破 : THE HIDE 『普通の女の子になれたなら』

 黒い地面の上に、もう一つのビジョンが浮かび上がる。宙に浮かぶ夢達とは何かが違う様に感じる。私はしゃがみ込みそれに顔を近づけ中を覗く。口の中には何故か甘い感覚が残っていた。

「やあ!」

そのイメージの外枠の右側から六夢がぬっと現れこちらに向かって話しかけてくる。

「ふふ、気持ちよさそうに寝てるね、君たち」

見覚えのある光景。そう、私達が“儀式”をした、いやしている空き教室だった。まるで監視カメラの映像の様に教室の角から俯瞰している画だった。

「キミも夢を食べてしまったんだろう? じゃあもうこちら側の存在だね」

六夢は楽しそうに微笑み、私の目を掴んで離さない。その後ろには私達三人が横たわり眠っている。

「ふんふん。やはり生きてはいるんだねぇ」

六夢が優の隣に座り込み、彼女の胸に耳を当て心音を聴いている。

「不思議なモノだ、ヒトと云うものは。キミらからすれば私の方が不思議なんだろうけど」

 と、その時。教室のドアが開き、誰かが入ってくる。恐らく先生だ。

「お前達何をしている!?」

先生が愛美の肩を揺すり起こそうとするが彼女は何も反応しない。先生は急いで私と優の口元に耳を近付け、息をしている事を確認した。そしてすぐに携帯電話を取り出した。

「もしもし! 救急車をお願いします! □□小学校で生徒が三人意識を失い倒れているんです!」

早口で怒鳴る様にその先生は状況を伝えていた。だがすぐ横に立っている六夢の存在には全く気付いていない。

 『絶対不干渉』……。私が自分自身へ名付けた特殊能力の名を思い出す。そうか、本当に彼女はこの世のモノじゃないんだ。

 そんな先生を横目に、六夢が再びこちらを視る。

「君にはまぁ……感謝するよ。ヒトを喰う楽しみを久々に思い出させてくれてね。私は暫く食覚本能の赴くままヒトを喰ってみるよ。じゃあね〜」

彼女は笑顔で手を振りながらそう言い残し、そのビジョンは消えてしまう。

 私は両手を地面につき項垂れる。ボロボロと涙が溢れ落ちてくる。

「あぁ……、ああ……!」

声とも叫びともつかない音が喉から出てくる。私がこんな儀式なんてやらなければ、こんなゴッコ遊びなんて始めなければ、六夢になんて興味を持たなければ! 後悔が、痛みが次々と押し寄せる。痛み。そうだあの手首に突如現れた傷の痛み。あれさえ無ければ、私も一緒に死ぬ事が出来たかもしれないのに……。畜生……。

「優……愛美……」


「おや? この傷は……?」

六夢は、陸の左手首に付いていた小さな傷跡に気付く。

「アイツ……まだ生きてたのか。アイツもいっそ喰っちまうか」

そう言い残し、上機嫌で校舎の壁をすり抜け外の世界へ放たれていった。


× × ×


「この夢も……苦いな」

私は手のひらからホロホロと崩れ落ちていく、夢であった物を見守る。今日もまた宙を浮かぶ夢を手に掴み取り一つ食べた。今日、とはいうものの、時間の概念が無いこの空間ではどう言い表せばいいのだろうか。

 今日食べた夢は、夢を見ていた男の人が自らガソリンを頭から浴び、ライターを点けて自殺するというなんとも惨い夢だった。美味しい筈もない。私はいつからか夢の味が分かる様になっていた。楽しい、嬉しい夢は甘かったり、悲しい夢は酸っぱかったり、怖い夢は苦かったり。香り、とでも言うのだろうか。夢一つ一つ味が違うのだ。ただこれらを食ったからと言って何か起きる訳も無く。伝記に記されていた通り、味を楽しむだけなのかもしれない。

 そう私、大前陸は六夢と同じ『怪異』と成ってしまっていたのである。

 この夢境に閉じ込められてしまってからの私はというと。――どうか笑わないで欲しい。――私は現実世界を“覗き見る”事が出来る能力もあった様で、それを利用し学校の授業を見て勉強していた。いや、私の能力ではなく『六夢』の能力と言うのが正しいのか。その能力に目覚めたのは三年程前。私の同級生達だった子らが中学一年生に成っていた様子を視た事で、現実世界での時間経過を分かってしまった。その時も絶望した。私がここに来てから無限の様な時間を過ごした気分で居たが、同時に現実に戻れれば今までの出来事は全て夢で、ふとあの教室で目覚める事が出来るのでは、と心のどこかで想っていた。優と愛美と共に。

