略(インベーション)

長尾景虎

第1話 時代小説ミステリィ 秀吉の侵略(インベーション)

時代小説ミステリィ

秀吉の(イン)侵略(ベーション)

~豊臣秀吉の侵略(朝鮮出兵)は本当にボケだったのか?!~豊臣秀吉最新研究



                 ひでよし~天下を獲った男~

                ~「天才」豊臣秀吉の戦略と真実!                        

今だからこそ、豊臣秀吉


                 total-produced&PRESENTED&written by

               NAGAO Kagetora  長尾 景虎


 this novel is a dramatic interpretation

 of events and characters based on public

 sources and an in complete historical record.

 some scenes and events are presented as

 composites or have been hypothesized or condensed.

        ”過去に無知なものは未来からも見放される運命にある”

                  米国哲学者ジョージ・サンタヤナ


     秀吉の侵略(インベーション) あらすじ

 秀吉が尾張に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。秀吉は家出をし、彷徨った。放浪した。そして、やがてサルのような顔をした秀吉(日吉)は織田信長の家来に。桶狭間合戦で、大国・駿河の大将・今川義元の首をとる信長。そして、秀吉は墨俣一夜城築城をつくる。サル(秀吉)は信長の絶対的信用を得る。そして、さらに奇跡がやってくる。足利将軍が信長の手元に転がりこんできたのだ。信長は将軍を率いて上洛、しかし将軍はロボットみたいなものだった。将軍は怒り、諸大名に信長を討つように密かに書状を送る。信長は、妹・お市を嫁にやり義兄弟同然だった浅井らにうらぎられ、武田信玄などの脅威で、信長は一時危機に。しかし、機転で浅井朝倉連合に勝利、武田信玄の病死という奇跡が重なり、信長は天下統一「天下布武」を手中におさめようとする。彼は鬼のような精神で、寺や仏像を焼き討ちに。足利将軍も追放する。しかし、それに不満をもったのは家臣・明智光秀だった。光秀は謀反を決意する。そして、中国・九州攻めのため秀吉と合流しようとわずか百の手勢で京へ向かう信長。しかし、本能寺で光秀に攻撃され、本能寺は炎上、織田信長は自害し、すべてが炎につつまれる。秀吉は信長の死を知り、光秀を討つ。続いて柴田勝家もやぶる。関白になり、家康とも同盟し、秀吉は天下人に。秀吉は朝鮮侵略を計画。大失敗に。側室の淀に子が。だが、秀吉は露のように死んでしまう。




この物語のベースはNHK大河ドラマ『真田丸』ネタバレと竹谷州史氏著作中路さとる画『紅蓮の花 真田幸村』とネタバレと学研書物です。





 第一章 秀吉の野心



 この作品はノンフィクションの最新研究の文献資料としての側面と、小説形態の物語部分があります。基本的にはノンフィクション作品+小説……のような作品です。

それ以上に、これは新ジャンル『時代小説ミステリィ』でもあります。

殺人事件=ミステリィ、ではありません。歴史の謎を解く。歴史ミステリィであります。

何故、物語部分・小説があるのか? それは只、だらだらと文章で研究を説明するより、ドラマ性、物語部分(小説部分)を載せることにより〝遊び〟の部分を残したためです。

よって、完全なノンフィクションではなく、小説でもあります。

 その点においては何卒ご理解のほどを宜しくお願い致します。


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  豊臣秀吉最新研究の豊臣秀吉、その真実  一

 ミステリィの謎解きのその最初のパートです。

まずは、豊臣秀吉の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。


 まずは、わたしの先生の師匠の思考を書いていきます。

 秀吉は本当に農民だったのか? ということです。

 尾張中村郡(名古屋市中村村)の百姓であった、と太閤記でも書かれていますが、本当なのでしょうか? 秀吉が下級百姓または無高百姓や乞食同然の身分だったらどうやって出世したのか? 草鞋を懐で温めたみたいな姑息なことだけで大名まで出世できるほど現実は甘くない。墨俣一夜城にしても、何故、百姓に土木建築のスキルがあったのか?

 しかも、秀吉(木下藤吉郎)の名は、一夜城の一年前には古文書に出てきます。

 居城普請や台所奉行での大活躍も嘘八百でしょう。

 まともに考えれば、百姓足軽や草鞋取りの身分の者に、「自分ならうまくできます」といったからとて任せる訳がない。

 工業高校の低偏差値の若者が、「わたしなら競技場を作れます」と応募したからって、建築のイロハもしらない百姓の息子に任せないのと同じですよ。

 よほどの手柄をあげたからこそ秀吉は信長に認められた。

 なら、秀吉は農民などではなく、忍者で、信長に敵の秘密情報を与えた、もしくは、有力な敵武将を篭絡して織田家の味方にした……という忍活躍ならあり得る。

 秀吉は百姓出身などではなく、秘密諜報部隊を率いる忍者(弟の秀長もふくめて)だったのでは? これなら整合性がつく。

 只の百姓に、築城も城攻めも兵站も検地も無理だ。

 だけど、忍者の頭領だったら合点がいく。

 また、秀吉は鉱山大名でもあった。のちに、家康の経済を支えることになる黒鍬衆の大久保長安のような鉱山開発能力まであった。

 武田方の忍者で、秀吉も、長安のような武田方の忍者(黒鍬衆)であるに違いない。

 百姓身分というのは嘘だ。なら金ヶ崎の退き口の殿で、何故、秀吉秀長は戦死せずに戻れたのか? 忍者だったから攻防戦・殿戦のノウハウがあったのだ。

 黒鍬衆は人間の死を受け持つ職業(遺体の埋葬・葬儀など)であるから、道理的に嫌われていた。現代でも、葬儀屋や遺体処理業などが嫌悪される(映画『おくりびと』参照)。

 だから、秀吉は農民だった、と嘘をつかざるを得なかったのではないか?

 つまり、「記録に残せないような〝影働き〟」のために、秀吉は信長に認められた。

そんな秀吉や弟の秀長は、過去の黒歴史を隠すために、農民出身というもっともらしい大嘘で身分を隠したのだ。只の百姓が、本を読みこんだからとて、城攻め(兵糧攻めや水攻め)や築城、兵法や兵站や戦略や謀略や人心掌握術などできる訳もない。

 だが、百姓ではなく、忍者の頭領だったならすべて納得がいく。

 貴重な諜報機関の頭領であるとすれば、秀吉はその力をフルに使って、信長の天下布武に協力した。だからこそ、大出世をし、本能寺の変で信長が死ぬと天下人になれたのだ。



出自

秀吉の出自に関しては、通俗的に広く知られているが、史学としては諸説から確定的な史実を示すことは出来ていない。

生母である大政所は秀吉の晩年まで生存している。

が、父親については同時代史料に素性を示すものがない。また大政所の実名は「仲(なか)」であると伝えられているが、明確なものではない。

秀吉は自身の御伽衆である大村由己に伝記『天正記』を書かせている。

が、大村由己による秀吉の素性の説明は、本毎に異なっている。

大村は本能寺の変を記した『惟任退治記』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分として描いた。

が、『天正記』の中の関白任官翌月の奥付を持つ『関白任官記』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述しており、天皇の落胤であることがほのめかされている。

当時の公家に萩中納言という人物は見当たらず、関白就任を側面援護するために秀吉がそのように書けと云ったとみられている。

また松永貞徳が著した『載恩記』にも、秀吉公が「わが母若き時、内裏のみづし所の下女たりしが、ゆくりか玉体に近づき奉りし事あり」と落胤を匂わせる発言をしたと記録されている。

しかし、これらは事実とは考えられていない。

一般には下層階級の出身であったと考えられている。

江戸初期に成立した『太閤素性記』によれば、秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なかの子として生まれたとされる。

通俗説で父とされる木下弥右衛門や竹阿弥は、足軽または農民、同朋衆、さらにはその下の階層とも言われてはっきりしない。

竹中重門の『豊鑑』では、中村郷の下層民の子であり父母の名も不明としている。

江戸中期の武士天野信景の随筆『塩尻』には「秀吉系図」があり、国吉―吉高―昌吉―秀吉と続く名前を載せて、国吉を近江国浅井郡の還俗僧とし、尾張愛知郡中村に移住したとしている。

また『尾州志略』では蜂須賀蓮華寺の僧であるとし、『平豊小説』では私生児であったとしている。

『朝日物語』『豊臣系図』では一般に継父とされる、信長の同朋衆であった竹阿弥が実父であったとしている。

生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。

誕生日は1月1日、幼名は「日吉丸」となっている。

が、これは『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣・伊藤秀盛が天正18年(1590年)に飛騨国の石徹白神社に奉納した願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力であり、幼名についても疑問視されている。

広く流布している説として、父・木下弥右衛門の死後、母・なかは竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、天文19年(1550年)に家を出て、侍になるために遠江国に行ったとされる。

『太閤素性記』によると7歳で実父・弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっている。

木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻・ねねの母方の姓とする説もある。

秀吉の出自については、『改正三河後風土記』は与助という名のドジョウすくいであったとしており、ほかに村長の息子(『前野家文書』「武功夜話」)、大工・鍛冶などの技術者集団や行商人であったとする非農業民説、水野氏説、また漂泊民の山窩出身説、などがあるが、真相は不明である。

松下家臣時代

はじめ木下藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り、今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となった。

藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した。

なお、その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国と河内国、伊勢国内に3,000石を与えられ、天正16年(1588年)には1万6,000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。

織田家に仕官

天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕える。

清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角を現していった。また、有名な逸話として信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで信長は秀吉に大いに嘉(よみ)した。

永禄4年(1561年)8月、浅野長勝の養女で杉原定利の娘・ねねと結婚する。

ねねの実母・朝日はこの結婚に反対したが、ねねは反対を押し切って嫁いだ。

結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった。

桑田忠親は浅野長勝も秀吉も足軽組頭であり、同じ長屋で暮らしていたので、秀吉は浅野家の入り婿の形でねねと婚姻したのではないかとしている。

永禄7年(1564年)、美濃国の斎藤龍興との戦いの中で、松倉城主の坪内利定や鵜沼城主の大沢次郎左衛門らに誘降工作を行い成功させた。

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         1 日輪の子  秀吉




         尾張のサル




「鳴かぬなら鳴かせてみせようほととぎす」

 これが秀吉を称した故話であるという。ちなみに信長は「鳴かぬなら殺してしまえほととぎす」家康となると「鳴かぬなら鳴くまで待とうほととぎす」と流暢になる。秀吉は百姓出の卑しい身分からスタートしたが、持ち前の知恵と機転によって「天下」を獲った。 知恵が抜群に回ったのも、天性の才、つまり天才だったからだろう。外見はひどく、顔は猿そのものであり、まわりが皆、秀吉のことを「サル、サル」と呼んだ。

 が、そういう罵倒や嘲笑に負けなかったところが秀吉の偉いところだ。

秀吉が尾張(愛知県)に生まれたとき、時代は群雄かっ歩の戦国の世だった。

 秀吉の恩人、織田信長は尾張の守護代で、駿河(静岡県)の今川や美濃(岐阜県)の斎藤らと血で血を洗う戦いを繰り広げていた。

 信長は苦労知らずの坊っちゃん気質がある。浮浪児でのちの豊臣(羽柴)秀吉(サル、日吉、または木下藤吉郎)や、六歳のころから十二年間、今川や織田の人質だったのちの徳川家康(松平元康)にくらべれば育ちのいい坊っちゃんだ。それがバネとなり、大胆な革命をおこすことになる。また、苦労知らずで他人の痛みもわからぬため、晩年はひどいことになった。そこに、私は織田信長の悲劇をみる。

 この戦国時代、十六世紀はどんな時代だったであろうか。

 実際にはこの時代は現代よりもすぐれたものがいっぱいあった。というより、昔のほうが技術が進んでいたようにも思われると歴史家はいう。現代の人々は、古代の道具だけで巨石を積み、四千年崩壊することもないピラミッドをつくることができない。鉄の機械なくしてインカ帝国の石城をつくることもできない。わずか一年で、大坂城や安土城の天守閣をつくることができない。つまり、先人のほうが賢く、技術がすぐれ、バイタリティにあふれていた、ということだ。

 戦国時代、十六世紀は西洋ではルネッサンス(文芸復興)の時代である。ギリシャ人やローマ人がつくりだした、彫刻、哲学、詩歌、建築、芸術、技術は多岐にわたり優れていた。西洋では奴隷や大量殺戮、宗教による大虐殺などがおこったが、歴史家はこの時代を「悪しき時代」とは書かない。

 日本の戦国時代、つまり十五世紀から十六世紀も、けして「悪しき時代」だった訳ではない。群雄かっ歩の時代、戦国大名の活躍した時代……よく本にもドラマにも芝居にも劇にも歌舞伎にも出てくる英雄たちの時代である。上杉謙信、武田信玄、毛利元就、伊達政宗、豊臣秀吉、徳川家康、前田利家、そして織田信長、この時代の英雄はいつの世も不滅の人気である。とくに、明治維新のときの英雄・坂本龍馬と並んで織田信長は日本人の人気がすこぶる高い。それは、夢やぶれて討死にした悲劇によるところが大きい。坂本龍馬と織田信長は悲劇の最期によって、日本人の不滅の英雄となったのだ。

 世の中の人間には、作物と雑草の二種類があると歴史家はいう。

 作物とはエリートで、温室などでぬくぬくと大切に育てられた者のことで、雑草とは文字通り畦や山にのびる手のかからないところから伸びた者たちだ。斎藤道三や松永久秀や怪人・武田信玄、豊臣秀吉などがその類いにはいる。道三は油売りから美濃一国の当主となったし、秀吉は浮浪児から天下人までのぼりつめた。彼らはけして誰からの庇護もうけず、自由に、策略をつかって出世していった。そして、巨大なる雑草は織田信長であろう。 信長は育ちのいいので雑草というのに抵抗を感じる方もいるかもしれない。しかし、小年期のうつけ(阿呆)パフォーマンスからして只者ではない。

 うつけが過ぎる、と暗殺の危機もあったし、史実、柴田勝家や林らは弟の信行を推していた。信長は父・信秀の三男だった。上には二人の兄があり、下にも十人ほどの弟がいた。信長はまず、これら兄弟と家督を争うことになった。弟の信行はエリートのインテリタイプで、父の覚えも家中の評判もよかった。信長はこの強敵の弟を謀殺している。

 また、素性もよくわからぬ浪人やチンピラみたいな連中を次々と家臣にした。能力だけで採用し、家柄など気にもしなかった。正体不明の人間を配下にし、重役とした。滝川一益、羽柴秀吉、細川藤孝、明智光秀らがそれであった。兵制も兵農分離をすすめ、重役たちを城下町に住まわせる。上洛にたいしても足利将軍を利用し、用がなくなると追放した。この男には比叡山にも何の感慨も呼ばなかったし、本願寺も力以外のものは感じなかった。 これらのことはエリートの作物人間ではできない。雑草でなければできないことだ。

 信長の生きた時代は下剋上の時代であった。

「応仁の乱」から四十年か五十年もたつと、権威は衰え、下剋上の時代になる。細川管領家から阿波をうばった三好一族、そのまた被官から三好領の一部をかすめとった松永久秀(売春宿経営からの成り上がり者)、赤松家から備前を盗みとった浦上家、さらにそこからうばった家老・宇喜多直家、あっという間に小田原城を乗っ取った北条早雲、土岐家から美濃をうばった斎藤道三(ガマの油売りからの出世)などがその例であるという。

 また、こうした下郎からの成り上がりとともに、豪族から成り上がった者たちもいる。   三河の松平(徳川)、出羽米沢の伊達、越後の長尾(上杉)、土佐の長曽我部らがそれであるという。中国十ケ国を支配する毛利家にしても、もともとは安芸吉田の豪族であり、かなりの領地を得るようになってから大内家になだれこんだ。尾張の織田ももともとはちっぽけな豪族の出である。

 また、この時代の足利幕府の関東管領・上杉憲政などは北条氏康に追われ、越後の長尾(上杉謙信)のもとに逃げてきて、その姓と職をゆずっている。足利幕府の古河公方・足利晴氏も、北条に降った。関東においては旧勢力は一掃されたのだという。

 そして、こんな時代に、秀吉は生まれた。

 その頃、信長は天下人どころか、大うつけ(阿呆)と呼ばれて評判になる。両袖をはずしたカタビラを着て、半袴をはいていた。髪は茶筅にし、紅やもえ色の糸で巻きあげた。腰には火打ち袋をいくつもぶらさげている。町で歩くときもだらだら歩き、いつも柿や瓜を食らって、茫然としていた。娘たちの尻や胸を触ったりいやらしいこともしたりしたという。側の家臣も”赤武者”にしたてた。

 かれらが通ると道端に皆飛び退いて避けた。そして、通り過ぎると、口々に「織田のうつけ殿」「大うつけ息子」と罵った。

 一五五二年春、信長のうつけが極まった頃、信長の父・信秀が死んだ。




 信長の一団が尾張中村郷(愛知県中村区)を行軍していた。

 周りはほとんど田んぼや山々である。その奇妙な行進を村人たちは物見遊山でみていた。「うつけ(阿呆)! うつけ! うつけ!」童たちが嘲笑する。

 織田信長は美濃(岐阜県)の斎藤道三と会うために行進していた。

 信長のお共の者は八百人くらいだ。ところが、その者たちは片衣どころか鎧姿であったという。完全武装で、まるで戦場にいくようであった。家臣の半分は三メートルもの長い槍をもち、もう半分が鉄砲をもっている。当時の戦国武将で鉄砲を何百ももっているものはいなかった。田仕事をしていた秀吉の母・なかは泥に汚れながらそれを見ていた。なかは唖然としていた。「あれが…信長さまかえ。まさにうつけじゃで」呟いた。

 なかはにやにやして馬上の若者を見た。

 茶せんにしたマゲをもえぎ色の糸で結び、カタビラ袖はだらだらと外れて、腰には瓢箪やひうち袋を何個もぶらさげている。例によって、瓜をほうばって馬に揺られている。

 通りの庶民の嘲笑を薄ら笑いで受けている。なかは圧倒された。

「噂どおりのうつけ者じゃ」なかは笑った。

 道三にあいにいくのにまるで戦を仕掛けるような格好だ。しかも、あれは織田のほんの一部。信長は城にもっと大量の槍や鉄砲をもっているだろう。鉄砲の力を知っておる。あなどれない。

「うつけ! うつけ! うつけ!」村人たちが嘲笑する。

 なかは、あらっ?と思った。行軍の横の草むらにサルがいる。いや、ぼろぼろの服をまとった人間だ。サル………いや、あれは日吉(のちの秀吉)だわな。わたしの息子だ。

 日吉は汚い垢や埃だらけの格好で、大根をほうばっている。

「日吉! 日吉!」なかは笑った。大声で呼んだ。すると、娘(秀吉の妹)の、とも、と、さと、も「サルじゃ! サルじゃ!」と笑った。

 サルは大根をほうばり、奇声をあげている。信長はちらりと馬上からサルを見た。不思議なものを見るような顔だった。なんだ、このサルみたいな小汚ないのは……

「日吉! 今までどこにいっとった?」なかは大声で尋ねた。是非とも答えがききたかった。とにかく、秀吉は少年のときにこの中村郷を出ていったきりだったからだ。

 どうしていたのか? 母はサルのような息子を気遣った。

「かあちゃんよ、わしは修行していたのよぉ!」サルは大声でいい、また大根をほうばった。すると、農民が「この盗人」とサルを追いかけだした。どうやら大根は盗んだものであるらしい。追っかけっこが続く。

 馬上の前田犬千代(のちの利家)もそれを見て笑った。

 なんだ、あのサルは……。前田利家は、このサルが天下を獲り、自分がその側近となるとはこのとき想像もしていなかったであろう。



 昼間の河辺で、どじょうを泥から取って、鍋で食べていた秀吉に、明智光秀は声をかけた。光秀は浪人中で、諸国を行脚し、仕官の道を探しているところだった。明智光秀は痩身のうらなり顔の武士であり、服は行脚のためか汚れていた。

「そのどじょうを……少しわけてはくださらぬか?」明智光秀は頭をさげた。

「あん?」秀吉は”なんじゃい?”という顔をしたが、やがてにやりとして「いいとも」といった。「食べい、食べい」

 光秀は頭を深々とさげ、「ありがたい」といった。そして続けた。「昨夜から何も食べておらぬのだ。ありがたいことです」

「お主は侍か?」

「いかにも……いや、今は浪人にござる。貴公は?」

「わしか」秀吉はにやりと笑い「ただの百姓よ。まぁ、いずれは城持ち大名になってみせる。城持ち大名よ」と壮大な夢を語った。秀吉は泥だらけ垢だらけで、夢を語った。

 光秀は笑わなかった。冗談ではなく本気だとわかったからだ。

「城持ち大名? それはいい。拙者もそうなりたいものです」

「人間はのう…」秀吉は言葉を切った。どじょうをほうばった。

「人間は?」

「人間というものは努力と知恵と幸運でどんなものにもなれるのよ。ちがうけえ?」

「………その通りかも…しれませぬなぁ」

 明智光秀は感心し、静かに頷いた。この男はただものじゃない。彼は、秀吉の中のなにかを発見した。ただのハッタリ男ではない。光るものがある。

 この男は……ただものじゃない。

「拙者は明智光秀、浪人でござる」

「わしは日吉。だが皆はわしのことを、サル、サル、と嘲笑する。へん! ってんだ」

 秀吉は無理に笑った。その顔はサルそのものであった。

「それは?」秀吉は光秀のもつものに目をとめ、「それは鉄砲か?」といった。興味津々であった。秀吉は目をぎらぎらさせた。

「さよう。南蛮鉄砲……種子島でござる」光秀は包み袋を開け、中の鉄砲を取り出してみせた。「これからは、鉄砲の時代になりまするぞ、日吉殿」

「さようでござるか」

 秀吉は大きく頷き、黄色い歯を見せてほわっと笑った。





         立志



 ある夜、矢作川(愛知県岡崎市)の橋で汚い服の日吉(のちの秀吉)はまるでホームレスのように眠っていた。そこに、三千人の数の野伏集団が通りかかった。

 集団は蜂須賀小六のもので、蜂須賀はそのリーダーであった。彼は筋肉質で、強靭な体格のもちぬしであり豪快そのものであった。

「おい、乞食」小六はホームレスの秀吉に声をかけた。しかし、秀吉はぐうすかぐうすか眠っている。いい夢でも見ているのだろうか、恍惚の表情である。

「乞食! じゃまじゃ! どけ!」

 小六は秀吉を蹴った。

 すると秀吉は目をさまし、がばっと起き上がった。

「な、なんじゃい?!」秀吉は激怒していった。「せっかくいい夢みてたもうたのにっ」

 蜂須賀小六はしゃがれ声で「どんな夢じゃ?」と問うた。

 日吉(のちの秀吉)は「白いおまんまと鯛のお頭つきを食べる夢じゃ! それにてんぷらも!」と口唾を吐きながらいった。

「天麩羅?」蜂須賀小六や一団は笑った。

「何がおかしい? てんぷらに鯛のお頭つき、白いおまんま(御飯)じゃぞ!」

「おい、乞食…」蜂須賀小六は何かいおうとした。

 しかし、秀吉は「わしは乞食ではない! 日吉だ!」と口をはさんだ。

「そうか。じゃあ、日吉! わしの一団に入るか? そしたらてんぷらに鯛のお頭つき、白いおまんま(御飯)とやらを食べられるぞ」

「お前のところに? 白いおまんま?」

「そうよ、わしは蜂須賀小六じゃ。何なら、信長に紹介してやってもいいぞ」

「信長?」秀吉は怪訝な顔をした。「織田信長か? あの大うつけの?」

「さよう。うつけ殿よ」

 蜂須賀小六や一団はまた笑った。


 蜂須賀小六はけして泥棒の元締めではない。かれの本拠地は尾張美和村蜂須賀(愛知県海部郡美和町)、旧蜂須賀村は、足利中期に寺領となった。蜂須賀家は寺領の管理者でもあったが、国の混乱に乗じて横領し、土豪になったという。

 土豪・蜂須賀小六は信長に支えていた訳ではない。情報を忍者より集め、こっちにつく、あっちにつく、と繰り返していた。情報を大量に集め、集積し、判断する組織だった訳だ。

 日吉は生駒屋敷に出入りし、とうとう織田家の家臣となった。といっても武士にいきなりなった訳ではない。まずは草履とりであった。しかも、身分は一番下だ。

 馬小屋で、日吉は汚い服装のまま、よだれを垂らして昼寝していた。まわりには誰もいなかった。やがて、前田犬千代(利家)らがわずか五歳の奇妙丸(信長の嫡男・のちの信忠)をつれてやってきた。一同はサルのような顔の男を眺めて、嘲笑した。

「サルじゃ! サルじゃ!」

 奇妙丸はたたんだ扇子の端でサルの額を叩いた。

「痛っ!」サルはやっと目をさました。額から流血した。「何すんじゃい?!」

 すると犬千代が「これ、サル! 奇妙丸さまじゃぞ! 信長公の嫡男の奇妙丸さまじゃぞ!」と諫めた。サルは「ははっ」と平伏した。

 しかし、奇妙丸はおもしろがって笑いながら、

「サルじゃ! サルじゃ!」と秀吉を追いかけまわした。キーキーキキー、秀吉は猿のまねをしながら駆け逃げる。「サルじゃ! サルじゃ!」

 やがてふたりは信長の寝居にまできた。サルは叩かれながらにやにやした。そこに、騒ぎを聞きつけたのか信長が襖を開けてでてきた。

「ははっ」前田犬千代(利家)らは地面に膝をつき、平伏した。キーキーキキー、秀吉は猿のまねをしながら駆け逃げる。「サルじゃ! サルじゃ!」

「奇妙丸」信長は息子に声をかけた。

 息子はにやりと笑い、手をとめた。サルは信長に気付き、ささっと後退りして地面に膝をついて平伏した。

 奇妙丸はにやりと笑いながら「サルじゃ! サルじゃ!」と信長にいった。

 信長は息子を殴りつけた。眉を逆立てて「サルではない! ひとじゃ!」と怒鳴った。奇妙丸はもんどりうって倒れ、泣き出した。

 ……サルではない……ひと……ひと?

 予想もしなかった感情の波が秀吉の胸に押しよせ、秀吉は一瞬、われを忘れた。……サルではない……ひと……ひと? 信長様がそうおっしゃられた……。心臓が何回か打つあいだだったが、秀吉は信長が誰なのか、何者なのかを忘れた。覚えているのは御屋形様だということだけだ。御屋形様……お館の織田信長さま…。

 わしはひと、必ず御屋形様に認められ、立身出世し、城持ち大名になるぞ! 秀吉は志を高くもった。かならず城持ち大名になるぞ!





         天下人じゃ!



