てをのばすもの
りんごの妖精が台所へ向かい巴に声をかけようとした時だった。
地響きでも起きたのかと疑うくらいに荒々しい足音がしたかと思えば、九尾の妖狐は決死の表情でりんごの妖精を横切って、隙間を大いに開けて巴の細腕を掴んだ。
背を向けていた巴は九尾の妖狐に向かい合い、朗らかに笑った。
「おやおや。そんなに回転焼きが待ち遠しかったのかい?しょうがないねえ。じゃあ、黒餡と白餡と芋餡。どれが食べたいか先に選んでもいいよ。すまないねえ、りんごの妖精さん。食いしん坊で」
「いいえ。私は初めてなので、どれでも楽しみですから」
「ありがとねえ」
りんごの妖精に断りを入れてから、巴がトースターで焼いていた回転焼きを皿に取り出そうとして動き出すと、九尾の妖狐の手はあっさりと離れてしまった。
りんごの妖精は意気地なしと胸の内で溜息を溢したが。
九尾の妖狐の表情を目の当たりにして、撤回しないとねと、くすりと笑った。
ちらと。九尾の妖狐が後ろ斜めにいるりんごの妖精を一瞥したので、気を利かせてこの場を離れようとしたのだが、九尾の妖狐はやおら首を振ったので、りんごの妖精は口の端をさらに高く上げてその場に留まった。
「巴」
「はいな」
菜箸で取り終えて皿に乗せた回転焼きを眼前まで持ち上げてくれた巴に対し、九尾の妖狐は今一度名を呼んだ。
巴と。今の名前ではなく、昔よく呼んでいた名前を。
ぱちぱちと。巴は瞬きを多くさせては、首を傾げた。
九尾の妖狐はめげそうになる己を叱咤しては左足を半歩踏み出し、回転焼きが乗った皿をシンク台へと移動させてから、巴の両の手をやわく掴んだ。
シミと骨と表の皮と血管と、裏の皮の厚さと硬さと、熱さが目立つ手だった。
時を止めた己の白魚のような手とは違う、生を重ねてきた手だった。
まだまだまだまだまだ。
足りないものは星よりもはるかに多いかもしれないと自覚していても。
堂々と、声を震わせることなく、言えることができなくとも。
たった一つ。
堂々と断言できることはある。
きゅるり。
潤わせた
「迎えに来た。もう手を離さない。一緒に生きよう」
巴はやおら瞬きをしては、そっと九尾の妖狐から離した手を胸の前で組み、微笑を向けた。
美しいわ。
菩薩を彷彿とさせるその笑みにりんごの妖精は思わず小声に出してしまった。
「ごめんよ。私はじいさん一筋だから九尾の妖狐さんとは一緒に生きられないよ」
「いや。それは。それは、今のおまえの………俺、じゃあ。だめ「ばかたれ」
塩をふられた青菜のように勢いをなくした九尾の妖狐。後頭部を思い切り叩かれ、なにすんだとりんごの妖精を三角目で睨みつけるも、りんごの妖精は何もしていないわと両の手を小さく上げるだけ。
じゃあほかに誰がいんだよ、銀杏がとうとう化けて出て来たのかと後方に身体を向けては、絶句した。
「え、え?おま、え?え?ええええええ?」
「おや。烏天狗さん。帰ってきたのかい?」
「ええ。お久しぶりです、巴さん。初めまして。そして、さようなら」
巴、りんごの妖精と順に挨拶をした烏天狗は、九尾の妖狐に視線を留めては、火山さえ瞬時に凍りつきそうな凄まじい笑みを向けたのであった。
(2021.11.23)
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