静かな夜





夜闇にその音色は優しく、青葉の薫風が吹くように、穏やかに響き渡った。


皇城の外で、警邏の兵が思わず聞き入る。


琳麗は、どの楽器を選ぶかと初めに鄧夫人に聞かれたとき、母親と同じ箜篌は選ばなかった。


最初に目を止めたのは排簫だった。


手にしたとき、鄧夫人は少し顔をしかめると、琳麗に楽器を選びなおすように言った。


排簫は華やかな宴で奏でるには、物悲しい情緒がありすぎた。


「そうね、お前にはこれがいいわ」


鄧夫人が琳麗にあてがったのは二胡だった。


琳麗は素直に受け取ったが、排簫は手放さなかった。


何故か手になじんで、そしてやり手婆の言葉を思い出した。


一生涯共にする苦痛があるのなら、そのお供に排簫をと、どこかで考えたのかもしれなかった。


鄧夫人の見込んだ通り、琳麗は二胡を見事に弾きこなした。


彼女が二胡に弓を滑らせると、執務中の内監や皇城の外の門衛が、思わず耳を傾け聞きいってしまう。


曇った穹も心なしか明るさを取り戻すようだった。





「そなた、誠に好い音を出すの」


短い曲が終わり、二胡を卓子に置いたとき、ふいに声がした。


耳覚えはないが懐かしい声に、琳麗は思わず振り返る。


息を呑むほどの優艶な美女。


滝のように流れる美しい髪に、月明かりがなくとも透き通って白く光る横顔。


「誰ですか?」


思わず口からこぼれ出た声が自分のものと思えないような、どこか夢の中にいるような感覚を覚える。


「あなた、もしかして幽霊ですか?」


ふわふわとした感覚のまま、琳麗はその浮世離れした美姫に尋ねていた。


「…………ふっ」


くくく、と押し殺したような笑い声が響く。


「幽霊とな?まあ人間からすればそのようなものかもしれぬな」


可笑しそうに破顔しながら、彼女は呟いた。


琳麗は恐る恐る、笑い続ける彼女を見上げる。


(幽霊でなければ妖かしら?けれど悪い人じゃない気がするわ)


琳麗は憐花をじっと見つめる。


絹のような黒髪がするりとほどけた。


「そなたと、話してみたくての」


二胡の弦の上に置かれていた弓が、カタンと音を立てて転がった。








「紅、一体何をっ、」


水鏡を見つめていた彗藍は動揺で声を震わせた。


『そなたと、話をしてみたくての』


雪椿が落ちる。


透けるような被帛が風もなくふわりと揺れる。


憐花に導かれるように、少女は蓮池へと足を進めていた。


『こなたのことを如何に思う?』


少女は小さく首をかしげて、答える。


『綺麗なひとだなと思います』


二人は寂しい場所にたどり着く。


緩やかに足を止めると、静かな水面を眺めた。


昏い夜闇の中では、水底は見えそうもない。


そうか、と頷く憐花に、少女は続ける。


『小姐よりもずっと綺麗』


でも、と呟くように言って、少女は首を傾げた。


憐花は続きを待つように視線を送る。


少女は自分でもどうしてそう思うのか不思議そうに、確かめるようにしながら言葉を続けた。


『哀しそうです』


しばらく間をおいて、憐花はそうか、とまた口にした。


『こなたは何故悲しんでいると思う?』


少女は考えるように黙り込んで、けれど小さく首を振った。


そしてまた何事か考えながら憐花を見上げる。


『あの……』


少女の躊躇いがちな声に、憐花は優しく問う。


『こなたに聞きたいことがあるのじゃろ。聞くがよい』


少女はやはり躊躇いながら、おずおずと尋ねた。


『ここでいつも話を聞いてくれる人がいるんです』


この、忘れ去られた蓮池で。

とても、とても寂しい場所で。


いつも、私を待って。


ただ静かに話を聞いてくれるんです。



貴女は、その人ですか?と。











「そなた、悟られておったぞ」


憐花はくつくつと喉の奥で笑いながら、彗藍に目をやった。


慌てて水鏡をかき消した彗藍は小さく咳払いをすると、憐花に向き直る。


「紅、何故あの娘に会った」


切れ長の目が鋭く射抜いた。


柳のような眉が、くいと曲げられている。


「娘と話してみたくての」


憐花は意に介したふうもなく、悠然と微笑んだ。


「……私は、」


私も、逢ってよいと思うかと、思わず尋ねそうになって彗藍は顔をしかめて押し黙った。


まるで恋人に会いたいというような心持ちがして心外であったし、何より彼女に尋ねること自体癪だった。


紅の君は、融通の利かない朴念仁だと愉しそうに含み笑いを浮かべる。


そしてふと口元の笑みを消すと、気遣わしそうに傍らの男を見やった。


「あの娘……惜しいの」


笑わない瞳の奥に、僅かに憐憫の色が見えた。











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