 日吉(秀吉)は実家にもどった。

 秀吉の実家は茅葺き屋根の粗末な木造家屋で、大変汚いところだ。さらに悪いことには狭い。家には義父・竹阿弥がいた。このずんぐりとした中年男と秀吉は仲が悪い。竹阿弥は秀吉嫌いだし、秀吉のほうも怠け者の竹阿弥が大嫌いだった。

 秀吉は竹阿弥の子ではない。竹阿弥は母・なかの再婚相手で、秀吉は戦死した前の旦那との子である。再婚後、次男・小竹(のちの小一郎秀長)と妹の、とも、さと、が出来た。一同は昼飯を食べているところだった。日吉は粥をがつがつ食べた。

「なか、水、水」竹阿弥が当然のようにいった。

「はい、ただいま」なかが桶の水を汲もうとすると、日吉は「水くらい自分でつがんかい」といった。それは激しい憎悪の顔だった。

「なんじゃい、日吉。足軽になったからっていい気になりおって」

 竹阿弥がいうと、日吉は「何もいい気になどなっておらん。わしの夢はもっと大きいぞ」と夢を語った。

「どんな夢じゃ? 兄じゃ」小竹が不思議そうな顔できいた。

「城持ち大名よ! 大名さまよ!」

 日吉は目をぎらぎらさせていった。にやりとした。すると一同は大爆笑して、秀吉を嘲笑した。「馬鹿だねぇ」「百姓が城持ち大名?! あははは」

 日吉は「笑うな! 城持ち大名になるのじゃ! わしは!」と激しく怒った。しかし、一同はにやにや笑うだけだった。……百姓が城持ち大名?! あははは。馬鹿なことを。



 秀吉は信長の城下町にもどるため、帰路にあった。午後の田んぼ道を歩いた。誰もいなかったが、母のなかだけは付き添いで連れ添って歩いていた。

 なかは「いいか? 日吉。世の中コツコツ努力して仕事したものが勝つんじゃぞ」と諭した。秀吉は「あぁ、かあちゃんよ!」といった。

「わしは必ず城持ち大名になるのじゃ!」

 なかは笑った。そして「もしかしたら、おみゃあは本当に大名になれるかもしれん」

「……大名に?」秀吉は真剣な顔になって尋ねた。ふたりは足をとめた。

 なかは真剣な顔になってからにこりと笑い「おみゃあが産まれるとき……日輪の光があたしの中に入ったのじゃもの」

「に、日輪? 本当か?」

「おうとも」なかはにやにやした。秀吉もにやにやして「よっしゃ! わしは日輪の子じゃ! わしは必ず城持ち大名になるのじゃ!」と吠えた。

「そして……」秀吉は続けた。「そして…天下人じゃ!」

「天下人?! 馬鹿じゃねぇおみゃあは」

 ふたりは笑った。



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豊臣秀吉最新研究の豊臣秀吉、その真実  二

 ミステリィの謎解きのその次のパートです。

まずは、豊臣秀吉の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。


人物

出身・家系

秀吉の父・弥右衛門は百姓だったというが、百姓 = 農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説もある。

太田道灌や北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。

ただし、秀吉が初めて苗字を名乗るのは木下家出身のねねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。

つまりそれ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている。

『フロイス日本史』では「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」、『日本教会史』には、秀吉は「木こり」出身と書かれている。また小説家の八切止夫は、秀吉は「端柴売り」出身で、わざとそのことを示す羽柴(=端柴)に改姓し、自分が本来低い身分なのだとアピールすることによって周囲からの嫉妬を避けようとしたのだと推測している。

小説家の井沢元彦は「当時の西洋人からは端柴売りが木こりに見えたのだろう」と両者を整合する説をとっている。

 秀吉は他の大名と同様に側室を置いていたが、正室であるねねとの間にも、側室との間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じても非常に少なかった。

秀吉との間に子供が出来なかった側室達には、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉と離縁あるいは死別し再婚してから子供が出来た者が幾人かいる。

そのため秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿が大野治長など他の者と通じて成した子だとする説もある。これについては、秀頼だけでなく鶴松の時点でそうした噂があった。

 秀吉は子宝に恵まれなかったが、実は長浜城主時代に1男1女を授かっていたという説がある。

男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で、幼名は石松丸、後に秀勝と言ったらしい。

長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、男子が生まれたことに喜んだ秀吉から祝いの砂金を贈られた町民が、山車を作り長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが始まりと伝えられている。

石松丸秀勝は夭折したが、その後秀吉は次々と二人の養子に秀勝の名を与えている(於次秀勝・小吉秀勝)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像という子の肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。

女子の方は名前その他の詳細は一切不明だが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」という銘記があり、これは秀吉が天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したものだと伝わっている。

ただし今日舎那院では、これが秀吉の母・大政所のために寄進されたものであると説明している。

しかし『多聞院日記』によれば、大政所は文禄元年(1592年)に76歳で死去しているので年代に齟齬が生じる(「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が自然と思われる)。


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         2 桶狭間合戦





         今川義元



 戦国時代の二大奇跡がある。ひとつは織田信長と今川義元との間でおこった桶狭間の合戦、もうひとつが中国地方を平定ようと立ち上がった毛利元就と陶晴賢との巌島の合戦である。どちらも奇襲作戦により敵大将の首をとった奇跡の合戦だ。

 しかし、その桶狭間合戦の前のエピソードから語ろう。

 斎藤道三との会談から帰った織田信長は、一族処分の戦をおこした。織田方に味方していた鳴海城主山口左馬助は信秀が死ぬと、今川に寝返っていた。反信長の姿勢をとった。そのため、信長はわずか八百の手勢だけを率いて攻撃したという。また、尾張の守護の一族も追放した。信長が弟・信行を謀殺したのは前述した。しかし、それは弘治三年(一五五七)十一月二日のことであったという。

 信長は邪魔者や愚か者には容赦なかった。幼い頃、血や炎をみてびくついていた信長はすでにない。平手政秀の死とともに、斎藤道三との会談により、かれは変貌したのだ。鬼、鬼神のような阿修羅の如く強い男に。

 平手政秀の霊に報いるように、信長は今川との戦いに邁進した。まず、信長は尾張の外れに城を築いた今川配下の松平家次を攻撃した。しかし、家次は以外と強くて信長軍は大敗した。そこで信長は「わしは今川を甘くみていた」と思った。

「おのれ!」信長の全身の血管を怒りの波が走りぬけた。

「今川義元めが! この信長をなめるなよ!」怒りで、全身が小刻みに震えた。それは激怒というよりは憤りであった。 くそったれ、くそったれ……鬱屈した思いをこめて、信長は壁をどんどんと叩いた。そして、急に動きをとめ、はっとした。

「京……じゃ。上洛するぞ」かれは突然、家臣たちにいった。

「は?」

「この信長、京に上洛し、天皇や将軍にあうぞ!」信長はきっぱりいった。

 こうして、永禄二年(一五五九)二月二日、二十六歳になった信長は上洛した。そして、将軍義輝に謁見した。当時、織田信友の反乱によって、将軍家の尾張守護は殺されていて、もはや守護はいなかった。そこで、自分が尾張の守護である、と将軍に認めさせるために上洛したのである。

 信長は将軍など偉いともなんとも思っていなかった。いや、むしろ軽蔑していた。室町幕府の栄華はいまや昔………今や名だけの実力も兵力もない足利将軍など”糞くらえ”と思っていた。が、もちろんそんなことを言葉にするほど信長は馬鹿ではない。

 将軍義輝に謁見したとき、信長は頭を深々とさげ、平伏し、耳障りのいい言葉を発した。そして、その無能将軍に大いなる金品を献じた。将軍義輝は信長を気にいったという。

 この頃、信長には新しい敵が生まれていた。

 美濃(岐阜)の斎藤義竜である。道三を殺した斎藤義竜は尾張支配を目指し、侵攻を続けていた。しかし、そうした緊張状態にあるなかでもっと強大な敵があった。いうまでもなく駿河(静岡)守護今川義元である。

 今川義元は足利将軍支家であり、将軍の後釜になりうる。かれはそれを狙っていた。都には松永弾正久秀や三好などがのさばっており、義元は不快に思っていた。

「まろが上洛し、都にいる不貞なやからは排除いたす」義元はいった。

 こうして、永禄三年(一五六九)五月二十日、今川義元は本拠地駿河を発した。かれは足が短くて寸胴であるために馬に乗れず、輿にのっての出発であったという。

 尾張(愛知県)はほとんど起伏のない平地だ。信長の勝つ確率は極めて低い。東から三河を経て、尾張に向かうとき、地形上の障壁は鳴海周辺の丘稜だけであるという。

 今川義元率いる軍は三万あまり、織田三千の十倍の兵力だった。駿河(静岡県)から京までの道程は、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、尾張(愛知県)、美濃(岐阜)、近江(滋賀県)を通りぬけていくという。このうち遠江(静岡県西部)はもともと義元の守護のもとにあり、三河(愛知県東部)は松平竹千代を人質にしているのでフリーパスである。

 特に、三河の当主・松平竹千代は今川のもとで十年暮らしているから親子のようなものである。松平竹千代は三河の当主となり、松平元康と称した。父は広忠というが、その名は継がなかった。祖父・清康から名をとったものだ。

 今川義元は”なぜ父ではなく祖父の名を継いだのか”と不思議に思ったが、あえて聞き糺しはしなかったという。

 尾張で、信長から今川に寝返った山口左馬助という武将が奮闘し、二つの城を今川勢力に陥落させていた。しかし、そこで信長軍にかこまれた。窮地においやられた山口を救わなければならない。ということで、松平元康に救援にいかせようということになったという。最前線に送られた元康(家康)は岡崎城をかえしてもらうという約束を信じて、若いながらも奮闘した。最前線にいく前に、

「人質とはいえ、あまりに不憫である。死ににいくようなものだ」

今川家臣たちからはそんな同情がよせられた。

しかし当の松平元康(のちの徳川家康)はなぜか積極的に、喜び勇んで出陣した。

「名誉なお仕事、必ずや達成してごらんにいれます」

そんな殊勝な言葉をいったという。今川はその言葉に感激し、元康を励ました。

 松平元康には考えがあった。今、三河は今川義元の巧みな分裂政策でバラバラになっている。そこで、当主の自分と家臣たちが危険な戦に出れば、「死中に活」を見出だし、家中のものたちもひとつにまとまるはずである。

 このとき、織田信長二十七歳、松平元康(のちの徳川家康)は十九歳であった。

 尾張の砦のうち、今川方に寝返るものが続出した。なんといっても今川は三万、織田はわずか三千である。誰もが「勝ち目なし」と考えた。そのため、町や村々のものたちには逃げ出すものも続出したという。しかし、当の信長だけは、「この勝負、われらに勝気あり」というばかりだ。家臣たちは訝しがった。なにを夢ごとを。



         元康の忠義



  

 元康は大高城の兵糧入りを命じられていたが、そのまま向かったのでは織田方の攻撃が激しい。そこで、関係ない砦に攻撃を仕掛け、それに織田方の目が向けられているうちに大高城に入ることにした。松平元康(のちの徳川家康)は一計をこうじた。そのため、元康は織田の鷲津砦と丸根砦を標的にした。

 今川義元は軍議をひらいた。今川の大軍三万は順調に尾張まで近付いていた。

「これから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかう。じゃから、それに先だって、鷲津砦と丸根砦を落とせ」義元は部下たちに命じた。

 松平元康は鷲津砦と丸根砦を襲って放火した。織田方は驚き、動揺した。信長の元にも、知らせが届いた。「今川本陣はこれから桶狭間を通り、大高城へまわり鳴海にむかうもよう。いよいよ清洲に近付いてきております」

 しかし、それをきいても信長は「そうか」というだけだった。

 柴田勝家は「そうか……とは? …お館! 何か策は?」と口をはさんだ。

 この時、信長は部下たちを集めて酒宴を開いていた。羅生門を宮福太夫という猿楽師に、舞わせていたという。散々楽しんだ後に、その知らせがきたのだった。

「策じゃと? 権六(柴田勝家のこと)! わしに指図する気か?!」

 信長は怒鳴り散らした。それを、家臣たちは八つ当たりだととらえた。

 しかし、彼の怒りも一瞬で、そのあと信長は眠そうに欠伸をして、「もうわしは眠い。もうよいから、皆はそれぞれ家に戻れ」といった。

「軍議をひらかなくてもよろしいのですか? 御屋形様!」前田利家は口をはさんだ。

「又左衛門(前田利家のこと)! 貴様までわしに指図する気か?!」

「いいえ」利家は平伏して続けた。「しかし、敵は間近でござる! 軍議を!」

「軍議?」信長はききかえし、すぐに「必要ない」といった。そして、そのままどこかへいってしまった。

「なんてお館だ」部下たちはこもごもいった。「さすがの信長さまも十倍の敵の前には打つ手なしか」

「まったくあきれる。あれでも大将か?」

 家臣たちは絶望し、落ち込みが激しくて皆無言になった。「これで織田家もおしまいだ」

 信長が馬小屋にいくと、ひとりの小汚ない服、いや服とも呼べないようなボロ切れを着た小柄な男に目をやった。まるで猿のような顔である。彼は、信長の愛馬に草をやっているところであった。信長は「他の馬廻たちはどうしたのじゃ?」と、猿にきいた。

「はっ!」猿は平伏していった。「みな、今川の大軍がやってくる……と申しまして、逃げました。街の町人や百姓たちも逃げまどっておりまする」

「なにっ?!」信長の眉がはねあがった。で、続けた。「お前はなぜ逃げん?」

「はっ! わたくしめは御屋形様の勝利を信じておりますゆえ」

 猿の言葉に、信長は救われた思いだった。しかし、そこで感謝するほど信長は甘い男ではない。すぐに「猿、きさまの名は? なんという?」と尋ねた。

「日吉にございます」平伏したまま、汚い顔や服の男がいった。この男こそ、のちの豊臣秀吉である。秀吉は続けた。「猿で結構でござりまする!」

「猿、わが軍は三千あまり、今川は三万だ。どうしてわしが勝てると思うた?」

 日吉は迷ってから

「奇襲にでればと」

「奇襲?」

信長は茫然とした。

「なんでも今川義元は寸胴で足が短いゆえ、馬でなくて輿にのっているとか…。輿ではそう移動できません。今は桶狭間あたりかと」

「さしでがましいわ!」

信長は怒りを爆発させ、猿を蹴り倒した。

「ははっ! ごもっとも!」それでも猿は平伏した。信長は馬小屋をあとにした。それでも猿は平伏していた。なんともあっぱれな男である。

 信長は寝所で布団にはいっていた。しかし、眠りこけている訳ではなかった。いつもの彼に似合わず、迷いあぐねていた。わが方は三千、今川は三万……奇襲? くそう、あたってくだけろ、だ! やらずに後悔するより、やって後悔したほうがよい。

「御屋形様」急に庭のほうで小声がした。信長はふとんから起きだし、襖をあけた。そこにはさっきの猿が平伏していた。

「なんじゃ、猿」

「ははっ!」猿はますます平伏して「今川義元が大高城へ向かうもよう、今、桶狭間で陣をといておりまする。本隊は別かと」

「なに?! 猿、義元の身回りの兵は?」

「八百あまり」

「よし」信長は小姓たちに「出陣する。武具をもて!」と命じた。

「いま何刻じゃ?」

「うしみつ(午前2時)でござりまする」猿はいった。

「よし! 時は今じゃ!」信長はにやりとした。「猿、頼みがある」

 かれは武装すると、側近に出陣を命じた。

そして有名な「敦盛」を舞い始める。

 「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」舞い終わると、信長は早足で寝室をでて、急いだ。側近も続く。

「続け!」と馬に飛び乗って叫んで駆け出した。脇にいた直臣が後をおった。長谷川橋介、岩室長門守、山口飛騨守、佐脇藤八郎、加藤弥三郎のわずか五人だけだったという。これに加え、城内にいた雑兵五百人あまりが「続け! 続け!」の声に叱咤され後から走り出した。「御屋形様! 猿もお供しまする!」おそまつな鎧をまとった日吉(秀吉)も走りだした。走った。走った。駆けた。駆けた。

 その一団は二十キロの道を走り抜いて、熱田大明神の境内に辿りついた。信長は「武運を大明神に祈る」と祈った。手をあわせる。

「今川は三万、わが織田は全部でも三千、まるで蟻が虎にたちむかい、鉄でできた牛に蚊が突撃するようなもの。しかし、この信長、大明神に祈る! われらに勝利を!」

 普段は神も仏も信じず、葬式でも父親の位牌に香を投げつけた信長が神に祈る。家臣たちには訝しがった。……さすがの信長さまも神頼みか。眉をひそめた。

 社殿の前は静かであった。すると信長が「聞け」といった。

 一同は静まり、聞き耳をたてた。すると、社の中から何やらかすかな音がした。何かが擦れあう音だ。信長は「きけ! 鎧の草擦れの音じゃ!」と叫んだ。

 かれは続けた。「聞け、神が鎧を召してわが織田軍を励ましておられるぞ!」

 正体は日吉(秀吉)だった。近道をして、社内に潜んでいたかれが、音をたてていたのだ。信長に密かに命令されて。神が鎧…? 本当かな、と一同が思って聞き耳をたてていた。

「日吉……鳩を放つぞ」社殿の中で、ひそひそと秀吉に近付いてきた前田利家が籠をあけた。社殿から数羽の鳩が飛び出した。バタバタと羽を動かし、東の方へ飛んでいった。

 信長は叫んだ。

「あれぞ、熱田大明神の化身ぞ! 神がわれら織田軍の味方をしてくださる!」

 一同は感銘を受けた。神が……たとえ嘘でも、こう演出されれば一同は信じる。

「太子ケ根を登り、迂回して桶狭間に向かうぞ! 鳴りものはみなうちすてよ! 足音をたてずにすすめ!」

 おおっ、と声があがる。社内の日吉と利家は顔を見合わせた。にやりとなる。

「さすがは御屋形様よ」日吉はひそひそいって笑った。利家も「軍議もひらかずにうつけ殿め、と思うたが、さすがは御屋形さまである」と感心した。

 織田軍は密かに進軍を開始した。







         桶狭間の合戦



                

 丘の上で信長軍は太子ケ根を登り、待機した。

 ちょうど嵐が一帯を襲い、風がごうごう吹き荒れ、雨が激しく降っていた。情報をもたらしたのは実は猿ではなく、梁田政綱であった。

部下は嵐の中で「この嵐に乗じて突撃しましょう」と信長に進言した。

 しかし、信長はその策をとらなかった。

「それはならん。嵐の中で攻撃すれば、味方同士が討ちあうことになる」

 なるほど、部下たちは感心した。嵐が去った一瞬、信長は立ち上がった。そして、信長は叫んだ。「突撃!」

 嵐が去ってほっとした人間の心理を逆用したのだという。喚声をあげて山から下ってくる軍に今川本陣は驚いた。

「なんじゃ? 雑兵の喧嘩か?」

陣幕の中で、義元は驚いた。「まさ……か!」そして、ハッとなった。

「御屋形様! 織田勢の奇襲でこざる!」

 今川義元は白塗りの顔をゆがませ、「ひいい~っ!」とたじろぎ、悲鳴をあげた。なんということだ! まろの周りには八百しかおらん! 下郎めが!

 義元はあえぎあえぎだが「討ち負かせ!」とやっと声をだした。とにかく全身に力がはいらない。腰が抜け、よれよれと輿の中にはいった。手足が恐怖で震えた。

 まろが……まろが……討たれる? まろが? ひいい~っ!

「御屋形様をお守りいたせ!」

 今川の兵たちは輿のまわりを囲み、織田勢と対峙した。しかし、多勢に無勢、今川たちは次々とやられていく。義元はぶるぶるふるえ、右往左往する輿の中で悲鳴をあげていた。 義元に肉薄したのは毛利新助と服部小平太というふたりの織田方の武士だ。

「下郎! まろをなめるな!」義元はくずれおちた輿から転げ落ち、太刀を抜いて、ぶんぶん振り回した。服部の膝にあたり、服部は膝を地に着いた。しかし、毛利新助は義元に組みかかり、組み敷いた。それでも義元は激しく抵抗し、「まろに…触る…な! 下郎!」と暴れ、人差し指に噛みつき、新助のそれを食いちぎった。毛利新助は痛みに耐えながら「義元公、覚悟!」といい今川義元の首をとった。

 義元はこの時四十二歳である。

「義元公の御印いただいたぞ!」毛利新助と服部小平太は叫んだ。

 その声で、織田今川両軍が静まりかえり、やがて織田方から勝ち名乗りがあがった。今川軍の将兵は顔を見合わせ、織田勢は喚声をあげた。今川勢は敗走しだす。

「勝った! われらの勝利じゃ!」

 信長はいった。奇襲作戦が効を奏した。織田信長の勝ちである。

 かれはその日のうちに、論功行賞を行った。大切な情報をもたらした梁田政綱が一位で、義元の首をとった毛利新助と服部小平太は二位だった。それにたいして権六(勝家)が

「なぜ毛利らがあとなのですか」といい、部下も首をかしげる。

「わからぬか? 権六、今度の合戦でもっとも大切なのは情報であった。梁田政綱が今川義元の居場所をさぐった。それにより義元の首をとれた。これは梁田の情報のおかげである。わかったか?!」

「ははっ!」権六(勝家)は平伏した。部下たちも平伏する。

「勝った! 勝ったぞ!」信長は口元に笑みを浮かべ、いった。

 おおおっ、と家臣たちからも声があがる。日吉も泥だらけになりながら叫んだ。

 こうして、信長は奇跡を起こしたのである。

 今川義元の首をもって清洲城に帰るとき、信長は今川方の城や砦を攻撃した。今川の大将の首がとられたと知った留守兵たちはもうとっくに逃げ出していたという。一路駿河への道を辿った。しかし、鳴海砦に入っていた岡部元信だけはただひとり違った。砦を囲まれても怯まない。信長は感心して、「砦をせめるのをやめよ」と部下に命令して、「砦を出よ! 命をたすけてやる。おまえの武勇には感じ入った、と使者を送った。

 岡部は敵の大将に褒められてこれまでかと思い、砦を開けた。

 そのとき岡部は「今川義元公の首はしかたないとしても遺体をそのまま野に放置しておくのは臣として忍びがたく思います。せめて遺体だけでも駿河まで運んで丁重に埋葬させてはくださりませんでしょうか?」といった。

 これに対して信長は

「今川にもたいしたやつがいる。よかろう。許可しよう」

と感激したという。岡部は礼をいって義元の遺体を受け賜ると、駿河に向けて兵をひいた。その途中、行く手をはばむ刈谷城主水野信近を殺した。この報告を受けて信長は、「岡部というやつはどこまでも勇猛なやつだ。今川に置いておくのは惜しい」と感動したという。

 駿河についた岡部は義元の子氏真に大変感謝されたという。しかし、義元の子氏真は元来軟弱な男で、父の敵を討つ……などと考えもしなかった。かれの軟弱ぶりは続く。京都に上洛するどころか、二度と西に軍をすすめようともしなかったのだ。

 ところで、信長は残酷で秀吉はハト派、といういわれかたがある。秀吉は「やたらと血を流すのは嫌いだ」と語ったり、手紙にも書いていたという。しかし、だからといって秀吉が平和主義者だった訳ではない。ただ、感覚的に血をみるのが嫌いだっただけだ。首が飛んだり、血がだらだら流れたり、返り血をあびるのを好まなかっただけだ。秀吉が戦場で負傷したとか、誰かを自ら殺害したとか、秀吉にはそれがない。武勇がない。しかし、その分、水攻、兵糧攻めと頭をつかったやり方をする。真っ向から武力で制圧しようとした信長とは違い、秀吉は頭で勝った。そうした理知的戦略のおかげで短期間で天下をとれた訳だ。


 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方に血相をかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。「勝った! 勝った!」小竹やなかや、さと、とも、も興奮してパレードを見つめた。

「御屋形様! おにぎりを!」

 まだうら若き娘であった寧々が、馬上の信長に、おにぎりの乗った盆を笑顔でさしだした。すると秀吉がそのおにぎりをさっと取って食べた。寧々はきゃしゃな手で盆をひっこめ、いらだたしげに眉をひそめた。「何をするのです、サル! それは御屋形様へのおにぎりですよ!」寧々は声をあらげた。

「ごもっとも!」日吉は猿顔に満天の笑みを浮かべ、おにぎりをむしゃむしゃ食べた。一同から笑いがおこる。珍しく信長までわらった。

 ある夜、秀吉は寧々の屋敷にいき、寧々の父に「娘さんをわしに下され」といった。寧々の父は困った。すると、寧々が血相を変えてやってきて、「サル殿! あのおにぎりは御屋形様にあげようとしたものです。それを……横取りして…」と声を荒げた。

「ごもっとも!」

「何がごもっともなのです?! 皆はわたしがサル殿におにぎりを渡したように思って笑いました。わたしは恥ずかしい思いをしました」

「……寧々殿、わしと夫婦になってくだされ!」秀吉はにこりと笑った。

「黙れサル!」寧々はいった。そして続けた。「なぜわらわがサル殿と夫婦にならなければならぬのです?」

「運命にござる! 寧々殿!」

 寧々は仰天した「運命?」

「さよう、運命にござる!」秀吉は笑った。


 話を少し戻す。

織田信長は桶狭間においてわずか三千の兵で数万の今川義元軍をやぶり、義元の首をとった。大勝利であった。その戦には寧々の父親も参戦していたのだという。

勝利軍は清洲城下に凱旋してきた。当然ながら高級武士に怪我は少ない。

足軽や輜重兵らが傷だらけで続々と徒歩で歩いて帰ってくる。だが、”勝ち戦”であることが彼らの足を軽くした。

寧々と妹のややは義父・浅野孫左衛門の姿を探していた。

「どなたか、義父の浅野孫左衛門の姿を見ませんでしたか?」

「おっ!」猿のような顔の足軽の藤吉郎(のちの秀吉)が寧々に声をかけた。「そなたの義父なら見かけたぞ!」

「本当にござりまするか?義父は無事ですか?」

「おう!少し怪我したがのう。無事じゃ安心せい!」

「怪我を…?」

「心配いらん。すぐにわしがこの木下藤吉郎が連れてくるでな。安心せい。」

「…藤吉郎さま?何故に義父をご存じですの?」

「ははは。主は寧々殿であろう?城下でも美人で有名じゃからのう。自然とわかるのよ、まっちょれ」藤吉郎はどこかへいってしまった。

すると馬に乗った武人を見た。それが寧々の初恋のひと、前田犬千代(のちの又左衛門利家)であった。「犬千代さま! あ! 義父上!」

「寧々殿! そちの義父上なら足首を少し怪我をしたが無事じゃ。歩けぬのでわしの馬にのせたのよ」

寧々や妹ややは恐縮してしまった。「そんな犬千代さま。おそれおおい」

「寧々殿、いらぬ遠慮じゃ。同じ織田の兵の仲間じゃで」

のちの前田利家はハンサムで男も惚れるような大丈夫だった。優しい男である。

そして今は藤吉郎が利家の”馬廻り”をしていた。

「犬千代さま、ありがとうござりまする」

「かたじけないことにござりまする」

寧々と妹のややは頭を下げた。寧々は利家に惚れ込んだ。

次に藤吉郎が連れてきた戦傷老人は”他人”だった。「寧々殿! 父上を…え、違う?」

「藤吉郎、孫左衛門を寧々殿の家までお送りしろ」犬千代は命じた。

「はっ! 前田さま!」

この瞬間、藤吉郎は寧々に惚れた。猿みたいな小汚い藤吉郎だったが、寧々が犬千代を好きなことなど知る訳もない。……よい女子じゃなあ。猿はでれでれ言ったという。

やがて、寧々は犬千代には許嫁のまつという女性がいることを知ってしまう。

寧々は失恋した。悔しくてただ悔しくて泣いた顔を桶の水でジャバジャバ洗った。

藤吉郎と寧々が結婚するとは寧々本人にもわからなかった。

畑仕事をしていると寧々にぞっこん惚れ込んでいる藤吉郎がきた。

「おお! 寧々殿、わしも畑仕事の手伝いをしようかのう?」

「けっこうです! 足軽の方には畑仕事はわかりますまい」

わざとじゃないがついつんつんとした声で寧々はいった。

「わははは」藤吉郎は笑って「わしはのう、今でこそ足軽じゃが、もとは百姓のセガレじゃぞ。野良仕事は得意なんじゃ。わしは中村村の百姓の子供として生まれたがのう。八歳で家出していろいろやった。薬売りや商人やガマの油売り…生活のためにあらゆる仕事をやったものじゃで。今川の家来の足軽じゃったこともある。松下さまの家来で、松下さまの木下であやかって木下…木下藤吉郎としたんじゃ。じゃが、織田の殿様が好きになって織田についた。そしてどうじゃ? 織田さまが勝った! 織田信長さまこそ天下に号令されるに値する方じゃ」

「そうですか。藤吉郎さま。興味ありません」

「寧々殿。何を意地をはっておるのだ?」

「意地などはってはおりませんわ。失礼な」

「いやあ。それはどうかのう。寧々殿。寧々殿は犬千代さまに惚れておったのじゃろう?」

「な! 失礼な!」

「まあ、素直にのう。確かに犬千代さまは男前じゃ。じゃが、惚れる相手が悪い」

「何故に」

「犬千代さまは武家の名門のお方じゃ。おまつさまも赤子の頃より犬千代さまのおかかにきまっておったのじゃ」

「えっ? 赤子?」

「わしはどうじゃ? 寧々殿。わしが相手では駄目か?」

寧々は押し黙った。

「猿殿には猿殿にふさわしい女子がいるじゃねいですかねえ?」

「それが寧々殿よ。のう?」

「だまらっしゃい! 何故猿殿と一緒にならねばならんのですか?」

「それは…」藤吉郎はもったいぶった。「わしのかか(妻・母親)になってもうそ、寧々殿」

「なんでです? 何故わたしなんです?」

「惚れたんじゃ。寧々殿に惚れたんじゃ」

「……」寧々は動揺した。…惚れたって……この猿のような顔の足軽が?わたしを??



 かくして、秀吉は寧々と結婚した。結婚式は質素なもので浪人中の前田利家とまつと一緒であった。秀吉は寧々に目をやり、今日初めてまともに彼女を見た。わしの女子。感謝しているぞ。夜はうんといい思いをさせてやろう。かわいい女子だ。秀吉の目が寧々の小柄な身体をうっとりとながめまわした。ほれぼれするような女子だ。さらさらの黒髪、きらめく瞳、そして男の欲望をそそらずにはおけない愛らしい胸や尻、こんな女子と夫婦になれるとはなんたる幸運だ! 秀吉の猿顔に少年っぽい笑みが広がった。少年っぽいと同時に大人っぽくもある。かれは寧々の肩や腰を優しく抱いた。秀吉の声は低く、厄介なことなど何一つないようだった。

藤吉郎と寧々は翌日、中村村に出かけた。辺り一面田んぼや畑である。その萱葺屋根の百姓の身分が秀吉の出自であった。

畑では秀吉の母親のなか(のちの大政所)ときい(のちの朝日)や小一郎(のちの秀長)らが畑仕事をしていた。

「よう! おっかさま! 小一郎! きい!」秀吉は笑顔で声をかけるが母親のなかはあからさまに嫌な顔をして「なんの用じゃ? 藤吉郎。わしらは百姓じゃ。足軽だかの戦をする子供などおらの子供じゃねえ!」などという。

「そんなおっかさま。嫁を連れてきたんじゃ!」

「……嫁?」

「そうじゃ、嫁じゃ! ほれ、みい! 名前は寧々じゃ。きれいな女子じゃろう?」

「知るか! 藤吉郎、足軽をやめねば家にあげんでのう!」

「おっかさま? 何を怒っちゅで? 足軽の何がいかんでえ?」

「侍は嫌いなんじゃ。足軽もひとを殺すにはかわりない。百姓でええでないが?」

小一郎が言葉を挟んだ。「まあまあ、おっかさま。兄さんがせっかく嫁っこ連れてきたんじゃけい。まあ、話をききましょう」

「嫌じゃ! 嫌じゃ! 侍は嫌いじゃ!」

なかは畑仕事を放り出して、質素な萱葺屋根の木造家屋に姿を消した。

「おっかさま! おっかさま? ありゃ、玄関が開かん。かんぬきをかけよったんじゃな?」

寧々はずっと戸惑っていたが、やっと声を出した。

「お母上様、寧々と申します。どうかお話をお聞き下され」

部屋の奥からなかが「ならば寧々さんとやら、藤吉郎に足軽をやめて百姓に戻るように説得してちょ! 頼むでい。のう?」

寧々は息を呑んだ。そして言った。「それは出来ません。藤吉郎さま、いや、旦那様は足軽として織田信長様に仕えると決めたのです。男子一塊の志です。何故にその志をくじけましょうや?」

「よくいった! さすがはわしのおかかじゃ!」

藤吉郎は寧々を褒めた。そういうことなら仕方ない。なかは諦めた。

玄関をあけて「……まあ、中にはいりんしゃい。小雨がふってきた。濡れるでのう」

藤吉郎は母親のなかに結婚を認めてもらった。「まあ、結婚はふたりのことじゃで」

藤吉郎はやがて薪当番の役目を織田方から勧められ、実績をあげてどんどん出世していく。

弟の小一郎(のちの秀長)や妹婿の甚兵衛や弥助や喜助らも家来とした。

寧々を驚かせたのは盗賊として有名な蜂須賀小六や子分のガンマクや新兵衛なども藤吉郎は家来としたことだという。寧々はあまりの旦那さまの勢いに戸惑う事が多かった。

だが、寧々は持ち前の包容力と機敏でおきゃんな性格で立ち向かう。

「旦那様、夕飯を食べなしゃれ」

「おお! うまい! さすがわしのおかかじゃ! おかかを女房としてわしは家宝ものよ!」

藤吉郎、のちの秀吉は笑った。

織田勢が美濃攻めで、藤吉郎の秘策『墨俣一夜城』が完成する。

この一夜城をもってして織田信長は美濃の斉藤龍興を攻め滅ぼすことに成功する。

だが、藤吉郎、いや秀吉と名前を変えた木下秀吉はうかない顔だった。

「いかがなされました? 旦那様?」

「………わしの働きは何であったのかのう? おかか」

「どうされた?」

「あれだけ活躍したのに信長さまは褒美もくれにゃあで。わしは出世もできんでえら」

「まあ、出世がなんですの? 出世より、お前様には思う存分働いて思う存分元気に生きてくだされば、怪我や命がなくならなければ、わたしは満足ですよ。私も強くなります。それではダメなのですか?」

「しかし……出世せんでば意味がないでちょ。頑張って報われなければ駄目だがね」

「お前様! お前様は織田信長公をすきになったとおっしゃった。そのすきな殿を疑われる気ですか?」

「……いや、信長様は信じちょうでよ。じゃが…」

「ならば励みなされ! かりにも御屋形さまを疑うとは何事ですか」

「…おかか」

「懸命に励めば絶対にその努力は報われる。後のことはこの寧々がやりますゆえ」

「……おかか」秀吉は思いを変えた。気づいた。そうだ、わしにはこのおかかがおる!

