第29話 公民館内 〜調理実習室にて

 静まり返った調理実習室は、小さな子の、すんすんと鼻を啜る音が響いている。

 猫も黙り、暗い室内で、重い空気だけが漂う。


 ときおり椅子が軋む。

 それすらも敏感になるほど、暗い室内は、緊張と疲れが積もり始めていた。


 萌は窓際の壁に背をつけ、キヌ子を抱きしめていた。

 真上に揺れるカーテンを見る。

 隙間から見える窓には、集団キクコの姿はない。

 ただねちっこいびちゃびちゃと這う音がひたすらに聞こえてくる。


 窓には水滴がかかり、静かに雨が落ちている。

 この雨のなか、華とコンルは不死身のキクコを倒すために戦いに出ていった。

 萌はそれだけで泣きそうだ。


 自分も戦えたらいいのに……


 そう思うが、きっと姉のように勇敢に立ち向かうことはできない。


 自分は泣き虫で、弱虫だ。

 玲那が引きずられているとき、自分が助けに行かず、姉に助けを求めた。

 自分が行くべきだったのに……


 数分前の出来事をひたすらに後悔する萌に対して、テントの横で必死にスマホをいじっているのは慧弥である。

 どこからかコードを出して、電源を確保しながらのスマホ操作に、萌は驚くばかりだ。

 今、電話が繋がらない状況、ということは、ネットにもつながっていない。

 なにをしているのかわからないが、かなり難しいことをしているようだ。

 前髪が暖簾のように下がり、さらにメガネで目元が見えないが、口が一文字に結ばれている。


 そんななか、なぜか萌の隣に、玲那がいた。


「……ごめんなさい……」

「……いや、謝られても困る……ねーちゃんとコンルさんが大変だし」


 小声で話す2人の声は、実習室のなかで響きはしない。

 本当に小さな小さな小声の会話だからだ。


 ただキヌ子は小さな唸り声を上げ続けている。

 萌が嫌いな人間だからだろうか。

 心を写してしまって申し訳なくなる。


 そっとキヌ子をなでてやる萌の横で、玲那はひとり、喋りだす。


「あたし、こんなことになるなんて思ってなくて……」


 萌は返事をしない。

 これは、彼女がスッキリしたいから話すだけだからだ。

 だが、無言でいても、懺悔がしたいようで、ボソボソと言葉がつながっていく。


「……最初、ママが私の言うことを聞いてくれるようにお願いしたんだ……。……でね、『褒めて』って頼んだの。そしたら、初めて、ママ、あたしのこと、褒めてくれて……すごく、嬉しかったぁ……」


 萌は嬉しそうな玲那の声に、振り返る。

 父親似のキリリとした大人っぽい目元に、いっぱいの涙が溜まっている。

 だけれど、顔は幸せそうに笑っている。


「いつもね、おねーちゃんと比べられて……容姿が悪いって言われるし……勉強だってがんばってるけど、もっと努力しろしか言われなくて……あたしが威張れる場所って、学校しかなくって……」


 それでも萌をいじめていい理由にはならない。

 萌は黙ってキヌ子の喉を撫でてやる。


「それで、次におねーちゃんのお願いを叶えてあげようって思ったの……。おねーちゃんだけは特別だから。……あたしに怒らないし、優しいし。おねーちゃん、いっつも、いっつも彼氏欲しいって言ってて……それで、フシミさんに頼んで……」


 そういう経緯で、コンルが標的になったのかと、萌は納得した。

 深玲が通う高校には、彼女のお眼鏡に叶う男子はいなかったのだろう。

 彼女の見た目に釣り合う男子は、きっと東京や大阪にいかなければ出会えない。

 それは中1の萌でも想像できる。


 そこへひょっこりと、銀髪イケメンのコンルが現れた。

 しかも、目の敵にしていた、あの華の『従兄弟』として。


 それは、否応なく彼氏にしたくなって当然だ。


 華のモノは、自分のモノ。自分のモノは自分のモノだったのだから──


「でも、あの、コンルさん? めっちゃカッコいいよね……。近所ですごい噂になってた……写真も見たけど……おねーちゃんに似合う人だと思ったのに……おまじない、効かなかったね……」


 そりゃそうだ。

 萌は少しだけ胸を張った。


 コンルの華へのぞっこんぶりは、見ているだけで赤らむぐらいだ。

 常に華に熱視線だし、常に優先! ……理由はいまだにわからないけど。

 歩道を歩かせたら、車道側に絶対立つタイプ!