 そして今その子達は高校二年生。つまり私は『夢境入り』をしてしまって、既に六年の歳月が流れていたのだ。

 この夢境世界では、自分がイメージした物を創り出す、というよりも創り出される事が分かった。最初、突如この世界の一部に白い土の山が出来上がった。その土は粘土質であった。私はその粘土で優と愛美二人の人形を造っては壊すのを繰り返した。二人の顔を忘れてしまうのが怖かったから。今でも造ったその泥人形は私のすぐ傍に横たわっている。

 経過した時間に怯えている内に、ある時突然宙に浮かぶ鏡が現れた。幅一メートル、高さ二メートル程の大きな鏡。一センチも満たない厚さのその物体は両面とも鏡になっていた。その鏡が現れたのはいつだろうか。確か現実を覗ける様になった少し後だったと思う。久しぶりに見た自分の容姿は特に変わり無かった。ただ髪は膝位まで伸び、真っ白に染まってしまっていた。そこから現実世界で数年経った今でも見た目は小学四年生の時の自分のまま止まってしまっている。時々鏡を見返してはまるで呪いの様だな、と思うのであった。

 私は、今の現実世界での自分自身を覗いてみた事がある。県立の大きな病院でベッドに寝かされ、管を植え付けられ生かされている、文字通り植物人間として生かれていた。何故私がこうなってしまったのかも分からない、が身体は生きているのでこうして延命するしかない、いつか私が目覚めるのを願って。時たま母が私の元を訪れ、髪を切り、爪を切り、私へ薄化粧をしてくれている。彼女は涙を溢しながら。ひたすら「お母さん」と夢境からその光景を見て泣き叫ぶ事しか出来なかった。現実世界の私の身体は成長しており、普通なら高校に通っている、普通な女の子に成長していた。中々可愛い顔に育ったじゃないか。自分なのに自分ではない様な気分だった。小学校の頃までずっとロングヘアーだったのに、母が綺麗に切り揃えた見事なショートカットも似合っている。だがベッドに眠る私の髪は、夢境の私と同様に全て白髪となっていた。

 優と愛美の二人にも会いに行った事がある。優は私と同じ病院で眠りについている。愛美は自宅に延命装置を置き、家族と共に過ごしている様だった。どうにか、二人だけでも意識を戻してあげたい。だが自分自身ですら意識を戻せないのにどうすれば良いのか皆目見当がつかず、ただただ時間を浪費する日々だった。

 六夢を殺せば、喰われた意識が戻ったりするのだろうか。今まで何度も頭を過ぎった考えだ。だがどうなるか分からない。そもそもアイツを殺す事なんて出来るのだろうか。私は宙に浮かぶ夢達をまた眺めた。


 またこの日も夢を見ていた。私と嘗て同級生だった女の子の夢だ。最近彼氏が出来たらしく夢の中でも彼と一緒に公園のベンチで食事を取り、楽しそうに笑っていた。何気ない会話をしている二人の光景を見て私も嬉しくなる。この夢はきっと甘くて美味しいのだろうな。私はそう思いつつも食べる事はしなかった。最近分かったのだが、どうやら私が夢を喰ってしまうと、その見ていた夢の事をヒトは忘れてしまうらしいのだ。こんな楽しそうな夢を消してしまうのは可哀想だ。だから私は美味しく無い夢ばかり食べる。この夢境から唯一出来る偽善行為だ。

 その時、突如彼女の左手首から火花が飛び散る。「きゃああああ!?」夢の中で叫びを上げ夢が終わる。いや、爆発し消え去る。私はあまりに突然の事に驚き、思わず彼女の現実世界の様子を覗いてしまう。

 そして再び驚愕する。現実世界の彼女の左手首にも火傷の様な大きな痣が残り、肌が爛れている。

「おかあさん!? おがあさぁぁん!!!」

ベッドから飛び起き、自分の部屋から飛び出していく。あの独特な傷跡。私の左手首にも刻まれている傷と同じだ。まるで身体の内側から爆発したかの様に周囲へ広がる『火花』の様な模様。私は自分の手首を思わず見た。

 元々彼女にあの傷があった筈は無い。夢を見ている間に何者かに依って現実世界で傷つけられたのか? 現実世界では深夜の二時。だが隣の部屋の彼女の兄はまだ起きており、誰かが侵入したとは考えにくい。何者かが侵入してやったとは思えない。私は彼女の家の外へ移動し、家の周りを空から見渡す。人影は見えない。家の中へ入ると、キッチンの流しで泣きながら流水で腕を冷やしている彼女と母親、そして兄と父の家族全員が集まっていた。

