帰ってきた命と温かな思い 1

 梶さんの部屋は僕の部屋と同じ造りのはずなのに、全く雰囲気の違う場所になっていた。角部屋の僕の部屋と違って、窓が少ないのもあるだろう。部屋の中には、雑貨屋を営んでいるだけあって、自店のものがあらゆるところにあった。玄関先のマットやスリッパに傘。壁にかかる時計にキッチン用品。テーブルの上に置かれたキャンドルスタンドにデスクチェアマット。お店の雰囲気をそのまま持ってきたみたいにお洒落な空間だ。


 部屋の雰囲気に感嘆の溜息を吐きつつ、奥にあるベッドに視線をやって慌てて逸らした。イヤらしい顔をしてしまいそうだったからだ。そうして逸らした先に見たのは、ペットのケージだった。干し草が敷き詰められた中にいたのは、真っ白な毛と真っ赤な瞳のうさぎだった。


「マシロ……」


 飛びつくようにケージの傍に行くと、一生懸命に口を動かして干し草を食べていた動きが一瞬止まる。


「マシロ」


 再び優しく呼ぶと、食べるのをやめてこちらをじっと見てきた。僕は、疑問を浮かべた表情で梶さんを振り返った。すると、嘆息するように息を吐いたあと話し始める。


「何度呼びかけても目を覚まさないから、置いてあった干し草、勝手に貰ったわよ。ケージは知り合いから借りることができたけど、餌代までは面倒見切れないしね」


 キッチンに立つ梶さんは、コーヒーを淹れる準備を始める。梶さんの雑貨屋で売られていた藍色でシンプルに描かれたマグカップを二つだし、ピーファルの電気ケトルで湯を沸かしている。僕が健さんのところで勧められたものと一緒だ。


 マシロに会えたことで、得も言われぬ嬉しさと感情がせめぎ合う。


「どうして」


 窺うように訊ねる僕にコーヒーを淹れたマグカップを差し出し、ダイニングの椅子を勧める。促されるままに座り、向かい側に腰かけた梶さんの言葉を待った。


「別にね、どんちゃん騒ぎしたっていいのよ。どうせ私との生活時間帯はずれているわけだし、平日の昼間静かにしてもらえれば、何の問題もなかったのよ。だけど、命は別。ペットを飼うなら、責任を持って飼うべきじゃない?」


 酔っぱらって帰り、マシロの面倒も見ずに眠りこけ。挙句、家の鍵は不用心にも開いていた。梶さんは、その事を責めているのだろう。


 睨む梶さんから、至極もっともなことを言われ返す言葉もない。


「仕事が終わって帰ったら、隣の家の玄関ドアには靴が片方挟まったまま開きっぱなしだった。他人のことに首を突っ込むのは好きじゃないけれど、あまりに不用心すぎるでしょ。中でよからぬ犯罪が起きていても嫌だしね。仕方なく中を覗いて見れば、部屋のど真ん中で大の字になってるあなたがいた。それだけなら、やれやれなんて思って玄関ドアを閉めるだけで済ますつもりだった。けど、あんたの下敷きになっていたこの子が見えて慌てて中に入ったわ」

「え、僕がマシロの上に」


 まさか、そんなことをしていたなんて。酔って記憶がないなんて、言い訳にはならない。


 あの日の僕は、マシロの上に倒れこみ、苦しがっていても気づきもしなかったのだ。なんて酷いことをしてしまったんだ。自分のしてしまった罪深さの衝撃が重りとなって体中に圧し掛かる。お前はまた、重大な罪を重ねるところだったんだと、どこからともなく責められている気がした。目の前にあるマグカップの黒い水面が、梶さんの怒りに反応したように緩く波打つ。その黒い波を見続けていたら、どうしようもなくダメな自分が映り込み情けなさに視線を逸らした。


「少し弱ってた。抱え上げた時、ぐったりしていて手が震えたわ」


 梶さんは、コーヒーを一口飲んでから僕のことを睨みつけてきた。瞳が少し潤んでいる。


「慌てて深夜にやっている動物病院に駆け込んだら、そのまま入院することになったの。診察中は、生きた心地がしなかった。命に別状がないことを聞かされて、本当にほっとしたわ。この世に生まれ出てまだ間もない命が助かったことに、間に合ってよかったって。私が気付けて良かったって。助けてあげられたって、泣けてきた」


 震える声で話す梶さんの瞳から、涙が零れ落ちた。その涙を悔しそうに手でこする。きっと、僕なんかに涙を見せたくなかったのだろう。僕は見ないふりにしたかったけれど、怒りをあらわに睨み続ける彼女から、視線を逸らしちゃいけないのだと。

僕の罪の重さを彼女からしっかり聞かなければいけないのだと見続けた。


「病院にうさぎを預けて家に戻っても、あなたはまだ同じ状態で泥酔して倒れたままだった。何度声をかけたって起きないし。開けっ放しだったケージのドアを見て、だらしのなさに怒りしかわかなかった。だから、わざとやったの」


 なにを? という問いかけは、鋭い瞳に見据えられ飲み込んだ。


「あの子をあなたから奪ってやろうと思った。まともに面倒も見られないなら、私が育ててもいいと思ったの。だから、そばにあった干し草を袋ごと持ち帰り、網戸は食いちぎったように挟みを使って引き千切るようにして穴を空けた。後悔すればいいと思った。悔やんで悔やんで、自分のしたことを思い知ればいいと思った。だって、あなたは命の重さを知っていると思っていたから」


