第10話

 真雪先輩と銀座に行った日から、私の中のふわふわした気持ちは、先輩に対する憧れをずっと甘くしたような感情は、日に日にその濃さを増していった。


 先輩のくれたリップクリームを塗る。鏡の中の自分の唇が、薄く色づくのと同時に、胸の中の想いまでが、色づいていく。


 心臓が高鳴る。目をつむって先輩の音を思い出すときに、その美しい唇の形までがよみがえってくることに、自分でも驚いた。


 自分が誰かに対して、こんな感情を抱くことになるなんて、思ってもみなかった。


 サシ練習のたびに、心が躍った。身体が固いよ、なんて言って、先輩が私の肩に触れるたびに、もっとずっとそうしていてほしい、なんて思うようになっていた。


 すぐ近くいる先輩の身体からは、ほんのりとローズの香りがして。思わず身体の奥が熱くなるような、不埒な衝動を感じずにはいられなかった。


 けれど、先輩の左手薬指の指輪のことを考えると、憂鬱な気持ちになった。真雪先輩には多分、人には言えない想い人がいる。だから私のこの想いは、横恋慕もいいところだ。


 だけど、抑えなければならないと強く思えば思うほど、その感情はどんどん強くなり、行き場のないまま、ただ切なさだけを増していった。



 *



 まもなく、夏合宿の日がやってきた。行き先は、山梨県の河口湖だ。朝早く学校に集合して、皆でバスに乗り込む。座席は私の隣に美冬先輩が座り、真雪先輩の隣には菜奈が座っていた。


 人懐っこい菜奈は、真雪先輩と何やら大騒ぎしていて、ずいぶんと盛り上がっているようだった。


 私と美冬先輩は、淡々と好きな音楽の話をしたり、去年の合宿の話なんかも聞いた。フルートパートには三年生がいないから、去年は真雪先輩と美冬先輩はずっと二人きりでパート練習をしていたらしい。


 それは実質、ずっとサシ練習をしていたようなもので。私は美冬先輩のことが、羨ましくて仕方なかった。


 一年生の私にとっては、オーケストラ部に入って初めての合宿だったけど、先輩方がてきぱきと動いてくれるのを見ながら、なんとか合宿の流れを把握しようとしていた。


 なんとか合宿のリズムにも慣れてきた、三日目のパート練習の時間、真雪先輩が突然言い出した。


「はーい、今からフルートパートは野外練習を始めます。みんなついてくるように」


 正確には、パート練習後、ではある。真雪先輩は指定された時間よりも大分早くに、勝手にパート練習を切り上げてしまったのだった。


「他のパートの子たちには内緒ね」

「はーい」


 正直、ちょっと抵抗はあったけれど、素直に返事をして真雪先輩のあとをついていく。先輩は合宿所を出て、湖の近くまで私たちを誘導した。


「真雪、まさか……」


 美冬先輩が、何かを察したような反応をする。


「もちろん、せっかくここに来たんだから、乗るでしょ、スワンボート!」

「わーい!」

「さすが真雪先輩!」


 スワンボート、実は乗ってみたかったから、ついつい歓声をあげてしまう。


「スワンボートは二人乗りだから、くじ引きでペアを決めよう」


 真雪先輩はどこからともなくトランプのカードを四枚取り出して、私たちに引かせた。これでペアを決めるということらしい。


 私と菜奈が先にカードを引いて、先輩二人は後から選んだ。


 私は真雪先輩と、菜奈が美冬先輩とペアになった。ただの、いつものサシ練習のときの組み合わせなんだけど、不思議と心臓が高鳴る。


「じゃあ、桜花、行こうか」

「はい」


 真雪先輩は私の肩をポンと叩いてから、手を引っ張る。だけどそのままつなぐわけじゃなくて、数歩先を楽しそうに歩いていく。


 きっとよほどスワンボートが好きなのだろう。確かスワンボートには、去年も美冬先輩と二人で乗ったと言っていた。


 私の知らないその光景を想像すると、なぜだか胸にちくりとした痛みを覚える。だけど今はそんなことよりも、真雪先輩と一緒にスワンに乗れることが嬉しかった。


「スワンボート、懐かしいなぁ。桜花は乗ったことある?」

「いえ、私は初めてです。真雪先輩は去年も乗ったんですよね」

「そうそう、美冬と二人でね。まだそんなに仲良くない頃だったけど、結構盛り上がったよ」


 真雪先輩は、本当に懐かしそうにそう話す。


「お二人はどんな話したんですか?」

「なんだったかな。あーそうだ、なんか恋バナだったかな。昔話というか、ね」

「恋バナ……なんか意外ですけど、そういえば、美冬先輩の、こないだの、あれ……」

「ああ、あの漫画か」


 あれ、というのは、いろいろあって。それは以前の、サシ練習中の出来事のことだ。


 真雪先輩が美冬先輩の机を倒してしまって、その中から漫画本が出てきたのだ。美冬先輩にしては意外だ、なんて話していて、よく見たら、その漫画本は、なんと女の子同士の恋愛を描いた作品だったものだから、二人とも驚いた、という話だ。


「美冬先輩って女の人が好きなんですか?」

「さあ、どうだろう。私もわからないや。そこは本人に聞いてみないとね」


 確かに言われてみればそうだ。そういうことを、勝手に別の人から聞くのはダメだと思う。それに多分、真雪先輩は、知っていても勝手に答えたりしないだろう。


「真雪先輩は……本当は好きな人、いるんでしょう?」


 この瞬間を逃したくなくて、勇気を出して聞いてみる。聞くなら、今だと思ったのだ。


「好きな人か。うん、いるよ」


 先輩は隠す様子もなく、そう答える。


「……そうですか」


 そのとき、私の声色は、明らかにトーンダウンしていたと思うけれど。


「でもさ」


 真雪先輩は続けて言うのだ。


「どうせ、叶わないから。……いないのと変わらないよ」


 その声は、私なんかよりもずっと深い悲しみの色をしていた。

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