「わかった! おかか、御屋形さまを信じて頑張ろう! よういった! それでこそわしのおかかじゃ!」

 秀吉は大声で笑った。


 清洲城下に着くと、信長は義元の首を城の南面にある須賀口に晒した。町中が驚いたという。なんせ、朝方に血相をかえて馬で駆け逃げたのかと思ったら、十倍の兵力もの敵大将の首をとって凱旋したのだ。「あのうつけ殿が…」凱旋パレードでは皆が信長たちを拍手と笑顔で迎えた。その中には利家や勝家、そして泥まみれの猿(秀吉)もいる。

 清洲城に戻り、酒宴を繰り広げていると、権六(勝家)が、「いよいよ、今度は美濃ですな、御屋形様」と顔をむけた。

 信長は「いや」と首をゆっくり振った。そして続けた。「そうなるかは松平元康の動向にかかっておる」

 意味がわからず家臣達は顔を見合わせたという。                




第二章 天下布武





       3 秀吉 墨俣一夜城




         タヌキ家康



 奇跡を織田信長は起こした。桶狭間の合戦で勝利したことで、かれは一躍全国の注目となった。信長はすごいところは常識にとらわれないところだ。圧倒的不利とみられた桶狭間の合戦で奇襲作戦に出たり、寺院に参拝するどころか坊主ふくめて焼き討ちにしたり……と、その当時の常識からは考えられぬことを難なくやってのける。

 しかし、信長のように常識に捕らわれない人間というのは、いつの時代にも百人にひとりか千人にひとりかはいるのだという。その時代では考えられないような考えや思想をもった先見者はいる。しかし、それを実行するとなると難しい。周りからは馬鹿呼ばわりされるし(現に信長はうつけといわれた)、それを排除しよう、消去しよう、抹殺しようという保守派もでてくる。毎日が戦いと葛藤の連続である。信長はそれを受け止め、平手の死も弟の抹殺もなんのそのだった。信長の偉いところは嘲笑や罵声、悪口に動じなかったことだ。

 さらに信長の凄いところは家臣や兵たちに自分の考えや方針を徹底して守らせたこと、そうした自由な考えを実行し、流布したことにある。自分ひとりであれば何だってできる。馬鹿と蔑まれ、罵倒されようが、地位と命を捨てる気になれば何だってできる。しかし、信長の凄いところは、既成概念の排除を部下たちに浸透させ、自由な軍をつくったことだ。 桶狭間の合戦での勝利は、奇襲がうまくいった……などという単純なことではなく、ひとりの裏切り者がでなかったことにある。清洲城から桶狭間までは半日、十分に今川側に通報することもできた。しかし、そうした裏切り者は誰ひとりいなかった。「うつけ殿」と呼ばれてから十年あまりで、織田信長は領民や家臣から絶大の信頼を得ていたことがわかる。

 既存価値からの脱却も信長はさらに、おこなった。まず、「天下布武」などといいだし、楽市楽座をしき、産業を活発にして税収をあげようと画策した。さらに、家臣たちに早くから領国を与える示唆さえした。明智光秀に鎮西の九州の名族惟任家を継がせ日向守を名乗らせた。羽柴秀吉には筑前守を、丹羽長秀には明智と同じ九州の惟住家を継がせたという。また、柴田勝家と前田利家を北陸に、滝川一益を東国担当に据えた。ともに、出羽、越後、奥州を与えられたはずであるという。そうだとすると中部から中国、関東、北陸、九州まで、信長の手中になっていたはずである。実に強烈な中央集権国家を織田信長は考えていたことになる。まさに天才・織田信長であった。阿修羅の如き。天才。



 今川からの伝令が松平元康(のちの徳川家康)のもとに届いた。

「今川義元公が信長に討たれました」というのだ。

「馬鹿を申すな!」と元康は声を荒げた。しかし、心の中では……あるいは…と思った。しかし、それを口に出すほどかれは馬鹿ではない。あるいは…。信長ごとき弱小大名に? 今川義元公が? 元康は眉をひそめた。味方からそんな情報が入る訳はない。かれはひどく疲れて、頭がいたくなる思いであった。そんな…ことが…今川と織田の兵力差は十倍であろう。ひどく頭が痛かった。ばかな。ばかな。ばかな。元康は心の中で葛藤した。そんなはずは…ない。ばかな。ばかな。悪魔のマントラ。

 しかし、松平元康は織田信長のことを前から監視していたから、あるいは…と思った。しかし、これからどうするべきか。織田信長は阿修羅の如き男じゃから、敵対し、負ければ、皆殺しになる。どうする? どうする? 元康はさらに葛藤した。

 しばらくすると、親戚筋にあたる水野信元の家臣である浅井道忠という男がやってきた。「織田の武将梶川一秀さまの命令を受けてやってまいりました」

 元康は冷静にと自分にいいきかせながら、無表情な顔で「何だ?」と尋ねた。是非とも答えが知りたかった。

「今川義元公が織田信長さまに討たれました。今川軍は駿河に向けて敗走中。早急にあなたさまもこの城から退却なされたほうがよいと、梶川一秀さまがおおせです」

 じっと浅井道忠の顔を凝視していた元康は、何かいうでもなく表情もかえず何か遠くを見るような、策略をめぐらせているような顔をした。梶川一秀というのは織田方に属してはいるが、その妻が元康の姉妹だった。しかも浅井の主人水野信元も梶川一秀の妻の兄だった。

「わかりもうした。梶川一秀殿に礼を申しておいてくれ」元康は頭を軽くさげ、表情を変えずにいた。浅井が去ると、元康は表情をくもらせた。家臣を桶狭間に向かわせ、報告を待った。

「事実にござりました!」その報告をきくと、元康はガクリとして、「さようか」といった。声がしぼんだ。がっかりした。そしてその表情のまま「城から出るぞ」といった。時刻は午後十一時四十二分頃だと歴史書にあるという。ずいぶんと細かい記録があるものだ。桶狭間合戦が午後四時であるから、元康はかなり城でがんばっていたということになる。味方だった今川軍は駿河に敗走していたというのに。

 このことから元康は後年「律義な徳川殿」と呼ばれたという。

 部下は当然、元康が居城の岡崎城に戻るのだと思っていた。

 しかし、かれは岡崎城の城下町に入っても、入城しなかった。部下たちは訝しがった。「この城は元々松平のものだが、今は今川の拠点。今川の派遣した城主がいるはず。その人物をおしのけてまで入城する気はない」

 元康は真剣な顔でいった。もうすべて知っているはずなのに、部下がいうのをまっていた。このあたりは狸ぶりがうかがえる。

 部下は「今川はすべて駿河に敗走中で、城はすべて空でござります」といった。

 それをきいてから元康は「では、岡崎城は捨て城か?」と尋ねた。

「さようでござる」

「さようか」元康はにやりとした。「ならば貰いうけてもよかろう」

 元康は今更駿河に戻る気などない。いや、二度と駿河に戻る気などない。しかし、元康は狡猾さを発揮して、パフォーマンスで駿河の今川氏真(義元の子)に「織田信長と一戦まじえて、義元公の敵討ちをいたしましょう」と再三書状を送った。しかし、氏真はグズグズと煮え切らない態度ばかりをとった。今川氏真は義元の子とはいえ、あまりにも軟弱でひよわな男であった。元康はそれを承知で書状を送ったのだ。

「よし! われらは織田信長と同盟しよう」元康はいった。

 元康はどこまでも狡猾だった。かれは不安もない訳ではなかった。しかし、織田信長があるいは天下人となるやも知れぬ可能性があるとも思っていた。十倍の今川を破り、義元の首をもぎとったのだ。信長というのはすごい男だ。

 元康は、同盟は利がある、と思った。信長は敵になれば皆殺しにし、怒りの炎ですべてを焼き尽くす。しかし、同盟関係を結べば逆鱗に触れることもない。確かに、信長は恐ろしく残虐な男である。しかし、三河(愛知県東部)の領土である松平家としては信長につくしか道はない。

「組むなら信長だ。松平が織田と組めば、東国の北条、甲斐の武田、越後の長尾(上杉)に対抗できる。わしは東、信長は西だ」元康は堅く決心した。自分の野望のために同盟し、信長を利用してやろう。そのためにはわしはなんでもやるぞ!

 信長は桶狭間で今川には勝った。しかし、美濃攻略がうまくいってなかった。

「今のわしでは美濃は平定できぬ」信長はそんな弱音を吐いたという。あの信長……自分勝手で、神や仏も信じず、他人を道具のように使い、すぐ激怒し、けして弱音や涙をみせないのぼせあがりの信長が、である。かれは正直にいった。「まだ平定にはいたらぬ」

 道三が殺されて、義竜、竜興の時代になると斎藤家の内乱も治まってしまった。しかも、義竜は道三の息子ではなく土岐家のものだという情報が美濃中に広まると、国がピシッと強固な壁のように一致団結してしまった。

信長は清洲城で「斎藤義竜め! いまにみておれ!」と、怒りを顕にした。怒りで肩はこわばり、顔は真っ赤になった。癇癪で、なにもかもおかしくなりそうだった。

「殿! ここは辛抱どきです」柴田(権六)勝家がいうと、「なにっ?!」と信長は目をぎらぎらさせた。怒りの顔は、まさに阿修羅だった。

 しかし、信長は反論しなかった。権六の言葉があまりにも真実を突いていたため、信長はこころもち身をこわばらせた。全身を百本の鋭い槍で刺されたような痛みを感じた。

 くそったれめ! とにかく、信長は怒りで、いかにして斎藤義竜たちを殺してやろうか………と、そればかり考えていた。



         尾三同盟



 永禄五年(一五六二)正月のこと、松平元康は清洲城にやってきた。ふたりの間には攻守同盟が結ばれた。条件は、「元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳を結婚させる」ということだったという。

 そこには暗黙の条件があった。信長は西に目を向ける、元康は東に目を向ける……ということである。元康には不安もあった。妻子のことである。かれの妻子は駿河の今川屋敷にいる。信長と同盟を結んだとなれば殺害されるのも目にみえている。

「わたくしめが殿の奥方とお子を駿河より連れてまいります」

 突然、元康の心を読んだかのように石川数正という男がいった。

「なにっ?!」元康は驚いて、目を丸くした。そんなことができるのか? という訳だ。

「はっ、可能でござる」石川はにやりとした。

 方法は簡単である。今川の武将を何人か人質にとり、元康の妻子と交換するのだ。これは松平竹千代(元康)と織田家の武将を交換したときのをマネたものだった。

  織田信長の美濃攻略には七年の歳月がかかったという。その間、信長は拠点を清洲城から美濃に近い小牧山に移した。清洲の城の近くの五条川がしばしば氾濫し、交通の便が悪かったためだ。

 元康の長男竹千代(信康)と、信長の長女五徳は結婚した。元康は二十歳、信長は二十九歳のときのことである。元康は「家康」と名を改める。家康の名は、家内が安康であるように、とつけたのではないか? よくわからないが、とにかく元康の元は今川義元からとったもので、信長と攻守同盟を結んだ家康としては名をかえるのは当然のことであった。

「皆のもの」信長は家康をともなって座に現れた。そして「わが弟と同格の家康殿である」と家臣にいった。「家康殿をわしと同じくうやまえ」

「ははっ」信長の家臣たちは平伏した。

「いやいや、わたしのことなど…」家康は恐縮した。「儀兄、信長殿の家臣のみなさま、どうぞ家康をよろしく頼みまする」恐ろしいほど丁寧に、家康は言葉を選んでいった。

 また、信長の家臣たちは平伏した。

「いやいや」家康はまたしても恐縮した。さすがは狸である。

 井ノ口(岐阜)を攻撃していた信長は、小牧山に拠点を移し、今までの西美濃を迂回しての攻撃ルートを直線ルートへとかえていた。




       サル



 織田家に猿(木下藤吉郎)が入ってきたのは、信長が斎藤家と争っているころか、桶狭間合戦あたり頃からであるという。就職を斡旋したのは一若とガンマクというこれまた素性の卑しい者たちであった。猿(木下藤吉郎)にしても百姓出の、家出少年出身で、何のコネも金もない。猿は最初、織田信長などに……などと思っていた。

「尾張のうつけ(阿呆)殿」との悪評にまどわされていたのだ。しかし、もう一方で、信長という男は能力主義だ、という情報も知っていた。徹底した能力主義者で、相手を学歴や家柄では判断しない。たとえ家臣として永く務めた者であっても、能力がなくなったり用がなくなれば、信長は容赦なくクビにした。林通勝や佐久間父子がいい例である。

 能力があれば、徹底して取り上げる……のちの秀吉はそんな信長の魅力にひきつけられた。俺は百姓で、何ひとつ家柄も何もない。顔もこんな猿顔だ。しかし、信長様なら俺の良さをわかってくれる気がする。

 猿(木下藤吉郎)はそんな淡い気持ちで、織田家に入った。

「よろしく頼み申す」猿は一若とガンマクにいった。こうして、木下藤吉郎は織田家の信長に支えることになった。放浪生活をやめ、故郷に戻ったのは天文二十二、三年とも数年後の永禄元年(一五五八)の頃ともいわれているそうだ。木下藤吉郎は二十三歳、二つ年上の信長は二十五歳だった。

 だが、信長の家来となったからといって、急に武士になれる訳はない。最初は中間、小者、しかも草履取りだった。信長もこの頃はまだ若かったから、毎晩局(愛人の部屋)に通った。局は軒ぞいにはいけず、いったん城の庭に出て、そこから歩いていかなくてはならない。しかし、その晩もその次の晩も、草履取りは決まって猿(木下藤吉郎)であった。 信長は不思議に思って、草履取りの頭を呼んだ。

「毎晩、わしの共をするのはあの猿だ。なぜ毎晩あやつなのだ?」

 すると、頭は困って「それは藤吉郎の希望でして……なんでも自分は新参者だから、御屋形様についていろいろ学びたいと…」

 信長は不快に思った。そして、憎悪というか、怒りを覚えた。信長は坊っちゃん育ちののぼせあがりだが、ひとを見る目には長けていた。

 ……猿(木下藤吉郎)め! 毎晩つきっきりで俺の側にいて顔を覚えさせ、早く出世しようという魂胆だな。俺を利用しようとしやがって!

 信長は今までにないくらいに腹が立った。俺を……この俺様を…利用しようとは!

 ある晩、信長が局から出てくると、草履が生暖かい。怒りの波が、信長の血管を走りぬけた。「馬鹿もの!」怒鳴って、猿を蹴り倒した。歯をぎりぎりいわせ、

「貴様、斬り殺すぞ! 貴様、俺の草履を尻に敷いていただろう?!」とぶっそうな言葉を吐いた。本当に頭にきていた。

 藤吉郎が空気を呑みこんだ拍子に喉仏が上下した。猿は飛び起きて平伏し、「いいえ! 思いもよらぬことでござりまする! こうして草履を温めておきました」といった。

「なにっ?!」

 信長が牙を向うとすると、猿は諸肌脱いだ。体の胸と背中に確かに草履の跡があった。信長は呆れた顔で、木下藤吉郎を凝視した。そして、その日から信長の猿に対する態度がかわった。信長は猿を草履取りの頭にした。

 頭ともなれば外で待たずとも屋敷の中にはいることができる。しかし、藤吉郎はいつものように外で辺りをじっと見回していた。絶対にあがらなかった。

「なぜ上にあがらない?」

 信長が不思議に思って尋ねると、藤吉郎は「今は戦国乱世であります。いつ、何時、あなた様に危害を加えようと企むやからがこないとも限りませぬ。わたくしめはそれを見張りたいのです。上にあがれば気が緩み、やからの企みを阻止できなくなりまする」と言った。

 信長は唖然として、そして「サル! 大儀……である」とやっといった。こいつの忠誠心は本物かも知れぬ。と思った。信長にとってこのような人物は初めてであった。

 あやつは浮浪者・下郎からの身分ゆえ、苦労を良く知っておる。

 信長も秀吉も家康も、けっこう経営上手で、銭勘定にはうるさかったという。しかし、その中でも、浮浪者・下郎あがりの秀吉はとくに苦労人のため銭集めには執着した。そして、秀吉は機転のきく頭のいい男であった。知謀のひとだったのだ。

 こんなエピソードがある。

 あるとき、信長が猿を呼んで「サル、竹がいる。もってこい」と命じた。すると猿は信長が命じたより多くの竹を切ってもってきた。そして、その竹を竹林を管理する農民に与えた。また、竹の葉を城の台所にもっていき「燃料にしなさい」といったという。

 また、こんなエピソードもある。冬になって城の武士たちがしきりに蜜柑を食べる。皮は捨ててしまう。藤吉郎は丹念にその皮を集めた。

「そんな皮をどうしようってんだ?」武士たちがきくと、藤吉郎は「肩衣をつくります」「みかんの皮でどうやって?」武士たちが嘲笑した。しかし、藤吉郎はみかんの皮で肩衣をつくった訳ではなかった。その皮をもって城下町の薬屋に売ったのだ。(陳皮という) 皮を売った代金で、藤吉郎は肩衣を買ったのだ。同僚たちは呆れ果てた。

 また、こんなエピソードもある。戦場にでるとき、藤吉郎は馬にのることを信長より許されていた。しかし、彼は戦場につくまで歩いて共をした。戦場に着くとなぜか馬に乗っている。信長は不思議に思って「藤吉郎、その馬を何処で手にいれた?」ときいた。

 藤吉郎は「わたくしめは金がないゆえ、この馬は同僚と金を折半して買いました。ですから、前半は同僚が乗り、後半はわたくしめが乗ることにしたのです」

 信長はサルの知恵の凄さに驚いた。戦場につくまでは別に馬に乗らなくてもよい。しかし、戦場では馬に乗ったほうが有利だ。それを熟知した木下藤吉郎の知謀に信長は舌を巻いた。桶狭間での社内の物音や鳩のアイデアも、実は木下藤吉郎のものではなかったのか。

 桶狭間後には藤吉郎は一人前の武士として扱われるようになった。知行地をもらった。知行地とは、そこで農民がつくった農作物を年貢としてもらえ、また戦争のときにはその地の農民を兵士として徴収できる権利のことである。

 しかし、木下藤吉郎は戦になっても農民を徴兵しなかった。かれは農民たちにこういった。「戦に参加したくなければ銭をだせ。そうすれば徴兵しない。農地の所有権も保証する」こうして、藤吉郎は農民から銭を集め、その金でプロの兵士たちを雇い、鉄砲をそろえた。戦場にいくとき、信長は重装備で鉄砲そろえの部隊を発見し、

「あの隊は誰の部隊だ?」と部下にきいた。

「木下藤吉郎の部隊でござりまする」部下はいった。信長は感心した。あやつは農民と武士をすでに分離しておる。



         石垣修復



 織田信長は武田信玄のような策士ではない。奇策縦横の男でもなければ物静かな男でもない。キレやすく、のぼせあがりで、戦のときも只、力と数に頼って攻めるだけだ。しかし、かれはチームワークを何よりも大事にした。ひとりひとりは非力でも、数を集めれば力になる。信長は組織を大事にした。

 信長はあるとき城の石垣工事が進んでいないのに腹を立てた。もう数か月、工事がのろのろと亀のようにすすまない。信長はそれを見て、怒りの波が全身の血管を駆けめぐるのを感じた。早くしてほしい、そう思い、顔を紅潮させて「早く石垣をつくれ!」と怒鳴った。すると、共をしていた藤吉郎が

「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます」

とにやりと猿顔を信長に向けた。

「なんだと?!」そういったのは柴田勝家と丹羽長秀だった。

「わしらがやっても数か月かかっているのだぞ! 何が一週間だ?! このサル!」わめいた。

 藤吉郎は「わたくしめなら、一週間で石垣をつくってごらんにいれます。もし作れぬのなら腹を斬りまする!」と猿顔をまた信長に向けた。

「サル、やってみよ」信長はいった。

サルは作業者たちをチーム分けし、工事箇所を十分割して、「さあ組ごとに競争しろ。一番早く出来たものには御屋形様より褒美がでる」といった。こうして、サルはわずか一週間で石垣工事を完成させたのであった。

 信長はいきなり井ノ口(岐阜)の斎藤竜興の稲葉山城を攻めるより、迂回して攻略する方法を選んだ。それまでは西美濃から攻めていたが、迂回し、小牧山城から北上し、犬山城のほか加治田城などを攻略した。しかし、鵜沼城主大沢基康だけは歯がたたない。そこで藤吉郎は知恵をしぼった。かれは数人の共とともに鵜沼城にはいった。

 斎藤氏の土豪の大沢基康は怪訝な顔で「なんのようだ?」ときいた。

「信長さまとあって会見してくだされ」藤吉郎は平伏した。

「あの蝮の娘を嫁にしたやつか? 騙されるものか」大沢はいった。

 藤吉郎は「ぜひ、信長さまの味方になって、会見を!」とゆずらない。

「……わかった。しかし、人質はいないのか?」

「人質はおります」藤吉郎はいった。

「どこに?」

「ここに」藤吉郎は自分を指差した。大沢は呆れた。なんという男だ。しかし、信じてみよう、という気になった。こうして、大沢基康は信長と会見して和睦した。しかし、信長は大沢が用なしになると殺そうとした。

 藤吉郎は「冗談ではありません。それでは私の面子が失われます。もう一度大沢殿と話し合ってくだされ」とあわてた。

信長は「お前はわしの大事な部下だ。大沢などただの土豪に過ぎぬ。殺してもたいしたことはない」

「いいえ!」かれは首をおおきく左右にふった。「命を助けるとのお約束であります!」

 こうして藤吉郎は大沢を救い、出世の手掛かりを得て、無事、鵜沼城から帰ってきた。

 この頃、明智光秀は越前で将軍・義昭と謁見した。サルは信長の茶屋によばれ、千宗易のつくる茶をがばっと飲んだ。「これ、サル!」信長が注意すると、千宗易は笑って「かましまへん、茶などどう飲んでもええですがな」といった。


         竹中半兵衛



 信長はこの頃、単に斎藤氏の攻略だけでなく、いわゆる「遠交近攻」の策を考えていた。松平元康との攻守同盟をむすんだ信長は、同じく北近江国の小谷山城主・浅井長政に手を伸ばした。攻守同盟をむすんで妹のお市を妻として送り込んだ。浅井長政は二十歳、お市は十七歳である。お市は絶世の美女といわれ、長政もいい男であった。そして三人の娘が生まれる。秀吉の愛人となる淀君、京極高次という大名の妻となる初、徳川二代目秀忠の妻・お江、である。また信長は、越後(新潟県)の上杉輝虎(上杉謙信)にも手をのばす。謙信とも攻守同盟をむすぶ。条件として自分の息子を輝虎の養子にした。また武田信玄とも攻守同盟をむすんだ。これまた政略結婚である。


「サル!」

 あるとき、信長は秀吉をよんだ。秀吉はほんとうに猿のような顔をしていた。

「お呼びでござりまするか、殿!」汚い服をきた猿のような男が駆けつけた。それが秀吉だった。サルは平伏した。

「うむ。猿、貴様、竹中半兵衛という男を知っておるか?」

「はっ!」サルは頷いた。「今川にながく支えていた軍師で、永禄七年二月に突然稲葉山城を占拠したという男でござりましょう」

「うむ。猿、なぜ竹中半兵衛という男は主・今川竜興を裏切ったのだ?」

「それは…」サルはためらった。「聞くところによれば、城主・今川竜興が竹中半兵衛という男をひどく侮辱したからだといいます。そこで人格高潔な竹中は我慢がならず、自分の智謀がいかにすぐれているか示すために、主人の城を乗っ取ってみせたと」

「ほう?」

「動機が動機ですから、竹中はすぐ今川竜興に城を返したといいます」

「気にいった!」信長は膝をピシャリとうった。「猿、その竹中半兵衛という男にあって、わしの部下になるように説得してこい」

「かしこまりました!」

 猿(木下藤吉郎)は顔をくしゃくしゃにして頭を下げた。お辞儀をすると、飄々と美濃国へ向けて出立した。この木下藤吉郎(または猿)こそが、のちの豊臣秀吉である。


 汚い格好に笠姿の藤吉郎は、竹中半兵衛の邸宅を訪ねた。木下藤吉郎は竹中と少し話しただけで、彼の理知ぶりに感激し、また竹中半兵衛のほうも藤吉郎を気にいったという。 しかし、竹中半兵衛は信長の部下となるのを嫌がった。

「理由は? 理由はなんでござるか?」

「わたしは…」竹中半兵衛は続けた。「わたしは信長という男が大嫌いです」ハッキリいった。そして、さらに続けた。「わたしが稲葉山城を乗っ取ったときいて、城を渡せば美濃半国をくれるという。そういうことをいう人物をわたしは軽蔑します」

「……さようでござるか」木下藤吉郎の声がしぼんだ。がっくりときた。

 しかし、そこですぐ諦めるほど藤吉郎は馬鹿ではない。それから何度も山の奥深いところに建つ竹中半兵衛の邸宅を訪ね、三願の礼どころか十願の礼をつくした。

 竹中半兵衛は困ったものだと大量の本にかこまれながら思った。

「竹中半兵衛殿!」木下藤吉郎は玄関の外で雨に濡れながらいった。「ひとはひとのために働いてこそのひとにござる。悪戯に書物を読み耽り、世の中の役に立とうとしないのは卑怯者のすることにござる!」

 半兵衛は書物から目を背け、玄関の外にいる藤吉郎に思いをはせた。…世の中の役に?  ある日、とうとう竹中半兵衛は折れた。

「わかり申した。部下となりましょう」竹中半兵衛は魅力的な笑顔をみせた。

「かたじけのうござる!」

「ただし」半兵衛は書物から目を移し、木下藤吉郎の猿顔をじっとみた。「わたしが部下になるのは信長のではありません。信長は大嫌いです。わたしが部下となるのは…木下藤吉郎殿、あなたの部下にです」

「え?」藤吉郎は驚いて目を丸くした。「しかし…わたしは只の百姓出の足軽のようなものにござる。竹中半兵衛殿を部下にするなど…とてもとても」

「いえ」竹中は頷いた。「あなたさまはきっといずれ天下をとられる男です」

 木下藤吉郎の血管を、津波のように熱いものが駆けめぐった。それは感情……というよりいいようもない思い出のようなものだった。むしょうに嬉しかった。しかし、こうなると御屋形様の劇鱗に触れかねない。が、いろいろあったあげく、竹中半兵衛は木下藤吉郎の部下となり、藤吉郎はかけがえのない軍師を得たのだった。

        

         墨俣一夜城



 当面の織田信長の課題は美濃完全攻略、であった。

 そして、そのためには何よりも斎藤氏の本拠地である稲葉山城を落城させなければならなかった。稲葉山城攻撃も、西美濃からの攻撃だけでなく、南方面からの攻撃が不可欠であった。が、稲葉山城の南面には天然の防柵のように木曾川、長良川などの川が流れている。攻撃にはそこからの拠点が必要である。

 信長は閃いた。墨俣に城を築けば、美濃の南から攻撃ができる。しかし、そこは敵陣のどまんなかである。そんなところに城が築けるであろうか?

「サル!」信長はサルを呼んだ。「お前は墨俣の湿地帯に城を築けるか?」

「はっ! できまする!」藤吉郎は平伏した。

「どうやってやるつもりだ? 権六(柴田勝家)や五郎左(丹羽長秀)でさえ失敗したというのに…」

「おそれながら御屋形様! わたくしめには知恵がござりまする!」藤吉郎はにやりとして、右手人差し指をこめかみに当てて、とんとんと叩いた。妙案がある…というところだ。「知恵だと?!」

「はっ! おそれながら築城には織田家のものではだめです。野伏をつかいます。稲田、青山、蜂須賀、加地田、河口、長江などが役にたつと思いまする。中でも、蜂須賀小六正勝は、わたくしめが放浪していた頃に恩を受けました。この土豪たちは川の氾濫と戦ってきた経験もあります。すぐれた土木建設技術も持っております」

「そうか……野伏か。なら、わしも手をかそう」

「ならば、御屋形様は木材を調達して下され」

「わかった。で? どうやるつもりか?」信長は是非とも答えがききたかった。

「それは秘密です。それより、野伏をすぐに御屋形様の家来にしてくだされ」

「何?」信長は怪訝な顔をして「城ができたらそういたそう」

「いえ。それではだめです。城が出来てから…などというのでは野伏は動きません。まず、取り立てて、さらに成果があればさらに取り立てるのです」

 信長は唖然とした。

 下層階層の不満や欲求をよく知る藤吉郎なればの考えであった。しかし、坊っちゃん育ちの信長には理解できない。信長は「まぁいい……わかった。お前の好きなようにやれ」と頷くだけだった。藤吉郎は、蜂須賀小六らに「信長公の部下にする」と約束した。

「本当に信長の家臣にしてくれるのか?」蜂須賀小六はうたがった。

「本当だとも! 嘘じゃねぇ。嘘なら腹を切る」藤吉郎は真剣にいった。

 信長はいわれたとおりに木材を伐採させ、いかだに乗せて木曾川上流から流させた。その木材が墨俣についたらパーツごとに組み立てるのである。まさに川がベルトコンベアーの役割を果たし、墨俣一夜城は一夜にして完成した。

信長がきた。一同は平伏する。しかし、秀吉の弟・小一郎は「御屋形様! 褒美を下され!」と嘆願した。「こら! 小一郎! 黙れ!」秀吉は諫めた。

「われらは褒美のために働いたのでござる! 褒美を!」

 小一郎は必死に嘆願した。秀吉は黙ったままだった。信長は冷酷な顔でふところに手を入れた。もしや、刀を抜いて、小一郎を……斬りすてる?!

