第8話
それは夏休みの初めの、合宿の前の週のことだった。
私は真雪先輩と銀座へ行くことになっていた。自分の楽器を購入するためだ。真雪先輩の意見を聞いてみたかったので、同行をお願いすると、快く引き受けてくれた。
銀座の楽器店に行くのは、初めてではなかった。母がピアノの講師をしているので、レッスンで使う楽譜や音楽ドリルなどを買うついでに、子供の頃から何度か連れてきてもらったことがある。
だけど、真雪先輩と二人きりというのは、やはり母と行くのとは、勝手が違うので緊張する。本当は、母にも来てもらって、その場で購入する予定だったのだが、あいにく仕事の都合で先輩と日程の調整がつかなかったため、今日はまず、試奏してモデルを決定するところまでで、後日、母と再来店して購入する、という流れにすることにしたのだった。
二人きりということを意識すると、つい頭の中に『デート』という文字が浮かんでしまう。他の人とのおでかけなら、そんなことはないのに。
だけどなぜか真雪先輩が相手となると、どういうわけか、そんな言葉が勝手に頭の中を駆け巡ってしまうのだ。それもこれも、真雪先輩の態度のせいなのだ。
「桜花、どうかした?」
銀座駅へ向かう電車の中で、ついボーッとしてしまっていた私の顔を、真雪先輩がのぞき込む。顔が無駄に近くて困る。けれど、ボーッとしていた私も悪い。
「い、いえ。大丈夫です。……そろそろ、銀座着きますね」
慌てて目線をそらし、話を変える。真雪先輩の顔をあんまり近くで見るのは、心臓に悪い。人形みたいな長いまつ毛に、吸い込まれそうな薄茶色の瞳。美人過ぎるから、目の毒なのだ。
まもなく電車は、銀座駅に到着した。
「足下、段差、気をつけてね」
電車から降りるとき、真雪先輩はそう言うと、私の手を優しく引いてくれた。ああ、こういうの、本当にずるい。多分こんなとき、菜奈なら『先輩、さすがイケメン! この女たらし!』くらいは言うだろう。私には到底言えないけれど。
ホームから階段をのぼって、改札を出る。さらに地下道の人混みを抜けて、階段を上り、地上へ出る。その間じゅう、ずっと、真雪先輩は私と手をつないでいてくれた。『はぐれたら、いけないからね』なんて言って。
夏だからか、先輩の手がとても熱く感じる。それとも、熱いのは私の手なのだろうか。変に汗をかいてしまっていないかということばかりが、気がかりだった。
地上へ出ると、すぐ目の前に、お目当ての楽器店があった。普段は母親の車で来ることが多かったから、こんなに短いルートで来られるなんて知らなかった。
楽器店に入る頃には、どちらからともなく、つないでいた手を離していた。手をつなぐことは恥ずかしくて仕方がなかったのに、いざ離すとなると、すごく寂しく感じる。そんなわがままな心が自分の中にあることを、私はこのとき、初めて知った。
フルートを扱うフロアは、楽器店の5階にある。エスカレーターで順々に上がっていく。普段この階に来ることはほとんどなかったから、初めはそのフロアの広さに驚いた。なんと5階全体が、フルートの専門のフロアなのだ。
きらきら光るガラスケースをのぞいてみると、店員さんがそばにやってきて、楽器の説明をしてくれた。『試奏させてもらえますか?』と頼んで、試奏室に案内してもらった。
初めに、母から決められていた予算をお店の人に伝え、同じような価格帯の楽器を、何本か持ってきてもらい、部屋の中で吹かせてもらうことになった。
試奏室は、6畳間くらいのスペースに、簡単に机と椅子が並べてあった。店員さんは楽器を次々と机のうえに並べていき、それぞれの素材だとか、メーカーの特性なんかを簡単に説明してくれた。
「ごゆっくり、どうぞ」
そう言って、店員さんは出て行く。ぱたん、と扉が閉まった途端、部屋の中の空気はなんとなく、さっきまでとは変わったものになっている。密室、なんてことを意識しだしたら負けだと思うけど。だけどほんの少しだけ、さっきまでより、真雪先輩との距離が近くなっているような、そんな錯覚に襲われた。
「とりあえず、端から順に、吹いてみたら? 私はこっちで聴いているから」
真雪先輩はそう言って、部屋の片方の隅に寄る。ちょうど私の立っている位置の対角線上だ。正直、少し、ほっとした。
言われたとおり、端から順にひとつずつ、楽器を試していく。予算の都合で、各メーカーの洋銀製から総銀製のモデルまでが並んでいる。さすがに金やプラチナの楽器に手を出せるほど、うちは裕福というわけではないし。まあ、大抵の家はそうだろう。
全て吹いてみて、やっぱりこれかな、と思ったモデルは、別に意識したわけじゃないけれど、真雪先輩が使っているのと同じ国内のメーカーのものだった。それともう一つが、有名な海外のメーカーのもの。
「桜花、どう?」
私の様子を見ていた真雪先輩が、戻ってくる。
「これと、こっちで、迷ってるんですけど……」
「吹いてみた感じと、遠くで聴いた感じだと、また違うと思うから、私も吹いてみようか? 桜花はあっち側に立ってみて」
「はい、お願いします」
私が持っていた楽器を受け取ると、真雪先輩は早速楽器を構えた。リッププレートに、ふっくらとした唇が乗る。そこは、さっきまで私の唇が触れていた場所だ。そんなことを考えてしまったら恥ずかしくてたまらなくなったけど、なんとか心を静めて、真雪先輩の奏でる楽器の音色に、耳を集中させた。
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