帰ってきた命と温かな思い 2

 翌朝。僕はピーファルの鍋で湯を沸かし、コーヒーを淹れていた。


「ぐあぁ~。きもぢわりぃ」


 目覚めて開口一番、結城が昨夜の自分を後悔するように唸った。


「大丈夫か?」


 ボーナスになったらと思っていたピーファルの電気ケトルだけれど、早々に買った方がいいだろうか。今後も度々現れそうな結城を振り返り、二日酔いにうだる表情を見て苦笑いを浮かべる。


「シャワー浴びるか?」


 ベッドの中でモゾモゾと蠢く結城に向かって声をかけると、まるでゾンビのようにはい出てきて無言のままズリズリとバスルームへ消えて行った。


 コーヒーが落ちるまでの間に、マシロの水を取り替えた。ハムハムと必死に口を動かす姿を眺め、本当に生きていてくれてよかったと安堵する。


 梶さんの部屋と隣接する壁の方へ視線を向けて、次に会った時どんな顔をすればいいのだろうと考えた。命に向き合えと僕を叱責した時、梶さんの瞳は潤んでいた。そのことを思い出すと居た堪れない。僕の無責任さのせいで、梶さんにあんな顔をさせてしまったことが悔やまれる。そして、ツンとした態度の原因が解り、彼女がどれほど誠実な人間なのかもわかった。ただ、僕はきっと今まで以上に嫌われてしまっただろうと、今更ながらに落ち込んだ。


 シャワーを浴びて少しサッパリしたような結城の前に、梶さんのところで買わされたマグカップにコーヒーを入れて置いた。


「なんだよ、深沢。俺のマグカップをお前が最初に使ってどうすんだよ」


 昨日、結城が女の子とコーヒーを飲むために買ったマグカップを僕が勝手に使ったと思っているようで、ぶちぶちと文句を言っている。それでも二日酔いには勝てないのか、しつこくすることもなく、カップを手に取り苦いコーヒーを口にした。そんな結城に向かって、僕はカミングアウトする。


「あのさ。昨日言い忘れてたけど、僕も同じマグカップを持ってるんだ」


 僕を二度見した結城は目を丸くしたあとに「早く言えよぉ~」と不満そうに漏らしながらも、同じ趣味かよとケタケタ笑うからつられて笑ってしまった。


「深沢とお揃いなんて、はずっ」


 ふざける結城は、また声を上げて笑った。


 朝食に幸代さんのところのクロワッサンをトーストして出した。乗せた皿は、これも梶さんのところで買わされたものだ。それに気がづいているのかいないのか、クロワッサンに齧り付いた結城は「うめぇ」と漏らし次々と口へ運んでいく。これだけ食欲があるなら、二日酔いも大丈夫だろう。


 昨夜の出来事を何も知らない結城がマシロに気がついたのは、朝食を食べ終わってからだった。


「ん? あれ? なんでうさぎがいるんだよ」


 昨夜まで空っぽだったケージの中にいるマシロを見つけて結城が驚いた。不思議そうな顔をしながらケージに近寄ると、目じりを優しく垂れ下げる。女の子だけじゃなく、意外と動物好きなのかもしれない。


「深沢は、動物学者になるんじゃなくて。マジシャンにでもなるのか?」


 干し草を摘まんでマシロの口元にやりながら、結城が頬を緩めて訊ねた。生憎、どっちになる予定もない僕は、その光景を微笑ましく眺めていた。


 一旦家に帰るという結城を、駅まで送ることにした。


「夜になったらまた来るからな。飲みに行こうぜ」

「アルコールには、懲りないんだな」


 からかうと「女の子と酒は別もんだ」と胸を張った。確かに、歓迎会であれだけ飲まされて、暫く酒はいいとぼやいていたのに、舌の根も乾かぬうちに僕を居酒屋に誘うくらいだからな。それに付き合った僕も僕だけれど。


 結城を見送ったあと、ときわ商店街に向かった。スーツも受け取らなくちゃならないし、心配してくれた健さんや、涙まで流してくれたおでん屋のみっちゃんに、マシロが戻ってきたことを報告するためだ。そうだ、ついでにピーファルのケトルを買ってしまおうかな。マシロが見つかったことで気が大きくなっている僕は、大した貯えもないのに意気揚々と健さんの店に足を向けた。


「こんにちはー」


 店の奥にいる健さんを探しながら声をかけると、何やら電話中だった。僕に気がつき片手を上げると、少し待っていてくれというようにジェスチャーをしてみせる。健さんが通話している間、先日勧められたピーファルの電気ケトルを見ていた。


「やっぱり。梶さんのところにあったものと一緒だ」


 色も形も同じタイプの電気ケトルを眺め、梶さんとお揃いになるという些細なことに頬が緩む。嫌われたかもしれないなんて思いながら、鈍感にもそんなことを考えるのだから始末に負えない。