 ふふんと笑っていると、玲那は自分の膝を抱えこんだ。


「……おねーちゃんに彼氏、つくってあげたかったな……」


 萌自身の世界も、ねーちゃんである華がいて、成立している。

 玲那もそうだったのかと思うと、少しだけ共感してしまう。


「……ごめんね、萌……ごめん……やっぱりあたし、なんもできない……」


 今にも消えそうな声に、萌は反射的に返していた。


「でも、実際、勉強とか、がんばってたじゃん」


 萌は急いでギュッと口を結んでみるが、もう遅い。

 相手に聞こえてしまっている。

 だが、萌の声に、玲那は喉をつまらせた。


「なんで……あたし、……あんなに……」

「許してないよ。……でも、努力していたのは知ってる。……それと、これは、別じゃない?」


 萌ははっきりと言ったつもりだ。

 だけど、もっともっと言ってやりたいことがあった。

 おねーちゃんに腹パンしてもらわなくてもいいように、言い返してやりたかった!


 だけど、相手が泣いてるのに、酷いことなんて言えない自分が悲しくなる。

 追い詰められない自分が馬鹿らしくなる。

 他人が聞いたら、いい子だっていうかもしれない。

 でも、きっと、この瞬間を、一生後悔する───


 ため息を噛みころしたとき、ボソリと聞こえた。


「……タマちゃん……にも、謝らないと……」


 萌は一瞬疑問符がよぎるが、キヌ子が反応した。

 玲那に爪をたてる勢いだ。

 暴れ出したキヌ子を抑えながら、萌は少しだけ、玲那から離れた。


「……猫に、何、したの……?」

「違うの! 猫をお供えしたら、連れてかれないって教えてもらって」


 萌はキヌ子を抱え、立ち上がっていた。

 恐ろしかった。

 キヌ子が玲那に『消えろ』と繰り返すのが恐ろしかった。

 

『神を殺した』


 はっきりと、キヌ子は言うのも恐ろしかった。

 心のそこからの憎しみが、萌の心に流れてくる。


 さらには……


「地獄に堕ちたって……苦しんでるって……なんで、猫にそんなヒドいことできるの……?」


 腕を伸ばす玲那が、まるで人間に見えない。

 人の皮を被った悪魔だ。

 おぞましい。


「萌、待って……待ってって!」



 じりりりり!



 一斉に体が震える。

 驚きに、震えたのだ。


 萌は自分に大きく落胆した。


 これだ。

 気になっていたのは、これだった……!



 カップケーキが焼けたのだ──



 止めようと、ドアを開けてみても、タイマーを回してみても、ベルは止まらない。

 今までそれなりに静かだった実習室が、けたたましいベルの音で充満する。


 ツン、というスイッチが切れる音がして、ベルは止んだ。

 だが、同時に窓が揺れ、さらに、廊下がぐちゃぐちゃとうるさい。


 集団キクコのスイッチになったのだ。


 カーテン越しにもわかる。

 窓に貼りつく集団キクコの姿が。

 どろどろの体のシルエットが、山のように描かれる。

 あの中に、不死身のキクコが混じっているかもしれない。


 次は、玲那を守れるだろうか……

 そう思うと、萌は怖くて泣きそうになる。


 実習室のドアが激しく叩かれはじめた。

 ガタガタとロッカーが揺れる。

 倒される前に、必死で抑えにかかる。

 前の扉に男性3人、後ろの扉に男性2人と萌と慧が押さえるが、力が強い。

 今までにない猛攻に、萌は戸惑うが、信じるしかない。


「ねーちゃん、コンルさん、……がんばれっ!」


 萌は叫びながら、背中でドアを抑えにかかる。

 踏ん張る足が震えだす。


 大きな塊になった集団キクコが体当たりしだした───


 もう、ドアが外れかかっている。


 外れたら、どうしたらいいのだろう……

 何が起こってしまうのだろう……


 悲鳴と叩かれる窓の音、木の引き戸が軋む音が、実習室に、充満する。

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