第58話 余裕ゼロのおねーさん。

 キーンコーンカーンコーン


 昼休みのチャイムが鳴っている。

 結局、一乃いちのさんはもうずっと眠りっぱなしだ。本当に、本当に疲れていたんだろう。


 途中、一度だけ体育で打撲をした生徒が入ってきたけど、俺が代わりにアイシングとテーピングの手当をした。

 パパと二帆ふたほさんのおかげで、スポーツ医療に関しては、それなりに詳しくなれていた。

 さすがによっぽどの重症は責任持てないし、内科的な診療はお手上げだけど、幸い今日は、打撲の生徒ひとりだけだった。


 だから一乃いちのさんには、ゆっくり休んでもらっている。


 俺は、家でも、学校でも、いつも世話になりっぱなしになっている一乃いちのさんのお役に立てたのが、ちょっと……いやすごく嬉しかった。

 正直言ってしまうと、一乃いちのさんがいなかったら、俺は去年の文化祭の時点で、高校を中退していたと思う。それを救ってくれた、俺に居場所をくれた一乃いちのさんには、本当に本当に感謝している。


 一乃いちのさんが困っているときには全力で手助けをしたい。それが、俺の心からの本心だった。


 ガラリ!


すすむー、荻奈雨おぎなうせん……せ……い?」


 俺は、保健室のドアを勢いよく開けた三月みつきに、あわてて口元に人差し指をあてた。


すすむどうしたの?(こそこそ) 荻奈雨おぎなう先生は?(こそこそ)」

「ベッドで眠ってる(こそこそ) なんだか寝不足みたい(こそこそ)」

「そうなんだ(こそこそ) でも確かに最近疲れてる感じだったね(こそこそ)」


 俺は、三月みつきとお弁当を食べながら、今日の出来事を語った。


「えぇ!(こそこそ)

 6時前まで起きてたの?(こそこそ)

 それから仮眠して学校? わたしだったら絶対無理だよ!!(こそこそ)」


 三月みつきの表情は、声こそ、こそこそモードだったけど、顔は相当にやかましかった。びっくり鈍器だった。

 要するに「ガーン!」って顔をしていた。


「でもさ、荻奈雨おぎなう先生なにやってんのかな?(こそこそ)」

「わかんない。なんでも、ママが言うには『あなたが決めたこと……』って言ってたけど(こそこそ)」

「ふうん……」


 三月みつきは、それ以上は詮索をしなかった。まあ、これ以上詮索されても、俺にだってわかんないんだけど。


 その後、俺たちは、たわいもない話題をひそひそと話しながらしながら、もくもくと静かにご飯を食べた。

 そうして、食べ終わる頃に、


「きゃぁぁぁぁああ!!」


 って、一乃さんの悲鳴が聞こえてきた。

 そして、大慌てでベットのカーテンをめくると、朝ご飯の時よりも、さらに髪型が「もさっ」としている一乃いちのさんが現れた。


「スーちゃん! 今日、保健室に生徒来た!?」

「うん。ひとり来たけど打撲だったから俺が処置しました。テーピングとアイシングなら、パパから教わったから、バッチリ!」


 俺は、自慢げに言った。一乃いちのさんに、褒めてもらいたかったからだ。褒めてもらって「いいこ、いいこ」してこようとしてくる一乃いちのさんを、三月みつきがいる手前、『ちょ、やめてください!』って嫌がる素振りをするところまで計算ずくだった。


 だけど。


 だけど……。


 一乃いちのさんの反応は、まったくもって計算外のものだった。

 一乃いちのさんは、その場にぺたんと座り込むと、犬のような黒目がちな瞳をゆらゆらと揺らしながら、ぽつり、ぽつりとつぶやいた。


「わたし……絶対に両立するって決めていたのに……こんなんじゃ、養護教諭……失格…………」


 ・

 ・

 ・


 その日、俺は午後から教室で授業を受けた。

 久しぶりに、本当に久しぶりに教室に行った。実に一年一ヶ月ぶりだ。


 正式には、二年生になって教室に入ったことなんてなかったから、初めて入った教室だ。

 俺はその教室で、まるで見せ物のようにジロジロと見られながら、心を無にして授業を受けた。


 正直、かなり辛かった。でも、それ以上に、あんなに落ち込んでいる一乃いちのさんの姿を見るのが辛かった。保健室にいるのが、いたたまれなかった。


 俺は、まるで〝辛酉かのととり〟を唱えて鋼鉄になった陰陽導師みたいに、1ミリも動かずに授業を受けた。授業の内容なんて、頭の中に入りやしない。


 俺は長い長い午後の授業を受けた後、トイレの個室に入って、こっそりLINEを送った。

 送ったのはふたり。


 一人目は三月みつき。今日は、周りの目があるから、別々に帰って俺の家で落ち合おうって。


 二人目は二帆ふたほさん。俺は、二帆ふたほさんに学校であったことを伝えた。二帆ふたほさんの返答はスタンプだけだった。


 そのスタンプは、金髪ロン毛の男の顔面ドアップで、「大丈夫だ問題ない」と自身満々に言い切っていた。

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参照リンク

https://store.line.me/stickershop/product/1083391/ja

https://word-dictionary.jp/posts/850

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 二帆ふたほさんなら、一乃いちのさんのことを、なんとかしてくれる。

 俺は、二帆ふたほさんからおくられてきた、その、不安極まりないスタンプに、なぜだかとても安堵をしていた。

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