幕間劇

第148話 ある喫茶店の一幕

 その喫茶店は、男の職場の近くにある。昭和レトロな喫茶店だった。


 男はその喫茶店にお似合いの、少しレトロな洒落っ気のあるワイシャツをセンス良く着こなし、モカブレンドのホットコーヒーを飲みながら静かにお相手を待っていた。

 恋愛のご利益があるという神社の近くにあるその喫茶店は、古いながらもとても落ち着いた雰囲気の喫茶店で、その男は、打ち合わせには、必ずこの喫茶店を愛用していた。


 男の名前は、田戸蔵たどくら小次郎こじろう


 大手出版社、白蓮はくれん社の社員で、人気少女漫画誌『月刊はなとちる』の副編集長を務めている敏腕編集者だった。


 田戸倉たどくら小次郎こじろうは、程よく酸味のきいたコーヒーをひとのみした後、カチャリとカップを置くと、今時のスマートな腕時計に目をやった。


 待ち合わせ五分前……そろそろ、打ち合わせ相手も来る頃だろう。


 田戸倉たどくら小次郎こじろうが待ち合わせ場所として使うこの喫茶店は、コーヒーもなかなか美味しいが、ことのほかハーブティーが美味しい店だった。

 もっとも、根っからのコーヒー党の田戸倉たどくら小次郎こじろうがハーブティーを頼むことはない。注文するのは……


 カランコロンカラン!


田戸倉たどくらさん、お待たせしましたー!

 すみませーん。ハーブティーひとつー。ホット……じゃない、アイスで―」 


 人気漫画家、雨野あめのうずめだ。


 ゴールデンウイークも明け、ようやく休みボケも解消をはじめた5月の半ば、気温は真夏日を更新していた。もはや珍しくなくなった5月の真夏日に、いつもはホットハーブティーを注文する雨野あめのうずめも、さすがにアイスに切り替えた。服装もノースリーブのワンピースへと衣替えを済ませている。


田戸倉たどくらさん、こんなに暑いのにホットコーヒーなんですねー」 

「ええ。挽き立ての豆を楽しむとなると、やはりホットを頼みたいですね。あとここにはサイフォンもありますし」

「うふふー、スーちゃんとおんなじこと言ってるー」

「なんと、かぞえ君も、コーヒー党でしたか。ゲームの趣味だけじゃなく、飲み物の趣味もあうとなると、さらに親近感がわきますね」


 原稿の進捗確認や諸所の連絡はリモートで行う二人だが、ネーム確認だけは必ず対面で、そしてこの喫茶店で行っている。長時間、脳を酷使する打ち合わせに、お互い、酸味のきいたコーヒーと、香りのよくほのかな甘みのハーブティーがかかせなかったからだ。


「じゃあ、早速、来月号の『信長のおねーさん』についてですが……」

「その前に、ちょっといいですかー。その、保留した件のお返事をしたくって」

「え? あ、はい……」


 雨野あめのうずめ、いや荻奈雨おぎなう一乃いちのの、なんとも気まずい表情を見て、田戸倉たどくら小次郎こじろうは直感した。ああ、これから自分はフラれてしまうのか……と。


 ・

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 数分後、堅苦しく重くなると思われた、田戸倉たどくら小次郎こじろう荻奈雨おぎなう一乃いちののテーブルは、予想に反して笑いに包まれていた。


「あははは、な、なるほど、つまり私は、かぞえ君の『おっぱいがおっきいから』という告白に敗れ去ったわけですか……くく、くくく」

「ちょっとちょっと、田戸倉たどくらさん、話をちゃんと聞いてました!?」

「聞いていましたよ。つまり私は、気取ってカッコつけた告白をした挙句、まっすぐな想いをつたえたかぞえ君に敗れ去ったというわけですね。なるほど、これは白旗をあげるしかないですよ。それにしても、あのかぞえ君が、真剣な顔をして『おっぱいがおっきいから』と言ったかと思うと……ダ、ダメだ面白すぎる! あははは!」

「うー、そんなに笑わないでくださいよ」


 荻奈雨おぎなう一乃いちのは、ふくれっつらをしながら、アイスハーブティーをひとのみする。そして、ほんの少し、頬を赤らめながら話をはじめた。


「もう、わかってらっしゃると思うのですが、わたしは、田戸倉たどくらさんの事が好きでした。あ、もちろん、今でも好きですよ! でも……」

「それは、恩義と憧れからくる錯覚であると」

「錯覚……とまでは言いませんけど、やっぱり、田戸倉たどくらさんは、私の大恩人ですから。だから本当は、スーちゃんの告白を受けたとき、わたしは断ろうと思ったんです。スーちゃんも最初、『わたしが恩人だから好き』と言ったので」


「なるほど。そして、それを断るということは、私に対する自分の恋心も否定することになる……と」

「はい。わたしは田戸倉たどくらさんを尊敬してますので。好きよりも……その、やっぱりそっちの方が勝っちゃいました……ごめんなさい」


「よくわかりました。そしてこの話、そのまま信長の失恋理由に使えそうですね。信長は、義理の姉であり、乳母で教育係もかねる八重やえに対する敬意を、恋愛感情と錯覚していた……と」


「あ! そうですね!! そうするとその後の展開が……」


 荻奈雨おぎなう一乃いちの、いや、雨野うずめは、田戸倉たどくら小次郎こじろうの指摘をうけて、ガッテンとこぶしを打つと、ペンケースから、すばやく鉛筆をとりだした。

 そして、その後の打ち合わせは、2時間にも及び、雨野あめのうずめと田戸倉たどくら小次郎こじろうは、互いに飲み物を3度おかわりをした。

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