帰ってきた命と温かな思い 3

 パン屋の自動ドアを潜ると、幸代さんがレジから笑顔をくれた。


「いっ君、いらっしゃい。うさぎ、見つかったんだって。よかったね」


 幸代さんが、心からの微笑みを向ける。


「健ちゃんがね、とっても嬉しそうに電話してくるものだから。私もほっとしたのよ」


 やっぱり健さんからの情報だったんだ。普段なら、こんな風に自分のことを周りに吹聴されてしまえば嫌な気持ちになるのに。この商店街は特別で、あったかいみんなの心遣いが伝わり、寧ろありがたささえ感じる。


「それにしても、一体どこにいたの?」


 トング片手にトレーを持って、クロワッサンをのせていると幸代さんが不思議そうに訊ねてきた。さっきみっちゃんには自分を守るために言葉を濁したけれど、そうじゃいけないと思い直し、幸代さんには正直に事の経緯を話した。梶さんの名前は出さなかったものの、隣人さんが僕の下敷きになったマシロを助け出してくれたこと。病院へ連れて行ってくれたこと。今まで預かってくれていたことを話した。


「そう。そんなことがあったのね。マシロちゃん。元気に戻って来てくれてよかったわね」


 幸代さんがマシロと呼んでくれた。それがなんだかくすぐったくて嬉しい。


「そのお隣さんとその後は? お礼はした?」


 ここにも母親みたいに気を利かせてくれる人がいた。


「昨日の今日で、まだ会っていなくて。というか、多分僕の仕出かしたことに怒っている気がして」

「会いづらいんだ」


 幸代さんは、クスクスと笑いを零す。子供みたいだと思われているのかもしれない。


 いくつになっても臆病風に吹かれている情けない男だと思われている気がして、背中が丸まっていく。


「手土産に、うちのパンでも持っていったら? そうやって真剣に怒ってくれる人なんて、なかなかいないんだから。案外、仲良くなれるかもしれないよ」


 確かに、どうでもいい相手なら関知しないだろうし。あんなに必死になって怒ったりしないだろうな。


 梶さんへの想いを抱えたままの僕は、一縷の望みともいうべき小さな小さな光を見た気がして、トレーに乗せた自宅用のクロワッサン以外のパンを何種類か見繕い、別の袋に詰めて貰った。


「いっ君の気持ちが届きますよーに」


 幸代さんがチャーミングな笑みを浮かべて袋を手渡してくるものだから、顔が熱くなってしまった。幸代さんは、お礼の気持ちが届くようにと思って言ったのかもしれないないけれど。僕には、梶さんへの想いが届きますようにと言われた気がした。


 幸代さんの店を出たその足で、まっすぐ梶さんの雑貨屋へ向かった。店が近づくにつれて、何をしに来たの? なんて冷たくあしらわれやしないかと緊張感が高まっていく。


 花屋の角を曲がれば、いつもの光景が見えた。人気のあるカフェSAKURAと梶さんの店だ。近づいていくにつれて、今日の雑貨屋はひと際賑わっているように見えた。恐る恐る店内を覗くと、たくさんの女性客が浮足立ったようにピンク色のオーラを放ちながら買い物をしていた。


 以前訪れた時とは、店内の雰囲気が異なっている。なんていうのかな。こう春先のような、ウキウキとした空気がそこいら中に広がっているんだ。


「いらっしゃいませ」


 不意に声をかけられて、思わず首を傾げた。何故って。挨拶をしてきたのは、見知らぬ男性だったからだ。しかも、めちゃくちゃカッコよくてモデルみたいだ。まさか、何かの撮影でここの店が使われているなんてことはないだろうか。残念な僕がカメラに映り込むのは恐縮で、キョロキョロと辺りを見回してみたが、それらしいスタッフも機材も見当たらない。


「何かお探しですか?」


 イケてるボイスで話しかけられて、言葉に詰まる。見知らぬ店員に声をかけられ、どうしたらいいかと困っていると、店内にいる女性客がこの店員さんに注目していることが解った。


 なるほど。ここに居る客の目当ては、このイケてる店員さんなのか。だから店内の雰囲気が違ったんだ。


 上から下まで完璧なバランスの良さを保ったモデル店員さんを見ながら納得したけれど、当初の目的を思い出し幸代さんのところで買ったパンの袋をキュッと握り直す。


「あの、今日梶さんは?」


 姿の見当たらない彼女のことを訊ねると、数秒間があってから、ああと理解した表情をされた。


「妹のお友達ですか?」


 妹というワードに、以前兄がいるという話をしていたことを思い出した。けれど、今はポーランドにいるはずじゃなかっただろうか。


「妹は今日から少しの間、お休みを頂いています。何か伝言でもあれば」

「あ、いえ。大丈夫です」


 伝言と言われて、慌てて断り一歩後ずさる。あまりにカッコよすぎるお兄さんに妹である梶さんへの伝言など頼めるはずがない。と言うか、イケメンのお兄さんにビビってしまっている自分が情けない。