 私は嘗て同じ様に左手を傷付けられた時の事を思い出す。あの時もまどろみの中だったとはいえ、周りに誰か居た様な感覚は無かった。やはり“夢の中で起きた事が現実世界に干渉している”としか考えられない。……六夢の仕業なのか? だとしたら何故六年前私にも同じ事をした? ……六夢とは“別の存在が居る”という事なのか。

 ふと、ここで私は我に帰る。おかしい。私が彼女の家に存在し立っている。現実世界に入ってきている。嘗て六夢が私にやってみせた様に。私は驚きと共に、心の底から喜びが沸き起こってきた。……帰って来れた! 彼女の家のリビングで、私は嬉しさの余り膝から崩れ落ちた。涙が溢れてくる。漸く、漸く二人の意識を取り戻す為の希望が見えた気がした。

 だが今は目の前で起きたこの“事件”について調べなければ。私の中の使命感がそう訴える。再び意識を思考へ戻す。六夢であれば夢を喰う、意識を喰うのは自らの欲を満たす為の行為だ。だがしかし夢の中でヒトを傷付け、そして現実世界でもその傷を与える行為の目的は? 傷を与える事で快楽を得る怪異? どれ程の頻度でこの行動を起こしているのか分からない。彼女の夢を覗き見ていた時、彼女とその彼氏以外の存在を視た記憶も無い。

「とりあえず、すぐに病院にいきましょう」

「ああ、ミキ。車に乗りなさい」

父にエスコートされながら、彼女は家を出て行こうとする。病院か。警察にも同様の被害届みたいなのが出されているかもしれない。この『絶対不干渉』の能力を実際に使える様になる日が来るとは。

 彼女の父が運転する車は夜の大通りを猛スピードで走り抜け、二十分程で救急医療病院へ駆け込んで行った。すぐに応急処置を施され診察室で医師から説明を受けている。

「一種の火傷の様ですが、見ての通り“内側から”何かしら力が加わった様な痕跡があります」

「原因は何なんですか?」

父が訊く。

「……正直分かりません。ここだけの話なのですが、最近同様の怪我を負った患者さんが二人来ました。一昨日来た方も同じく寝ている間に傷を負い……。とにかく、原因究明と今後の医療の為に娘さんの血液やDNA情報を頂いても構いませんか?」

「ええ……。大丈夫か?」

彼女も静かにこくりと頷く。

「ありがとうございます。我々も警察・大学と協力し全力を尽くしている所です。また追って――」

 私は鍵の掛かっているドアを難なく通り抜け診察室の裏部屋に侵入する。一昨日。今日は六月十九日。大量のカルテが収まっているファイルの棚を見る。今月分のファイルを手にする。現実世界の物に触れる事も出来ている。干渉する事が出来ている。私は今一度自分の能力に驚く。周りから見ればファイルが宙に浮いている様に見えているのだろうか。まるで幽霊だ。

「六月十七日……。あった」

原因不明の火傷。それと簡単な処方内容しか書かれていない。そしてポストイットで貼られたメモ。『○×警察署 大鳳警部』と携帯らしき電話番号。それと外傷の写真も挟まれていた。同じく左手首に火花が散った様な火傷の痕。それに更に三日前にも同様の傷を負った人のカルテを見つけた。ガチャガチャと部屋の鍵を開けている音がしたので、私はファイルを元の位置に戻し夢境へ戻って行った。


 それから四日間程、様々な人の夢をずっと見ていたが『火花』が現れる事は無かった。私はこの怪異を六夢とは別人と看做し『火花』と勝手に呼んでいた。何千、何万人の夢を全て視るなんて不可能だ。その内の一つ、火花が現れる夢に偶然居合わせるなんて、正に神のみぞ知るという確率だろう。三つの事件がバラバラの日に、それも毎夜一つの夢しか破壊していないが、火花が夢を破壊する為にパワーを要しているからこれほど間が開いたりしているのかも分からない。もっと規則性が分かれば……。そうだ、あのもう二人の夢に侵入し、彼らの夢と“接触”する事は出来ないだろうか。私はそう考えた。


