第30話 不死身のキクコさん
コンルは、華と逃げこんだ、思い出の公衆トイレへとやってきた。
改めて見ても、明るく清潔感のあるトイレだ。
今は
コンルは滴るツインテールを手で払い、トイレの前へ立つと、辺りをぐるりと身回す。
「特に、敵の影はなし。はぁ……ここは、ハナと初めて会話をした大切な場所です。とても懐かしい……」
遠い昔のようだが、つい昨日の話だ。
あのときは、ただ華を追いかけただけだったが、この世界には、自由に使えるものがたくさんあると、コンルは思っている。
公民館の調理場もそうだが、この公衆トイレもそうだ。
いろんな人が使えるトイレがある。
それはコンルにとって、ちょっとした衝撃だった。
コンルの世界では、外出先のトイレは、飲食する店以外にない。
そのため、急な腹痛に見舞われた時は、水を一杯頼み、トイレを借りなければならない。
これがけっこうな手間だったりするからだ。
むしろ、時間が間に合わないときもある……
「この世界は本当に便利ですね……永住したくなってしまいます」
コンルは杖を小さく振り、渦を出した。
「アンゴー、出てきてください。頼みがあります」
コンルの声に、アンゴーが顔をだすが、湿気がいやなようで、しきりにふわふわの両手で顔を洗っている。そのせいで、ほっそりした顔になってしまった。
「アンゴー、神の居場所を探して欲しいのです」
コンルの世界での『獣』は、すべて神に近い存在だ。
ちなみに、一番上位に君臨しているのが『猫』である。
いつも神探しに使われる獣は、嗅覚が優れた『犬』『豚』『熊』なのだが、今手元にいるのはアンゴー(うさぎ)だけ。
だが、アンゴーは普通の獣より1ランク上の精霊であり、特級鍛治師である。
それなりに近くまで案内してくれるのでは?
……というのが、コンルの目論見だが、あくまで目論見。
自身の経験値でも探すしかない。
「アンゴー、探ス! 神、友ダチ! 探ス!」
渦から出てきたアンゴーだが、ワガママふわふわボディが、見る間にしぼみだした。
雨に濡れて、体の輪郭が現れたはじめたのだ。
ぶるぶると揺らしても、すぐにしぼむアンゴーは、とてもみすぼらしい。むしろ、それしか体がないのか。と思わせるほどのガリガリっぷりだ。
だが、やる気はある。
理由は、アンゴーの小さなしっぽが痙攣並みに揺れている!
「アンゴー、役ニ立ツ! ハナ、喜ブ! 嬉シイ! オレ、ヤル!」
すっかり華のことがお気に入りのよう。
華の刀の手入れが行き届いていたことが気に入った理由らしいが、変身ブレスレットまで用意するとは、コンルも思っていなかった。
創ってもらうため、頼み倒さなくてはと思っていたのに、拍子抜けだ。
実際、コンルは変身ブローチを作ってもらうまで、2ヶ月かかっているからだ。
アンゴーはコンクリートの地面に後ろ足で立つと、足踏みをする。
地面の感触が少し違うからだろう。
確認がすんだのか、手をくたりと前に下げて、鼻をヒクつかせる。
右、左、上に地面にと、鼻をくっつけ、臭いを嗅ぐが、
「……クサイ! 臭ウ! クサイ!!!」
怒りが見える。
だがクラックは腐った魂がヘドロのように溜まる場所だ。
臭いがするのは仕方がない。
……だが、ここがトイレなのも、臭いの原因かもしれない。
「まず、中を確認しましょうか」
左側の入り口、男子トイレに入ってみる。
小便器が3つ、個室が2つある。
それを見たコンルは、こっちがそれで、こっちがあれ、というのを便器の形で想像してみる。
だが、使い方は難しそうだ。
壁にはめ込まれたひょろ長い陶器は、きっと小便器!
