開花
晩夏。
まだ蒸し暑い季節というに、燦燦とふる日差しはどこへやら。
灰色の穹はそろそろ見飽きてきた。
分厚い雲のせいで、圧でもかけられているようだとぼんやりと思う。
「また来たのか」
背後に漂う紅の気配に、彗藍は半眼になって声をかけた。
「あの娘が気になっての」
雪椿が舞う。
紅の彼女は楽しげに、そして酷薄に唇を緩めた。
「ここに来ずとも、直接見に行けばよいだろう」
素っ気なく返すと、彼女はとんでもないとでも言いたげにひらひらと手を振る。
「こなたは、あの娘を見るそなたも見たいのじゃ。ほれ、差し入れじゃ」
彗藍の前に回り込むと、酒瓶を振って見せる。
とくとくと注がれる白濁した酒を、彗藍はねめつけながら毒づいた。
「相変わらず、悪趣味な女だ」
吐き捨てるように呟く彼に、彼女はくつくつと笑って酒杯を呷った。
水鏡の中で、踊り子たちが華やかな衣装に身を包みくるくると舞っている。
庇の下で絵師たちが、舞姿を絵に留めようと筆を滑らせていた。
『続いて、百花繚乱』
声と共に、一際愛らしい少女たちが姿をあらわす。
めいめいに大きな牡丹の花や、芙蓉、桃花、紫陽花などを髪に飾っている。
彗藍はその中に小さな白い竜胆の花を見つけた。
演奏が始まって、少女たちの花がぱっと開く。
箜篌や五弦、二胡や琵琶、古筝が響く中、美しい少女たちの舞が始まった。
雨が降って、種が芽吹き、蕾が膨らんでゆく。
やがて、ほころんだ花がぱあっと開くと、酒席からおおっと歓声が沸いた。
舞扇がふわりと開く。
しゃら、と簪の銀細工が揺れる。
竜胆は慎ましく、されど美しく花開く。
突然、さっと竜胆以外の花があちらこちらに散らばった。
花々が輪を描き、くるくると舞う中で、竜胆がぽつんと立ち尽くす。
牡丹の花が意地悪そうに笑った。
「ほう?」
酒杯を呷っていた憐花が、面白いものを見つけたように目を眇めた。
「花たちの反乱か」
竜胆は、困惑したように辺りを見回す。
誰も手を差し伸べる様子はない。
花々が座り込み、竜胆を締め出したところで、演奏が途切れた。
しん、と辺りが静まり返る。
どうかしたのか、と酒席がざわめきだしたところで、
『トン』と音が鳴った。
ゆっくりと長い、琵琶の一音である。
竜胆は、琵琶の音にぴくりと反応すると、ゆるゆると振り返る。
『シャン』
次の音で、竜胆の目が光を帯びた。
ゆっくりと、竜胆の手が上がる。
ふわりと、袖が翻った。
少女に注目していた彗藍は、どうしてかは分からない、ふと憐花を見やった。
憐花は奇妙な表情を浮かべていた。
静かで、不思議な色をたたえた瞳。
「のう、知っておるか?竜胆は、晴天の日にのみ開花する」
唐突に、いやな予感がした。
警笛が頭の中で鳴っている。
彗藍は弾かれるように顔を上げた。
黒い雲。
その雲が、あれほど立ち込めていた雲が、猛烈な勢いで動き始めている。
「もしや......っ」
彗藍は水鏡を揺らした。
「駄目だ、」
卓をたたいて立ち上がろうとしたとき、憐花の白い手が、強い力で彼を押しとどめた。
「藍」
ぞっとするほど冷ややかな声だった。
その顔は無表情で、もはや少しの笑みも浮かべていなかった。
「言ったはずじゃ。手を出すな」
冷たい手は、まるで毒酒でも差し出すように、彗藍の手に酒杯を握らせた。
竜胆が舞う。
やわらかく、清らかに。
少女を包む空気がにわかに透き通る。
しっとりと、初々しく。
けれど妙に艶めかしく。
白い竜胆が紅く色づく。
ひらり。
舞扇が翻る。
優雅に、流麗に。
描かれた曲線の軌跡に光の筋が見えるよう。
ふいに、雲の切れ間から、久方ぶりの陽光が差し込んだ。
ほんの偶然の、些細な瞬間である。
しかしそれは、飢えに苦しむ民にとって、待ち望んだ兆候であった。
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