「あれ……? ここは?」

一人目の被害者。二十一歳の女。大学生。その彼女の夢へ私は入り込んだ。真っ白な空間に、“私が”配置した木製の椅子が二つ向かい合って置いてある。

「こんばんは。初めまして」

椅子に座る彼女に丁寧に挨拶をする。

「あんたは? 私は一体……?」

「安心して、あなたは夢を見ているだけよ。そして私はロク……」

そこで言い淀む。自分が六夢だなんて名乗りたく無い。

「私は陸夢(リクム)。宜しく」

「はぁ……」

「一つ教えて欲しい事があるの。九日前。あなたは夢の中で左手を怪我した。そして現実世界でも」

「どうしてそれを知って……」

「いい? これはただの夢よ。ただ答えて。あの時、あなたは何の夢を見ていたの?」

「……えぇと。そうだあの日。私は内定を貰って上機嫌だったんだ。面接の時に私がやっていた研究の内容を面白がってくれて好感触だったのを覚えてる」

「それはおめでとう。それで?」

「それで……。その会社に入社して、自分の好きな仕事をしながら彼氏も出来て……。その、今まで彼とか出来た事なかったから、空想上の彼を夢見て、とてもたのしくて……」

彼女がウトウトとし始める。

「なるほどね。仕事もプライベートも充実した、最高の夢を見ていたのね」

「そしたら急に、私の腕が吹き飛んで……」

「ありがとう。おやすみなさい」


二人目の被害者も女。二十四歳。会社員。

「私はその日……。えぇと、そう。彼氏にプロポーズされたの。結婚しようって」

彼女は恥ずかしそうに左手の薬指をチラと持ち上げ自慢してきた。

「それはおめでとう。夢もさぞ楽しいものを見ていたんでしょうね」

「えぇ。新婚旅行の話でその日は盛り上がって。それでハワイかどこか、綺麗な海のある海外に行きたいと話して、それで夢の中で白い砂浜が広がる、美しいビーチで二人きりのバカンスを楽しんだの……」


 私はその二つの夢を喰べた。自分が作り出させた夢って無味なんだ。私はどうでもいい新たな発見をした。

 被害者は全て女性。十七〜二十四と比較的若い女性。その三人ともが幸せな夢を見ていた。彼女らと何らかの関係を持つ男か、それに嫉妬する女か。犯人像は全く分からない。三人の共通点でもあれば……。そうだ、そういうのは警察がやってくれてるじゃないか。


 ○×県警察署。捜査課のデスクが集まる部屋へ忍び込んだ。とは言っても堂々と正面玄関から壁をすり抜け入ってきたが。

「はぁーー、全く分からん。大西、これ後で回しといてくれ」

「了解です〜」

律儀に『大鳳』と書かれた机上名札の置いてある机から、初老の男が胸ポケットから煙草の箱を取り出し席を後にした。時刻は二十三時過ぎ。遅くまでご苦労様だ。私はその机上の資料を見た。

『三件の深夜不審負傷事件について』

シンプルな題名が載った資料。記述者にも『大鳳』と書かれている。私はその資料を机から引き落とし、向いに座っていた大西と呼ばれていた警官に見つからない様、机の陰を這わせる様に廊下を移動し、別部署の人のいない机の間でパラパラと資料を捲っていった。

 ざっと読んだ所では、三人に共通するのは、同じこの町の小学校、中学校卒業者である事。三人に面識は無し。学校在籍時にも関わり無し。三人を知る共通の人間としては、その学校教師数名。それと一人目と三人目が同じ塾に通っていた為、その講師。それ位しか共通項が無い。

 警察医の診断結果でも原因不明。内部から何か力が加わり、そして外傷として火傷が発症する例も今までに無し。現在県外の大学病院と協力し海外での発症例について調査中。

 ふと、私は思い出す。過去に三人が“六夢”について調べたり、夢境入りをしようとした事があったのでは? 私が傷を負ったのと同様に。だが三人が負傷した時は夢境入りなんて試みていなかった。だがもしかしたら何かの原因になっているかもしれない。私はデスクの上を覗き、ペン立てに刺さっていた黒ボールペンを抜き取り、『六夢?』と資料の一枚目の右下に書き足した。これで何か掴めるかは分からないが、何か新たな共通項が見つかればラッキーだ。六夢。この火花もまた、私が夢境入りした事に依って生まれた怪異なのだろうか。もしかして、優? 愛美なの? 邪念を払う様に私は静かに資料を机に戻し、その場を後にした。