 一同は戦慄した。

 しかし、信長は袋にはいった小さな茶壺を秀吉に手渡し「ご苦労であった」といった。そして場を去った。小一郎はそれをみて、銭じゃなく、……茶壺? そんな…と落胆した。 だが、秀吉は一同に笑顔を見せた。”こんなの屁でもないさ”と強がってみせる笑顔であった。……こんなの…屁でもないさ……


話を戻す。

信長は岐阜で天下取りを狙った。寧々の妹ともが子を産む。孫七郎……のちの関白秀次である。信長と妹のお市の方と嫁ぎ先の浅井長政との赤子・茶々(のちの淀君)である。

「お市、義弟の長政と仲良くやっておるか?」

岐阜城で帰郷のお市に信長はきいた。きくまでもない。

「もちろんです。兄上さま」お市は笑顔で赤子茶々をあやす。

「…おお! お可愛いですなあ。お市さまの赤子は…。べろべろばあ!」

「これ!」お市は側の秀吉を叱った。「猿! 近づくでない。茶々が泣き出したらいかがする?」

「…はあ」秀吉は美貌のお市も好きだったが、お市は猿面の秀吉は大嫌いだった。

触るのも嫌だ。どこかの国営放送のアナウンサーではないが、そういうことだった。

人質同然のお市さまが幸せで安堵じゃ。だが、未練がある。

お市への想いの秀吉。寧々は寛容に許した。

「いよいよ京じゃ。おかかは幸せか?」

「はい」

「大事にせねばのう。わしにはたったひとりのおかかじゃ」

寧々は、子供さえ産まれれば……とつらかった。

もう結婚して七年だったが、子供には恵まれなかった。

話が重複するかと思いますがここで数年後に足利義昭の策によって”信長包囲網”が出来る。

足利将軍の義昭が全国の諸大名に手紙を送り、「織田信長を討て!」と命じたのだ。

一向一揆衆、本願寺、武田信玄、上杉謙信、毛利勢、北条勢……続々と信長に叛旗を翻す。最初の障害は妹の婿浅井長政と越前の朝倉義景の同盟軍だった。

有名な浅井・朝倉による信長挟み討ちの策である。

お市から“袋の小豆”が陣中見舞いだ、と届く。

両端がひもで結んである。そうか!信長は気づいた。「浅井・朝倉勢に挟み討ちじゃ!悪党ども逃げるぞ! 俺は逃げるぞ!」

「御屋形さま! この猿めを殿にしてくだされ!」秀吉は名乗り出た。

「そうか! 猿、頼むぞ! 全軍退却じゃ! わしにつづけ!」

信長は馬で駆け出した。

ここで信長や秀吉や家康までが死んでいたら時代はもっと混沌としていたろう。

戦国の三傑がいればこその戦国の世、である。

この浅井・朝倉勢の攻撃の情報が岐阜にも届いて、寧々や妹のやややとも、なからは不安になった。秀吉殿は無事であろうか? まさか、戦死?

だが、秀吉は命からがら岐阜に戻ってきた。

だが、秀吉は、戦が嫌いになった百姓に戻る、などという。その愚痴に寧々は激怒した。

「お前様まで信長さまを見捨てられるのか? 話が違うではありませんか! お前様は信長様に惚れ込んで足軽になられたと。嘘にございましたか」

「おなごに何がわかる! 信長様の敵は比叡山、一向一揆衆、武田信玄、上杉謙信、毛利勢、北条勢、すべて辺り一面敵だらけじゃ!」

「……逃げるのですか?」

「何っ」

「お前様がいまこそ知恵をつかって御屋形さまをおたすけする番です! お前様は甘えていなさる! 今が秀吉殿の策の出番です!」

「………おかか」

「泣き言をいうまえにしっかりしなされ!」

「………おかか。そうじゃのう。おかかの言うとおりじゃ。わしは甘えておった、よし!」

 寧々は秀吉の心をすくう堤防のような存在にいつのまにかなっていた。

こうして信長は秀吉の策などにより浅井長政や朝倉義景軍を叩きつぶす。

お市の方と三人の娘(浅井三姉妹・茶々・初・江)は炎上する小谷城より秀吉配下の者によってすくわれた。

だが、お市の方や三姉妹も“秀吉嫌い”であったという。

木下秀吉は姓を丹羽長秀と柴田勝家から一文字ずつもらい羽柴…羽柴秀吉、とした。

浅井責めの功績によって秀吉はのちの長浜城を賜った。

やっと城持ち大名になったのである。

寧々は只の足軽の妻だったのに急に城持ち大名のおかかさまになり、戸惑った。

多くの家臣がそれこそ家柄の申し分のない家柄の者が家臣として百姓上がりの秀吉や寧々にかしずく。平伏する。戸惑うしかない。当たり前である。

だが、秀吉はにやにやしてうれしがるだけで戸惑う事をしらない。

当たり前のように家臣に命ずる。百姓上がりめ!そんな陰口がきこえるような寧々の戸惑いと秀吉の態度は反比例するばかりだ。

だが、子供が産めない……という負い目が寧々にはある。

だから、秀吉が上方で愛人を囲って妊娠させて当たり前のように長浜城に愛人(千草)を呼びこむと秀吉の元を去ろうとしたのだ。もう、号泣である。

だが、やってきた秀吉の母親にとめられた。

「秀吉を許してくれもんそ! 寧々さん、あいつには寧々さん以外は駄目じゃでえ。あんさんしか秀吉を守れんでえ! 許してくれもんそ!」

「おっかさま……しかし、赤子も産めない私は…」

「赤子なんぞ関係ねえでえ! 寧々さんしかおらんのよ、秀吉のおかかさまは!」

「おっかさま! ………おっかさま!」

抱擁し、涙声になる寧々をなかは慰めた。「寧々さん。頼むでえ」

「………はい。はい、おっかさま!」

やがて秀吉の愛人が流産すると当然のように愛人は捨てられた。

寧々は秀吉の愛人に銭を渡して、慰めたという。

「あなたもしっかりね」

「……奥方さま。すいませんでした」

そういって愛人は長浜城を去っていった。



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豊臣秀吉最新研究の豊臣秀吉、その真実  三

 ミステリィの謎解きのその次のパートです。

まずは、豊臣秀吉の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。


容姿

猿面

「猿面冠者」という言葉が残るように、秀吉が容姿から猿と呼ばれたことは有名である。

『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。

毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。

秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。

ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。

また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。

秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある。

禿げ鼠

「禿げ鼠」の呼び名は、信長がねねへ宛てた書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが現存している(現在は個人蔵)。

ただ、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。

六本指

秀吉は指が1本多い多指症だったという記録がある(『フロイス日本史』)。右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた(『国祖遺言』)。

多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になるまではその事実を隠すこともなかったという。

しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。

そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるが、このことに触れない秀吉の伝記は多い。

なお『国祖遺言』のこのくだりを紹介した三上参次は、「又『國祖(前田利家)遺言』といふ書には、太閤には右の手の指が六本あったといふ説が載って居りますが、如何ですか、他に正確なる書にはまだ見當りませぬ。」と記載している。

井沢元彦は自著の中で、『国祖遺言』の存在を初めて指摘したのは松田毅一であると記載している。

が、松田が指摘するよりも前に三上が指摘をしている。

さらに三上が指摘をした翌年には幸田成友も秀吉の多指症について言及している。

姜沆の『看羊録』にも秀吉の右手が六本指であったと記録されているが、この記録には秀吉が成長した時に自ら刀で指を切り落としたと記載されている。

服部英雄は『国祖遺言』を活字化しており、以下の通りである。

大閤様は右之手おやゆひ一ツ多、六御座候、然時蒲生飛騨殿・肥前様・金森法印御三人しゆらくにて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御咄候、其時上様ほとの御成人か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ、左なく事ニ候、信長公大こう様ヲ異名に六ツめか、なとヽ、御意候由御物語共候、色々御物語然之事

死因

様々な説が唱えられており、脳梅毒、大腸癌、痢病(赤痢・疫痢の類)、尿毒症、脚気、腎虚、感冒(そのため藤堂高虎と同様、桔梗湯を処方された)などがある。50代後半頃からは、老衰のためか無意識のうちに失禁したこともあったと記録されている。沈惟敬による毒殺説もある。


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       4 将軍義昭と光秀



         稲葉山城攻略


 いよいよ稲葉山城攻撃がはじまった。

 しかし、城は崖の上に建ち、まるで天然の要塞であった。

せっかく墨俣に拠点墨俣一夜城を築いても、稲葉山城の攻撃は難行に思われた。

 信長が「くそったれが」と拳をつくっているところ、西美濃三人衆と呼ばれる斎藤家の重臣の連中から、「お味方したい」という内応の使者がやってきた。

「よし!」信長は目を輝かせた。

 西美濃三人衆というのは、大垣城主の氏家ト全と、北方城主の安藤道足と、曽根城主の稲葉一鉄のことである。墨俣城を築いても、この西美濃三人衆に背後から襲われたら、斎藤家との間ではさみ討ちにさせてしまう。信長はそれを危惧していた。

 そんなところに内応の伝達があったのだから、信長は喜んだ。

 信長はすぐに、「三人衆から人質をとれ」と村井と島田という武士に命じた。

 サルをよんだ。「サル、稲葉山城を落とせ、野伏をつかえ」

 藤吉郎は驚いた。

「しかし、せっかく西美濃三人衆が味方したいと使者をおくってきたのではありませんか。ここは三人衆がやってきてから、攻撃したほうが情報も得られて得ではありませぬか?」

「それが普通の人間の考えだろう。しかし、西美濃三人衆の応援を得てから稲葉山を落としたのではわしの面子がすたる。なぜお前に墨俣城をつくらせたのかもわからなくなる。お前が指揮して稲葉山城を落とせ、野伏をつかえ。わかったか!」

 藤吉郎は「ははっ!」と平伏した。

いいようもなく顔を紅潮させていた。自分が…必要と……されている。

「かしこまりました!」サルは叫ぶようにいった。

 サルはさっそく蜂須賀小六を呼んだ。

「親方、もう一度力を貸してくれ」

「いや、いいが……もう俺は親方ではない。頭はあんただ、藤吉郎殿」

「浮浪のおり、貴殿には世話になった。いつまでもあなたは親方だ」

「稲葉山城をせめるのか?」蜂須賀小六はするどかった。

「さすがは親方、その通り!」

「いやに簡単にいうじゃねぇか。あの城を落とすのは困難だよ。正面からじゃ無理だ」

「なら裏からならどうじゃろうか?」

「手はあるだろう」

「では、一緒にまいろう」藤吉郎は、成人して役にたつようになった異父弟小一郎(のちの秀長)をよんで「小一郎、おまえは大手から攻撃しろ」と命じた。

 城の正面の大手からの攻撃は囮である。木下蜂須賀本隊は背後から攻撃しようという算段だった。蜂須賀小六は選び抜かれた尖鋭部隊をつくり、稲葉山城の背面の山道をすすんだ。険しい道だったが、蜂須賀小六は難なく進み、藤吉郎も本当の猿のようにあとをついて進んだ。それぞれの腰には兵糧をさげ、瓢箪をぶらさげていた。瓢箪には酒がはいっていた。

……こんな危なっかしい仕事、シラフでやってられるか。一同は笑った。

 木下蜂須賀本隊は谷や崖を抜けてすすみ、ちょくちょく酒をのんだ。

 やがて、山を越えて見下ろすと、稲葉山城がみえた。山からみると、背面の警護は空だった。木戸に門番さえいない。

「これならば落とせる」藤吉郎はにやりとした。

 やがて城にはいると、さすがに城兵たちがばらばらやってきた。蜂須賀たちはそれらを斬り殺した。その兵たちの具足を剥ぎ取ると、斎藤家の兵士に化けた。そして、そこら辺にある柴や薪に片っ端から火をつけた。発見した薪などをもって大手の方へ運ぶふりをした。まだ、斎藤方で気付いた者はいない。

 藤吉郎は皆が飲みほした瓢箪を竹の先にくくりつけて、塀の中からあげて、大きく振った。瓢箪が揺れる。蜂須賀小六の部下は稲葉山城の水門をあけていた。瓢箪は突撃の合図である。信長はそれをみて「突撃!」と、劇を飛ばした。信長軍は協力なマン・パワーで城に突撃し、陥落させた。驚いた城主・斎藤竜興は城を脱出した。長良川から船でどこかへいった。稲葉山城は完全に信長のものになった。

「御屋形様!」サルは先に瓢箪がくくられた竹をもったままだった。「城をおとしました」「サル」信長は呆れて「きさまはその瓢箪がえらく気にいったようだのう。これからはその瓢箪を馬印につかえ」といった。

「ははっ!」サル平伏した。

「ただし、最初はひとつだけじゃ。手柄をたてたらひとつひとつ瓢箪をふやせ」

「ははっ! このサルめは手柄を沢山たてまして、瓢箪を百にも千にもいたします」

「大口をたたくな。まぁ、サルよ、お主はよくやった」信長はサルを褒めたてた。

 藤吉郎は顔をくしゃくしゃにして笑顔になり、また深く平伏した。信長軍の重臣たちは、サルめ、と不快に思ったが口にはださなかった。こうして、のちの秀吉の知謀によって稲葉山城は陥落し、斎藤氏から領土を奪えたのである。

 さて、ここでふれたいのは藤吉郎(秀吉)よりもむしろ小一郎(秀長)である。稲葉山城(岐阜城)を攻めたとき、秀吉は少数で城に潜入し、合図によって、小一郎(秀長)の主力部隊が雪崩れ込むという戦略だったが、そのときの小一郎のタイミングや方法ともにすばらしかったので、竹中半兵衛が秀吉に「よき弟をもたれたものだ」と褒めている。 いわれるままに実行し、成功させる…これは補佐役の鉄則だ。しかも、小一郎(秀長)は死ぬまで「補佐」に徹した。もしこの男に「いずれは兄と同じように大名に…」「いずれは兄の次の天下人に…」などという欲があったら到底できないことである。

 秀吉は朝鮮出兵という過ちを晩年犯したが、それはこの”よき弟”が早死にした結果とみる歴史家が実に多い。その意味で、小一郎は実によい弟で、ナンバー2だった。

 果たして天下をとれたろうか?もし、秀吉にこの弟がいなかったら……


         足利幕府



 のちに天下を争うことになる毛利も上杉も武田も織田も、いずれも鉱業収入から大きな利益を得てそれを軍事力の支えとした。

 しかし、一六世紀に日本で発展したのは工業であるという。陶磁器、繊維、薬品、醸造、木工などの技術と生産高はおおいに伸びた。その中で、鉄砲がもっとも普及した。ポルトガルから種子島経由で渡ってきた南蛮鉄砲の技術を日本人は世界中の誰よりも吸収し、世界一の鉄砲生産国とまでなる。一六〇〇年の関ケ原合戦では東西両軍併せて五万丁の鉄砲が装備されたそうだが、これほど多くの鉄砲が使われたのはナポレオン戦争以前には例がないという。

 また、信長が始めた「楽市楽座」という経済政策も、それまでは西洋には例のないものであった。この「楽市楽座」というのは税を廃止して、あらゆる商人の往来をみとめた画期的な信長の発明である。一五世紀までは村落自給であったが、一六世紀にはいると、通貨が流通しはじめ、物品の種類や量が飛躍的に発展した。

 信長はこうした通貨に目をむけた。当時の経済は米価を安定させるものだったが、信長は「米よりも金が動いているのだな」と考えた。金は無視できない。古い「座」を廃止して、金を流通させ、矢銭(軍事費)を稼ごう。

 こうした通貨経済は一六世紀に入ってから発展していた。その結果、ガマの油売りから美濃一国を乗っ取った斎藤道三(山崎屋新九郎)や秀吉のようなもぐりの商人を生む。

「座」をもたないものでも何を商ってもよいという「楽市楽座」は、当時の日本人には、土地を持たないものでもどこでも耕してよい、というくらいに画期的なことであった。


 信長は斎藤氏を追放して稲葉山城に入ると、美濃もしくは井の口の名称をかえることを考えた。中国の古事にならい、「岐阜」とした。岐阜としたのは、信長にとって天下とりの野望を示したものだ。中国の周の文王と自分を投影させたのだ。

 日本にも王はいる。天皇であり、足利将軍だ。将軍をぶっつぶして、自分が王となる。日本の王だ。信長はそう思っていた。

 信長は足利幕府の将軍も、室町幕府も、天皇も、糞っくらえ、と思っていた。神も仏も信じない信長は、同時に人間も信じてはいなかった。当時(今でもそうだが)、誰もが天皇を崇め、過剰な敬語をつかっていたが、信長は天皇を崇めたりはしなかった。

 この当時、その将軍や天皇から織田信長は頼まれごとをされていた。

 天皇は「一度上洛して、朕の頼みをきいてもらいたい」ということである。

 天皇の頼みというのは武家に犯されている皇室の権利を取り戻してほしいということであり、足利将軍は幕府の権益や威光を回復させてほしい……ということである。

 信長は天皇をぶっつぶそうとは考えなかったが、足利将軍は「必要」と考えていなかった。天皇のほかに「帽子飾り」が必要であろうか?

 室町幕府をひらいた初代・足利尊氏は確かに偉大だった。尊氏の頃は武士の魂というか習わしがあった。が、足利将軍家は代が過ぎるほどに貴族化していったという。足利尊氏の頃は公家が日本を統治しており、そこで尊氏は立ち上がり、「武家による武家のための政」をかかげ、全国の武家たちの支持を得た。

 しかし、それが貴族化していったのでは話にもならない。下剋上がおこって当然であった。理念も方針もすべて崩壊し、世の乱れは足利将軍家・室町幕府のせいであった。

 ただ、信長は一度だけあったことのある十三代足利将軍・足利義輝には好意をもっていたのだという。足利義輝軟弱な男ではなかった。剣にすぐれ、豪傑だったという。

 三好三人衆や松永弾正久秀の軍勢に殺されるときも、刀を振い奮闘した。迫り来る軍勢に刀で対抗し、刀の歯がこぼれると、すぐにとりかえて斬りかかった。むざむざ殺されず、敵の何人かは斬り殺した。しかし、そこは多勢に無勢で、結局殺されてしまう。

 なぜ三好三人衆や松永弾正久秀が義輝を殺したかといえば、将軍・義輝が各大名に「三好三人衆や松永弾正久秀は将軍をないがしろにしている。どうかやつらを倒してほしい」という内容の書を送りつけたからだという。それに気付いた三好らが将軍を殺したのだ。(同じことを信長のおかげで将軍になった義昭が繰り返す。結局、信長の逆鱗に触れて、足利将軍家、室町幕府はかれの代で滅びてしまう)

 十三代足利将軍・足利義輝を殺した三好らは、義輝の従兄弟になる足利義栄を奉じた。これを第十四代将軍とした。義栄は阿波国(徳島県)に住んでいた。三好三人衆も阿波の生まれであったため馬があい、将軍となった。そのため義栄は、”阿波公方”と呼ばれた。 このとき、義秋(義昭)は奈良にいた。「義栄など義輝の従兄弟ではないか。まろは義輝の実の弟……まろのほうが将軍としてふさわしい」とおもった。

 足利義秋(義昭)は、室町幕府につかえていた細川藤孝によって六角義賢のもとに逃げ込んだ。義秋は覚慶という名だったが、現俗して足利義秋と名をかえていた。坊主になどなる気はさらさらなかった。殺されるのを逃れるため、出家する、といって逃げてきたのだ。

 しかし、六角義賢(南近江の城主)も武田家とのごたごたで、とても足利義秋(義昭)を面倒みるどころではなかった。仕方なく細川藤孝は義秋を連れて、越前の守護代をつとめていて一乗谷に拠をかまえていた朝倉義景の元へと逃げた。

 朝倉義景は風流人で、合戦とは無縁の生活をするためこんな山奥に城を築いた。義景にとって将軍は迷惑な存在であった。足利義秋は義昭と名をかえ、しきりに「軍勢を率いて将軍と称している義栄を殺し、まろを将軍に推挙してほしい」と朝倉義景にせまった。

 義景にしては迷惑なことで、絶対に軍勢を率いようとはしなかった。

 朝倉義景にとって、この山奥の城がすべてであったのだ。(堺屋太一著作より)



         明智光秀と細川藤孝




 足利義昭が織田信長に「幕府回復のために力を貸していただきたい」と打診していた頃、信長はまだ稲葉山城(岐阜城)攻略の途中であったから、それほど感心を示さなかった。また、天皇からの「天皇領の回復を願いたい」というも放っておいた。

 朝倉義景の一乗谷城には足利義昭や細川藤孝が厄介になる前に、居候・光秀がいた。のちに信長を本能寺で討つことになる明智十兵衛光秀である。美濃の明智出身であったという。機知に飛んだ武士で、教養人、鉄砲の名人で、諸国を放浪していたためか地理や地方の政や商いに詳しかった。

 光秀は朝倉義景に見切りをつけていた。もともと朝倉義景は一国の主で満足しているような男で、とうてい天下などとれる器ではない。このような男の家臣となっても先が知れている。光秀は誇り高い武将で、大大名になるのが夢だ。…義景では……ダメだ。

 光秀は細川藤孝に「朝倉義景殿ではだめだ。織田信長なら、あるいは…」と漏らした。「なるほど」細川は唸った。「信長は身分や家格ではなく能力でひとを判断するらしい。義昭さまを連れていけば…あるいは…」

 ふたりは頷いた。やっと公方様の役に立つかも知れない。こうなったらとことん信長を利用してやる。信長のようなのは利用しない手はない。

 光秀も細川藤孝も興奮していた。これで義昭さまが将軍となれる。…かれらは信長の恐ろしさをまだ知らなかったのだ。信長が神や仏を一切信じず、将軍や天皇も崇めないということを……。光秀たちは無邪気に信長を利用しようとした。しかし、他人に利用される程、信長は甘くない。信長は朝倉義景とは違うのだ。

 光秀も細川藤孝もその気になって、信長に下話した。すると、信長は足利義昭を受け入れることを快諾した。なんなら将軍に推挙する手助けをしてもいい、と信長はいった。

 明智十兵衛光秀も細川藤孝も、にやりとした。

 信長が自分たちの思惑通りに動いたからだ。

 ……これで、義昭さまは将軍だ。してやったり!

 だが、光秀たちは信長が「義昭を利用してやろう」などと思っていることを知らなかった。いや、そんなことは思いもよらなかった。なにせ、光秀たちは古い価値観をもった武士である。誰よりも天皇や室町幕府、足利将軍の崇拝者であり、天皇や将軍を利用しようという人間がいるなど思考の範疇外であったのだ。

 信長は「くだらん将軍だが、これで上洛の口実ができる」と思った。

 信長が快諾したのは、義昭を口実に上洛する、つまり京都に入る(当時の首都は京都)ためである。かれも次第に世の中のことがわかってきていて、ただの守護代の家臣のそのまた家臣というところからの成り上がりでは天下はとれないとわかっていた。ただやみくもに野望を抱き、武力蜂起しても天下はとれないのをわかっていた。

 日本の社会は天皇などが中心の社会で、武家はその家臣というのが通例である。武力だけで天下の道を辿るのは難しい。チンギス・ハンのモンゴルや、秦始皇帝の中国とは違うのだ。天下をとるには上洛して、天皇らを嫌でもいいから奉らなければならない。

 そこで信長は「天下布武」などといいだした。

 つまり、武家によって天下をとる、という天下獲りの野望である。おれは天下をとる。そのためには天皇だろうが、将軍だろうが利用するだけ利用してやる!

 信長は興奮し、心の中で笑った。うつろな笑いだった。

 確かに、今、足利義昭も天皇も「権威を回復してほしい」といってきている。しかし、それは信長軍の武力が台頭してきているからで、弱くなれば身分が違うとバッサリきりすてられるかも知れない。そこで、どの大名も戴くことをためらった足利義昭をひきいて上洛すれば天下に信長の名が轟く。義昭は義輝の弟で、血も近い。なにより恩を売っておけば、何かと利用できる。恩人として、なにかしらの特権や便宜も計られるだろう。信長は狡猾に計算した。

「天下布武」などといったところで、おれはまだ美濃と尾張だけだ。おれは日本中を支配したいのだ。そのために足利義昭を利用して上洛しなくてはならないのだ。

 そのためにはまず第十四代将軍・足利義栄を戴いている三好や松永久秀を滅ぼさなければならない。信長は戦にうって出ることを考えていた。自分の天下のために!

 信長は当時の常識だった「将軍が一番偉い」などという考えをせせら笑った。なにが偉いものか! 偉いのはおれだ! 織田……織田信長だ! この俺に幸運がやってきた!

