第3話

 美冬先輩のペンが、私のノートの上を滑らかに動いていく。向かい合わせの席だから、私に向けて文字を書くと、美冬先輩からは逆さになってしまうはずなんだけど、ずいぶん慣れた手つきで書き込みを入れてくる。


 いいなあ、美人家庭教師だぁー♪なんて浮かれていたら、ちょっと怒られた。まるで、いつものサシ練のときと変わらないやりとりに、反省しつつも、癒される。


 『サシ練』とは、我がオーケストラ部に独自のシステムで、その名の通り、先輩と後輩などが一対一の、二人一組になって行われる練習のことだ。通常は、同じパートの一学年違いの先輩後輩同士が組になり、一年くらいは固定のペアでサシ練習を行う。


 入部したばかりの一年生をサポートして早く部に慣れるようにしたり、純粋に演奏技術を効率よく高めていくための、補習的な意味合いもあるらしい。


 うちの学校は自主自律がモットーで、部活も生徒の自主性に任された運営がされているから、日々の練習は、部長やコンマスを始めとする、執行部と呼ばれるメンバーが中心となって、スケジュールが組まれる。


 指揮をする先生は、全体に対するアドバイスはするけれど、細かい技術的なことは、各パートが責任を持って仕上げるから、必然的にパート練習や個人練習などの自主練習が日々の活動のメインとなる。


 そんななかで、楽器初心者や一年の生徒が戸惑ってしまわないように、と考え出されてきた制度でもあるらしい。


 そのサシ練習で、私を指導してくれるパートナーが、この美冬先輩なのだった。とても、ありがたいことに。おかげで私は、まるで大好きな姉を慕う妹であるかのように、美冬先輩の後を、日々よちよちと付いてまわっている。


 実際のところ、美冬先輩も私も一人っ子なので、リアルな姉妹がどんな感じなのかはわからないわけだけど。


 でも、私たちだけじゃなく、他のサシ練のペアを見る限り、関係性こそ人それぞれではあるけれど、どこも似たような雰囲気は感じる。


 たとえば、同じフルートパート内では、私たち以外の二人、真雪先輩と桜花がサシ練のペアだ。二人とも中学時代からのフルート経験者で、私なんかと比べると、二人ともめちゃくちゃ上手すぎて、はるか高みを目指していてよくわからないんだけど、とにかく桜花は真雪先輩をすごく尊敬していて、大好きなんだろうなってのが、側から見ていてもよくわかる。


 ちなみに私と美冬先輩は二人とも、高校からフルートを始めた者同士。だからか、美冬先輩は、初心者特有の悩みなんかをよくわかってくれて、すごく親身になってくれる。それなのに、高校から始めたなんて信じられないくらいに繊細で綺麗な音を鳴らすし、もうとにかく美冬先輩は最高なのだ。


 同じ木管セクションの一年生たち、オーボエの優衣ゆい、クラリネットの陽香はるか、ファゴットの朋実ともみもそれぞれ、二年生の先輩方を尊敬し、慕っている。たった一つしか歳が離れていないはずなのに、どうして先輩たちってあんなにかっこいいんだろうね、って、合宿で大真面目に語り合ったこともあるくらいだった。


「お疲れ様。そろそろ遅くなっちゃうし、終わりにしようか」

「はい。ありがとうございました!」


 時計を気にする美冬先輩の言葉をきっかけに、生物の参考書を閉じた。続きは家で勉強して、わからないことがあったらいつでも聞いてね、なんて優しく言ってくれた。


「あ、そうだ! これ、今日のご褒美ね。返すのはいつでもいいから」


 最後に、美冬先輩は、私が前に気になると話していたクラシックの作曲家のCDを貸してくれた。


 わざわざ、ご褒美、なんて用意しなくても、私にとっては美冬先輩とのデート自体がご褒美になっているんだけど。どうやら先輩サイドは、そういうのには疎いものらしい。


 デザートなんていらないくらいにフワフワした甘い気持ちになったまま、私たちは帰宅することにした。



 食器を返却台に片付けてからカフェを出ると、すっかり夜になっていた。ひやっとしたので、慌ててブレザーの前ボタンを閉じた。


「なんだか急に寒くなってきましたねー」

「ほんとだね。ついこの間まで夏だったのに」


 話しながら歩くと、駅ビルのガラスに映る自分たちの姿が、ふと目に入る。赤と緑の、お揃いのリボン。まだ暖かい季節の頃に、私がどうしても美冬先輩のとお揃いが欲しくて、お店を教えてもらって一緒に買いに来たのだ。


 その頃の自分のことを思い出したら、なんだか恥ずかしくなってしまったので、ついついまた適当に、テンションを上げてしまう。


「夏と言えば、結局、美冬先輩の好きな人、教えてもらってないですよねー?」

「え、好きな人!?」


 こんなことで頬を赤らめてしまう美冬先輩、めっちゃ可愛い。


「合宿の時に、『何かに夢中になってる人』がいいとかどうとか、言ってませんでしたっけ?」

「えーー、それは、桜花の発言に共感したってだけで……」

「そうなんですかーーー? ほんとにいないんですかーーー?」


 本気で追及する気なんかない。ただ困っている顔が可愛いから、からかいたくなっちゃうだけなんだけど。


「そう言う菜奈こそ、誰かいないの? 好きな人」


 そう切り返された時に、ふと舞い降りてきた気持ちは、ただフワフワした甘いだけのものではなかったのだった。

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