 その資料の下には、もう一つの捜査資料が置かれていた。『集団植物人間化事件の関連性について』


 翌日。私は昼間に現実世界へ降り、愛美の家を訪れた。覗き見ていた事はあったが、実際目の前にしてみると懐かしい様な、悲しい様な複雑な気持ちが生まれる。この玄関に私は何度遊びに訪れただろう。

「お邪魔します」

静かにそう言い、家に上がった。家の中は誰もいなかった。平日の昼間である。両親とも仕事だろう。そして、仏壇と共に巨大なベッドが置かれている広い和室へ踏み入れた。ベッドの上には、愛美が横たわっている。

「愛美……」

私はベッド左側に立ち竦んだ。腕に二本、そして恐らく布団の下で排泄用の管も繋がれた無惨な姿だ。彼女の顔は鼻立ちが美しくなり、身体もふくよかに成長していた。だが愛美は愛美だった。

「えみちゃん……」

ボロボロと涙が落ちてくる。落ちた涙は畳に染みすら作らない。ベッドの彼女へ縋る様に私は泣き崩れる。

「ごめんね……ごめんねぇ……!」

一頻り泣き晴らし、私は再び立ち上がる。

「……必ず助けるからね。必ず。もう少し待っててね」

そして、優の眠る病院に向かう。


 あの時と同じ六月の終わり。夏の始まりを感じさせる風が優の眠る部屋にも白のカーテンを揺らし入ってくる。

「久しぶり、優」

優の家は私の家のすぐ近所で、同じ幼稚園に入る前からの親友だ。私のどうでもいい遊びにいつも付き合ってくれる。でも私より賢く大人だった。そんな彼女が大好きだった。再び彼女のベッドの左側に膝をつき、管の繋がった彼女の左手を握る。あの儀式の時も私はこの左手を握っていたのに、離してしまった。

「ごめんね、ごめんね優……。いつも優しいゆーちゃん……」

その左手に私の頬を当てる。ぴくりとでも、一瞬でも動いてくれ。そう願いながらも、彼女の手は生暖かいだけで、生きてはいなかった。

「優も、愛美も必ず助けるから。私がどうなろうとも」


 そして同じフロアの別の病室。私自身が横たわる病室へ入った。

「久しぶり、大前陸」

何か答えてくれよ。私は自分自身へ問う。ジャーという機械音と共に薄黄色い液体がチューブを通り機械に吸い取られている。なんとも惨めな姿だ。

「でもさァ、私だけこの世界も戻って来れても、それは悲しいよね……」

私は自らの身体に跨る。私は小学四年生のままの身体。目の前に横たわるのは六年後の未来の身体。その身体の首へ小さな手を回し、首を締め上げる。その時気付く。“今の”私自身の首も締まり、苦しい。そうか、夢境を通じて私と身体は何かで繋がっている。そうか、火花だって、六夢だって、何かしら、どうにかして、こう繋がり……。急に意識が朦朧としだし、力が入らない。私の身体が、現実世界の身体の上に重なる様に倒れ込む。


 目が覚めると、目の前には白い天井が広がっていた。明るい色。いつもの真っ暗な空間に浮かぶ夢達は視えない。左腕と股間に違和感を感じる。視線を下に移し左手を見ると、そこには二本の管が刺さり、傍に吊るされた点滴へ繋がっていた。

「アッ!? うわぁっ!?」

突然の出来事に声にならない声を叫び上げ、心拍数が急上昇する。心拍センサーが警告音を上げ騒ぎ立てる。同時に驚きのあまり尿を失禁してしまう。瞬時に股間から機械が吸い上げる感覚がして、同時にその装置のビデと乾燥機能が働き股間を不快感が襲う。

「うわ、ウワアアアア!!!!」

私はベッドの上で飛び起き悲鳴を上げてしまう。これは夢か!? 私が作り出した夢なのか!?

「602号室の大前さんが起きました!」

「患者が暴れています!」

「パニックだ! 麻酔持ってこい!」

廊下で慌ただしい声が聞こえる。私はこの不愉快な股間の機械に繋がったおむつを脱ぎ捨て、左腕の針を抜き捨てる。これは夢、これは夢、私は夢境に戻る……!