「わりぃ、わりぃ。待たせたな」


 健さんが弾むように近寄ってきた。


「商店街の組合からでよ。提灯を取り替える件でな」


 提灯と言われて、何のことだかわからなかった。僕の顔を見て、健さんが説明してくれる。


「気づいてなかったか? 商店街の上んところ。通路に沿ってズラズラっと並んでるあれだよ」


 僕を促し店先に出ながら、商店街の天井を指さした。空を指すようにして上を向いた健さんの指を視線で追うと、確かに通路に沿って端から端まで洒落た提灯が飾られていた。


「商店街の組合でな、協賛している店名を入れて作ったものを飾ってんだけど。たまに調子が悪くなって灯りが点かなくなったり、外側のところが破損しちまったりすんだよ。それを取り替えるってんで、今さっき連絡がきたんだ」


 僕の家の網戸も取り替えてくれたように、何でもやってのけるマルチプレーヤーの健さんのことだから、そういった組合の仕事も引き受けているのかもしれない。


「健さんが取り替えるんですか?」


「いや。替えるのは、組合の若い連中だ。俺んところには、背の高い脚立を貸してくれって組合長さんからの電話だよ」


 なるほど。確かに家庭にあるような脚立の高さでは、到底届かない位置だ。


「で。今日は、何の用事だ。この前のピーファルでも買いに来てくれたのか?」


 冗談めかして笑う健さんに、その通りだと頷くと嬉しそうに声を上げた。


「本当かっ。さすが俺が見込んだ樹だ。ボーナス時期でもないのに、あのピーファルを買いに来るとは目が高い」


 健さんは、意気揚々として言ったあと、ウキウキしながら棚にあるピーファルの電気ケトルが収まる箱を手にしてレジに向かった。


「樹が買ってくれるからな、大負けに負けてやっからな。他の連中には、黙っておけよ」


 そう言ってレジに叩き出した金額は、確かにかなりの値引き額だった。


「こんなに、いいんですか?」


 いくら親しくしてもらっているとはいえ、商売にならないではないのだろうか。


「大丈夫だ。樹には、これからも色々勧めるから、覚悟しておけ」


 ニカッと白い歯を見せる健さんに少しビビリながらも、手に入れることができた電気ケトルで美味しいコーヒーをすぐに飲めるようになることを思えば笑みが漏れた。


「それと、健さん。報告がありまして」


 電気ケトルを受け取ってから改まって口にすると、健さんが何事かと背筋を伸ばした。


「いなくなってしまったうさぎが、戻ってきました」

「えっ。それは本当か⁉ なんだよ。呼んだら、返事でもしたのか?」


 テンション高くからかう健さんだけれど、マシロが見つかったことを心の底から喜んでくれているようで「よかった、よかった」と僕を抱き寄せて背中をバシバシと叩いた。


「俺が女だったら、抱き締めるだけじゃなくて濃厚なチューもしてやるところだ」


 ゲラゲラと声を上げて笑い、僕の顔を見ては「本当によかった」と相好を崩す。


「樹があんまり落ち込んでると、からかいにくいしな。これでも一応気は遣ってるんだぞ」


 僕の目を覗きこみながら優しい目をする健さんに、ありがとうございます以外の言葉が浮かばず、僕は何度も頭を下げた。


 喜んでくれた健さんに心配をかけたことのお礼を言って、次はおでん屋の喜代さんとみっちゃんのところへ向かった。商店街の道を一、二歩進んでから立ち止まり上を見上げると、まだ明かりは灯っていないがぷっくりと丸みのある提灯が通路に沿って並んでいる。その姿は、僕が知っている昔ながらの縞模様や赤く色づけされたものではなく。黄色や桃色、緑に青とカラフルな色合いの物で形も丸く可愛らしい。それが交互に並んで飾られている。加入店名やときわ商店街と書かれている文字もデザイン性のある書体で、現代風にアレンジされていた。ちょっとおしゃれな間接照明みたいで、部屋に置かれていても違和感がないようにも思えた。


