第6話
美冬先輩の右手に指輪がおさまっていることに、私が気づいたのは、それからまもなくのことだった。
朝練で珍しく一番乗りだった私は、楽器を組み立てている途中で、すぐ後に来た美冬先輩と挨拶を交わした。
「おはよう、菜奈」
「美冬先輩! おはようございます!」
元気に返事をする私に、美冬先輩は小さく手を振る。その瞬間、先輩の指先がキラリ、と光った。
それが何かなんて、そういうことに関心のある年頃であるところの私には、わからないはずもなくて。
心臓が、ドクドクと鳴るのを感じた。一瞬だけためらったけど、勇気を出して聞いてみた。なんでもないように、精一杯、明るい声で。
「美冬先輩、その指輪、どうしたんですか? ……彼氏とペアリングですか?」
すると美冬先輩は、珍しくいたずらっ子のような表情で言う。
「これ? ふふふ……内緒!」
「えーーーそんな! 教えてくださいよー! 先輩の裏切り者ー」
一生懸命にしつこく抗議すると、先輩はやっと観念してくれた。
「じゃあ、文化祭が終わったら、教えてあげる」
「ほんとですね!? 約束ですよ!」
なんとか約束を取りつけて、ホッとする。しかし、美冬先輩、こういうキャラだっただろうか。
なんとなく、この何かを企んでいるような表情、真雪先輩みたいだなぁ、なんて思っていたら、ちょうど真雪先輩が現れた。しかし、なんだか顔色が悪い。目の下にもクマが見えるし、ちょっとフラフラしているように見える。
美冬先輩がすぐにそばに寄って、心配そうに声をかけた。真雪先輩は大丈夫、と言いながら、次の瞬間、楽器を持ったまま倒れてしまった。
美冬先輩が必死で呼びかけるが、応答がない。突然の出来事に、朝の廊下は騒然となった。
「真雪っ、真雪っ!」
目を潤ませながら呼びかける美冬先輩に背を向けて、私は職員室に向かって駆け出した。大きな声で叫びながら。
「先生! 誰か、救急車、呼んでください! 先輩が、倒れて、頭打っちゃいました!」
その場にいたメンバーは、すぐに動き出して、保健室から担架を運んできた。まもなくサイレンの音が鳴り出し、救急車が到着する。真雪先輩は到着した救急車で、病院へ運ばていった。
真雪先輩が運ばれていった後も、あたりはまだざわざわしていた。美冬先輩は先生に何かを必死で伝えていたけれど、そのうち肩を落として、自分の楽器を片付け始めた。
真雪先輩の楽器は、桜花が丁寧にクロスで拭きあげて、ケースにしまっていた。当たり前だけど、その表情は暗くて。『大丈夫だよ』なんて無責任な言葉はかけられなかった。
チャイムが鳴ったので、私も急いで自分の楽器を片付ける。ふと美冬先輩のほうを見ると、自分の右手の薬指におさまった指輪を眺めて、ため息をついていた。
その瞬間、私は気づいてしまった。美冬先輩の指輪は、もしかしたら真雪先輩と何か関係があるのではないかと、そのとき直感した。それは後になって思えばやはり、当たらずとも遠からず、といったところで。
だけどこのときの私は、それが何を意味するのかなんて、まるで理解できていなかったのだった。
その日の授業は、一日、全く、集中できなかった。あんなことがあったのだ。多分、オーケストラ部の誰もがそうだったと思う。私も、美冬先輩の指輪のことさえすっかり忘れて、ただ真雪先輩の無事を祈り続けた。
お昼休みは、やっぱり不安になって、音楽室に直行した。思ったとおり、そこには桜花の姿もあった。
二人とも、どちらからともなくそばに寄って、隣に座り、この間みたいに静かにお昼を食べた。なるべく明るい話題でごまかそうとしたのだが、結局なんとなく、そこには沈黙が流れていた。
「真雪先輩、さ」
突然、桜花が言葉を発する。
「ずっと、眠れてなかったみたいなんだよね」
「そうなんだ。なにか、悩みとかあるのかな」
「わからない。……この間、パート練が休みになったときも、体調不良だって言ってたけど、具体的なことはわからないし」
「心配だよね」
必死で感情を抑えていたけれど、桜花の声は、震えていた。
「放課後、先輩のお見舞い行こう?」
思わず、提案する。
「ううん、やめておく。迷惑になったらいけないし」
「そっか。……うん、そうだよね」
桜花の言うことは、もっともだと思った。私たちは所詮、ただの部活の後輩なわけだし。行って気を遣わせてしまっては、元も子もない。
「多分、美冬先輩が、行ってくれると思うから。私たちは待ってよう」
「うん」
私たちは、無力だった。悔しくて悔しくて、泣けてきた。
「菜奈」
「桜花……私、悔しいよ。真雪先輩が悩んでるのに、私、何もできないんだ。普段、私たちをあんなに助けてくれてるのに。私、何も返せてない」
「……大丈夫、きっと大丈夫だから」
ああ、私はなんてダメなやつなんだろう。気づけば、桜花に肩を抱かれたまま、泣いていた。本当は、桜花のほうが辛いはずなのに。
私が先に泣いてしまったせいで、桜花は弱みを見せることが、できなくなっちゃったじゃないか。自分が情けなくって、そう思ったら、ますます泣けてきた。
桜花が、ハンカチを取り出して、貸してくれた。ほのかに、桜の匂いがする。
すごく、優しい香りで、落ち着く。でも、どこかで嗅いだことのある香りだ。
でも、私がその正体に気づいたのは、その後、帰宅して、お風呂に入ってから、いざ寝ようとしたときだった。
桜花の、その桜の香りは。
美冬先輩の香りと、同じものだったのだ。
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