桜花Side
第7話
朝の廊下に、きらきら光る音がこだまする。その音が鳴っている限り、校舎内のどこにいたって、私はその人を見つけ出すことができる。
「真雪先輩、おはようございます」
「おはよう、桜花。今日も早いね」
漆黒のストレートロングヘアを風に揺らしながら、真雪先輩は私に微笑みかける。
「やっぱり、真雪先輩には勝てないですね。これでも、結構がんばって早く起きてるんですけど」
「寮生に勝とうなんて思わなくていいよ。私は単に、他にすることがなくて暇なだけだから」
そう言って笑うと、また窓の外に向き直って、フルートを吹き始める。ロングトーンで、一音ずつ。いつもの半音階。それだけなのに、真雪先輩の音は、しっかりと音楽になっているから不思議だ。
聞き惚れてしまいそうになる心を制して、私も自分の楽器を準備する。初めは腹式呼吸。そして組み立てる前に、頭部管だけで音を鳴らす。サシ練習のときに、真雪先輩に教わったとおりに、基礎練習メニューをこなしていく。
私は中学時代から吹奏楽部でフルートを吹いていたけど、そのときはこんなふうにじっくりと基礎練習をすることは、あまりなかった。吹奏楽部には、同じ学年に、私の他にもたくさんメンバーがいて、先輩に一対一でじっくり教わったり、ということはなかったのだ。
高校に入って、真雪先輩とサシ練習をするようになって、これまで自分がしていた練習はなんだったのだろう、と思った。それくらい先輩の練習はハードで、基礎の基礎から、私は徹底的に指導されたのだった。
「桜花、そこの音。もう一回、吹いてみて」
「あ、はい」
ロングトーンから、指の練習に移っていたところで、突然、真雪先輩に話しかけられる。言われたとおりに音を出すと、いつものように、指導が始まった。
「そうそう、その高いEの音なんだけどね。ちょっと音がかすれて、低く聞こえるんだよね」
「あ、はい」
「ちょっと、楽器置こうか」
そう言うと真雪先輩は、おもむろに私の身体に触れる。もう慣れたと言いたいところだけれど、いまだに心臓のほうはバクバク鳴ってしまう。
「はい、力抜いてー。朝だからかな、身体ガチガチだよ?」
真雪先輩は私の肩をぐらぐら揺らす。そのまま上半身を倒されて、腰から肩にかけてをトントンと叩かれる。いつものやつだけど、すごく気持ちいい。頭の中がふわふわしてくる。
私は普段から肩こりが酷いからか、先輩がこういうふうにしてくれると、すごく身体が軽くなって、すっきりする感じがする。
ひととおり顔を叩かれ終わって、上体を起こすと、今度は顔をぐいとつかまれる。
「ほらほら、ほっぺにも力入ってる」
頬をくいくい、とつままれる。先輩の顔が近いのが恥ずかしくて、ついつい目を伏せた。
「はい、終わり! もう一回、吹いてみて」
先輩の合図に合わせて、指定された場所を吹くと、今度は不思議と音がかすれなかった。やっぱり、力が入っていたんだ。いつも思うけど、脱力って本当に大事なんだ、と実感する。
「さすが桜花、よーし、よーし」
真雪先輩は、私の頭を軽くポンポンと叩いた。本当にいつもいつも、この人は、ひとに対する物理的距離が近い。こんなふうにしてくる人、私のまわりには他にいないから、未だに慣れなくて、いちいち、びっくりしてしまう。
手厚い指導がひと段落した頃、菜奈が登校してきた。
「先輩ー! おはようございまーす!」
「おっ、菜奈、そのリボン可愛いね」
真雪先輩は、菜奈のリボンに触れる。いつもと違う色のリボン。
「ありがとうございますー! これ、美冬先輩のです」
「へー。交換?」
「ふふふ、私と美冬先輩、ラブラブなんでー」
「なんだそれ、聞き捨てらないな。このー」
先輩は、菜奈をこちょこちょとくすぐる。さらに髪の毛をわしゃわしゃーと、まるで子犬でも可愛がるかのように撫でる。部活の時間だっていうのに、朝っぱらからじゃれ合っている。
そのやりとりを横目に見ながら、私は黙って練習をする。べつに嫉妬というわけじゃないけれど、菜奈のああいう、人なつっこいところは、ほんのちょっとだけ、羨ましい。
先輩方とのやりとりも、ちっとも緊張なんてしていないように見えるし、何より、相手に対する好意をストレートに表現するところも、彼女がひとに愛される理由なのだと思う。
私にはとても真似できない。誰にも見られていないと思って、ため息をついたら、近くを通っていた美冬先輩に話しかけられた。
「桜花、大丈夫? ため息ついてたみたいだけど」
天使のように愛らしい笑顔で、そう聞いてくる。
「大丈夫です。すみません、ちょっと考え事していて」
「そうなんだ。何か悩んでるの?」
「ええ、まあ」
美冬先輩は優しい。本当にどんな相手にでも、真心を込めて接しているのがわかる。だけど、私はその優しさに甘えることには躊躇してしまう。
「言いたくないことだったら、無理にとは言わないけれど。……私にできることがあったら言ってね? 相談くらいは乗るから」
「はい、ありがとうございます」
お礼を言うと、美冬先輩は私の肩をポンと叩いてから、真雪先輩のところへ行ってしまった。
先輩が離れたところで、またため息が出る。美冬先輩と真雪先輩は、何やら楽しそうに二人で話している。無意識に、唇を噛んでいる自分がいた。
胸の奥で、何かがどろりと流れる。それに色がついているとしたら、きっと真っ黒なものだろう。そんな自分が、嫌でたまらなかった。
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