「大前さん! 落ち着いてください!」

男の医師が三人近づいてくる。

「やめて! これは夢! 夢なんだァァァ!!」

羽交い締めにされ、右肩に注射を刺される。瞬く間に再び意識が朦朧としだし、私は眠りに落ちた。


「あ……」

喉がカラカラだ。え、喉が乾くなんて感じたのはいつぶりだろうか。そっと目を開けると、周囲を人が取り囲んでいた。

「ああ! 陸!!!」

そう大声を発し、私に覆い被さってきたのは母だった。

「母さん……?」

母からぬくもりを感じる。私は両手を上げ、彼女の背に回す。周りからは歓声と拍手が沸き起こり、私は全く状況を飲み込めなかった。

「これは夢、夢なんだ……」

私は泣きながら言う。

「陸、これは夢じゃないわ……おかえりなさい」

母が少し離れ私の顔を見ながら泣いている。

「違うの母さん……! まだ優と愛美が、まだ取り残されて……」

私は母を引き剥がしベッドから立ち上がる。身体が重い、それに、手足が長くなっている。外が暗い窓ガラスには部屋の蛍光灯の光と私が反射して映っている。十七歳の私が。

「違う……これは夢、私が二人を見捨てて見ている夢なんだ……!」

私はその窓ガラスをすり抜け外に出ようとするが、手は窓ガラスに触れたまま。

「おい、いつもみたいにすり抜けろよ。オイ……」

私は自分自身に言い聞かせる。窓ガラスの反射越しに、背後で人々が憐れみの様な目でこちらを見ているのが分かる。

「陸……。パニックになるのは無理も無いわ。あなたは六年も寝ていたんだもの」

知ってる。

「陸、とにかくお母さんに顔を見せて? あなたの声を聴かせて」

六年の間に母さんがどれだけ苦労し、痩せ細り、白毛だらけになったかも知ってる。悔しい。悔しくて涙が止まらない。いっそここで死ねたなら、全てを捨てられたらどれだけ楽だろう。

「おかあさん……」

でも私は泣きながら背後を振り返る。父に、お姉ちゃん。それに私の世話をしていた看護師やその他の医師。様々な人が私を見ている。

「おがあさぁん……おかあさんごめんなさい!」

私はベッドを乗り越え、母と再び抱擁する。

「いいのよ、あなたが帰ってきてくれただけで、それだけで!」

「りくぅ……おかえり〜〜!」

お姉ちゃんも泣きながら私に腕を回してくる。ああ、私は帰ってきてしまったんだ。


 六月二十九日。私はベッドの上で二日を過ごした。健康状態の経過を観察され、明日には恐らく退院する。上半身を起こした状態で、私はずっと外の青空を見つめ、放心していた。

 何も考えられなかった。この二日間眠れなかった。眠らなくても苦ではなかったが、目の下は青くなっていた。優と愛美を救う為、火花を、六夢を見つけ出す為にも、私は夢境に帰らなければ、六夢の能力を復活させなくては。だがどうして良いのか全く分からず、私はただ呆然と窓の外を眺める事しか出来なかった。眠りから覚めたのに、これでは植物人間と同じだ。

「りく〜やっほー」

扉のノックがしてから、お姉ちゃんが部屋に入ってきた。

「今日は私が付いといてあげるからね」

「お姉ちゃん。ありがとう」

「はいこれ、今でも口に合うかなぁ」

そう言いながら、花束とは別にカバンから何やら袋を取り出す。私のベッドの上に大量の駄菓子をばら撒く。

「あはは、ありがと」

私は懐かしいチョコを一つ取り、袋を開けようとするが上手く力が入らない。

「あ、ごめんごめん。はい」

袋を開けてもらい口に運んでもらう。

「うふ、おいひい〜」

私は笑顔を姉に向ける。

「味覚はまだガキのまんまか〜?」

煽るように言ってくる。お姉ちゃんらしい。

「うるさいなぁ。そういうお姉ちゃんはもう働いてるの?」

「いいや、市大に入ったよ。りくの入院費の為にも働きたかったんだけど、二人で何とかするからお前は絶対大学に行けーって言われてサ」

「そっか。ありがとう……」

再び涙が頬を伝い、布団に染みを作る。

「いいんだよ」

優しく彼女が抱擁してくれた。お姉ちゃんは、もっとお姉ちゃんらしくなっていた。

 私も夢境に隠れているだけではダメだ。私も戦わなければ。現実に決着を付けなくては。


× × ×


「アアアア! またやってしまった!!」

真っ暗な空間をつん裂く様な悲鳴にも似た叫び声が響き渡る。

「ああクソが……! なんで私だけこんな目に……私の身体!! ……私も普通に生きたかっただけなのに……ああぁ……」

彼女は跪き、自分の周りに小さな火花を撒き散らす。その火花達がバチバチバチと発破音を上げ爆発を繰り返す。彼女もまた泣いていた。

「六夢の野郎……絶対に殺してやる」

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