立ったままできるので、合っているはずだ。
だが、上に付いた銀のハンドルが何をする場所なのかがわからない。
個室の中もそれぞれ確認したが、気配も何もない。手洗い場にもまるで変化がないが、アンゴーに確認だ。
「アンゴー、どうです?」
「クサイ! コロス! クサイ!」
「すみません。トイレですから……」
次にとなりの女子トイレへ。
だが、ドアを少し開けた瞬間にわかった。
「ここ、住処ですね……」
「クサイ! コロセ! クサイ!」
隙間から見えた黒い床を踏みたくないアンゴーは、すぐにコンルの肩に飛び乗った。
ゆっくりと扉を開き、もう一度、2人で隙間から中を覗いてみる。
が、気配はない。
ドアを開きると、コンルは中へと踏み込んだ。
白いヒールが、ぐちゃりと黒い液体に沈む。
ヒールじゃなかったら、靴のなかまで染みこむほどの厚みがある。
手洗い場を始め、全ての壁、床、天井に塗り込まれた黒い液体。
どこからか流れ込んできているようにも見えるほど、たっぷりと壁から天井から、滴り落ちている。
「ひどいですね……」
とりあえず、滑る足元に気をつけて、コンルは個室を確認していく。
たが、ここに不死身のキクコは帰ってきていないようだ。
ひどい有様だが、殺気も怒気もなければ、姿もない。
まだ公民館の近くに潜んで、じっと玲那を狙っているのだろうか……
「コンル、アレ! 出入口! ニオウ! ヒドイ!」
掃除道具入れの場所を指差している。
アンゴーに指示されたとおり、そっとドアを開けた。
簡単に開いたドアだが、掃除用具を洗うための掃除用流しに、あの黒い液体がたっぷりと満たされている。さらに、そこからの腐臭がひどい。
あまりの臭気にコンルは生唾を無理やり飲み込んだ。
吐くのを堪えるためだ。
ぶくりと、底から空気の玉がのぼって、弾けた。
真っ黒な液体の中に何かが沈んでいるようだ。
さすがに手を入れる勇気はないため、近くのモップの柄を差しこんでみた。
何かが引っかかる。
うまく引っかけ、引き上げるが、コンルはその姿に怒りが沸く。
辛うじて繋がっているが、首と胴が伸びきった猫だった。
しかも、2匹も──
コンルはその猫を大事に抱えたとき、アンゴーがコンルの頭を叩く。
「外、声、聞コエル!」
「僕には聞こえませんが……」
「オレ、聞コエル! 外! 外!」
見ると、掃除用流しの上につけられた小さな格子窓に、黒い引きずった線がある。
「裏を見てみましょう」
ぐるりと外周を回ると、窓から壁を伝い、黒い線がのびている。
それは地面を這いながら、奥の林へと続いているようだ。
芝生をドス黒く染めながら、土も草も腐らせる黒い液。それを辿っていくと、黒い線が赤黒く変化しはじめた。
土手をこえ、林に入った少し奥だ。
思わずコンルは口を覆う。
アンゴーもベチャベチャの両手で鼻を塞いだ。
いびつながらに木が抜かれた広場の奥に、大きな血溜まりがあったのだ。
だが、血溜まりというには、大きい。
小さな沼程度の大きさがある。
その血は、びっちりと積み上げられた死体からこんこんと流れているようだ。
雨の音に混ざり、ぴたぴたと雫が落ちる音が聞こえる。
「臭イ! ……声、ドコ!」
踏み込むにも躊躇する場所だ。
これほどの酷い
だが、積み上げられた人の塊が、集団キクコの正体だ。
体をここに捧げられ、不死身のキクコと一体化した魂が黒い物体として動いているのだ。
「かわいそうに……」
コンルは埋めてやれればと思うが、うずたかく積み重なった腐った体は、すでに百を越えている。そう簡単な作業ではない。
腐った肉のまま、朽ちることも許されない死体たち──
死体たちは悪夢のなか、ひたすらに不死身のキクコに寄り添っているのだ。
