第180話 900点は無理ゲーです。

 武蔵むさしさんが運転するアルファードは静かに俺の家の前で停止した。


「少々、お待ちください」


 武蔵むさしさんはそう言うと、運転席から出て手を挙げる。

 俺たちの後をついてきたタクシーを停止させるためだ。


 タクシーが停止すると、ほどなく、後部座席から背の高い女性が現れた。

 フォレスト・フォースマンの通訳、いや、今の仕事はフォレスト・フォースマンの、シズカ・フォースマンのお世話係のユゥさんだ。


 お世話係のユゥさんは、武蔵むさしさんにうながされて、アルファードの後部座席へと乗り込む。ゆったりとした乗車スペースのアルファードだけど、身長180センチをゆうに超え、SPみたいな体格のユゥさんにとっては、さすがにちょっと窮屈そうだ。


 ユゥさんは、アルファードの後部座席に身体をちぢこませて納まると、すぐに要件を話し始めた。


「さて、これからしばらくの間、シズカは日本で暮らします。

 取り急ぎクランクインまでは、インターナショナル・スクールに通うことになりますが、もろもろ注意事項がございます。

 まず、ひとつめ。

 今回のフォレスト・フォースマンの、Miss.FUTAHOに対する出演オファーは、トップシークレットです。

 Miss.FUTAHO……本名、荻奈雨おぎなう二帆ふたほ。そして、仲介人のMr.かぞえ。その上司のMiss.武蔵むさし

 この三人以外には絶対に情報を漏らさないでいただきたい」


「私の上司、つまり634プロダクション代表の仁科にしな数子かずこにもですか?」

「はい。勿論です。『契約上言えない』旨をご通達ください。それ以上は名言致しません。これで代表の方には事の重大さをお察し戴けるかと」

「なるほど。わかりました」


 ユゥさんは、武蔵むさしさんの質問によどみなく答えると、話をつづける。


「ふたつめ。シズカ・フォースマンの自出もトップシークレットです。特にフォレスト・フォースマンとのは絶対に知られてはなりません」

「わかりました」

「わかりました」


 今度は俺も武蔵むさしさんといっしょに返事をする。

 フォレスト・フォースマンの隠し……じゃない、が日本にいるとわかったらそれこそ大スクープだ。


「ありがとうございます。では、ご帰宅ください。

 ちなみに、私はここから歩いて20分ほどのマンションを借りることに致します。

 Miss.FUTAHOのは、Mr.仁科にしなのトレーニングジムをお借りしますので、よろしくお伝えください」

「わかりました」


 今度は、俺ひとりだけで返事をした。

 FUTAHOさんの役は、ナイフを操る暗殺者アサシンだ。

 FUTAHOさんは、この二か月間、ユゥさんにつきっきりでナイフを使ったスタントをレクチャーしてもらうことになっている。


「それと、もうひとつ、Mr.かぞえ、あなたにも私のレクチャーを受けていただきます」

「えっと、なんでしょう?」

「英語です。撮影期間中、私も通訳として同行しますが、少なくともスタッフとのコミュニケーションをはかれるレベル。つまりはMiss.FUTAHOと同レベルの英語はマスターしていただかないと……」


 え? どういうこと??

 俺が混乱していると、武蔵むさしさんがユゥさんに頭を下げた。


「よろしくおねがいします。私は、仕事で日本を離れることができませんので……」


 そっか! そういうこと!!


 そりゃそうだ! 三か月後、つまり八月は『信長のおねーさん』のアニメ化開始一か月前。メディアにガンガン露出させる必要がある最も大事な時期だ。

 加えて、VTuberのコジローとして、M・M・O・Wメリーメントオンラインワールドの公式ナビゲーターの仕事もあるんだった。


「そういう訳で、Mr.かぞえ、何としても三か月でTOEICスコア900点を目指していただきますので、宜しくお願いします」

「ええええええ!!」


  TOEICスコア900点??

 それ、完全にネイティブクラスじゃん!!

 うろたえる俺に、シズカちゃんは、天使のような無邪気な笑顔で親指を立てた。


「ダイジョーブ ダヨ ススム! リョーカイノスケ ナノデス!」


 カワイイ……めちゃんこカワイイ。

 うん、やる気が出てきたかも。

 さすがに900点は難しいかもしれないけれど、やるだけやってみよう!!

 なるようになれだ!!


「イエス! シズカ!! りょーかいのすけ!!」


 俺は、ひきつる口角を無理やりあげて、思いっきり親指を立てた。


「NYAHAHAHAHA!」

「にゃはははははは!」


 アルファードに、シズカちゃんと二帆ふたほの笑い声がこだまする。

 うん。りょーかいのすけ、本当に魔法の言葉かも!


 俺は、能天気にそんな事を思いながら、アルファードを降りる。

 そして、手を繋いで玄関へと向かうシズカちゃんと二帆ふたほさんを見つつ、気になった事を聞いてみた。


「ウチ、今空き部屋ないよね? シズカちゃんの部屋どうするの??」


 その質問に、二帆ふたほさんはあっけらかんと返事をした。


「スーちゃんの部屋なのだ」

「そうなんですね……ってええ!?」

「だってフーちゃんM・M・Oメリーメントオンラインを夜通しやるもん。シーちゃんは早起きさんのスーちゃんと一緒に寝るのがベストなのだ!」


「ススム! ヨロシクオネガイシマス!」


 シズカちゃんは、可愛くペコリとおじきする。

 俺は、予期せぬ同居人の出現に、戸惑いを隠せなかった。


 振り返ると、武蔵むさしさんが、無言でメガネに手を当てている。その後ろにはユゥさんがポーカーフェイスで指をポキポキ鳴らしている。

 そしてユゥさんの後ろには、香港マフィアのいでたちで凄みを効かせたフォレスト・フォースマンの幻影が霞んでいた。


 問題を起こそうものなら……わかっていますね?


 ふたりと、ひとりの幻影が俺に無言の圧をかけてくる。


「り、りょーかいのすけ!!」


 俺は、とりあえずこれさえ覚えておけばなんとかなるという魔法の言葉でお茶を濁すと、タクシーの後部座席乗り込むユゥさんと、アルファードの運転席乗り込む武蔵むさしさんを見送った。


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