「健さんのところは、青か。あ、幸代さんのところはピンクだ。可愛らしいな」


 上にある提灯を眺めながら歩いていたら、躓きそうになったので前を向いた。社会人にもなって、何度も膝を擦りむいてる場合ではない。


 おでん屋に近づくと、店先の四角い鍋から出汁のいい香りがしてきた。鍋の前に立つみっちゃんは、中の具を優しくひっくり返しているところだった。


「こんにちは」

「あっ、いっ君。いらっしゃい」


 僕の顔を見てすぐに満面の笑みを向けてくれる。


「喜代さんは、奥ですか?」


 一緒に心配してくれた喜代さんにも直接報告がしたくて訊ねると「はいはい。いますよ~」とにこやかな表情で顔を出した。


「あの、少し前に話したうさぎが見つかりまして」


 僕が口にした瞬間、みっちゃんが悲鳴のような歓喜の声を上げた。あまりのボリュームに驚いて、持っていた電気ケトルの収まる袋が僕の手に握られたまま一瞬空を踊った。


「よかったっ。よかったね。いっ君。これでもう、寂しくないねっ。うっうぅっ」


 みっちゃんは、エプロンの裾を持ち上げると、流れ出る涙を拭きながら喜んでくれる。


「うさぎは、元気にしていたのかい?」


 喜代さんは見つかったマシロの体調を気にしてくれた。


「はい。預かってくれていた人が、面倒を見ていてくれて。本当によかったです」

「預かってた? 迷子になっていたのを見つけてくれていたってことかい?」

「えっとぉ。そんなところです」


 酔った僕の下敷きになったマシロを救出し、病院にまで連れて行ってくれたことを端折って説明したのは、みっちゃんの反応が更に大袈裟になるからというだけではない。自分の責任感のなさを二人に話すことが怖かったからだ。どうしようもない僕に優しくしてくれるなんてと言いながら。結局僕は周囲の優しさを求め、マイナスになるイメージを隠そうとしている狡い奴だ。


「優しい人に見つけて貰えてよかったじゃないか。ちゃんとお礼は言ったのかい?」


 まるで母親のように僕のことを考え、心配してくれる喜代さんに頷きを返す。僕の仕出かしたことに怒っているだろう梶さんに頭を下げた昨夜。情けなさと、マシロが見つかった嬉しさで心の中がグチャグチャになり涙を流してしまった。梶さんは、こんな僕と二度と関わりたくないと思っているかもしれない。けれど、この感謝の気持ちは、これからもずっと持ち続けていきたいし。話す機会があるなら、何度でもお礼を言いたい。


「なんにしても、いっ君の安心した顔を見られて嬉しいよ」


 みっちゃんは、グズグズと鼻を鳴らしながら、僕のことを本気で心配してくれる。みっちゃんの純粋でまっすぐな気持ちは、僕にはもったいないくらいで。彼女の涙に釣られて、僕の瞳も潤んでいく。喜代さんの見守るような表情と、みっちゃんのあったかい気持ちに感謝をし、頭を下げて店をあとにした。


 幸代さんのところに寄って、結城がうまいと言って食べまくったクロワッサンを買いに行こうとしていたら、お茶屋の店先におキクさんが出てきて僕を手招きした。呼ばれるままに傍へ行くと、お茶を淹れるから飲んでいきなさいと店の中へ招かれる。


「うさぎが見つかったんだって?」


 奥で湯を急須に注ぎながら、おキクさんが僕にいつもの丸椅子を勧めた。


 なんて情報が速いんだ。この商店街の連携プレーは光の速度だ。きっと、健さんだろうな。自分のことのように嬉しそうな顔をしておキクさんに報告をしているだろう姿がリアルに想像できた。


「動物を飼うっていうのは、大変なことだよ」


 湯飲み茶わんに注がれた緑茶を受け取り、小さく頭を下げて一口頂いた。丁度いい熱さで、ほんのりと舌に感じる甘味と香りが鼻腔を抜ける。今日もとても美味しい。


「ペットなんて横文字を使うから、軽く感じてしまうのかもしれないがね。言葉を話さなくても、命は命だ」


 おキクさんは、通りを眺めながらゆっくりとかみ砕くように話した。僕は「はい」と返事をする。


 本当にその通りだ。言葉を話せないからこそ、寄り添って大切にしなくてはいけない。


「無事に帰ってきて、本当によかった」


 おキクさんがそこで僕の顔を見た。


「樹の心に、大きな傷がつかなくてよかった」


 おキクさんが僕に向けた言葉は慈愛に満ちていて、包み込むような温かさを感じた。優しく背中をさすられた幼い頃を思い出させるような話し方に、涙が込み上げてきてしまい咄嗟に下を向いた。込み上げた涙は呆気なく零れ、おキクさんの店の床を濡らした。


「樹は、優しい子だから。傷は、少ない方がいい」


 おキクさんは緑茶の入った湯飲み茶わんを両手で大切に包み込み、僕に優しい笑みを向け続けてくれた。


 涙が落ち着き、緑茶を飲み干したあと。おキクさんは、僕の手を優しく握り撫でるようにさする。


「いつでもおいでなさいな。ここには、樹を大好きな人がたくさんいる」


 田舎の祖母を思わせる皴皴の温かな手が、心も優しく撫でていく。


「若いうちは、甘えたっていいんだよ。年を取る毎に、それをまた次の若い子に向けてあげればいい。それでいいんだ」

「はい」


 僕は、おキクさんに深々と頭を下げて店をあとにした。


 僕が飼っているうさぎの噂は、この商店街にとってけして暇つぶしのネタではなく。同じように悲しみや喜びを感じようとするものだった。こんなに温かな人たちが集まる場所に住む僕は、とてもとても恵まれている。優しくして欲しくないなんて、本当におこがましい。僕は、みんなからの愛を大切に受け止めた。


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