 最後の言葉に引っ掛かりを覚えるよりも、自分の過ちの重さに圧し潰されて何も言い返すことなどできなかった。


 あの日。僕がマシロにしてしまったことは、許しがたい事実だ。梶さんが気付いてくれなかったら、今頃マシロは。


 考えるとリアルな映像が脳裏を過り、胃の辺りがキュッと締め付けられ、胃酸が込み上げ吐き気を呼んだ。マシロの弱る姿が、あの日の一輝に重なる。


 僕は、二度も同じことを繰り返そうとしていたんだな。あんなに後悔したのに。今も後悔し続けているというのに。学習能力の欠片もないじゃないか。


 こんな僕がマシロのそばにいていいはずがない。マシロだって、責任感のない飼い主の傍になんていたくないだろう。


 怒りをあらわにした梶さんが、僕のことをじっと見ている。僕の心の奥底にある、ダメな部分を見透かすように見続けてくる。その目が、どうしてお前は生きているんだと言っている気がして、更なる吐き気を呼んだ。


 頭の中に反響するように、責め立てる声がする。


 何度命を見捨てたら気がすむんだ。何度過ちを繰り返せば、命の大切さを理解できるんだ。いつまでのうのうとした顔をして生き続けるんだ。後悔なんて建前で、お前は少しも反省などしていないじゃないか。現にこうやって、自分よりも小さな生き物を大切にすることさえできていない。お前の犯した罪がどれほどのものなのか、いい加減に理解しろ。


 頭の中で響く声が責め続ける。


 目眩さえしそうな気持ちの悪さに、九の字になりそうな自分を必死で食い止めた。自分の犯した過ちで具合の悪くなった姿を晒すことだけはできない。可哀そうな自分なんて、必要ない。


 僕は、なんてどうしようもない人間なのだろう。こんな僕のもとにマシロが戻ったとしても、幸せになんてなれない。僕の傍になんて、いない方がいいんだ。


 僕はマシロを手放し、梶さんに託すべきだと考えた。梶さんに気づかれないよう、服の上から胃を押さえ、吐き気を堪えて口を開く。


「僕の代わりに、マシロを飼ってくれますか」


 言った途端に、梶さんの怒りが爆発した。


「いい加減にしてっ!」


 頭を下げる僕に向かって、低く怒りを押し殺した声を投げつける。


「どこまでも情けないのねっ。確かにあなたのしたことは、とても酷くて赦しがたい。けれど、今目の前にある命に、もう一度ちゃんと向き合おうとしないなんて、どこまで臆病風吹かせる気よ。大人になってもそんな風なんてっ、情けなさ過ぎるでしょっ」


 瞳を潤ませた梶さんが、今にも掴みかからんばかりの勢いで立ち上がり、静かな怒りをぶつけてきた。


 梶さんの怒りは、当然のことだ。一輝がうさぎを欲しがっていた。ただ一点、その理由でマシロを飼った僕は、中途半端な責任感で可愛がり、危険な状況を作り出してしまったのだから。命を傍に置くということに一体どれほどの重さがあるのか、少しもわかっちゃいなかったんだ。


 怒りに顔を歪めた梶さんが、キリキリと歯噛みをする。僕は、残念なイケメンどころか。どうしようもないダメ人間だ。


「お酒を飲むのも結構。友達と騒ぐのも結構。けれど、自らそばに置いた命には、責任を持って」


 この時間帯が深夜でなければ、梶さんからは怒声を浴びていたことだろう。深夜に大声を出されなくてよかったと安堵するよりも、力の限りに罵倒して、僕のどうしようもなくダメな部分をコテンパンに打ちのめして欲しかった。健さんや増田さんや結城みたいに、こんな僕に向かって優しい言葉をかけ気遣ってくれるよりも。お前はとことんダメな奴だ! と現実を突き付けてくれた方がずっといい。胸倉を掴まれて殴られたってかまわない。そのくらいのことを僕はしてしまったのだから。


 怒りに任せるように立ちあがっていた梶さんは、僕を睨みつけていた視線を無理やり引きはがすようにそっぽを向く。その後、ケージに近づくと優しくマシロを抱えあげた。


「お前、マシロっていうんだね。今度あんたの飼い主に何かされたら、うちの子になりな」


 マシロに頬を寄せ聖母のような穏やかな表情で語り掛けると、未だダイニングチェアに腰かけたまま項垂れ背を丸める僕の前に立った。


「命に次はないからっ」


 マシロとは真逆の対応で、僕に向かって吐き捨てる。立ち上がった僕は、差し出された小さくて温かな命を受け取った。


「あったかい」


 素直に言葉がこぼれ出て、気がつけば涙が頬を伝っていた。


「その温かさ。忘れないで」


 梶さんに深々と頭を下げて、僕は部屋をあとにした。


 家に戻ると、待ちくたびれたのか、結城がベッドで爆睡していた。僕は梶さんから返された三分の一ほどに減った干し草を取り出し、ケージの中身を取り換えたあと、マシロをそっと中に入れた。


「ごめんな、マシロ」


 生きていてくれて、よかった。生きていてくれて、ありがとう。


 ベッドわきの写真を振り返り、一輝に頭を下げる。そして、きっと今も怒りに震えているだろう、隣の部屋の梶さんに向かっても深く頭を下げた。

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