(堺屋太一著作より)


 この頃、寧々はひとりっきりの屋敷で激痛におそわれてうずくまっていた。そこに小一郎がやってきた。「姉上! いかがなされた?!」かれはすぐ薬師(医者)を呼んだ。

 寧々は子供が産めないからだになった。「小一郎殿、藤吉郎殿につたえないで…」

 寧々は泣きながらいった。嘆願した。

 小一郎は深刻な表情のまま無理に微笑んで、「このことは私と姉上の一生の秘密です。私は死ぬまで兄じゃにこのことはいいません」といった。

 寧々は感激し、泣き崩れた。


               

足利将軍・足利義昭




 織田信長など足利義昭にしてみればチンピラみたいな男である。かれが越前にいったのも朝倉義景を通して越後の長尾(上杉)景虎(謙信)に頼ろうとしたのだし、また上杉でなくても武田信玄でも誰でもよかった。チンピラ信長などは「腰掛け」みたいなものである。なんといっても上杉謙信や武田信玄は信長より大物に写った。が、上杉も武田も容易に兵を挙げてくれなかった。義昭はふたりを呪った。

 しかし、信長にとっては千載一遇の好機であった。朝倉がどうでようと、足利義昭を利用すれば上洛の大義名分が出来る。遠交近攻で、上洛のさまたげとなるものはいない。

 信長は明智光秀や細川藤孝から義昭の依頼を受けて、伊勢方面に出兵した。滝川一益に北伊勢方面を攻撃させた。そうしながら伊勢の実力者である関一族の総領神戸氏の家に、三男の信孝を養子としておしつけた。工藤一族の総領である長野氏の名を弟信包に継がせたりしたという。信長の狙いは南伊勢の北畠氏である。北畠氏を攻略せねば上洛に不利になる。信長はさらに、

「足利義昭さまが越前にいてはやりにくい。どうか尾張にきてくだされ」と書状をおくった。義昭はすぐに快諾した。永禄十一年(一五六八)七月十三日、かれは越前一乗谷を出発した。朝倉義景には「かくかくしかじかで信長のところにまいる」といった。当然ながら義景は嫌な顔をした。しかし、朝倉義景は北近江一国で満足している、とうてい兵をあげて天下をとるだけの実力も器もないのだから仕方ない。

 上洛にたいして、信長は朝倉義景につかいをだした。義景は黙殺した。六角義賢(南近江の城主)ははねつけた。それで、信長は六角義賢を攻め滅ぼし、大軍を率いて京都にむかった。九月一二日に京都にはいった。足利義昭を京都の清水寺に宿舎として入れ、松永と三好三人衆と対峙した。松永弾正久秀は機を見るのに敏な男で、人質をさしだして和睦をはかった。それがきっかけとなり信長は三好三人衆の軍勢を叩き潰した。

 足利義昭は「こやつらは兄義輝を殺した連中だ。皆殺しにいたせ!」といきまいた。

 しかし信長が「義昭さま、ここは穏便に願う」と抑圧のある声で抑えた。

 永禄十一年(一五六八)十月十八日、足利義昭は将軍に推挙された。第一四代将軍・義栄は摂津に逃れて、やがてそこで死んだ。

「阿波公方・足利義栄の推挙に荷担し、義輝を殺した松永と三好三人衆を京都より追放する」時の帝正親町天皇はそう命じた。

 松永弾正久秀は降伏したものの、また信長と対立し、ついにはかれはおいつめられて爆死してしまう(大事にしていた茶道具とともに爆薬を体にまきつけて火をつけた)。

 信長は義昭のために二条城を造らせた。

 足利義昭は非常に喜んで、にやにやした。これでまろは本物の将軍である。かれは信長に利用されているとはまだ感付いていなかった。

「あなたはまろの御父上さまだ」義昭はきしょくわるくいった。

 信長は答えなかった。当時、信長三十六歳、義昭は三十二歳だった。

「あなたは偉大だ。あなたを副将軍としてもよい。なんならもっと…」

「いや」信長は無表情のままきっぱりいった。「副将軍はけっこうでござる。ただし、この信長ひとつだけ願いがござる」

「それは?」

「和泉国の堺と、近江国の大津と草津に、代官所を置かせていただきたい」

 義昭はよく考えもせず、簡単に「どうぞどうぞ、代官所なりなんなり置いてくだされ。とにかくあなたはまろの御父上なのですから」と答えて、にやりとした。気色悪かった。

 信長には考えがあった。堺と、大津と草津は陸運の要所である。そこからとれる税をあてにしたのだ。そして信長は京都で、ある人物にあった。それは南蛮人、ルイス・フロイスで、あった。キリスト教宣教師の。                        

 秀吉と明智光秀は、再会、を喜びあった。一緒に河原でどじょう鍋をつっついた仲である。しかし、その明智光秀が信長を殺そうとは……そのとき秀吉には考えもしないことであった。



        5 堺に着眼



        堺に着眼



 大河ドラマや映画に出てくるような騎馬隊による全力疾走などというものは戦国時代には絶対になかった。疾走するのは伝令か遁走(逃走)のときだけであった。上級武士の騎馬武者だけが疾走したのでは、部下のほとんどを占める歩兵部隊は指揮者を失ってついていけなくなってしまう。

 よく大河ドラマであるような、騎馬隊が雲霞の如く突撃していくというのは実際にはなかった。だが、ドラマの映像ではそのほうがカッコイイからシーンとして登場するだけだ。工兵と緇重兵(小荷駄者)がところが、織田信長が登場してから、独立することになる。早々と兵農分離を押し進めた信長は、特殊部隊を創造した。毛利や武田ものちにマネることになるが、その頃にはもう織田軍はものすごい機動性を増し、東に西へと戦闘を始めることができた。そして、織田信長はさらに主計将校団の創設まで考案する。

 しかし、残念なことに信長のような天才についていける人材はほとんどいなかったという。羽柴(豊臣)秀吉、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀ら有能とみられていた家臣の多忙さは憐れなほどであるという。そのため信長は部下を方面軍司令官にしたり、次に工兵総領にしたり、築城奉行にしたり……と使いまくる。

 上杉謙信の軍が関東の北条家の城を攻略したこともあった。が、兵糧が尽きて結局、撤退している。まだ上杉謙信ほどの天才でも、工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離していなかったのである。その点からいえば、織田信長は上杉謙信以上の天才ということになる。

 この信長の戦略を継承したのが、のちの秀吉である。

 秀吉は北条家攻略のときに工兵と緇重兵(小荷駄者)を分離し、安定して食料を前線に送り、ついには北条家をやぶって全国を平定する。

 また、この当時、日本の度量衡はバラバラであった。大仏建立の頃とくらべて、室町幕府の代になると、地方によって尺、間、升、などがバラバラであった。信長はこれはいかんと思って、度量衡や秤を統一する。この点も信長は天才だった。

 信長はさらに尺、升、秤の統一をはかっただけでなく、貨幣の統一にも動き出す。しかも質の悪い銭には一定の割引率を掛けるなどというアイデアさえ考えた。

 悪銭の流通を禁止すれば、流動性の確保と、悪銭の保有を抑えられるからだ。

 減価償却と金利の問題がなければ、複式記帳の必要はない。仕分け別記帳で十分である。そこで、信長は仕分け別記帳を採用する。これはコンピュータを導入するくらい画期的なことであった。この記帳の導入の結果、十万もの兵に兵糧をとめどなく渡すことも出来たし、安土城も出来た。その後の秀吉の時代には大坂城も出来たし、全国くまなく太閤検地もできた。信長の天才、といわねばなるまい。


 京都に上洛するために信長は「矢銭」を堺や京都の商人衆に要求しようと思った。

「矢銭」とは軍事費のことである。

「サル!」

 信長は清洲城で羽柴秀吉(藤吉郎)をよんだ。サルはすぐにやってきた。

「ははっ、御屋形様! なんでござりましょう」

「サル」信長はにやりとして「堺や京都の商人衆に「矢銭」を要求しろ」

「矢銭、でござりまするか?」

「そうじゃ!」信長は低い声でいった。「出来るか? サル」

「ははっ! わたくしめにおまかせくださりませ!」秀吉は平伏した。

 自分が将軍・義昭を率いて上洛し、天下を統一するのだから、商人たちは戦いもせず利益を得ているのだから、平和をもたらす武将に金をだすべきだ……これが信長の考えだった。極めて現実的ではある。

 サルはさっそく堺にはいった。商人衆にいった。

「織田信長さまのために矢銭を出していただきたい」

秀吉は唾を飛ばしながらいった。周りの商人たちは笑った。

「織田信長に矢銭? なんでわてらが銭ださにゃあならんのや?」

「て……」秀吉はつまった。そして続けた。「天下太平のため! 天下布武のため!」

「天下太平のため? 天下布武のため? なにいうてまんねん」商人たちはにやにやした。「天下のため、堺衆のみなみなさまには信長さまに二万貫だしていただきたい!」

「二万貫? そんな阿呆な」商人たちは秀吉を馬鹿にするだけだった。

 京都も渋った。しかし、信長が威嚇のために上京を焼き討ちにすると驚愕して金をだした。しかし、堺は違った。拒絶した。しかも、信長や家臣たちを剣もホロロに扱った。 信長は「堺の商人衆め! この信長をナメおって!」とカッときた。

 だか、昔のように感情や憤りを表面にだすようなことはなかった。信長は成長したのだ。そして、堺のことを調べさせた。

 堺は他の商業都市とは違っていた。納屋衆というのが堺全体を支配していて、堺の繁栄はかれらの国際貿易によって保たれている。納屋衆は自らも貿易を行うが、入港する船のもたらす品物を一時預かって利益をあげている。堺の運営は納屋衆の中から三十六人を選んで、これを会合衆として合議制で運営されていること。堺を見た外国人は「まるでヴィニスのようだ」といっていること………。

 信長は勉強し、堺の富に魅了された。

 信長にとっていっそう魅力に映ったのは、堺を支配する大名がいないことであった。堺のほうで直接支配する大名を欲してないということだ。それほど繁栄している商業都市なら有力大名が眼をぎらぎらさせて支配しようと試みるはずだ。しかし、それを納屋衆は許さなかった。というより会合衆による「自治」が行われていた。

 それだけではなく、堺の町には堀が張りめぐらされ、町の各所には櫓があり、そこには町に雇われた浪人が目を光らせている。戦意も強い。

 しかし、堺も大名と全然付き合いがない訳でもなかった。三好三人衆とは懇篤なつきあいをしていたこともある。三好には多額な金品が渡ったという。

 もっとも信長が魅かれたのは、堺のつくる鉄砲などの新兵器であった。また、鉄砲があるからこそ堺は強気なのだ。

「堺の商人どもをなんとかせねばならぬ」信長は拳をつくった。「のう? サル」

「ははっ!」秀吉は平伏した。「堺の商人衆の鼻をあかしましょう」

 信長は足利義昭と二万五千人の兵を率いて上洛した。

 神も仏も将軍も天皇も崇めない信長ではあったが、この時ばかりは正装し、将軍を奉った。こうして、足利義昭は第十五代将軍となったのである。

 しかし、義昭など信長の”道具”にしかすぎない。

 信長はさっそく近畿一圏の関所を廃止した。これには理由があった。日本人の往来を自由にすることと、物流を円滑にすること。しかし、本当の目的は、いざというときに兵器や歩兵、兵糧などを運びやすくするためだ。そして、関所が物やひとから銭をとるのをやめさせ、新興産業を発展させようとした。

 関所はもともとその地域の産業を保護するために使われていた。近江国や伊勢国など特にそうで、一種に保護政策であり、規制であった。信長はそれを破壊しようとした。

 堺の連中は信長にとっては邪魔であった。また、信長がさらに強敵と考えていたのが、一向宗徒である。かれらの本拠地は石山本願寺だった。

 信長は石山本願寺にも矢銭を求めた。五千貫だったという。石山本願寺側ははじめしぶったが、素早く矢銭を払った。信長は、逆らえば寺を焼き討ちにしてくれようぞ、と思っていたが中止にした。

 永禄十二年(1569)正月、信長は正室・吉乃と光秀の妻・ひろ子らと酒を呑んでいた。正月で、皆、心がうかれていた。「御屋形様~っ」急に泥酔した寧々がやってきた。「寧々か」信長は声をかけた。寧々は泥酔したまま平伏し、「御屋形…さ…ま。サルめを…京から呼び戻してくだされ。……あの…サル…都の女子に…次々と…手を…かけ…」

 前田利家は「これこれ、御屋形様に何てことを…」と苦笑しながら寧々の肩に手をかけた。寧々は「御屋形様……わたしは悔しいのです…サルめが!」

 信長も妻の吉乃も笑った。一同、ほのかな笑いに包まれた。





         フロイス




 京都に第十五代将軍足利義昭がいた頃、三好三人衆が義昭を殺そうとしたことがある。信長は「大事な”道具”が失われる」と思いすぐに出兵し、三好一派を追い落とした。三好三人衆は堺に遁走し、匿われた。信長は烈火の如く激怒した。

「堺の商人め! 自治などといいながら三好三人衆を匿っておるではないか! この信長をナメおって!」

信長は憤慨した。焼き討ちにしてくれようか………

 信長はすぐに堺を脅迫しだした。

「自治都市などといいながら三好三人衆の軍を匿っておるではないか! この信長をナメるな!すぐに連中を撤退させよ。そして、前にいった矢銭を提供せよ。これに反する者たちは大軍を率いて攻撃し、焼き討ちにする」

 信長は本気だとわかり、堺の商人たちは驚愕した。

 しかし、べに屋や能登屋などの強行派は、

「信長など尾張の一大名に過ぎぬ。わてらは屈せず、雇った浪人たちに奮起してもろうて堺を守りぬこう」と強気だった。

 今井宗久らは批判的で、信長は何をするかわからない「ヤクザ」みたいなものだと見抜いていた。宗久は密かに信長に接近し、高価な茶道具を献上したという。

 堺の町では信長が焼き討ちをおこなうという噂が広がり、大パニックになっていた。自分たちは戦うにしても、財産や妻子だけは守ろうと疎開させる商人も続発する。

 そうしたすったもんだがあって、ついに堺の会合衆は矢銭を信長に払うことになる。

 しかし、信長はそれだけでは満足しなかった。

「雇っている浪人をすべてクビにしろ! それから浪人は一切雇うな、いいか?! 三好三人衆の味方もするな! そう商人どもに伝えよ!」

信長は阿修羅のような表情で伝令の武士に申しつけた。堺の会合衆は渋々従った。

「いままで通り、外国との貿易に精を出せ。そのかわり税を収めよ」

 信長はどこまでも強気だった。信長は人間を”道具”としてしかみなかった。堺衆は銭をとる道具だし、義昭は上洛して全国に自分の名を知らしめるための道具、秀吉や滝川一益、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀ら家臣は、”自分の野望を実現させるための道具”、である。信長は野望のためには何でも利用した。阿修羅の如き怒りによって………

 信長は修羅の道を突き進んだ。

 しかし、信長の偉いところは堺の自治を壊さなかったことだ。

 信長が事実上支配しても、自分の管理下に置かなかった。これはなかなか出来ることではない。しかし、信長は難なくやってのけた。天才、といわなければならない。

 この頃、信長の目を輝かせることがあった。外国人宣教師との出会いである。すなわちバテレンのキリスト教の宣教師で、南蛮・ポルトガルからの外人たちである。

 本当はパードレ(神父のこと)といったそうだが、日本では伴天連といい、パードレと呼ばせようとしたが、いつのまにかバテレンと日本読みが広がり、ついにバテレンというようになった。

 キリスト教の布教とはいえローマンカトリックであったという。イエズス会……それが彼等宣教師たちの団体名だ。そして、信長はその宣教師のひとりであるルイス・フロイスにあっている。フロイスはポルトガル人で、船で日本にやってきた若い青い目の白人男であった。フロイスはなかなか知的な男であり、キリスト教をなによりも大切にし、愛していたという。

 天文元年(一五三二)、ルイス・フロイスはポルトガルの首都リスボンで生まれた。子供の頃から、ポルトガルの王室の秘書庁で働いたという。天文十七年(一五四八)頃にイエズス会に入会した。そしてすぐインドに向かい、ゴアに着くとすぐ布教活動を始めた。この頃、日本人のヤジロウと日本に最初にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルにあったのだという。フロイスは日本への思いを募らせた。日本にいきたい、と思った。

 その年の七月、フロイスは船で九州の横瀬浦に着いた。

 フロイス時に三十一歳、信長も三十一歳であった。同い年なのだ。

 そして、その頃、信長は桶狭間で今川義元をやぶり、解放された松平元康と同盟を結んでいた。松平元康とはのちの徳川家康である。同盟の条件は、信長の娘五徳が、家康の嫡男信康と結婚することであった。永禄六年のことだ。

 日本に着いたフロイスは、まず日本語と日本文化について徹底的に研究勉強した。横瀬浦は九州の長崎である。そこにかれは降りたった訳だ。

 一度日本にきたフランシスコ・ザビエルは一時平戸にいたという。平戸の大名は松浦隆信であったらしいが、宣教師のもたらすキリスト教には感心をほとんど示さず、もっぱら貿易における利益ばかりを気にしていた。

 ザビエルもなかなかしたたかで、部下のバテレンたちに「日本の大名で、キリスト教布教を受け入れない者にはポルトガル船も入港させるな」と命じていたという。

 フロイスの着いたのは長崎の田舎であったから、受け入れる日本人の人情も熱く、素朴であったからフロイスは感銘を受けた。

 ……これならキリスト教徒としてやっていける…

 そんなフロイスが信長に会ったのは永禄十一年のことである。ちょうど信長が足利義昭を率いて上洛したときである。そして、遭遇した。

 謁見場は京都の二条城内であった。

 フロイスをセッテングしたのは信長の部下和田である。彼は、義昭が近江の甲賀郡に逃れてきたときに世話をした恩人であったという。忍者とかかわりあいをもつ。また和田の部下は、有名な高山重友(右近)である。

 右近はキリシタンである。洗礼を受けたのだ。

 フロイスが信長と謁見したときは通訳の男がついた。ロレンソというが日本人である。日本人で最初のイルマン(修道士)となっていた。洗礼を受け、イエズス会に入会したのである。










         フロイスと信長



 謁見場は京都の二条城内であった。

 フロイスが信長に会ったのは、永禄十二年(一五六九)四月三日のことだった。フロイスは和田に付き添われて、二条城内にはいった。信長は直接フロイスとは会わず、遠くから眺めているだけだった。

 フロイスはこの日、沢山の土産物をもってきていた。美しい孔雀の尾、ヨーロッパの鏡、黒いビロードの帽子……。信長は目の前に並んだ土産物を興味深く見つめたが、もらったのはビロードの帽子だけだったという。他にもガチョウの卵や目覚まし時計などあったが、信長は目覚まし時計に手をふれ、首をかしげたあと返品の方へ戻した。

 立ち会ったのは和田と佐久間信盛である。しかし、その日、信長はフロイスを遠くから見ていただけで言葉を交わさなかった。

「実をいえば、俺は、幾千里もの遠い国からきた異国人をどう対応していいかわからなかったのだ」のちに信長は佐久間や和田にそういったという。

「では……また謁見を願えますか?」和田は微笑んだ。

「よかろう」信長は頷いた。

 数日後、約束通り、フロイスと信長はあった。通訳にはロレンソがついた。

 信長はフロイスの顔をみると愛想のいい笑顔になり、「近うよれ」といった。

 フロイスが近付き、平伏すると、信長は「面をあげよ」といった。

「ははっ! 信長さまにはごきげんうるわしゅう」フロイスはたどたどしい日本語で、いった。かれは南蛮服で、首からは十字架をさげていた。信長は笑った。

 そのあと、信長は矢継ぎ早に質問していった。

「お主の年はいくつだ?」

「三十一歳でござりまする」フロイスはいった。

 信長は頷いて「さようか。わしと同じじゃ」といい続けた。「なぜ布教をする? ゼウスとはなんじゃ?」

 フロイスは微笑んで「ひとのために役立つキリスト教を日本にも広げたく思います。ゼウスとは神・ゼウス様のことにござりまする」とたどたどしくいった。

「ゼウス? 神? 釈迦如来のようなものか?」

「はい。そうです」

「では、日本人がそのゼウスを信じなければ異国に逃げ帰るのか?」

「いいえ」フロイスは首をふった。「たとえ日本人のなかでひとりしか信仰していただけないとしてもわれわれは日本にとどまりまする」

「さようか」信長は感心した。そして「で? ヨーロッパとやらまでは船で何日かかるのじゃ?」と尋ねた。是非とも答えがききたかった。

「二年」フロイスはゆっくりいった。

「………二年? それはそれは」信長は感心した。そんなにかかるのか…。二年も。さすがの信長も呆気にとられた。そんなにかかるのか、と思った。

 信長は世界観と国際性を身につけていた……というより「何でも知ってやろう」という好奇心で目をぎらぎらさせていた。そのため、利用できる者はなんでも利用した。

 だが、信長には敵も多く、争いもたえなかった。

 他人を罵倒し、殺し、暴力や武力によって服従させ、けして相手の自尊心も感情も誇りも尊重せず、自分のことばかり考える信長には当然大勢の敵が存在した。

 その戦いの相手は、いうまでもなく足利義昭であり、石山本願寺の総帥光佐の一向宗徒であり、武田信玄、上杉謙信、毛利、などであった。

         6 焼き討ち





         浅井長政の裏切り




「堺衆から二万貫とってまいりました!」秀吉は信長にいった。にこりと猿顔がゆがんだ。「よし! でかしたサル!」信長はいった。

「ははっ! 御屋形様のためにわたくしめ、粉骨砕身、頑張りまする!」秀吉は大声でいって平伏した。

「うるさいサルじゃのう」義昭は呆れた。


 確執も顕著になってきていた。織田信長と将軍・足利義昭との不仲が鮮明になった。

 義昭は将軍となり天皇に元号を「元亀」にかえることにさせた。しかし、信長は「元亀」などという元号は好きではなかった。そこで信長は元号を「天正」とあっさりかえてしまう。足利将軍は当然激怒した。しかし、義昭など信長のロボットみたいなものである。

 義昭は信長に剣もホロロに扱われてしまう。

 かれは信長の元で「殿中五ケ条」を発布、しかし、それも信長に無視されてしまう。

「あなたを副将軍にしてもよい」

 義昭は信長にいった。しかし、信長は餌に食いつかなかった。

 怒りの波が義昭の血管を走った。冷静に、と自分にいいきかせながらつかえつかえいった。「では、まろに忠誠を?」

「義昭殿はわしの息子になるのであろう? 忠誠など馬鹿らしい。息子はおやじに従っておればよいのじゃ」信長は低い声でいった。抑圧のある声だった。

「義昭殿、わしのおかげで将軍になれたことを忘れなさるな」

 信長の言葉があまりにも真実を突いていたため、義昭は驚いて、こころもち身をこわばらせた。百本の槍で刺されたように、突然、身体に痛みを感じた。信長は馬鹿じゃない。 しかし、おのれ信長め……とも思った。

 それは感情であり、怒りであった。自分を将軍として崇めない、尊敬する素振りさえみせず、将軍である自分に命令までする、なんということだ!

 その個人的な恨みによって、その感情だけで義昭は行動を起こした。

 義昭は、甲斐(山梨県)の武田信玄や石山本願寺、越後(新潟県)の上杉謙信、中国の毛利、薩摩(鹿児島県)の島津らに密書をおくった。それは、信長を討て、という内容であったという。

 こうして、信長の敵は六万あまりとふくらんだ。

 そうした密書を送ったことを知らない細川や和田らは義昭をなだめた。

 しかし、義昭は「これで信長もおしまいじゃ……いい気味じゃ」などと心の中で思い、にやりとするのであった。

 義昭と信長が上洛したとき、ひとりだけ従わない大名がいた。

 越前(福井県)の朝倉義景である。かれにしてみれば義昭は居候だったし、信長は田舎大名に過ぎない。ちょっと運がよかっただけだ。義昭を利用しているに過ぎない。

 信長は激怒し、朝倉義景を攻めた。

若狭にはいった信長軍はさっそく朝倉方の天筒山城、金ケ崎城を陥した。

「次は朝倉の本城だ」信長は激を飛ばした。

 だが、信長は油断した。油断とは、浅井長政の裏切り、である。

 北近江(滋賀県北部)の浅井長政の存在を軽く見ていた。油断した。

 浅井長政には妹のお市(絶世の美女であったという)を嫁にだした。いわば義弟だ。裏切る訳はない、と、タカをくくっていた。

 浅井長政は味方のはずである…………

 そういう油断があった。義弟が自分のやることに口を出す訳はない。そう思って、信長は琵琶湖の西岸を進撃した。東岸を渡って浅井長政の居城・小谷城を通って通告していれば事態は違っていただろうという。しかし、信長は、”美人の妹を嫁にやったのだから俺の考えはわかっているだろう”、という考えで快進撃を続けた。

 しかし、「朝倉義景を攻めるときには事前に浅井方に通告すること」という条約があった。それを信長は無視したのだ。当然、浅井長政は激怒した。

 お市のことはお市のこと、朝倉義景のことは朝倉義景のこと、である。通告もない、しかも義景とは父以来同盟関係にある。信長の無礼に対して、長政は激怒した。

 浅井長政は信長に対して反乱を起こした。前面の朝倉義景、後面の浅井長政によって信長ははさみ討ちになってしまう。こうして、長政の誤判断により、浅井家は滅亡の運命となる。それを当時の浅井長政は理解していただろうか。いや、かれは信長に勝てると踏んだのだ。甘い感情によって。

 金ケ崎城の陥落は四月二十六日、信長の元に「浅井方が反信長に動く」という情報がはいった。信長は、お市を嫁がせた義弟の浅井長政が自分に背くとは考えなかった。

 そんな時、お市から陣中見舞である「袋の小豆」が届く。

 布の袋に小豆がはいっていて、両端を紐でくくってある。

 信長はそれをみて、ハッとした。何かある………まさか!

 袋の中の小豆は信長、両端は朝倉浅井に包囲されることを示している。

「御屋形様……これは……」秀吉が何かいおうとした。秀吉もハッとしたのだ。

 信長はきっとした顔をして「包囲される。逃げるぞ! いいか! 逃げるぞ!」といった。彼の言葉には有無をいわせぬ響きがあった。戦は終わったのだ。信長たちは逃げるしかない。朝倉義景を殺す気でいたなら失敗した訳だ。だが、このまま逃げたままでは終わらない。まだ前哨戦だ。刀を交えてもいない。時間はかかるかも知れないが、信長は辛抱強く待ち、奇策縦横にもなれる男なのだ。

 ……くそったれめ! 朝倉義景も浅井長政もいずれ叩き殺してくれようぞ!

 長政め! 長政め! 長政め! 長政め! 信長は下唇を噛んだ。そして考えた。

……殿(後軍)を誰にするか……

 殿は後方で追撃くる敵と戦いながら本軍を脱出させる役目を負っていた。そして、同時に次々と殺されて全滅する運命にある。その殿の将は、失ってしまう武将である。誰にしてもおしい。信長は迷った。

「殿は誰がいい?」信長は迷った。

 柴田勝家、羽柴秀吉、そして援軍の徳川家康までもが「わたくしを殿に!」と志願した。 信長は三人の顔をまじまじと見て、決めた。

「サル、殿をつとめよ」

「ははっ!」サル(秀吉)はそういうと、地面に手をついて平伏した。信長は秀吉の顔を凝視した。サルも見つめかえした。信長は考えた。

 今、秀吉を失うのはおしい。天下とりのためには秀吉と光秀は”両腕”として必要である。知恵のまわる秀吉を失うのはおしい。しかし、信長はぐっと堪えた。

「サル、頼むぞ」信長はいった。

「おまかせくださりませ!」サルは涙目でいった。

 いつもは秀吉に意地悪ばかりしていた勝家も感涙し、「サル、わしの軍を貸してやろうか?」といい、家康までもが「秀吉殿、わが軍を使ってくだされ」といったという。

 占領したばかりの金ケ崎城にたてこもって、秀吉は防戦に努めた。

「悪党ども、案内いたせ」

 信長はこういうときの行動は早い。いったん決断するとグズグズしない。そのまま馬にのって突っ走りはじめた。四月二十八日のことである。三十日には、朽木谷を経て京都に戻った。朽木元綱は信長を無事に案内した。

 この朽木元綱という豪族はのちに豊臣秀吉の家臣となり、二万石の大名となる。しかし、家康の元についたときは「関ケ原の態度が曖昧」として減封されているという。だが、それでもかれは「家禄が安泰となった」と思った。

 朽木は近江の豪族だから、信長に反旗をひるがえしてもおかしくない。しかし、かれに信長を助けさせたのは豪族としての勘だった。この人なら天下をとるかも知れない、と思ったのだ。歴史のいたずらだ。もし、このとき信長や秀吉、そして家康までもが浅井朝倉軍にはさみ討ちにされ戦死していたら時代はもっと混沌としたものになったかも知れない。 とにかく、信長は逃げのびた。秀吉も戦死しなかったし、家康も無事であった。

 京都にかろうじて入った信長は、五月九日に京都を出発して岐阜にもどった。しかし、北近江を通らず、千種越えをして、伊勢から戻ったという。身の危険を感じていたからだ。 浅井長政や朝倉義景や六角義賢らが盛んに一向衆らを煽って、

「信長を討ちとれ!」と、さかんに蜂起をうながしていたからである。

 六角義賢はともかく、信長は浅井長政に対しては怒りを隠さなかった。

「浅井長政め! あんな奴は義弟とは思わぬ! 皆殺しにしてくれようぞ!」

 信長は長政を罵った。

 岐阜に戻る最中、一向衆らの追撃があった。千種越えには蒲生地区を抜けた。その際、蒲生賢秀(氏郷の父)が土豪たちとともに奮起して信長を助けたのだという。

 この時、浅井長政や朝倉義景が待ち伏せでもして信長を攻撃していたら、さすがの信長も危なかったに違いない。しかし、浅井朝倉はそれをしなかった。そして、そのためのちに信長に滅ぼされてしまう運命を迎える。信長の逆鱗に触れて。

 信長は痛い目にあったが、助かった。死ななかった。これは非常に幸運だったといわねばなるまい。とにかく信長は阿修羅の如く怒り狂った。

 信長は思った。皆殺しにしてくれる! 





         姉川の戦い



 浅井朝倉攻めの準備を、信長は五月の頃にしていた。

 秀吉に命じてすっかり接近していた堺の商人・今井宗久から鉄砲を仕入れ、鉄砲用の火薬などや兵糧も大坂から調達した。信長は本気だった。

「とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない」信長はそう信じた。

 しかし、言葉では次のようにいった。「これは聖戦である。わが軍こそ正義の軍なり」

 信長は着々と準備をすすめた。猪突盲進で失敗したからだ。

 岐阜を出発したのは六月十九日のことだった。

 とにかく、浅井長政や朝倉義景を殺さねばならない! 俺をなめるとどうなるか思い知らせてやる! ………信長は興奮して思った。

 国境付近にいた敵方の土豪を次々に殺した。北近江を進撃した。

 目標は浅井長政の居城・小谷城である。しかし、無理やり正面突破することはせず、まずは難攻不落な城からいぶり出すために周辺の村々を焼き払いながら、支城横山城を囲んだ。二十日、主力を率いて姉川を渡った。そして、いよいよ浅井長政の本城・小谷城に迫った。小谷城の南にある虎姫山に信長は本陣をかまえた。長政は本城・小谷城からなかなか出てこなかった。かれは朝倉義景に援軍をもとめた。信長は仕方なく横山城の北にある竜が鼻というところに本陣を移した。二十四日、徳川家康が五千の軍勢を率いて竜が鼻へやってきた。かなり暑い日だったそうで、家康は鎧を脱いで、白い陣羽織を着ていたという。信長は大変に喜んで、

「よく参られた」と声をかけた。

 とにかく、山城で、難攻不落の小谷城から浅井長政を引き摺り出さなければならない。そして、信長の願い通り、長政は城を出て、城の東の大寄山に陣を張った。朝倉義景からの援軍もきた。しかし、大将は朝倉義景ではなかった。かれは来なかった。そのかわり大将は一族の孫三郎であったという。その数一万、浅井軍は八千、一方、信長の軍は二万三千、家康軍が六千………あわせて二万九千である。兵力は圧倒的に勝っている。

 浅井の軍は地の利がある。この辺りの地理にくわしい。そこで長政は夜襲をかけようとした。しかし、信長はそれに気付いた。夜になって浅井方の松明の動きが活発になったからだ。信長は柳眉を逆立てて、

「浅井長政め! 夜襲などこの信長がわからぬと思ってか!」と腹を立てた。…長政め! どこまでも卑怯なやつめ!

