第9話
「先輩、どうもありがとうございました」
「いえいえ。私もいろんな楽器吹けて、楽しかったし」
購入する楽器を決めて、店員さんに型番と価格をメモしてもらってから、お店をあとにした。
結局、私が決めたのは、真雪先輩のフルートとは違うメーカーのものだった。本当は、先輩と同じ楽器にしたいという気持ちも、なかったといえば嘘になる。だけどそうしなかったのは、単純に勇気が出なかったから。
それとあともう一つは、いつまでも先輩に依存してばかりの自分ではダメだと思ったからだ。
この頃の私は、先輩の一挙一動に、心を揺らされてばかりだ。いや、別にそれは最近の話でもなんでもなくて、初めからそうだった。
出会ったそのときから、いつだって、そう。真雪先輩の音は、言葉は、私の足下をおぼつかなくさせる。先輩のフルートの音を聞くだけで、言葉をかけてもらえるだけで、私の身体はまるで羽が生えたかのように、ふわふわと軽くなってしまって。
だけど宙に浮いた身体はいつまでもそのまま漂っているわけにもいかなくて。
いつか地上にたたき落とされる日を、今日か明日かと恐れながら、私は毎日を生きていたのだ。
「桜花、このあとまだ、時間ある?」
「はい、大丈夫ですけど……」
「ちょっと、寄りたいところあるんだ。付き合ってよ」
真雪先輩はそう言うと、また私の手を引っ張って歩き出した。あたたかい温度に包まれる。夏だというのに、その温度はちっとも嫌じゃなくて。ひとに触れられるのがこんなに心地よいのだということを、私はこのめちゃくちゃな距離感の先輩に会うまでは、知らなかった。
先輩の指には少し硬い感触があって、それは左手の薬指につけられた指輪だった。私が入部したばかりの頃に急につけ始めて、デザインから、それがペアリングだということはすぐにわかった。
あまりに目立つから、つい、サシ練習のときに聞いてしまったら、『フルートが上手くなるおまじない』だなんて、はぐらかされてしまった。
だから私は、それ以上は詮索しなかった。だけどなんとなく、私は気づいてしまっていた。真雪先輩はおそらく、人には言えない想いを、その胸の中に隠し持っているんだということを。
休日の銀座は、人で溢れていたけれど、真雪先輩が手をつないでいてくれるから、安心して歩いて行ける。人の波をかき分けて進み、有名な百貨店の前まで来て立ち止まった。
「着いた」
一階の化粧品売り場へ向かうらしい。店内に入るときに手が離れると、胸の奥でなにかがうずく。何も感じないようにして小さく息を吐く。
銀座の百貨店なんて、めったに来ないから、なんだか緊張してしまう。菜奈が聞いたら間違いなく羨ましがるだろうけど、同じフロアにたくさんいるマダム達の中で、高校生の自分たちは明らかに浮いているような気がする。
色んなブランドがあって、私にはよくわからないけれど、お化粧品の売り場はカラフルできらきらしていて、見ているだけでも面白かった。
「先輩はこういうところ、よく来るんですか?」
「いやー、私も初めて来た。普段は私もメイクとかはしないんだけどさ。ちょっと良いものがあるらしくてね」
先輩はそう言いながら、あたりを見渡す。二人して、明らかに慣れないという様子でうろうろ歩いた。そしてしばらくして、ある場所で足を止めた。
「おっ、あったあった。これ、見て」
真雪先輩が足を止めたのは、口紅やリップクリームの置いてあるところ。その中の一つを手にとって、桜花に見せた。
「これ、可愛いでしょ」
「わあっ、すごい。綺麗ですね」
見るとそれは、透明なリップクリームで、中に桜のような形のピンク色のお花が入っている。
「こんなの、あるんですね」
「ね。私もネットで見てびっくりしたんだ。これ、塗ってみない?」
真雪先輩が店員さんにお願いして来て、二人とも試してみることにした。鏡の中の唇が、ほんのり色づく。
「やっぱり桜花は、ピンクベージュとか似合うね。肌が白いから、ピンクが似合うのかなあ」
「そうなんですか。私、そういうの、わからなくて」
その後、店員さんの勧めもあり、何種類かの色を試してみたのだが、真雪先輩の最初に選んでくれた色が一番しっくり来た。
「このブランド、フルート吹きの間ではわりと有名で、べたつかないし色も落ちにくいから、楽器を吹くときも使えるんだよ」
「それはいいですね」
でも、こんな高いもの、さすがに自分のお小遣いでは買えそうにない。でも店員さんも呼んじゃっているし、どうしたものかと桜花が考えていると、真雪先輩が言った。
「じゃあ、これにしよう。桜花へのプレゼント」
「えっ、そんな。こんな高価なもの、悪いですよ。……それに、プレゼントって、なんのですか?」
「このあいだの演奏会、菜奈と一緒にプレゼントくれたでしょ。そのお礼。気にしなくていいの、私が桜花に勝手にあげたくなっただけだから」
真雪先輩はまた、そんなわけのわからないことを言う。なんでも、私の分は真雪先輩が、菜奈の分は美冬先輩が、それぞれ選ぶことにしたのだという。
「……ありがとうございます」
嬉しいやら申し訳ないやらで、胸がいっぱいだった。お会計を済ませてお店を出る時に、先輩はさりげなく言う。
「実は、私も同じブランドで一本、持ってるんだ。今つけてるやつがそうなんだけど」
「そうなんですか……すごく、似合ってると思ってたんですよね。それは、なんていう色なんですか?」
「これはね、コーラルピンク。気に入ってるんだ」
「真雪先輩、詳しいんですね」
「うん、まあ、こういう知識は、美冬から聞いただけなんだけどね」
そのとき、胸の奥が、またチクッと痛む感覚がした。だけど、それがなんなのか、今はまだ名付けたくなかった。
今はただ、このふわふわした甘い気持ちのなかで、漂っていたい。それは切実な、心の底からの願いだった。
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