第76話 ゼロ距離の打合せ。

「お忙しいところ、ご無理を言って申し訳ありません」

「いいえー。こちらこそ、原稿がギリギリになってしまいすみませんー」

「これ、お土産です。ご家族でおめしあがりください」

「わー。ありがとうございますー」

「……………………」

「あ、飲み物入れてきますねー。コーヒーと紅茶、ハーブティとお茶がありますけどー」

「ん? ハーブティってのは?」

「あ、わたしの趣味なんです……」

「へぇ、ステキな趣味ですね。では……私はコーヒーを」

「え? じゃ、じゃあ、ボクもコーヒーにします」

「……わかりました」

「……………………」


 一乃いちのさんが、画面からフレームアウトした。リビングからキッチンに移動したからだ。


 俺たちは、1階の一乃いちのさんの部屋、兼、仕事場で、2階のリビングの様子を見ている。二帆ふたほさんと、三月みつき、父さんと母さん、パパママも一緒だ。

 俺たちは2階に設置しているカメラからの映像を、ママのノートPCで観ていた。

 

 今、2階のリビングに写っているのは三人。『月間はなとちる』の編集者ふたり。そして武蔵むさしさんだ。


 武蔵むさしさんは、編集者に名刺を差し出す。


「本日より、雨野あめのうずめマネジメント業務を代行することになりました。

 634プロダクションの武蔵むさし六都美むつみです。よろしくおねがいいたします」


 太ったヒゲづらで、ねちょっとした声質の編集者は、いぶかしげな表情で武蔵むさしさんの名刺を受け取った。


「634プロダクション? 知らないなあ?」

「はい、所属タレント2名の個人事務所ですから」

「へえ、そうなんですか。それは大変ですね。まあ、よろしくお願いします」


 武蔵むさしさんが、もう一人の編集者に名刺を渡そうとすると、編集者も名刺をとりだした。


白蓮はくれん社『月間はなとちる』編集で、雨野あめのうずめ先生の担当をしております、田戸蔵たどくら小次郎こじろうです」


 背が高く筋肉質で、偉くダンディな声をした編集者は、背の低い武蔵むさしさんに腰を大きく折り曲げて、武蔵むさしさんが差し出している名刺の下に、自分の名刺をすべりこませた。


「あー、私は名刺を忘れてしまってね。編集長の矢澤やざわです」


 矢澤やざわって言う編集長は、ひとりで先に、とっととソファに座ると、リビングを見回した。そして飲み物をキッチンから運んできた一乃いちのさんを観ながらいった。


「立派なお宅ですね。雨野あめの先生は、お嬢さまでしたか」

「そんな、お嬢様だなんて……でも両親や亡くなった祖母と祖父には感謝しています」


 一乃いちのさんは、緊張しているのか、ふだんのおっとりのんびりトーンの口調がなりをひそめている。

 一乃いちのさんは、コーヒーふたつを編集者の席に、ハーブティーを武蔵むさしさんと自分の席に置くと、さっき編集の田戸蔵たどくらさんに受け取ったお茶菓子のモンブランを添えて出す。


 すると、矢澤やざわって言う編集長がまっさきにモンブランをたべ始めた。そして、モンブランをくちゃくちゃと食べながら、ねちょっとした声質をさらにねっちょりとさせて、いきなり本題に切り出した。


「結論から言います。ズバリ、雨野あめの先生にをやめていただきたい」


「なぜです?」


 聞いたのは武蔵むさしさんだった。

 その質問に、矢澤やざわって言う編集長は、鼻で笑いながら返事をする。


「え? わかりません? アニメ化ですよ? ここが雨野あめの先生の正念場ですよ? なんかやっている場合ではないでしょう!」

「おっしゃっている意味がわかりません。あと、失礼ですが、雨野あめのは副業なんてしていませんが?」


 武蔵むさしさんは、矢澤やざわって言う編集長に対して無表情で質問した。


「いやいやいや、やってるでしょ? 保健の先生!」

「はい、雨野あめのは養護教諭です。ですがそれは副業ではありません」

「いやいやいや、収入が全然ちがうじゃないですか! そんなのために、アニメ化という大チャンスを棒に振るんですか? もうたくさんの人が動いているプロジェクトなんですよ。

 ウチだけじゃない! テレビ局や制作会社、出資をする製作委員会、たくさんの人に迷惑がかかるんですよ! それでも構わないと?」


「……………………」

「……………………」


 武蔵むさしさんと一乃いちのさんは黙っていた。

 モニター越しの俺も、他のみんなも黙っていた。


 ママだけが「これは弁護士案件ね……」とポツリと言った。


 しばらくの沈黙の後、一乃いちのさんと武蔵むさしさんは見つめあった。そして、武蔵むさしさんがうなづくと、一乃いちのさんは「ふう」とゆっくりと息を吐いて、矢澤やざわって言う編集長に対してキッパリと言った。


「わたしは、絶対に養護教諭を辞めません!」

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