 すると家康が進みでていった。

「明日の一番槍は、わが徳川勢に是非ともお命じいただきたい」

 信長は家康の顔をまじまじとみた。信長の家臣たちは目で「命じてはなりませぬ」という意味のうずきをみせた。が、信長は「で、あるか。許可しよう」といった。

 家康はうきうきして軍儀の場を去った。

 信長の家臣たちは口々に文句をいったが、信長が「お主ら! わしの考えがわからぬのか! この馬鹿ものどもめ!」と怒鳴るとしんと静かになった。

 するとサルが「徳川さまの面目を重んじて、機会をお与えになったのでござりましょう? 御屋形様」といった。

「そうよ、サル! さすがはサルじゃ。家康殿はわざわざ三河から六千もの軍勢をひきいてやってきた。面目を重んじてやらねばのう」信長は頷いた。

 翌朝午前四時、徳川軍は朝倉軍に鉄砲を撃ちかけた。姉川の合戦の火蓋がきって落とされたのである。朝倉方は一瞬狼狽してひるんだ。が、すぐに態勢をもちなおし、徳川方が少勢とみて、いきなり正面突破をこころみてすすんできた。徳川勢は押された。

「押せ! 押せ! 押し流せ!」

 朝倉孫三郎はしゃにむに軍勢をすすめた。徳川軍は苦戦した。家康の本陣も危うくなった。家康本人も刀をとって戦った。しかし、そこは軍略にすぐれた家康である。部下の榊原康政らに「姉川の下流を渡り、敵の側面にまわって突っ込め!」と命じた。

 両側面からのはさみ討ちである。一角が崩れた。朝倉方の本陣も崩れた。朝倉孫三郎らは引き始めた。孫三郎も窮地におちいった。

 信長軍も浅井長政軍に苦しめられていた。信長軍は先陣をとっくにやぶられ、第五陣の森可政のところでかろうじて敵を支えていたという。しかし、急をしって横山城にはりついていた信長の別導隊の軍勢がやってきて、浅井軍の左翼を攻撃した。家康軍の中にいた稲葉通朝が、敵をけちらした後、一千の兵をひきいて反転し、浅井軍の右翼に突入した。 両側面からのはさみ討ちである。浅井軍は総崩れとなった。

 浅井長政は命からがら小谷城に逃げ帰った。

「一挙に、小谷城を落とし浅井長政の首をとりましょう」

 秀吉は興奮していった。すると信長はなぜか首を横にふった。

「ひきあげるぞ、サル」

 秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。いつものお館らしくもない………。しかし、浅井長政は妹・お市の亭主だ。なにか考えがあるのかもしれない。なにかが………

 こうして、信長は全軍を率いて岐阜にひきあげていった。




         焼き討ち



 三好党がたちあがると石山本願寺は、信長に正式に宣戦布告した。

 織田信長が、浅井長政の小谷城や朝倉義景の越前一乗谷にも突入もせず岐阜にひきあげたので、「信長は戦いに敗れたのだ」と見たのだ。

 信長は八月二十日に岐阜を出発した。そして、横山城に拠点を置いた後、八月二十六日に三好党の立て籠もっている野田や福島へ陣をすすめた。

 将軍・足利義昭もなぜか九月三日に出張ってきたという。実は、本願寺や武田信玄や上杉らに「信長を討て」密書を送りつけた義昭ではあったが、このときは信長のもとにぴったりとくっついて行動した。

 本願寺の総帥光佐(顕如)上人は、全国の信徒に対して、「ことごとく一揆起こりそうらえ」と命じていた。このとき、朝倉義景と浅井長政もふたたび立ち上がった。

 信長にしたって、坊主どもが武器をもって反旗をひるがえし自分を殺そうとしている事など理解できなかったに違いない。しかし、神も仏も信じない信長である。

「こしゃくな坊主どもめ!」と怒りを隠さなかった。

 足利義昭の命令で、比叡山まで敵になった。

 反信長包囲網は、武田信玄、浅井長政、朝倉義景、佐々木、本願寺、延暦寺……ぞくぞくと信長の敵が増えていった。

 浅井長政、朝倉義景攻撃のために信長は出陣した。その途中、信長軍は一揆にあい苦戦、信長の弟彦七(信与)が殺された。

 信長は陣営で、事態がどれだけ悪化しているか知らされるはめとなった。相当ひどいのは明らかだ。弟の死を知って、信長は激怒した。「こしゃくな!」と怒りを隠さなかった。「比叡山を……」信長は続けた。「比叡山を焼き討ちにせよ!」

「なんと?!」秀吉は驚いて目を丸くした。いや、秀吉だけではない。信長の家臣たちも顔を見合わせた。そて、口々に反対した。

「比叡山は由緒ある寺……それを焼き討つなどもっての他です!」

「坊主や仏像を焼き尽くすつもりですか?!」

「天罰が下りまするぞ!」

 家臣たちが口々に不平を口にしはじめたため、信長は柳眉を逆立てて怒鳴った。

「わしに反対しようというのか?!」

「しかし…」秀吉は平伏し「それだけはおやめください! 由緒ある寺や仏像を焼き払って坊主どもを殺すなど……魔王のすることです!」

 家臣たちも平伏し、反対した。信長は「わしに逆らうというのか?!」と怒鳴った。

「神仏像など、木と金属で出来たものに過ぎぬわ! 罰などあたるものか!」

 どいつもこいつも考える能力をなくしちまったのか。頭を使う……という……簡単な能力を。「とにかく焼き討ちしかないのじゃ! わかったか!」家臣たちに向かって信長は吠えた。ズキズキする痛みが頭蓋骨のうしろから目のあたりまで広がって、家臣たちはすくみあがった。”御屋形様は魔王じゃ……”家臣たちは恐ろしくなった。

 九月二十日、信長は焼き討ちを命じた。まず、日吉神社に火をつけ、さらに比叡山本堂に火をつけ、坊主どもを皆殺しにした。保存してあった仏像も経典もすべて焼けた。

 こうして、日本史上初めての寺院焼き討ち、皆殺し、が実行されたのである。     

 焼き討ちのあと、鎧姿でザンバラ髪の秀吉と弟の秀長は河川で茫然としていた。焼けこげた小さな仏像があった。秀吉はそれを手にとり、涙を流し「お許しくだされ……お許し下され」と祈った。 ふたりとも虚脱感と疲労と困惑で、どうにかなりそうだった。

 ふたりは何ひとつ言葉がでなかった。絶望…慙愧……とにかく頭がフライにされたように疲れていた。すると横たわった子供が息をしていた。辺りには坊主や尼の死体が横たわっている。「生きとるぞ! 小一郎! 子供が生きとる!」

 秀吉は絶望の中から希望をみいだした。子供が……生きている…

 ふたりはとにかく奇声をあげて、から笑いをした。そうすることで神仏から許されるかのごとく……。



 


        7 どくろ杯





        三方が原の戦い




    

 武田信玄は、信長にとって最大の驚異であった。

 信玄は自分が天下人となり、上洛して自分の旗(風林火山旗)を掲げたいと心の底から思っていた。この有名な怪人は、軍略に優れ、長尾景虎(上杉謙信)との川中島合戦で名を知られている強敵だ。剃髪し、髭を生やしている。僧侶でもある。

 武田信玄は本願寺の総帥・光佐とは親戚関係で、要請を受けていた。また、将軍・足利義昭の親書を受け取ったことはかれにいよいよ上洛する気分にさせた。

 元亀三年(一五七二)九月二十九日、武田信玄は大軍を率いて甲府を出発した。

 信玄は、「織田信長をなんとしても討とう」と決めていた。その先ぶれとして信玄は遠江に侵攻した。遠江は家康の支配圏である。しかし、信玄にとって家康は小者であった。 悠然とそこを通り、京へと急いだ。家康は浜松城にいた。

 浜松城に拠点を置いていた家康は、信玄の到来を緊張してまった。織田信長の要請で、滝川一益、佐久間信盛、林通勝などが三千の兵をつけて応援にかけつけた。だが、信長は、「こちらからは手をだすな」と密かに命じていた。

 武田信玄は当時、”神将”という評判で、軍略には評判が高かった。その信玄とまともにぶつかったのでは勝ち目がない。と、信長は思ったのだ。それに、武田が遠江や三河を通り、岐阜をすぎたところで家康と信長の軍ではさみ討ちにすればよい……そうも考えていた。しかし、それは裏目に出る。家康はこのとき決起盛んであった。自分の庭同然の三河を武田信玄軍が通り過ぎようとしている。

「今こそ、武田を攻撃しよう」家康はいった。家臣たちは「いや、今の武田軍と戦うのは上策とは思えません。ここは信長さまの命にしたがってはいかがか」と口々に反対した。 家康はきかなかった。真っ先に馬に乗り、駆け出した。徳川・織田両軍も後をおった。 案の定、家康は三方が原でさんざんに打ち負かされた。家康は馬にのって、命からがら浜松城に逃げ帰った。そのとき、あまりの恐怖に馬上の家康は失禁し、糞尿まみれになったという。とにかく馬を全速力で走らせ、家康は逃げた。

 家康の肖像画に、顎に手をあてて必死に恐怖にたえている画があるが、敗戦のときに描かせたものだという。それを家臣たちに見せ、生涯掲げた。

 ……これが、三方が原で武田軍に大敗したときの顔だ。この教訓をわすれるな。決起にはやってはならぬのだ。………リメンバー三方が原、というところだろう。

 もし信玄が浜松城に攻め込んで家康を攻めたら、家康は完全に死んでいたろう。しかし、信玄はそんな小さい男ではない。そのまま京に向けて進軍していった。

 だが、運命の女神は武田信玄に微笑まなかった。

 かれの持病が悪化し、上洛の途中で病気のため動けなくなった。もう立ち上がることさえできなくなった。伊那郡で枕元に息子の勝頼をよんだ。

 自分の死を三年間ふせること、遺骨は大きな瓶に入れて諏訪湖の底に沈めること、勝頼は自分の名跡を継がないこと、越後にいって上杉謙信と和睦すること、などの遺言を残した。そして、武田信玄は死んだ。

 信玄の死をふして、武田全軍は甲斐にもどっていった。

 だが、勝頼は父の遺言を何ひとつ守らなかった。すぐに信玄の名跡を継いだし、瓶につめて諏訪湖に沈めることもしなかった。信玄の死も、忍びによってすぐ信長の元に知らされた。信長は喜んだ。織田信長にとって、信玄の死はラッキーなことである。

信長は手をたたいて喜んだ。「天はわしに味方した。好機到来だ」




       8  室町幕府滅亡



 信玄の死を将軍・足利義昭は知らなかった。

 そこでかれは、武田信玄に「信長を討て」と密書を何通もおくった。何も返事がこない。朝倉義景に送っても何の反応もない。本願寺は書状をおくってきたが、芳しくない。

 義昭は七月三日、蜂起した。二条城に武将をいれて、槙島城を拠点とした。義昭に忠誠を尽くす真木氏がいて、兵をあつめた。その数、ほんの三千八百あまり……。

 知らせをきいた信長は激怒した。

「おのれ、義昭め! わしを討てと全国に書状をおくったとな? 馬鹿めが!」信長は続けた。「もうあやつは用なしじゃ! 馬鹿が、雉も鳴かずばうたれまいに」

 七月十六日、信長軍は五万の兵を率いて槙島城を包囲した。すると、義昭はすぐに降伏した。しかし、信長は許さなかった。

”落ち武者”のようなザンバラ髪に鎧姿の将軍・足利義昭は信長の居城に連行された。

「ひい~つ」義昭おびえていた。殺される……そう思ったからだ。

「義昭!」やってきた信長が声をあらげた。冷たい視線を向けた。

 義昭はぶるぶる震えた。小便をもらしそうだった。自分の蜂起は完全に失敗したのだ。もう諦めるしかない……まろは……殺される?

「も…もういたしませぬ! もういたしませぬ! 義父上!」

 かれは泣きべそをかき、信長の足元にしがみついて命乞いをした。「もういたしませぬ! 義父上!」将軍・足利義昭のその姿は、気色悪いものだった。

 だが、信長の顔は冷血そのものだった。もう、義昭など”用なし”なのだ。

「光秀、こやつを殺せ!」信長は、明智光秀に命じた。「全員皆殺しにするのじゃ!」

 光秀は「しかし……御屋形様?! 将軍さまを斬れと?」と狼狽した。

「そうじゃ! 足利義昭を斬り殺せ!」信長は阿修羅の如き顔になり吠えた。

 しかし、止めたのは秀吉だった。「なりませぬ、御屋形様!」

「なんじゃと?! サル」

「御屋形様のお気持ち、このサル、いたいほどわかり申す。ただ、将軍を殺せば松永久秀や三好三人衆と同じになりまする。将軍殺しの汚名をきることになりまする!」

 信長は無言になり、厳しい冷酷な目で秀吉をみていた。しかし、しだいに目の阿修羅のような光が消えていった。

「……わかった」信長はゆっくり頷いた。

 秀吉もこくりと頷いた。

 こうして、足利義昭は命を救われたが、どこか地方へと飛ばされ隠居した。こうして、足利尊氏以来、二百四十年続いた室町幕府は、第十五代将軍・足利義昭の代で滅亡した。










         どくろ杯




 信長は珍しく神棚に祈っていた。もう深夜だった。ろうそくの明りで室内は鬼灯色になっていた。秀吉はにこりと笑って、「神に祈っておられるのでか? 御屋形様」といった。

そして、はっとした。除くと、神棚には仏像も何もない。ただ鏡があって、そこに信長の顔が写しだされていたからだ。信長は”自分”に祈っていたのだ。

 秀吉はそら恐ろしい気分だったに違いない。


 大軍をすすめ信長は、越前(福井県)に突入した。北近江の浅井長政はそのままだ。一乗谷城の朝倉義景にしてもびっくりとしてしまった。

 義景にしてみれば、信長はまず北近江の浅井長政の小谷山城を攻め、次に一乗谷城に攻め入るはずだと思っていた。しかし、信長はそうではなかった。一揆衆と戦った経験から、信長軍はこの辺の地理にもくわしくなっていた。八月十四日、信長は猛スピードで進撃してきた。朝倉義景軍は三千人も殺された。信長は敦賀に到着している。

 織田軍は一乗谷城を包囲した。義景は「自刀する」といったが部下にとめられた。義景は一乗谷城を脱出し、亥山(大野市)に近い東雲寺に着いた。

「一乗谷城すべてを焼き払え!」信長は命じた。

 城に火が放たれ、一乗谷城は三日三晩炎上し続けた。それから、義景はさらに逃亡を続けた。が、懸賞金がかけられると親戚の朝倉景鏡に百あまりの軍勢でかこまれてしまう。 朝倉義景のもとにいるのはわずかな部下と女人だけ………

 朝倉義景は自害、享年四十一歳だったという。

 そして、北近江の浅井長政の小谷山城も織田軍によって包囲された。

 長政は落城が時間の問題だと悟った。朝倉義景の死も知っていたので、援軍はない。八月二十八日、浅井長政は部下に、妻・お市(信長の妹)と三人の娘(茶々(のちの秀吉の側室・淀君)、お初、お江(のちの家康の次男・秀忠の妻)を逃がすように命じた。

 お市と娘たちを確保する役回りは秀吉だった。

「さぁ、はやく逃げるのだ」浅井長政は心痛な面持ちでいった。

 お市は「どうかご一緒させてください」と涙ながらに懇願した。

 しかし、長政は頑固に首を横にふった。

「お主は信長の妹、まさか妹やその娘を殺すことはしまい」

「しかし…」

「いけ!」浅井長政は低い声でいった。「はやく、いくのだ! さぁ!」

 秀吉はにこにこしながら、お市と娘たちを受け取った。

 浅井長政は、信長の温情で命を助けられそうになった。秀吉が手をまわし、すでに自害している長政の父・久政が生きているから出てこい、とやったのだ。

 浅井長政は、それならばと城を出た。しかし、誰かが、「久政様はすでに自害している」と声をあげた。そこで浅井長政は、

「よくも織田信長め! またわしを騙しおったか!」と激怒し、すぐに家老の屋敷にはいり、止める間もなく切腹してしまった。

 信長は激しく怒り、「おのれ! 長政め、命だけは助けてやろうと思うたのに……馬鹿なやつめ!」とかれを罵った。


 天正二年(一五七四)の元日、岐阜城内は新年の祝賀でにぎわっていた。

 信長は家臣たちににやりとした顔をみせると、「あれを持ってこい」と部下に命じた。ほどなく、布につつまれたものが盆にのせて運ばれてきた。

「酒の肴を見せる」

信長はにやりとして、顎で命じた。布がとられると、一同は驚愕した。盆には三つの髑髏があったからだ。人間の頭蓋骨だ。どくろにはそれぞれ漆がぬられ、金箔がちりばめられていた。信長は狂喜の笑い声をあげた。

「これが朝倉義景、これが浅井久政、浅井長政だ」

 一同は押し黙った。………信長さまはそこまでするのか……

 お市などは失神しそうだった。秀吉たちも愕然とした。

「この髑髏で酒を飲め」信長は命じた。部下が頭蓋骨の頂点に手をかけると、皿のようになった頭蓋骨の頭部をとりだし、酒をついだ。

「呑め!」信長はにやにやしていた。家臣たちは、信長さまは狂っている、と感じた。酒はもちろんまずかった。とにかく、こうして信長の狂気は、始まった。         


 天正三年(1575年)夏、秀吉の城・長浜城が完成した。本当の地名は岩浜だったが、信長の長をとって”長浜城”となったという。そこに、母なかも妹も竹阿弥も弟もきた。「えぇ、城じゃ」なかは笑った。一同も笑った。

「どうじゃい、竹阿弥! わしは城持ち大名じゃぞ!」秀吉は胸を張った。

「えらいものじゃ」竹阿弥は珍しく、秀吉をほめた。

 坂本城(光秀の居城)で娘のたま(のちの細川ガラシャ)は、信長の酒席で”能”を披露した。これに負けじと、秀吉となかはぼろぼろの服をきて、百姓踊りを披露したという。一同は笑った。信長も珍しく笑った。

「秀吉、信長さまが笑ろうとるぞ」なかは嬉しくなって呟いた。踊りを続けた。

「百姓! 見事な舞いじゃ!」

 信長は笑いながらそういった。



         9 本能寺の変




         長篠の合戦と安土城





 正室・築山殿と嫡男・信康が武田勝頼と内通しているという情報を知った信長は、激怒した。そして、家康に「貴殿の妻と息子のふたりとも殺すように」という書状を送った。

「……何?」その書状があまりにも突然だったため、家康は自分の目をほとんど信じられなかった。築山と、信康が武田勝頼と内通? まさか!

「殿!」家臣が声をかけたが、家康は視線をそむけたままだった。「まさか…」目をそむけたまま、かれはつぶやいた。「殺す? 妻子を……?」

「殿! ……なりませぬ。今、信長殿に逆らえば皆殺しにされまする」

 家臣の言葉に、家康は頷いた。「妻子が武田と内通しているとはまことか?」

「わかりませぬ」家臣は正直にいった。「しかし、疑いがある以上……いたしかたなし」

 家康は茫然と、遠くを見るような目をした。暗い顔をした。

 ほどなく、正室・築山殿と嫡男・信康は殺された。徳川家の安泰のためである。

 家康は落胆し、憔悴し、「力なくば……妻子も……救えぬ」と呟いた。

 それは微かな、暗い呟きだった。


 信長は”長島一揆””一向一揆”を実力で抑えつけた。

 そして、有名な武田信玄の嫡男・勝頼との”長篠の合戦”(一五七五年)にのぞんだ。あまりにも有名なこの合戦では鉄砲の三段構えという信長のアイデアが発揮された。

 信長は設楽が原に着陣すると、丸たん棒や木材を運ばせ、二重三重の柵をつくらせた。信長は武田の騎馬隊の恐ろしさを知っていた。だから、柵で進撃を防ごうとしたのだ。

 全面は川で、柵もできて武田の騎馬隊は前にはすすめない。

 信長は柵の裏手に足軽三千人を配置し、三列ずつ並ばせた。皆、鉄砲をもっている。火縄銃だ。当時の鉄砲は一発ずつしか撃てないから、前方が撃ったら、二番手、そして三番手、そして、前方がその間に弾をこめて撃つ……という速射戦術であった。

 案の定、武田勝頼の騎馬隊が突っ込んできた。

「撃て! 放て!」信長はいった。

 三段構え銃撃隊が連射していくと、武田軍はバタバタとやられていった。ほとんどの武田軍の兵士は殺された。武田の足軽たちは「これは不利だ」と見て逃げ出す。

 武田勝頼は刀を抜いて、「逃げるな! 死ね! 死ね! 生きて生き恥じを晒すな!」と叫んだ。が、足軽たちはほとんど農民らの徴兵なので全員逃げ出した。

 武田の足軽が農民なのに対して、信長の軍はプロの兵士である。最初から勝負はついていた。騎馬隊さえ抑えれば信長にとっては「こっちのもん」である。

 こうして、”長篠の合戦”は信長の勝利に終わった。

 これで東側からの驚異は消えた訳だ。

 残る強敵は、石山本願寺と上杉謙信だけであった。


 絢爛豪華な安土城を築いた。信長は岐阜から、居城を安土に移したのだ。

 城には清涼殿(天皇の部屋)まであったという。つまり、天皇まで京から安土に移して自分が日本の王になる、という野望だった。それだけではなく、信長は朝廷に暦をかえろ、とまで命令した。明智光秀にとってはそれは我慢のならぬことでもあった。

 また、信長は「余を神とあがめよ」と命じた。自分を神と崇め、自分の誕生日の五月十二日を祝日とせよ、と命じたのだ。なんというはバチ当たりか……

「それだけはおやめくだされ!」こらえきれなくなって、林通勝がくってかかった。信長はカッときた。「なんじゃと?!」

「信長さまは人間にござりまする! 人間は神にはなれませぬ!」

 林は必死にとめた。

「……林! おのれはわしがどれだけ罵倒されたか知っておるだろう?!」怒鳴った。そして、「わしは神じゃ!」と短刀を抜いて自分の肩を刺した。林通勝は驚愕した。

 しかし、信長は冷酷な顔を変えることもなく、次々に短刀で自分をさした。赤赤とした血がしたたる。………

 林通勝の血管を、感情が、熱いものが駆けめぐった。座敷に立ち尽くすのみだ。斧で切り倒されたように唖然として。

「お……お……御屋形様…」あえぎあえぎだが、ようやく声がでた。なんという……

「御屋形様は……神にござる!」通勝は平伏した。信長は血だらけになりながら「うむ」と頷いた。その顔は激痛に歪むものではなく、冷酷な、果断の顔であった。

  天正七年(1579)初夏。秀吉は中国地方の毛利攻めを命じられた。秀吉は喜んだ。しかし、その最中、明智光秀が母を人質として和睦しようとしていた武将を、信長が殺した。当然ながら光秀の母は殺された。「母御前……」光秀は愕然となった。

「信長は鬼じゃ! 信長は鬼じゃ!」歯をぎりぎりいわせながら、秀吉は信長にいった。「頭を冷やしなはれ、秀吉殿」千宗易(のちの利休)は秀吉を諫めた。


話を戻す。

城持ち大名となり、昇り龍の如く出世街道まっしぐらの秀吉は弟小一郎・秀長の恋人・しのに不満であった。しのは百姓の娘で畑仕事ばかりの身分卑しいおなご………。秀吉は自分自身が一塊の百姓上がりなのを忘れたかのように結婚を反対する。

寧々が諫めるが効かなかった。

秀吉は秀長には武家の娘こそふさわしい、と思っていたのだという。

だが、一度は秀長としのは離別したものの、攻め入った落城の城の中にしのがいた。

「しのではないか」

「だれです?」しのは眼を負傷して盲目となっていた。

「しの! わしじゃ! 秀長じゃ!」

「……ひ、秀長さま! 何故ここに?」

「しの! わしの女房になってくれ、頼む!」

「……しかし、わたしはこのとおり盲目となりました。足手まといになりとうありませぬ。」

「しの! 誰が足手まといなものか! いいから、わしの女房になれ!」

「……秀長…さま? 秀長さま!」

「しの!」

ふたりは号泣して抱き合った。

こうして秀長はしのと婚儀を挙げるのである。

話は変わりますが『本能寺の変』で織田信長が四十九歳で、明智光秀に本能寺で討たれると秀吉は奇跡的ないわゆる『中国大返し』で明智光秀を討ち滅ぼし、『清洲会議』で天下をかすめ取ります。その合戦の間に寧々やなかたちは山奥の寺へ逃げますが、途中に山賊に襲われ寧々は必死になかやややたちを守るために正当防衛で山賊を殺めます。

「わたしは…ひとを……殺してしもうた」

血だらけの手を見て、寧々は混乱し、慚愧したという。

お市の方は子供(浅井三姉妹・茶々・初・江)と共に越前・北ノ庄城の柴田勝家の元にいく。いわゆる『賤ケ岳の合戦』で、秀吉軍は柴田勝家をやぶり、勝家とお市の方は炎上する城で自害。浅井三姉妹は秀吉の元に、という歴史です。

いよいよ天下人となった秀吉は”征夷大将軍”になりたい、と寧々に夢を語った。

この国では”征夷大将軍”こそが国王の筈だから。

だが、百姓上がりの秀吉は”征夷大将軍”には、なれなかった。

話を戻す。





**********

豊臣秀吉最新研究の豊臣秀吉、その真実  四

 ミステリィの謎解きのその次のパートです。

まずは、豊臣秀吉の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。


逸話

人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられる。

度量の大きさでも知られ、九州の役において降伏した島津義久に対し、丸腰の義久に自らの佩刀を与え、また小田原征伐で遅参した伊達政宗に佩刀を預け石垣山の崖上で二人きりになった。

両名とも隙だらけでありながら秀吉の度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかったという。

他にも小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。

また家康の片腕であり秀吉との折衝役であった石川数正が出奔した際、自らの配下とした。

賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の菅笠を買い敵味方の区別なく被せて回り、「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」とも評価される(『賤ヶ岳合戦記』)。

また賤ヶ岳の戦い後、小早川隆景に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。

ほかにも関白就任後、秀吉が可愛がっていた鶴が飼育係の不注意から飛んで逃げた。飼育係は、打ち首覚悟で秀吉に隠さずに報告したが、「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したという(『名将言行録』)。

小田原征伐の際、鎌倉の鶴岡八幡宮の白旗の宮を訪ね、源頼朝の木像に向かい「小身から四海を平定し天下を手中にしたのは貴方とこのわしだけであり、我らは天下友達である。しかし貴方は御門(みかど)の御後胤で、父祖は東国の守護であり、故に流人の身から挙兵しても多くの者が従った。わしは、元々は卑賤の出で、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったという(『川角太閤記』)。

秀吉は「大気者」だったともいわれているが、狭量な面もあり、世評を気にした。

北野大茶会や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。

一方、聚楽第に自身を非難する落書が書かれた際は、犯人を探索し7人を鼻削ぎ耳切りにした上で倒磔に処したのち、老若男女63人を磔、最終的には130人に刑罰を下している(『鹿苑日録』)。

人を殺すことを嫌う人物とされる秀吉であるが、実際には元亀2年(1571年)に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』『信長公記』)、天正5年(1577年)に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、子供は串刺しに、女は磔にして200人以上処刑している(同年12月5日の羽柴秀吉書状)。

母・大政所への孝養で知られる。

小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と妹を人質として家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。

天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出している。

朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒し、しばらくはまともに喋ることもできなかった。

大政所の三回忌では「なき人の形見の髪を手に触れ包むに余る涙悲しも」という句を詠んでいる。

戦国大名は主君と臣下の男色(衆道)を武士の嗜みとしていたが、武士出身ではない秀吉は衆道への関心がなかった。

当時比類なき美少年と評判だった小姓の羽柴長吉に対しても「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる(『老人雑話』)。


ルイス・フロイスは、秀吉の外見以外については、

優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。

極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。

抜け目なき策略家であった。

彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。

ほとんど全ての者を汝(うぬ)、彼奴(きゃつ)呼ばわりした。

などと記している。


上杉謙信と対決するために北陸へ出兵した際、軍議で大将の柴田勝家に反発し、勝手に領地へ引き上げ、この無断撤退は信長の怒りを買った。

また中国攻めでも、宇喜多直家の寝返り・所領安堵を勝手に許可してしまい、再び信長に怒られている。

文化・芸事

人と同じに振る舞うことを嫌う、傾奇者だった。何回か開いた仮装茶会(名護屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加した。

武将たちも通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は山伏に扮した。

文化的修養を積むことに努力し、古典文学を細川幽斎、連歌を里村紹巴、茶の湯を千利休、有識故実を今出川晴季、禅を西笑承兌、儒学を大村由己、能楽を金春太夫安照に学んだ。

 能楽に熱中し、前田利家と徳川家康と共に天皇の御前で演じたり、『明智討』『柴田』など自分の活躍を演目にして自ら演じた。

和歌もよく詠んだ。茶人としても独自の境地を切り開き、武家茶の湯の大成者は千利休でも古田織部でもなく、秀吉であるとする評価もある。

一方で、著名な茶人の目利きによって、単なる雑器に過ぎないものが、価値ある茶器とされて高額で売買されていたのを快く思っていなかったとされ、千利休に切腹を命じた理由のひとつと推測されている。

しかし、多く輸入され現地では雑器だが、日本では茶壷として珍重されていたルソン壺を、秀吉自身が7個を若狭小浜の豪商の組屋に売りさばかせ、6個売れて代金として134両もの大金を手に入れていて、秀吉も商売はしている。

この話は、小瀬甫庵の太閤記に呂宋助左衛門がルソン壺50個を秀吉の元に持ち込んで、秀吉が千利休と相談し大坂城西の丸に並べて、売りさばき、残った壺は秀吉が買い、助左衛門は大金持ちになったという、商売にたけた雰囲気を伝える創作話として書かれた。

能筆家であった。北大路魯山人は秀吉の書に対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。また、「醍醐」の「醍」を祐筆が失念した際、「大」と書くよう指示したという逸話がある(『老人雑話』『武野燭談』『太閤夜話』)。

囲碁は、織田信長から名人という称号を許された日海(後の本因坊算砂)に指導を受けており、伊達政宗の家臣・鬼庭綱元との賭け碁や、龍造寺政家をとても巧妙に負かしたので政家は敗因を考え込んでしまい帰る秀吉の見送りをし忘れたなど、真偽はとにかくエピソードがいくつか残っているほど、かなり強かったらしい。

将棋に関してはあまり強くないとされ、太閤将棋は秀吉が有利になるように考案された手合割とされる。




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         本能寺の変




 明智光秀は居城に帰参した。天正十年(一五八二)、のことである。

 光秀は疲れていた。鎧をとってもらうと、家臣たちに「おまえたちも休め」といった。「殿……お疲れのご様子。ゆっくりとお休みになられては?」

「貴様、なぜわしが疲れていると思う? わしは疲れてなどおらぬ!」

 明智光秀は激怒した。家臣は平伏し「申し訳ござりませぬ」といい、座敷を去った。

 光秀はひとりとなった。本当は疲れていた。かれは座敷に寝転んで、天井を見上げた。「………疲れた。なぜ……こんなにも……疲れるのか…? 眠りたい…ゆっくり…」

 明智光秀は空虚な、落ち込んだ気分だった。いまかれは大名となっている。金も兵もある。気分がよくていいはずなのに、ひどく憂欝だった。

「勝利はいいものだ。しかし勝利しているのは信長さまだ」光秀の声がしぼんだ。「わしは命令に従っているだけじゃ」

 明智光秀は不意に、ものすごい疲労が襲いかかってくるのを感じ、自分がつぶされる感覚に震えた。目尻に涙がにじんだ。

「あの方が……いなくなれ…ば…」

 明智光秀は自分の力で人生をきりひらき、将軍を奉り利用した。人生の勝利者となった。放浪者から、何万石もの大名となった。理知的な行動で自分を守り、生き延びてきた。だが、途中で多くのものを失った………家族、母、子供……。ひどく落ち込んだ気分だった。さらに悪いことには孤独でもある。くそったれめ、孤独なのだ!