 ペコペコと頭を下げて店を出てから息を吐き出した。


「お兄さん、カッコよすぎだろう」


 梶さんも素敵だけれど、お兄さんはもっと上だ。なんなんだ、この兄妹。

 作りの良すぎる兄妹に半ば呆れつつ、暫く休みという情報を得て踵を返した。そこへ丁度カウベルの音がした。


「こんにちは~」


 甲板の下にいる僕に挨拶をしてきたのは、当然SAKURAの店員さんだ。今日も、滞りなく素敵な癒し系だ。なんなら、梶さんのお兄さんとお似合いなくらいだ。二人がファッション誌に出ていると言われても何の違和感もない。


 甲板の傍へ近づいていくと、店員さんも一歩降りてくる。


「早苗ちゃんに用事だったの?」

「あ、はい。ちょっと」


 躊躇いながら返事をすると、にっこりと笑顔を浮かべる。


「早苗ちゃん、今日からゴールデンウィークなのよ」


 少し遅れた連休という意味だろう。


「お兄さんには、会った?」

「はい」

「早苗ちゃんと交代でね。彼女がお休みの間、ポーランドから戻って来てるの」


 やっぱりそうか。


「めちゃくちゃカッコいい人ですよね」


 正直に感想を述べると、店員さんがクスクスと笑う。


「梶君に言ったら、喜ぶわ」


 男に褒められても気持ち悪いだけでしょ。とは言えず、苦笑いが浮かぶ。


 声をかけられたのに踵を返して立ち去ることもできず、SAKURAでコーヒーを飲んでいくことにした。


「なんだか、強引に来てもらったみたいになっちゃってごめんね」


 と言いつつも、にこやかな表情の奥に営業魂を感じるのは気のせいだろうか。みんな、お客への対応がうますぎる。見習わなければ。


 SAKURAの店内は、珍しく空いていた。二組の客が、一番奥のソファ席にいるだけで、ゆったりとした音楽が店内を満たしている。


「みんな遠出しているのかもしれないわね」


 店員さんは、商売あがったりと言うように、レモン水の入ったグラスを僕のテーブルに置いて肩を竦める。お店の人にしてみれば、客足が遠のいているのはいただけないよな。


 渡されたメニューを広げたけれど、お腹は空いていなかった。そうだ。以前スルーしたデザートを食べてみよう。


「お勧めはね、枇杷を使ったゼリーとメロンやキウイの入ったフルーツケーキになっています。甘さ控えめが好みなら、枇杷ゼリーがお勧めよ」


 勧められるままに枇杷ゼリーを注文した。コーヒーと共に届いたゼリーは、飾りガラスのカップにオレンジと透明なゼリーが層をなし。クラッシュしたゼリーと共に枇杷が存在を主張するようにゴロリと入っていた。


 スプーンを手にして口に入れると、とてもジューシーでさっぱりとした甘さに頬が緩む。


「いい顔」


 ふふと言って傍に来た店員さんが、近くの椅子に座り僕に膝を向ける。他の客がいるのにいいのだろうかと店内に視線を走らせたら、僕が枇杷に夢中になっている間に誰もいなくなっていた。どうやら貸し切り状態になってしまったようだ。


 頬杖をついてこちらを窺い見るようにしてくる店員さんに、僕の喉がゴクリと鳴る。僕は残念なイケメンだから、こういったシチュエーションには慣れていない。行きつけの名前も知らない店員さんに目の前に座られ、かつじっと見られた場合どういった対応をするべきか。許されるならスマホを取り出して、結城に電話をかけて訊きたいところだ。女の子の扱いに慣れているだろう結城なら、最適解を僕に教えてくれるだろう。


 何を話せばいいかわからないまま、スプーンを持った手が止まる。そこでやっと、美味しいですね。と言えばいいのか。と思いつき口を開こうとしたら、先に店員さんが話し出した。


「その後、早苗ちゃんとはどうなの?」


 店員さんの口から出た名前に一瞬遅れで反応したあと、梶さんのことだと気づいた僕の耳がカッと熱を持つ。わかり易すぎる自分の反応に気づかれるのが恥ずかしくて、冷静さを保つことが大変だった。