その魂を、コンルは哀れに思う。
だが、間違いなく、不死身のキクコと何かの契約をしたから受けた報いだ。
そうだとしても、永遠の時間を彼女と過ごすことになるとは、思っていなかったはずだろう。
いっときの欲に溺れた結果としては、酷かもしれない。
なんとか血溜まりのなかに踏み込んだコンルだが、死体の服装に気づく。
血で濡れ、腐った肉に浸されてはいたが、華の着ている服によく似ている。
みな、同じような服を来て、スカートを履いた女の子だ──
アンゴーが耳をぴん、と立てた。
何かを聞き取ったのだ。
勢いよく走り出したアンゴー。
腐った血の跳ね返りすら関係ない。
手足を真っ赤に染めて走っていく。
コンルはそれを追いかけるのに必死になる。
血溜まりを越え、木々を縫い、菊の花が一輪見える。
それを過ぎた瞬間、空気が変わった──
「ココ! 隠シテル! 探ス!」
アンゴーは騒ぐが、目の前の巨木に、コンルは圧倒される。
あの屋上からは見つけられなかったものだ。
いや、隠されていたのだ。
不死身のキクコに。
見つけられた理由は、間違いなくアンゴーがいたからだろう。
神に近い『獣』だからこそ、隙間を抜けて入ってこれたのだ。
「ココ! イル! ココ!」
何百年もの月日が重なった大木の根に、アンゴーは潜り込んでいく。
絡まるように根が生える土のなかを、うさぎの身のこなしで器用に移動していく。
「……コンル!」
すぐにアンゴーが泥だらけの手で、根の奥から何かを掲げあげた。
だが、受け取るのもはばかれるほど、それは肉に近かった。
いや、ただの生きていたものの塊だ。
かろうじて細長い尻尾がわかり、猫だと気づく。
「……ひとつ」
「え……」
コンルは言葉に詰まる。
塊がしゃべったから、ではない。
魂が抜かれ、なお、体が生きているというのは、死の状態を維持されている、ということだ。
死ぬ痛みを受けているのに、死ねていない。
殺してももらえず、生きているわけでもなく、悲しみと憎しみにまみれながら、この猫はじっと一匹で、不死身のキクコの養分として過ごしていたのだ──
「……あなたは予言の神、だったのですね……」
「……ひとつ……ひとつ……」
コンルは赤黒く、もう猫という形もないその子を抱きしめる。
「……ひとつ」
静かに鳴いた。
黒い塊から聞こえた声は、安堵の声だ。
苦しみのなかにいるのに、抱きしめただけで、これほどの優しい声をだしたこの子を、なぜ生贄に出したのか──!
コンルの目が純白に染まる。
「……
コンルがつぶやいた途端、コンルの体から湯気があがる。
違う。冷気だ。
コンルはそっと幹に触れた。
瞬間、白く霜が広がりだし、氷が張りはじめる。
強烈な温度変化で、簡単に幹が裂け、枝を折る。
赤黒い樹液が弾けた。
コンルの半身を紅く染めるが、コンルは凍らせるのをやめない。
皮が剥がれ、樹液を流すが、凍らされるたびに、痙攣するように幹が揺れ続ける。
青々とした葉が黄色から茶色へと萎れ、地面に降り始めるが、それで終わりではない。
凍れは、地面の血管である太い根を伝い、細い根を走り、あの死体の山が積まれた木々すらも枯らしていく。
赤黒い樹液すら凍り尽くした林は、気付けば真っ白に染まっていた。
全てを覆い隠すように、白い布がかけられたよう。
アンゴーが「はぁー……」と、巨木に息をかけた。
その小さな温度差で、一気に粉々に砕け出す。
弾ける破片を避けるため、コンルが空に浮かんだとき、見えた。
公民館が、黒い粘液に包まれだしたのを──
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