「あの方がいなくなれば……眠れる…眠れる…」明智光秀は暗く呟いた。

 かれは信長に「家康の馳走役」をまかされていた。光秀はよくやってのけた。

 徳川家康は信長に安土城の天守閣に案内された。

「家康殿、先の武田勢との合戦ではご協力感謝する」信長はいった。そして続けた。「安土城もできた当時は絢爛豪華なよい城と思うたが、二年も経つと色褪せてみえるものじゃ」「いえ。初めて観るものにとっては立派な城でござる。この家康、感動いたしました」

 家康は信長とともに立ち、天守閣から城下町を眺めた。

「家康殿、わしを恨んでいるのであろう?」信長は冷静にいった。

「いえ。めっそうもない」

「嘘を申すな。妻子を殺されて恨まぬものはいまい。わしを殺したいと正直思うているのであろう?」

「いいえ」家康は首を降り、「この度のことはわが妻子に非がありました。武田と内通していたのであれば殺されるのも当たり前。当然のことでござる」と膝をついて頭をさげた。「そうか? そうじゃのう。家康殿、お主の妻子を殺さなければ、お主自身が殺されていたかも知れぬぞ。武田勝頼は汚い輩だからのう」

「ははっ」家康は平伏した。

 明智光秀は側に支えていた。「光秀、家康殿とわしの関係を知っておるか?」

「……いいえ」

「家康殿は幼少の頃よりわが織田家に人質として暮らしておったのじゃ。小さい頃はよく遊んだ。幼き頃は、敵も味方もなかったのじゃのう」

 信長はにやりとした。家康も微笑んだ。


 この年、信長の正室・吉乃が病に倒れ、明日をも知れぬ身体となった。信長はこのとき初めて神に祈った。しかし、吉乃の命は風前の灯であった。信長は吉・の眠る座敷へと急いでいき、手にもった仏像を彼女に手渡した。しかし、吉乃は抱き抱えられながら、仏像を捨てた。信長は手をさしのべ、自分がそばについていることを思い出させようとした。やさしく彼女を抱きしめた。

「…わらわは信長さまの妻……信長さまが神を信じないのなら…わらわも…」

 吉乃は無理に微笑んだ。彼女の感触こそ、信長の崩壊を防ぐ唯一のものだった。信長は傷つきやすい孤独な心で、吉乃を抱擁した。「吉乃……死ぬな」

 かすかな悲しげな微笑みとともに、信長はささやいた。信長は妻の頭を胸に抱きよせ、彼女の髪に頬を重ねた。吉乃は微笑み、そして死んだ。

 秀吉はすぐに駆けつけた。いっぱいの土産をもって。

「ひさしいのう、秀吉」上座で、信長は秀吉に声をかけた。側には息子の信忠や信雄らがいた。秀吉は「これはすべて吉乃さまへの御土産にござる!」

「サル……母上は…死ん…だ……のだ」信忠は泣きながらいった。

「信忠、秀吉はそんなことは百も承知だ。わしをなぐさめておるのだ」

 信長はいった。すると秀吉は「泣いてもかまわないのです、御屋形様!」といった。

「鬼が泣いても……笑われるだけじゃ」信長は涙目で呟いた。



 しかし、明智光秀はそれからが不幸であった。信長に「家康の馳走役」を外されたのだ。「な……何かそそうでも?」是非、答えがききたかった。

「いや、そうではない。武士というものは戦ってこその武士じゃ。馳走役など誰でもできる。お主には毛利と攻戦中の備中高松の秀吉の援軍にいってほしいのじゃ」

「は? ……羽柴殿の?」

 光秀は茫然とした。大嫌いな秀吉の援軍にいけ、というのだ。中国の毛利攻めに参加せよと…? 秀吉の援軍? かれは唖然とした。言葉が出なかった。

 信長は話しをやめ、はたして理解しているか、またどう受け取っているかを見るため、明智光秀に鋭い視線をむけた。そして、口を開いた。

「お主の所領である近江、滋賀、丹波をわしに召しとり、かわりに出雲と石見を与える。まだ、敵の領じゃが実力で勝ちとれ。わかったか?!」

 光秀は言葉を発しなかった。かわりに頭を下げた。かれは下唇をかみ、信長から目をそむけていた。光秀が何を考えているにせよ、それは表には出なかった。

 しかし、この瞬間、かれは信長さえいなければ……と思った。明智光秀は信長が去ったあと、息を吸いあげてから、頭の中にさまざまな考えをめぐらせた。

 ……信長さまを……いや、織田信長を……討つ!


 元正一〇年(一五八二)六月一日、信長は部下たちを遠征させた。旧武田領を支配するため滝川一益が織田軍団長として関東へ、北陸には柴田勝家が、秀吉は備中高松城を水攻め中、信長の嫡男・信孝、それに家臣の丹羽長秀が四国に渡るべく大坂に待機していた。 近畿には細川忠興、池田恒興、高山右近らがいた。

 信長は秀吉軍と合流し、四国、中国、九州を征服するために、五月二十九日から入京して、本能寺に到着していた。京は完全な軍事的空白地帯である。

 信長に同行していた近衆は、森蘭丸をはじめ、わずか五十余り………

 信長は完全に油断していた。

 秀吉は備中高松城攻めで、巨大な堤防をつくっていた。土袋を金で庶民から買う…という奇抜なアイデアでわずか十一日で巨大な堤防をつくった。あとは雨が降り続けば高松城は水の中である。だが、雨はなかなか降らなかった。

「ちくしょう! 雨降れ! 水攻めなんじゃ! 雨降れ!」

 秀吉はフンドシだけになって、百姓たちと「雨乞い」の踊りをおどった。竹中半兵衛なきあとの秀吉の軍師・黒田官兵衛はあきれた。そして、笑った。

「あれで……百二十万石の大名なのだから……おもしろい人物だ」

「兄じゃ!」小一郎秀長も百姓踊りに加わった。そこに、佐吉(のちの石田三成)がやってきた。「おやじさま!」

「おお、佐吉! なんじゃ?!」猿顔をゆがませ、秀吉はきいた。

「おやじさまの母上さまから文にございます」

「なに? かあちゃんから?」

 佐吉は文を秀吉に渡した。小一郎秀長らはにやりと笑って「かあちゃん…字がかけるようになったんだ」といった。汚い字で、すべてひらがなだった。

 ……ひでよし、がんばれ。おまえはにちりんのこじゃで、かならずかてる…

「……かあちゃん!」秀吉は笑った。「よし! なんとしても勝つのじゃ」

 すると、雨が激しく降り出した。

「かあちゃんからの土産じゃぁ!」秀吉は天を仰ぎ、大声でいった。



 元正一〇年(一五八二)六月一日、信長は部下たちを遠征させた。旧武田領を支配するため滝川一益が織田軍団長として関東へ、北陸には柴田勝家が、秀吉は備中高松城を水攻め中、信長の嫡男・信孝、それに家臣の丹羽長秀が四国に渡るべく大坂に待機していた。 近畿には細川忠興、池田恒興、高山右近らがいた。

 信長は秀吉軍と合流し、四国、中国、九州を征服するために、五月二十九日から入京して、本能寺に到着していた。京は完全な軍事的空白地帯である。

 信長に同行していた近衆は、森蘭丸をはじめ、わずか五十余り………

 かれは完全に油断していた。


 明智光秀は出陣の前日、弾薬、食糧、武器などを準備させた。そして、家臣たちを集めた。一族の明智光春や明智次右衛門、藤田伝五郎、斎藤利三、溝尾勝兵衛ら重臣たちだった。光秀は「信長を討つ」と告げた。

「信長は今、京都四条西洞院の本能寺にいる。子息の信忠は妙覚寺にいる。しかし、襲うのは信長だけじゃ。敵は本能寺にあり!」

 この襲撃を知って重臣たちは頷いた。当主の気持ちが痛いほどわかったからだ。

 襲撃計画を練っていた二七日、明智光秀はあたご山に登って戦勝の祈願をした。しかし、何回おみくじを引いても「凶」「大凶」ばかり出た。そして、歌会をひらいた。

 ……時は今、雨がしたしる五月かな…

 明智光秀はよんだ。時は土岐、光秀は土岐一族の末裔である。雨は天、したしるは天をおさめる、という意味である。

 いつものかれに似合わず、神経質なうずきを感じていた。口はからから、手は汗ばんでる。この数十年のあいだ、光秀は自分のことは自分で処理してきた。しかも、そうヘタな生き方ではなかったはずだ。確かに、気乗りのしないこともやったかも知れない。しかし、それは生き延びるための戦だった。そして、かれは生き延びた。しかし、信長のぐさっとくる言葉が、歓迎せぬ蜂の群れのように頭にワーンと響いていた。

 ……信長を討ち、わしが天下をとる!

 光秀は頭を激しくふった。


「敵は本能寺にあり!」

 明智光秀軍は京都に入った。そして、斎藤利三の指揮によって、まだ夜も明け切らない本能寺を襲撃した。「いけ! 信長の首じゃ! 信長の首をとれ!」

 信長の手勢は五~七十人ばかり。しかも、昨日は茶会を開いたばかりで疲れて、信長はぐっすり眠っていた。

「なにごとか?!」本能寺に鉄砲が撃ちこまれ、騒ぎが大きくなったので信長は襲われていることに気付いた。しかし、敵は誰なのかわからなかった。

「蘭丸! 敵は誰じゃ?!」急いで森蘭丸がやってきた。「殿! 水色ききょうの旗……明智光秀殿の謀反です!」

「何っ?」

「…殿…すべて包囲されておりまする」

「是非に及ばず」信長はいった。

 信長は死を覚悟した。自ら弓矢をとり、弓が切れると槍をとって応戦した。肘に傷を負うと「蘭丸! 寺に火を放て! 光秀にはわしの骨、毛一本渡すな!」と命じた。火の手がひろがると、奥の間にひっこんで、内側の南戸を締めきった。

「人間五十年、下天のうちをくらぶれば夢幻の如くなり、一度生を得て滅せぬもののあるべきか」炎に包まれながら、信長は「敦盛」を舞った。そして、切腹して果てた。

 享年四十九、壮絶な最期であった。


 

 

 最終章 天下人







        9 天下を獲る






        1 中国大返しと山崎・牋ケ岳




信長は”本能寺の変”で、死んだ。

 その朝、家康や千宗易はバッとふとんから飛びおきた。何かの勘が、信長の死を知らせたのだ。しかし、秀吉は京より遠く備中にいたためその変を知らなかった。

 本能寺は焼崩れ、火が消えても信長の骨も何も発見されなかったという。光秀は焦りながら「信長の骨を探せ!」と命じていた。もう、早朝だった。

 天正十年(一五八二)五月、秀吉は備中高松城を囲んだ。敵の城主は、清水宗治で毛利がたの武将であった。城に水攻めをしかけた。水で囲んで兵糧攻めにし、降伏させようという考えであった。たちまち雨が降り頻り、高松城はひろい湖のような中に孤立してしまった。もともとこの城は平野にあり、それを秀吉が着眼したのである。城の周辺を堤防で囲んだ。城の周り約四キロを人工の堤防で囲んだ。堤防の高さは七メートルもあったという。しかも、近くの川の水までいれられ、高松城は孤立し、外に出ることさえできなくなったという。飢えや病に苦しむ者が続出し、降伏は時間の問題だった。

 前年の三木城、鳥取城攻めでも水攻め、兵糧攻めをし、鳥取の兵士たちは飢えにくるしみ、ついには死んだ人間の肉をきりとって食べたという、餓鬼事態にまで追い込んだ。そして、今度の高松城攻め、である。

 秀吉軍は二万あまりであった。

 大軍ではあるが、それで中国平定するにはちと少ない。三木城攻めのとき竹中半兵衛が病死し、黒田官兵衛がかわりに軍師になった。蜂須賀小六はこの頃はすでに無用の長物になっていた。野戦をすれば味方に死傷者が大勢出る。そこで水攻め、となった。

 それにしても、三木城、鳥取城、高松城、と同じ水攻めばかりするのだから毛利側も何か手を打てたのではないか? と疑問に思う。が、そんな対策を考えられないほど追い詰められていたというのがどうやら真相のようだ。

 山陽の宇喜多氏や山陰の南条氏はあっさり秀吉に与力し、三木城、鳥取城、には兵糧を送ることは出来なかった。しかし、高松城にはできたはず。しかし、小早川隆景、吉川元春の軍が到着したのは五月末であり、水攻めあとのことであったという。

 秀吉の要求は、毛利領五ケ国の割譲、清水宗治の切腹などであった。

 しかし、敵は湖の真ん中にあってなかなか動かない。

「よし!」秀吉は陣でたちあがった。人工の湖と真ん中の高松城をみて「御屋形様の馬印を掲げよ!」と命じた。「御屋形様の? 信長公はまだ到着されておりませぬ」

「いいのじゃ。城からみせれば、御屋形様まできた…と思うじゃろ? それで諦めるはずじゃで」秀吉はにやりとした。

 時代は急速に動く。

 天正十年六月二日未明、京都本能寺の変、信長戦死……

 六月三日夜、高松城攻めの陣中で挙動不審の者が捕まった。光秀が放った伝令らしかったが、まちがって秀吉のところに迷いこんだのだ。秀吉はどこまでも運がいい。小早川隆景宛ての密書だった。「惟任日向守」という書がある。惟任日向守とは明智光秀のことである。

 ……自分は信長に恨みをもっていたが、天正十年六月二日未明、京都本能寺で信長父子を討ちはたした。このうえは足利将軍様を推挙し、両面から秀吉を討とうではないか…


 秀吉は驚愕した。

「ゲゲェっ! 信長公が光秀に?!」

 秀吉は口をひらき、また閉じてぎょっとした。当然だろう。世界の終りがきたときに何がいえるだろうか。全身の血管の血が凍りつき、心臓がかちかちの石になるようだった。 秀吉軍は備中で孤立した。ともかく明智光秀は京をおとしたらしい。秀吉の居城・長浜、それから中国攻めの拠点となった姫路城がどうなったかはわからない。もう腰背が敵だ。さすがの秀吉も思考能力を失いたじろいだ。

「どうしたらええ? どうしたらええ?」秀吉はジダンダを踏んだ。

「よし! 今日中に姫路城に撤兵しよう…」

 黒田官兵衛は「このまま撤兵すれば吉川、小早川らが信長公の死を知って追撃してくるでしょう。わが軍も動揺するし、裏切るものもでるかも知れません。ここは天下を獲るかとらぬかの重大な”天の時”……わたくしに策があります」と策を授けた。

 官兵衛の策によって、毛利側と和議を結ぶことになった。幸、まだ毛利側は信長の死を知らない。四日未明、恵瓊を呼んで新しい和議の内容を提示。毛利側は備中、備後、美作、因幡、伯耆の五ケ国をゆずりわたし、そのかわり高松城の水をひいて城兵五千人を助ける。     という内容である。恵瓊は、その足で毛利側の陣にはよらず、船で人工湖の城に入城、清水宗治を説得した。宗治は安国寺恵瓊の腹芸とは知らずに承諾。

 恵瓊はその足で、小早川隆景、吉川元春の陣へ、かれらは信長の死を知らないから署名して和睦。四日午後、無人の城に兵を少しいれて警戒。五日、小早川隆景、吉川元春の軍が撤兵、それを見届けてから、六日、二万の兵を秀吉は大急ぎで撤兵させた。世にいう”中国大返し”である。その兵はわずか一日で姫路城に帰陣したという。

 その頃、毛利方は信長の死を知るが、あとの祭……。毛利方は歯ぎしりして悔しがった。騙しやがって、あのサルめ! だが、小早川隆景も吉川元春も秀吉軍を追撃しなかった。 このことも秀吉の幸運、といえるだろう。

 特筆すべきなのは二万あまりの秀吉軍は温存されたということだ。まったく無傷で、兵士は野戦などで戦うこともなかった。三木城、鳥取城、高松城攻めもすべて、調略、軍略であった。兵士たちは退屈な日々を送ったという。

 姫路城に帰陣してから、「信長公の弔い合戦をする」と秀吉は宣言した。そして、兵士たちを二日間休ませたうえで銭と食料を与えた。

 本能寺の変から十一日で、明智光秀と羽柴秀吉との「山崎の合戦」が始まる。秀吉は圧倒的な戦略と兵力で、勝った。明智光秀が落ち武者になって遁走する途中、百姓たちの竹槍で刺されて死んだのは有名なエピソードである。

 とにかく、こうして秀吉は勝ち、明智光秀は敗れて死んだ。光秀の妻・ひろ子も自害して果てた。かくして、天下の行方は”清洲会議”へともちこまれた。

 故・信長の居城・清洲城に家臣たちが集まっていた。天正十年六月のことである。

 織田家の跡目は誰にするか……。長男の信忠は本能寺の変のとき光秀に殺されている。   残るは、次男・信雄、三男・信孝か?

 しかし、秀吉はここでも策をめぐらす。信忠の嫡男・三法師(わずかに三才)を後継者にし、自分がそのサポートをする、というのだ。幼い子供に政は無理、これは信長にかわって自分が天下に号令を発する、という意味なのである。

 秀吉は赤子の三法師を抱いて、にやりとした。

「謀ったな……秀吉…」柴田勝家は歯ぎしりした。しかし、まだ子供とはいえ、信忠の嫡男なら織田家の跡目としては申し分ない。しかし、勝家は我慢がならなかった。

 ……サルめ! 草履とりから急に出世してのぼせあがっている。許せん! わしはあんなやつの下で働く気はもうとうないわ!

 秀吉は信長の妹・お市をもてごめにしようとした。お市は反発し、柴田勝家の元へはしった。彼女は勝家がまえから好きだったので、意気投合し、再婚した。浅井長政との遺児・茶々、初、江も一緒にである。

 そして、琵琶湖の近くでついに、柴田勝家と羽柴秀吉は激突する。世にいう牋ケ岳の合戦である。そして、ここでも秀吉は勝った。勝家は炎上する城の天守閣で、妻のお市と娘たちに逃げるようにいった。しかし、お市は「冥途までお共いたします」と勝家とともに死ぬ覚悟だ、と伝えた。「わらわはサルのてごめにはなりたくありませぬ。お供します」「市……娘たちは助けてくれようぞ。あのサルめは子供までは殺さぬからのう」

 ふたりは笑って自害した。娘たちは秀吉にひきとられていった。

 農民たちは戦を楽しんでいたという。牋ケ岳の合戦のときも、農民たちは弁当片手で戦をまるでスポーツのように観戦していたのだという。また、合戦のあとは庶民の貴重な稼ぎ場となった。死傷者や敗者の武具・着衣を奪えることができたからだ。また、敗者の武将をとらえれば多額の賞金までもらえる。そのため、合戦のあとはかならず農民の落人狩りがおこなわれた。天王山から坂本城にもどる途中で竹やりで刺された明智光秀らは、庶民の強欲の犠牲者であるという。


「信長公のあとつぎだと天下に宣言するため安土城よりでっかい大坂城を築こうぞ」

 秀吉は大坂に城を築城しはじめた。

 この頃、奥州(東北)の伊達、徳川、北条氏が三国同盟を結んでいた。その数、十万、秀吉軍は十七万であったという。大坂城の大工事をやっている最中に、信長の次男の信雄が家康と連合してせめてきた。

「わしは信長の子じゃ、大坂城にはわしが住むべきじゃ!」信雄はいった。

 家康は「そうですとも」と頷いた。

 濃尾平野の小牧山と犬山城で、秀吉と家康は対陣した。小牧長久手の戦い、天正十二年(一五八四年)である。

 数年間、野戦の攻防をしたことがなかった秀吉は、山崎、賤ケ岳と白兵戦で勝ち続けた。  そして、小牧長久手の合戦である。この合戦で秀吉は大将を秀吉の甥子・秀次とした。しかし、この秀次という男は苦労知らずののぼせあがりで、頭も悪く、戦略をたてるどころか一方的にコテンパンにやられてしまう。池田恒輿は戦死、その他の大将も家康に散々にやられる。この合戦は家康の大勝利のようにも見える。が、そうではないという。

 きっかけは信長の次男・信雄がつくった。秀吉にまるめこまれた信雄は柴田攻めで、柴田らがかついだ信長の三男・信孝を尾張・内海で死においこんだ。秀吉にいいように踊らされたのだ。信雄は美濃の領地をもらった。

 秀吉はその年、出来たばかりの大坂城に諸将をよんだ。自分に臣下の礼をとらせるためだ。信雄はこなかった。すると秀吉は巧みに津川義冬ら三人の家老をまるめこみ、三人が秀吉に内通しているという噂をばらまいた。信雄はその策(借刀殺人の計)にまんまとひっかかり三人を殺してしまう。秀吉の頭脳勝ちである。

 信雄攻めの口実ができた。そんな信雄は家康に助けを求め、そこで小牧長久手の合戦が勃発したという。この合戦は引き分け。しかし、徳川の世になってからこの合戦は家康が勝って秀吉が負けたように歪曲されたのだ。

 数にたよって信長のように徳川滅亡をたくらめば出来たろう。家康の首もとれたに違いない。しかし、秀吉はそれをしなかった。なぜなら秀吉は天下を獲ろうという願望があったからである。家康と戦って勝利するために兵力を磨耗するより、家康と手を結んだほうが得策だと考えた訳だ。

 徳川家康だって調略をめぐらせた。秀吉包囲網をつくっていたという。四国の長曽我部や、越中(富山県)の佐々成政、紀州の根来寺、雑賀衆などと連携をとった。長引けば毛利も黙ってはいまい。そこで秀吉は謀略を用いた。家康を飛び越え、信雄に講和を申しこんだのだ。元来、臆病者で軟弱な信雄は、自分が原因となっているのにも関わらず、恐怖心からか和議を結ぶことになる。単独講和し、家康は形勢不利とみて大局をなげだした。 織田信雄がいなくなれば秀吉と対決する大儀がないからである。

 家康の使者・石川数正が秀吉の大坂城にきた。

 秀吉は上機嫌で、「よくまいられた、石川殿」と、にこりとした。そして、「わしはな家康殿とは戦いたくないのじゃ。家康殿とは義兄弟となりたい」

「ぎ、義兄弟でござりまするか?」石川数正は平伏し、不思議な顔をした。上座の秀吉はにこにこして「そうじゃ。家康殿とわしは義兄弟である。そのために…」


「………義兄弟?」

 居城で、家康はもどった石川に尋ねた。「秀吉公がそう申されたのか?」

「ははっ。つきましては秀吉殿の妹君を殿の妻にと…申されました」

「妹君?」家康は茫然とした。「秀吉公の…?」

「はっ。朝日の方。年は四十三でござる」

「それは…」家康は続けた。「年増じゃのう」

「連れ添った夫と離縁して、嫁ぐそうでござりまする」

 家康の家臣たちは反対した。秀吉の妹などいらぬ! というのである。しかし、石川数正だけは冷静で、「受けたほうがよろしいかと存ずる」とがんといった。

 家康は遠くを見るような目をして、口をとじた。何にせよ、家康が何を考えているのかは、誰にもわからなかった。



         2 関白・秀吉



 頼朝や足利義満のような源氏の子孫では秀吉はないので征夷大将軍とはなれなかった。将軍でなければ幕府は築けない。しかし、そこで秀吉は一計を案ずる。まず、天皇から関白の位をもらい、独裁政府をつくるのだ。関白・豊臣秀吉の誕生である。

 秀吉は元同役の前田利家を五大老に加えた。五大老とは大臣クラスのことで、前田利家、徳川家康、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景らである。それと五奉行、浅野長政、前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家である。そして、それを実現させるためには家康をまるめこまなければならない。

 秀吉はここでも一計を講じた。


「おふくろさまを……家康の人質にですと?」石田三成は仰天して上座の秀吉に尋ねた。 秀吉は頷き「そうじや。家康とは和睦したぁがぜよ。おっ母を渡せば、家康とて人間……わしの気持ちがわかるはずじゃ」といった。

 秀吉は自分の母・大政所(なか)を家康の人質に出すというのだ。

「しかし、家康がおふくろさまを殺して…また戦をしかけてきたらどうなさりまする?」「そんときは…」秀吉は暗い顔をして「そんときよ」

 かくして、秀吉の母・大政所(なか)は人質として家康の居城・岡崎城にきた。大変なババァを人質にしたものだ……家康は苦笑してしまった。しかし、秀吉は自分の母でさえも、家康のために人質に出すとは…。

 家康は何ともいえない感情にとらわれた。

 なかはにこにこと笑って、家康と握手した。そこに四十三歳の年増の朝日の方も到着し、なかと朝日の方は抱き合った。抱擁だ。家康はいたみいった。大政所と朝日の方、なかと朝日の方、母と娘………。

 これは秀吉と和睦するしかない。家康は決心した。

 家康は十月二十日、上洛した。もう夜だった。

 徳川家康は座敷で辛抱強く待った。座敷は蝋燭のほのかな明りでオレンジ色だ。秀吉はやがて上機嫌でやってきた。「家康殿、よくぞまいられた!」

「関白殿にはごきげんよろしゅう」

 秀吉はにこりと笑って「堅い挨拶なぞなしじゃ、家康殿」といい、饅頭を渡して「これでも食ってくだされ。腹が減ってるにゃら、おまんまも用意するでぇが」

「いいえ。関白殿、おかまいなく」

「家康殿、悪いんじゃが、わしを立ててはくれまいか?」

 秀吉は続けた。「わしのつくる政府の五奉行のひとりになってほしいのじゃ」

「……秀吉殿の家来になれと?」

「いや、形式だけ。形だけじゃで」

 家康は平伏し、「わかりもうした。この家康、関白・豊臣秀吉公の下で働きまする」

「そうか? かたじけない、家康殿!」

「関白殿にはもうそのような陣羽織りは着させません。関白殿にかわって戦は私が指揮し、関白殿はゆっくりと後方で休んでわれらを見守ってくだされ」

 家康は下手にでて、平伏した。秀吉は感激し、そして、次の日の大名たちとの会議でもわしに平伏する演技をしてくれ、と頼んだ。そして、家康はみごとに演技をした。

 こうして、徳川家康は秀吉の”形式”だけの家来と、なったのである。       


話を戻す。

秀吉は公家の菊亭晴季に”征夷大将軍”の位をもらいたいと朝廷に頼み込んだが、百姓上がりの秀吉はなれなかった。そのかわりとして”豊臣”の名を授かり『豊臣秀吉(とよとみのひでよし)』となった。征夷大将軍にはなれなかったが関白職を授かり、やがては長じて太閤殿下とまでなった。寧々を悩ませたのは秀吉の”女癖の悪さ”である。

秀吉は絶倫で、愛人を何百人も囲う。しかし、”種なし”の秀吉には子供が出来ない。

そんな中で寧々の心を傷つけたのが茶々のちの淀君への秀吉の溺愛である。

……憧れたお市の方さまの娘だからか。仕方なし。しかし、本当に殿下の子供なのか?

