後宮の花
「そなたはここで待つように」
舞を終えて高揚感に浸っていた琳麗は鄧夫人の言葉にきょとんとして、ぼんやりしたまま頷いた。
耳の奥にはまだ琵琶の一音一音が深く残っており、体の芯はまだ舞の余韻を残して熱をもったまま疼いている。
まるで自分ではない何かに導かれるように夢中で舞っていた。
その時間は琳麗にとって夢幻のような、永遠に続くかのような錯覚さえ与えた。
じんじんと震える腹の奥と、いつになく大きく響く鼓動を身体に感じ、琳麗は知らず小さく体をくねらせる。
恍惚と夢見るような顔で呆けている琳麗の後ろを、華やかな牡丹の髪飾りをつけた禀誅が射殺さんばかりの視線で一瞥し通り過ぎていく。
琵琶を携えた雪舞は宮妓たちの最後尾に付いて、危なっかし気な友人を気遣わしそうに見つめ、睫毛をけぶらせた。
すれ違う折、二人の白檀の香袋がぶつかって小さく跳ねた。
「ついてきなさい」
鄧夫人の後ろをふわふわと浮ついた足取りで歩いていた琳麗は、夫人の肩越しに覗いた太極宮の内人の厳しい顔つきをみてようやく我に返る。
いつもはただ傍を通り過ぎる、ただの宮妓には一生縁がないに違いない“後宮”という異世界に足を踏み入れていたことに気が付き、琳麗はそのただならぬ事態に顔をこわばらせた。
助けを求めるように夫人の顔を覗くが、夫人は頭を下げたまま微動だにしない。
「そなたはさがってよい」
内人の声に夫人が顔を俯かせたまま静かに引いていく。
取り残された琳麗はおどおどと辺りに視線を彷徨わせる。
身体に残った疼くような熱はとうに去り、琳麗は肌寒さに身を震わせた。
白蘭楼にいた頃のように、焚きしめられた花香の香りがふわりと鼻を刺激する。
けれど、やり手婆も馴染みの姐さんもいないこの場所は、琳麗にとっては気を抜ける場所ではない。
「こちらに」
唯一頼れる鄧夫人は去り、見知らぬ内人が無遠慮に彼女を見下ろす。
重々しい声色に少女は体が冷たくなっていくのを感じ、カタカタと小さく指先を震わせた。
「その娘ね?」
紫の貴色で吊り上がった目尻を飾り立てた女人が、琳麗を上から下までまじまじと値踏みするように見つめる。
「楊紫様、左様でございます。名は琳麗と申します。玉葉という内人が城下の妓楼で拾ってきた娘だそうで、姓は持ちません」
琳麗は蒼白な顔で首を垂れた。目の前には見るからに位の高い女官がいる。
紫の貴色を身に纏えるのは、貴族の中でも特別な存在だけである。
「顔をあげなさい」
身体をこわばらせたまま身動き一つできず固まっている琳麗を見て、内人が叱るように声を張る。
「楊才人様が顔をあげよと仰せだ。何をしている」
琳麗はその時になってようやく、目の前の女人がこの国の王の妃、
――――路傍の片隅の竜胆などではなく、正真正銘の後宮の花であることを理解したのである。
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