「えっと。どう、というのは」


 動揺して、訊ねる声が震える。


 梶さんについて店員さんと話したのは、一言二言のはずだ。部屋が隣で、商品を買ったことくらいだろう。


「うさぎ。返してもらったんでしょ?」

「え。マシロのこと、知ってるんですか?」


 驚きながら問うと、口元に両手を持っていきグーにしたまま、ふふと上品な可愛い笑いを零した。


 全てお見通しだとでもいうような店員さんの表情が、僕の顔を窺い見てくる。どうやら、梶さんはこの店員さんに僕のことを色々と話していたようだ。しかし、どこまで話したのだろう。


 酔いつぶれてうさぎを下敷きにしてしまったこと。結城と飲んだくれていたこと。マシロを返してもらった時に涙を流して頭を下げたこと。そして、僕の気持ち。


 最後のは、梶さんでも知らないことか。


 自嘲気味に思い、口元が歪む。苦い顔つきの僕を見て店員さんが首を傾げるから、慌てて表情を取り繕った。けして、店員さんを馬鹿にしたわけではないのです。と必死な言い訳は、胸中で渦巻くだけで言葉が出てこない。


「早苗ちゃんて、きつそうに見えるけど。とても優しいでしょ?」


 訊ねられて、確かにと頷いた。他人が飼っているペットのことをあそこまで真剣に考えて怒るなんて、優しいからこそだ。


「とても優しい人だと思います」


 素直に応えると、店員さんが満足そうに頷いた。


「あと。ああ見えて、とても傷つきやすい女の子なの。だから、泣かせちゃだめよ」


「はい」と返事をしてから、これではまるで僕が梶さんの恋人みたいではないかと慌ててしまった。僕と梶さんは、付き合う以前の問題だから、泣かせるなと言われても、そこまでの関係性の距離には程遠い。


 店のカウベルが鳴り客が入ってきたのを機に、店員さんは席を立ったて対応に行ってしまう。僕は枇杷ゼリーをスプーンですくい口に入れた。さわやかなゼリーが口いっぱいにジューシーさを広げる。ゴロリとした枇杷の果肉が心を満たす。満足感に浸りながら、恋人同士になることが現実になればいいのにと、夢見がちなことを考えていた。


 部屋に戻り、幸代さんのところで買ったクロワッサンと、ピーファルの電気ケトルをテーブルに置いた。そして、もう一つの袋をまじまじと眺め、隣に続く壁を見る。


「しばらく休みって言ってたよな。家にいるだろうか」


 パンの袋を手にして玄関へ戻り靴を履く。隣の様子を窺うようにそっとドアを開け、首だけを伸ばし覗き見た。耳を澄ませてみたけれど特に変わった様子はなく、いつもと同じで気配は静かだ。


 留守にしているのだろうか。


 遅れたゴールデンウイークに入ったということは、日々の疲れを癒すために今頃はゆっくりと眠りについているだろうか。睡眠を邪魔するのは気が引けるけれど、幸代さんのパンを早く渡したいし。なにより、グズグズと情けなく泣きながらではなく、ちゃんとお礼がしたい。


 梶さんの部屋の前に立ち、一度深く深呼吸をする。また睨みつけられるかもしれないと考えればしり込みしそうになるけれど、お礼をしなきゃダメだと言った喜代さんや幸代さんの言葉に後押しされインターホンに指を伸ばした。


 また嫌味な態度を向けられるかもしれないという気持ちと。梶さんに会いたいと思う気持ちが交差し、訳の分からない緊張感に心臓がドクドクと煩い。


 しかし、意を決して鳴らしたインターホンには何の反応もなかった。休日をのんびりと寝て過ごしているかと思ったけれど。折角の休みだし、どこか遠くへ旅行にでも出かけているのかもしれない。


 嫌な顔を向けられなかったことにほっとしつつも、会えなかったという寂しさが胸に去来する。手に持つパンの袋を目線まで上げると、鼻腔をくすぐるいい香りに心が満たされる。中に入っているのがまるで梶さんへの想いのようで、もう一度彼女と話したいという感情が増していった。


 再び部屋に戻り、ゴロリとベッドに横になる。ケージに視線をやると、戻ってきたマシロは今日もハムハムと口元を動かし干し草を食べていた。


 食事が済んだところを見計らいケージから出してやると、ひょこひょこと室内を移動しながら、コロコロと黒いものを落としていくから追いかけるように拾い歩いた。その後、家電製品のコードに噛みつき始めたから慌てて引き離す。


「健さんのところに、モールは売ってるかな」


 マシロがコードに噛みついて感電でもしたら大変だ。あと数時間もすれば結城がまたやってくるから、その時に健さんの店に寄ってみるか。


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