秀吉は狂っていく。最初の茶々との子供・鶴松が死ぬと朝鮮出兵・唐入りを決意し、攻めた。また子供が茶々との間に出来る。のちの秀頼で、ある。

だが、秀吉は幼い秀頼を残して死んでしまう。

こうなれば後は天下を治められるのは徳川家康しかいない。

『関ヶ原の合戦』も寧々は傍観した。幼い秀頼や淀君では駄目だ。天下はまた乱れ乱世に逆戻り、である。

寧々は出家し、髪をおろし、高台院と称して高台寺に隠遁した。

話を戻す。




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豊臣秀吉最新研究の豊臣秀吉、その真実  五

 ミステリィの謎解きのその次のパートです。

まずは、豊臣秀吉の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。


本能寺の変の黒幕説

本能寺の変で最終的に最も得をした秀吉が事件の黒幕とする説もある。その根拠は、秀吉の信長に対する不要な援軍要請である。

秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴え援軍を要請。

ところが当時の毛利氏が高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の15,000ほどでしかなく、救援は不要であった。

信長は三職推任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため上洛していた。明智光秀はそこを狙って本能寺の変を起こした。

が、軍勢を集める理由が問題であった。

ところが秀吉の救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われることなく軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たす。

光秀が近衛前久と内通していた説があるように、秀吉も大納言の勧修寺晴豊らと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、要請を行ったとされる。

また、秀吉の中国大返しに関しても、沼城から姫路城まで70キロの距離をわずか1日で撤収しており、秀吉が優秀だったとはいえ、事前に用意をしていなければ不可能なこと、中国大返し後の織田方有力武将への切崩しの異常な速さ、変を知らせる使者は本当に毛利方と間違えて秀吉の陣に入ってきたのか、変後の毛利方との迅速な講和は事前に信長が討たれることを見越して秀吉が小早川隆景・安国寺恵瓊などへ根回しを行っていた結果なのか、など疑惑が持たれている。

上記の説についての反論には以下のものがある。

『信長公記』によれば、高松城への援軍、西国への出陣を立案したのは信長自身であり、秀吉は毛利家主力の出陣を報告したのみで、秀吉側から援軍の要請があったという記述はない。

『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した。

秀吉の援軍要請は、手柄を独占することによって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)ための保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する(『常山記談』)。

本能寺の変直後の6月3日には、江北周辺の武田元明、京極高次らの武将は光秀に呼応し秀吉の居城である長浜城を接収し、同城には光秀の重臣である斎藤利三が入城している。

また、長浜にいた秀吉の家族らは本能寺の急報を聞き、美濃へ避難している(『言経卿記』『豊鑑』)。このことから、光秀と秀吉に先立っての接触があったとは考えづらい。

もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。共謀が事実ならばそれを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合は不可能となり、光秀方に有利な情勢を作り出せた。

当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる情報が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。

明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。

事前の用意については、中国大返しは信長自身による援軍を迎えるための準備が、功を奏したもので、当時、中国大返しを疑問視した発言や記録はない。

そもそも沼城から姫路城まで、わずか1日で70キロ走破とは、事前の準備があってもあり得ない。

実際には1日で撤収したのは最初に姫路城に到着した騎馬武者であり、徒歩の兵士を含めての全てが姫路城まで到着するには、もっと時間がかかっている(『天正記』「惟任謀叛記」)。

本能寺の変を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃することを主張したが、小早川隆景らの反対によって取り止めになっている。

一歩間違えば秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に滝川一益のように本能寺の変が敵方に知られたことにより大敗し領土を失った信長配下の武将も存在し、秀吉がこのような危険を謀略としてあえて意図したとは考えにくい。

また迅速な撤収も、沼城から姫路城までに限られており、それ以降の光秀との決戦までの行軍は常識的な速度である。

姫路城までの迅速な撤収は毛利の追撃を恐れての行動であり、姫路城からは上方の情報収集や加勢を募っての行軍であった。

これは、事前に用意した上での行動というよりは、予期せぬ事態への対処とみるのが妥当である。

更に秀吉の撤退、毛利の追撃、いずれにしても、両勢力の境目にあり、備前・美作を支配する宇喜多氏の動向が不透明であったことも考慮する必要がある。

なお、「豊臣秀吉黒幕説」は、数多い「本能寺の変黒幕説」のひとつに過ぎない(黒幕候補は他にも存在する)し、また「本能寺の変黒幕説」そのものが、明智光秀の謀反の理由として推測されるひとつに過ぎないことは留意する必要がある。

明智光秀の謀反の動機が不明で、現在に至るまで定説が確立していないことが、光秀自身以外に動機を求める「豊臣秀吉黒幕説」を含めた黒幕説を生み出す要因となっている。


政策

朝臣体制

秀吉は天皇・朝廷の権威を自身の支配のために利用した、というのが定説である。

秀吉は関白の地位を得ると、諸大名に天皇への臣従を誓わせることによって、彼らを実質的に自分の家臣とした。

織田家との主従関係はこれによって逆転している。

また、天皇の名を使って惣無事令などの政策を実行し、これに従っていないということを理由として九州や関東以北を征服するなど、戦いの大義名分作りにも利用している。

これらの手法は、かつて織田信長が足利義昭の将軍としての権威を様々に利用したことや、義昭と対立した際に朝廷と接近したことと共通するものである。

さらに秀吉は、関白としての支配を強固にするため、本来は公家のものであった朝廷の官位を自身の配下たちに次々と与え、天皇を頂点とした体制に組み入れた。この方策・体制は「武家関白制」などと呼ばれる。

このように秀吉の地位は天皇の家臣であったが、実質的な日本の支配者は秀吉であったことが様々な史料から読み取れる。秀吉が事実上の権力者として政治を行っていることから、摂関政治の一種とも解釈されることがある。

天下統一をなしとげた上、天皇・朝廷の権威まで加わったので、秀吉の権力は絶大だった。

が、一方では天皇の権威を借りているために、政権に不安要素も抱えることになってしまった。

後に豊臣秀頼が関白になれなかったことは、徳川家による政権奪取や豊臣家滅亡の一因となった。

また秀吉は、誠仁親王の第六王子・八条宮智仁親王を猶子とし、親王宣下を受けさせていた。

智仁親王が天皇に即位すれば、秀吉は天皇家の外戚として権力を振るうことも可能なはずであった。

しかし智仁親王の即位前に秀吉は没してしまい、その後、智仁親王の即位は徳川家康によって阻止された。

国内統治システム

秀吉は惣無事令を出して大名間における私闘を禁じた。

また、武士以外の僧侶や農民などから武器の所有を放棄させることを全国単位で行う刀狩令、私的な武力行使を制御することを目的とした喧嘩停止令、海賊行為に対しても海賊停止令を発布し、国内における私的な武力抗争を抑制した。

これらをまとめて豊臣平和令と呼ぶ場合がある。

また、これらの私的な武力抗争の抑止は、あくまで関白として天皇の命令(勅定)によって私闘禁止(天下静謐)を指令するという立場を掲げて行われた。

各地方に対しては天下人として尺の統一を行った上で全国で検地が行われた。これは太閤検地と呼ばれている。

同時に日本全国の税制を石高制に統一し、国家予算の算定と税制が定められた。また、楽市楽座等、関所の廃止等も継続して行い、調整を加えつつ全国的に広げていった。

職業軍人と農民を分ける兵農分離、百姓の逃散禁止、朱印船貿易、貨幣鋳造なども進めた。

豊臣政権下では一般に、年貢は農民にとって過酷な二公一民(収穫の3分の2が年貢)とされていたといわれる。

これは善政で知られた後北条氏の四公六民(収穫の5分の2が年貢)と比べて重いように思われる。

が、二公一民というのはあくまでも年貢納入をめぐる紛争の解決の際の損免規定の設定であり、年貢免率決定権は個々の領主が握って自主的に決めており、一律に定められていたわけではない。

秀吉の政策は江戸幕府に継承されていったため、江戸時代の基礎を築いたとも言われるが、「信長までは中世であり、秀吉から近世が始まる」と言う研究者もいれば(脇田修・佐々木潤之介)、これに否定的な研究者もいる。

鎌田道隆は織田政権と豊臣政権の間、あるいは豊臣政権と徳川政権の間に中世と近世の境があるのではなく、豊臣政権の途中で中世から近世に移行したとしている。

ちなみに東京大学史料編纂所では、慶長8年(1603年)の江戸幕府の成立から明治4年(1871年)の廃藩置県までを近世に分類している。

宗教政策

仏教勢力に対しては、木食応其を仲介役として高野山を降伏させたり、三井寺を闕所にしたり、根来寺を焼き討ちするなど、信長時代に引き続き武力によって統制した。

一方で寺社造営を得意とする木食応其に命じて、京都に大仏を建立したり本願寺を再建したりもしている。

ルイス・フロイスは伴天連追放令後の状況にあって「(秀吉は)偶像を以前にも増して悪しざまに扱い、仏僧たちを我ら以上に虐待している」と書いている。

キリシタンに対しては、当初は好意的であった。

しかし宣教師による信仰の強制、キリシタンによる寺社の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食、日本人を奴隷商品として国外へ売却していたことなどを理由に、天正15年(1587年)に伴天連追放令(バテレン追放令)を出した。

ただしこの時の布告は強制的な禁教を伴うものではなく、宣教師たちも依然として日本国内で布教活動を継続することが可能であった。

秀吉が決定的に態度を硬化させるのは、慶長元年(1596年)に起きたサン=フェリペ号事件からのことである。幕末以降の歴史書・研究史においては、秀吉は宣教師の行いを通じてスペインやポルトガルの日本征服の意図を察知していたということが強調されている。

イエズス会宣教師による日本征服計画があったのは確実であるが、スペインやポルトガル本国が宣教師たちの提案に賛同したかどうかは不明である。

帰来の日本文化である能楽に関しては否定した。


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        10 夢のまた夢

        





        1 天下統一



 天下統一作戦は秀吉の命令で始まった。

 秀吉は牙をむきだしにして、各個撃破の戦を開始する。天正十二年三月、紀州に出兵して、根来寺・雑賀衆を制圧した。六月には四国に出兵し、長曽我部を屈服させ、引き続き、北陸に出兵し、佐々成政を降ろす。秀吉は抵抗勢力の抹殺を行った。

 そして、秀吉は十二万の大軍で九州を制圧した。そんなおり、側室となっていた淀(茶々)が秀吉の子を産む。天正十七年五月のことである。名は鶴松。男の子だった。

 秀吉は大変な喜びようで、妻の寧々(北政所)とは子がなかったから、やっと世継ぎが出来た、とおおはしゃぎした。

 あとは関東の北条と奥州の伊達だけが敵である。

 そんなとき、伊達政宗は六月になって”秀吉軍には勝てない”と悟り、白無垢で秀吉の元に現れた。まだ政宗は若かったが、判断は正しかった。トゥ レート、ではあったが、判断は正しかった。あとは関東の北条だけが敵である。

 秀吉は三十万の兵を率いて関東にむかった。

「寒いのう」秀吉は小田原城の近くの城でいった。家康は「そうですな、閣下」と下手にでた。まさに狸である。

「小田原城内の兵糧にも限りがあろう。兵糧攻めじゃ」秀吉はわらった。

 三月十九日、開戦。四月六日には小田原城を包囲し、秀吉は”兵糧攻め”を開始した。船に敵の子女を乗せて、小田原城にたてこもる北条氏たちにみせた。北条氏側は上杉謙信が北条氏の小田原城を攻めたときのことを思いだしていた。上杉は一ケ月で兵糧が尽き、撤退した。秀吉もそうなるに違いない。北条氏政は思った。

しかし、秀吉の兵糧は尽きない。加藤や久鬼の水軍が海上から兵糧をどんどん運んでくる。二十万石(二十五万人の兵を一ケ月もたせる)が次々と船でやってくる。

「わははは」秀吉は陣でわらった。「日本中の軍勢を敵にまわしてはさすがの北条も勝ち目なしじゃ!」

 秀吉はまた奇策を考える。一夜城である。六月二十八日、小田原城の近くの石岡山に一夜城をつくった。山の木に隠れてつくっていた城を、木を伐採して北条氏たちにみせたのだ。忽然と、城が現れ、北条氏たちはこのとき唖然とし、格闘を諦めようと決意した。もともと勝ち目はない。日本中の軍勢を敵にまわしているのだ。

 天正十八年七月五日、北条氏政は切腹し、息子の氏直は切腹をまぬがれた。こうして、北条氏は滅亡した。

「家康殿、此度は小田原攻めに協力かたじけない。お礼として今の領地のかわりに旧北条氏の領地だった関東を与えよう。さぁ、遠慮はいらぬぞ」

 秀吉はにやりとした。

 家康はしぶしぶ受け入れた。今、関東は都会ではあるが、この頃は、草が生い茂る一面の湿地帯で、”田舎”であった。家康はそれを知りながらも受け入れた。家康は関東を江戸と称して開拓にあたった。大都会・江戸(東京)をつくるのに邁進した。

「ふん、家康を関東の田舎におっぱらってやったぞ。京都と大坂はがっちり守っていかねばのう」秀吉は高笑いをした。これで………天下を獲れる。そう思うと、胸がうち震えた。 天下人じゃ! 天下人じゃ!  秀吉は興奮した。



         3 唐入り



 大和と河内、紀州の一部をふくめ百万石の大名と小一郎秀長がなると、神社仏閣からいろいろ文句がではじめた。しかし、一年もたたないうちに抗議がなくなった。秀吉は不思議に思い「小一郎、大和はどうかな?」と尋ねると「うるさくてこまっている」という。「具体的にはどうしておるのじゃ?」ときくと「金でござるよ」といったという。

 これは今でこそ珍しくないが、領土の代わりに銭を渡して納得させた訳だ。「新しい領土は与えられないけれども、そのかわり銭をやる」……ということだ。米や土地ではなく、銭、これは新しいアイデアだったに違いない。

 しかし、そんな小一郎秀長は死んでしまった。病気で早死にしたのだ。

 秀吉はそんな弟の亡骸にふっして「小一郎! おまえがいなければ豊臣家はどうなるのじゃ?」と泣いたという。小一郎は秀吉のために銭をたんまりと残した。矢銭である。

 しかし、秀吉は暴走していく。”良き弟”を亡くしたために……

「家康や大名たちをしたがわせるためには、豊臣の戦力を拡大することだ。それには矢銭(軍資金)をしっかりためこむことだ。まず農民からきびしく年貢米を取り立てよう」

 太閤となった秀吉は、一五八二年から太閤検地で農民から厳しく年貢を取り立てた。次に、農村に住んでいた武士を城下町に集合させ、身分をはっきりとわけた。

「次は、農民が一揆をおこせないように武器をとりあげることじゃ」秀吉はいった。「一向一揆や土一揆にはまいったからのう。信長公も刀狩をやられたがこの秀吉はもっと大掛かりな刀狩をやるぞ!」

 京都や奈良の大仏よりもでっかい大仏をつくる、そんな理由で秀吉は刀狩を行った。農民や僧侶から刀をとり、反乱をおこせなくした。

「年貢にはかぎりがある。商業をおこしてお金をがっぽりもうけるのじゃ。信長公のまねをして、市場の税や座という組合をなくそう! いままでは大名の領地によって違った銭が流通しているが、全国に通用する銭をつくろうぞ!」

 秀吉は経済政策をうった。大名用の天正菱大判をつくった。商工業がさかんになった。秀吉は貿易は自由にしなかった。主君よりも神をとうとぶキリスト教を弾圧した。キリスト教を禁止し、貿易だけできるようにしたのだ。

 そんなおり、息子の鶴松が死んだ。まだ赤子だった。

 秀吉はショックをうけた。何ともいわなかった。当然だろう。世界の終わりがきたときになにがいえるだろう。全身の血管の血が氷になり、心臓が石のようにずしっと垂れ下がったような気分だった。

 北政所(寧々)は眉をひそめたが、また秀吉のほうを見た。秀吉はその場で凍りつき、一瞬目をとじた。秀吉は急に「そうじゃ、唐入りじゃ! 唐入りじゃ! 鶴丸は死んで唐入りをわしに命じたのじゃ」とぶつぶついいはじめた。もう全国を平定して、大名たちに与える領地はない。開拓されていない東北北部と蝦夷(北海道)くらいだ。そうだ! 明国だ。朝鮮を平定し、明まで攻め入り大陸の領地をとるのだ!

 北政所はなぐられたかのようにすくみあがり、唇をきゅっと結び、秀吉が四方八方から受けているであろう圧力について考えた。秀吉は圧力釜に長いこと入りすぎていたためすべてのものがこぼれて、とんでもないことになっている。もう誰も秀吉をとめられなかった。「信長公以上の天下人となるのだ」秀吉は念仏のようにいった。


 家康と秀吉は会談した。

 家康は五十歳になり、秀吉は六十代であった。家康は朝鮮・中国出兵に反対しなかった。というより、これで豊臣家の軍費がかさみ、徳川方有利となる。朝鮮や明国など屈服できる訳はない。これで、勝てる……家康は、顔はポーカー・フェイスだったが内心しめしめと思ったことだろう。バカなことを……

 秀吉と家康は京を発して九州の名護屋城へ入った。

 秀吉の朝鮮戦争はバカげたことであった。それ自体があまり意味があるとは思えないし、秀吉の情報不足は大変なものだった。秀吉は朝鮮の軍事力、政治、人心についてまったく情報をもっていなかったのだ。家康は腹の底でしめしめと笑った。

 加藤清正と小西行長が先発隊としていき、文禄元年(一五九二年)六月から十一月ぐらいまでの最初の六ケ月は実にうまくいき、京城、平譲を取り、さらに二王子を虜にすると、秀吉はずっといけると思った。しかし、この六ケ月の日本軍の勝利は、属国に鉄砲を持たせないという、明国の政策によって、朝鮮軍が鉄砲を持っていなかったからにすぎない。    で、十二月、李如松という明の将軍が大軍を率いて鴨緑江を渡ってくると、明軍は鉄砲どころか大砲まで装備していたそうで、日本軍はたちまち負けてしまったのだという。

 秀吉は、朝鮮を属国にして明国を攻める足場にしたいと考えていた。つまり、明と朝鮮との関係に関しても無知だったのだ。

 小西行長と宗義智はそれを知っていたため必死にとめようとしたのだ。家康も知っていた。朝鮮や大陸での戦がいかに難しいか、を。本来なら二人の王子を捕虜にした時点で、その王子たちを立てて傀儡政権をつくって内部分裂をおこさせるのが普通であろう。しかし、秀吉はそれさえしなかった。若き日、あれだけ謀略の限りで勝利していた秀吉ではあったが、晩年はすっかりボケたようだ。

 やはり”絶対的権力は絶対的に腐敗する”という西洋の格言通りなのである。天下人となった秀吉は頭がまわらなくなった。

「なんたることじゃ!」日本軍不利の報に、秀吉は名護屋城の前線基地でじだんだをふんだ。「太閤殿下、そう焦らずとも……まだ先がござりまする」家康はなだめた。

(もっと苦しめ、秀吉のもっている銭がなくなるまで……戦をさせよう)

 家康は自分の謀略に心の底でにやりとした。

 しかし、狸ぶりも見せ「私を朝鮮攻めの前線へ!」と真剣に秀吉にいった。ふくみ笑いを隠し通して。石田三成も黙ってはいない。「いや! おやじさま、この三成を前線へ!」「よくぞ申した!」秀吉は感涙した。

 すっかり老いぼれた大政所(なか)は、名護屋城を訪ねてきた。なかは秀吉の顔をみると飛びかかり、「これ! 秀吉!」と怒鳴った。家臣たちは唖然とした。

「なんじゃい? おっかあ」

 なかは「朝鮮のひとがおみゃあになにをした?! 朝鮮や明国を攻めるなどと……このバチ当たりめ!」と怒鳴った。

 秀吉はうんざりぎみに「おっかあには関係ねぇごとじゃで」と首をふった。

「おみゃあはこのかあちゃんを魔王のかあちゃんにしたいんか?! 朝鮮を攻める、明国を攻める、何にもしとらんものたちを殺すのは魔王のすることじゃ!」

(魔王とは…)

 家康は思わず笑いそうになったが、必死に堪えた。

 秀吉は逃げた。なかはそれを追った。すると座敷には家康と前田利家しかいなくなった。「魔王だそうですな」家康はにやりとした。利家は笑わなかった。









         4 母の死とやや




 大政所(なか)が死んだ。北政所(寧々)に見守られての死だった。

 秀吉は名護屋城であせっていた。うまいこと朝鮮戦争がいかない。そこに文が届く。またしても淀(茶々)が身籠もったというのだ。これをきいて、関白となっていた秀次は狂い、家臣や女たちを次々殺した。殺生関白とよばれ、この頭の悪いのぼせあがりは秀吉の命令によって切腹させられる。秀次は泣きながら切腹した。

 朝鮮の使者がきて、両国は和平した。文禄六年(一五九八年)お拾い(のちの秀頼)が産まれた。秀吉にとってたったひとりの世継ぎである。秀吉は小躍りしてうれしがった。「でかしたぞ! 淀!」秀吉はひとりで叫んだ。

 明国からの使者がきた。「豊臣秀吉公を日本国の王とみとめる」と宣言した。

 当然だろう。いや、わしはもうこの国の王だ。いまさら明国などに属国するものか!

「ふざけるな! わしをなめるな!」秀吉は怒った。

 戦前の日本では、これは秀吉が”天皇が日本国の王なのにそれを明国が認めなかったこと”に腹を立てた……などと教えていたらしい。が、それはちがう。秀吉にとって天皇など”帽子飾り”にすぎない。もうこの国の王だ。いまさら明国などに属国するものか、と思って激怒しただけだ。それで、和睦はナシとなり、家康の思惑通り、秀吉は暴走していく。出陣。秀吉は大陸に十二万の兵をおくった。

 そんなおり、秀吉は春、”お花見会”を開いた。秀吉は家臣や大名たちとひさしぶりのなごやかな日を過ごした。桜は満開で、どこまでもしんと綺麗であった。

 秀吉は家康とふたりきりになったとき、いった。

「わしが死んだら朝鮮から手をひいて、秀頼を天下人に奉り上げてくだされ」

 家康は「わかりもうした」と下手にでた。秀吉が死ぬのは時間の問題だった。家康は心の底でふくみ笑いをしていたに違いない。

 だが、どこまでも桜はきれいであった。



         5 夢のまた夢




 秀吉は伏見城で病に倒れた。

 秀吉は空虚な落ち込んだ気分だった。朝鮮のことはあるが、世継ぎはできた。気分がよくていいはずなのに、病による熱と痛みがひどくかれを憂欝にさせていた。秀吉の死はまもなくだった。家康たちは大広間で会議中だった。石田三成らと長束、小西が激突しようと口ゲンカをしていた。家康は「よさぬか!」と抗議した。自分の武装した兵士たちにより回りを囲み「騒ぐではない!」といった。冷酷な声だった。家康の目は危険な輝きをもっていた。「ここより誰も一歩たりとも出てはならん!」

 そして、慶長三年(一五九八年)八月十八日、秀吉は「秀頼を頼む…秀頼を頼む…」と苦しい息のままいい、涙を流しながら息をひきとった。前田利家は涙を流した。が、家康は悲しげな演技をするだけだった。


「徳川だの豊臣だのといってばかりでは天下は治められない。今の豊臣には誰もついてはこない。豊臣恩顧だの世迷い言じゃ。現に豊臣恩顧の大名衆はすべて徳川方。そのような豊臣にしてしまった。されど豊臣は百万石から六十五万石になっても一大名でも豊臣が残るならよいではありませんか?滅ぶよりマシです」

高台院(寧々)はいうが、秀頼や淀君は反発した。

「自分には子供がいないからと!あなたさまをこれ限り豊臣のひとだとは思いません!」

「この秀頼、豊臣秀吉の御曹司として徳川と戦いまする!」

……確かに、例え一大名になっても……とは子供がいないからかも知れぬ。

高台院の停戦工作は失敗した。

高台院は淀君と秀頼が籠城した大坂城が炎上している炎を遠くからみる。

涙を流し合掌し黙祷した。真夜中なのに煌煌と明るい炎の明かり……

「お前様。許して下され。私の力がおよばずとうとう豊臣がこんなことに……」

すると秀吉の亡霊が言った。

「おかか! これでええではないがじゃでえ。豊臣は一代でも役を果たした。それでええ。天下を徳川に渡した。おかかの役目もおわったのじゃ。おかか、ごくろうじゃった!」

「お前様………」

「わしのおかかになり苦労させたのう」

「いいえ。……わたしはお前様のおかかになったこと後悔はありません。またお前様の女房になりとうございまする。できれば戦のない世で……」

「はははは。まっておるぞ、おかか」

亡霊は消えた。

「…お前様?」

高台院(寧々)は再び涙を流し合掌した。「お前さま。……豊臣はお前様と私だけのものでした。」

高台院(寧々)は再び合掌して涙し、やがて、その場を歩き去った。

豊臣家の滅亡……そして永遠の豊臣…。すべては夢の中。夢の又夢。

こうして秀吉と寧々の物語は、おわった。


 ……露といで、露と消えにしわが身かな、なにわの夢も夢のまた夢……


 こうして、波乱の風雲児・豊臣秀吉は死んだ。

 享年・六十三歳。秀頼がわずか六歳のことで、あった。


                                 おわり

***********

豊臣秀吉最新研究の豊臣秀吉、その真実  六

 ミステリィの謎解きのその最終のパートです。

まずは、豊臣秀吉の最新研究でわかった事実をまとめて紹介しよう。




自身の神格化

織田信長は自らを神として信仰させようとしたが(異説あり)、秀吉もまた自らを神として祀らせようとした。

信長は記録上それを行ったとされる時期のすぐ後に死亡してしまったため、詳しいことはあまり分かっていないが、秀吉は信長よりも具体的な記録が残っている。

秀吉は死に際して、方広寺の大仏の鎮守として新たな八幡として自らを祀るよう遺言した。

これ以前に秀吉は、源頼朝の富士の巻狩りに倣い、尾張で壮大な巻狩りを行っており、ルイス・フロイスはこの巻狩りの目的の1つは「頼朝の巻狩りへの人々の回想を弱めしめることであった」と推測している。

しかし秀吉の死後、八幡として祀られるという希望はかなえられず、「豊国大明神」という神号で祀られ、豊国社も別に神宮寺を置くこととなった。

元和元年(1615年)に豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と仏式の戒名を与えられた。

神社も徳川幕府により廃絶され、秀吉の霊は方広寺大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:馬塚、当時の史料では「墳墓」とされる。)に遷された。

慶応4年(1868年)閏4月、明治天皇の御沙汰書により、秀吉の社壇を再興することが命じられた。明治8年(1875年)、大明神号は復されて、方広寺大仏殿跡に豊国神社が再建された。

  外交政策

秀吉は大陸侵攻(唐入り)の準備をしつつ、周辺諸国やスペイン・ポルトガルの植民地に対し服属入貢を要求した。

秀吉における海外進出の構想は天正15年(1587年)の九州遠征の時期に行われたとみられ、5月9日に秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もあることを示している。

同年6月1日付で顕如に宛てた朱印状のなかで「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している(本願寺文書)。

「我朝之覚」とは先例のことを指しており、具体的には神功皇后の三韓征伐の際の三韓服従の誓約、あるいは天平勝宝2年(752年)の孝謙天皇による新羅国王への入朝命令などと考えられている。

この先例に倣って高麗(朝鮮)国王は諸大名と同じように朝廷(秀吉)への出仕義務があると考え、直後に李氏朝鮮に対馬の宗氏を介して服属入貢を要求した。

翌天正16年(1588年)には島津氏を介して琉球王国へ服属入貢を要求し、以後複数回要求を繰り返す。

天正19年(1591年)7月25日にはポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求した。

同年9月15日、スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求し、翌天正20年(1592年)5月18日付関白豊臣秀次宛朱印状では高麗の留守に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与えるとした。

秀吉自身は北京に入ったあと、天竺(インドのこと)征服のために寧波に移るとしていた。

文禄2年(1593年)には高山国へ服属入貢を要求した。

人事政策

土木事業や溜池築堤を得意とする木食応其は多くの高野衆や各地から集めた何百人もの大工を率いて寺社の大規模造営・整備にあたっていた。

豊臣政権の行政機構の中に組み込まれていたわけではないが、実質上寺社造営における豊臣家の作事組織として機能していた。

多くの家臣たちに豊臣の本姓、羽柴の氏を与えた。

後世の評価

江戸時代においては、公には秀吉の神格化は否定されていたが、民間では豊国大明神を起請文の対象とするなど、一種の秀吉信仰も残存していた。

江戸時代初期の『太閤記』は広く読まれ、江戸時代後期に出現した読本『絵本太閤記』は庶民の間で大流行した。

これを翻案した浄瑠璃・歌舞伎の『絵本太功記』は人気演目の一つであった。ちなみに『絵本太閤記』は幕府から何度か絶版を命じられている。

慶応4年(1868年)閏4月、明治天皇は大阪に行幸した際に、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお彼を寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であるとして、秀吉を祀る社檀の造営を命じる御沙汰書が下され、同年5月には、秀吉の社に鳥羽・伏見の戦いでの新政府軍の戦死者を合祀するよう命じられた。

明治8年(1875年)には、京都東山に豊国神社が再興された。このように、秀吉は明治政府から賞讃されている。また、大正4年(1915年)には秀吉に正一位の贈位が行われた。

が、この際には国家の平定、対外的な国威発揚、聚楽第行幸の際などの皇室への尊崇などが評価されている。

近現代にも秀吉を題材とした小説・映画などは数多く、それらフィクションで描かれる秀吉像は、武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされることが多い。

朝鮮半島・中国大陸では侵略者として否定的な印象を持たれている。当時の中国や朝鮮の史書では、秀吉が中国出身者だったという説が書かれたものがいくつかある。

が、これは日本に滞在していた中国人らが広めたものと見られている。


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         あとがき



秀吉は慶長三年(1598)8月18日に胃がんで六十二歳で死んだことになっていた。だが、最近の研究ではどうも胃がんではなく、脚気(かっけ)であったらしい。

確かに腹痛や下痢などは胃がんで説明がつくが、寝小便や精神様態が正常から狂気まで乱高下したことは胃がん+認知症(ボケ)では説明がつかない。

だが脚気により下痢や腹痛や寝小便や正常と狂気の精神状態なら、脚気によるウェルニッケ脳症ならば全て説明できる。

脚気とはビタミンB1の欠乏から病気がはじまる。この脚気は昔は“江戸患い”といわれ、江戸時代から戦後すぐまでは国民病と呼ばれ年間何万人も死んでいた。

脚気はビタミンB1が足りないと発症し、急激に痩せたり、全身の倦怠感、等症状が出て最悪は心臓発作にて死に至る。だが、ビタミンB1が含まれる食事をすれば治る。

だが、当時はそんな原因や治療法もわからなかった。当時の日本人は白米だけをばくばく食べていたためにビタミンB1が欠乏し、脚気になっていた。玄米や芋類や米ぬか等摂取することで病気から回復できる。昔の病気のようだが、現代でも年間数千人が脚気で死んでいる。

「戦は頭でするもの」これが秀吉の持論であった。

しかし、晩年は朝鮮戦争という愚行をおかした。私はそこに秀吉の不幸をみる。子宝にも恵まれず、やっと秀頼ができたのはもう六十代……そして病死。この秀吉の死によって、のちに関ケ原、大坂冬の陣、夏の陣があって豊臣家は家康の手によって滅亡してしまう。

 しかし、それはもう秀吉とは何のゆかりもないことである。

 百姓から身をおこして天下統一を果たした秀吉は、日本人にとって今なお”立身出世の英雄””ヒーロー”である。だが、朝鮮人にとっては「西郷隆盛」「伊藤博文」とならぶ日本人侵略者の三大悪人のひとりである。しかし、

 秀吉万歳、私はこういって筆をおさめたい。


                                   おわり

「参考文献」

ちなみにこの作品の参考文献はウィキペディア、「ネタバレ」「織田信長」「前田利家」「前田慶次郎」「豊臣秀吉」「徳川家康」司馬遼太郎著作、池波正太郎著作、池宮彰一郎著作、堺屋太一著作、童門冬二著作、藤沢周平著作、映像文献「NHK番組 その時歴史が動いた」「歴史秘話ヒストリア」「ザ・プロファイラー」漫画的資料「花の慶次」(原作・隆慶一郎、作画・原哲夫、新潮社)「義風堂々!!直江兼続 前田慶次月語り」(原作・原哲夫・堀江信彦、作画・武村勇治 新潮社)、「秀吉研究の最前線ここまでわかった「天下人」の実像」日本史史料研究会編(洋泉社)、「それ、時代ものにはNGです2」若桜木虔著作(叢文社)等の多数の文献である。 ちなみに「文章が似ている」=「盗作」ではありません。盗作ではなく引用です。                             

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時代小説ミステリィシリーズ 秀吉の侵略(インベーション) 長尾景虎 @garyou999

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