◆1-4

始原神は、完成された世界に神の僕を生み出した。

すなわち、われら神人である。

神に祈り、祝福を与えられ、奇跡をもたらす神の指先である。


始原神は、膨れ上がる世界を壊すため、最後の神を生み出した。

すなわち、崩壊神である。

(創世・第一章第七、八文より)


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 思わず瞼を乱暴に擦るが、見間違いでは無い。誰かが、或いは何かが、突然椅子の上に座っていた。

 目が潰れんばかりの輝きも、世界を揺らす轟音も無く。それは、そこに存在していた。

 黒が目立つ男、だった。髪も服も闇から織り上げられたような漆黒で、肌は抜けるように白い。遠い筈なのに、何故か顔まではっきりと見えた。

 恐らく、美丈夫なのだと思う。男の顔の美醜など、少年にはいまいち解りかねるものだったけれど、それでもどこか人を引き付ける、奇妙な魅力が溢れていた。

 しかし、致命的に不気味で、嫌悪感を齎す部分がひとつだけある。

 目だ。左右どちらも、金の光を湛えていたけれど、右がひとつの眼球にひとつの瞳孔だけであるのに対し、左の瞳には、金色の瞳孔が無理やり多量に詰め込まれたように犇いていた。

 不気味な瞳を持つ男は、悠々と教祖の悪趣味な椅子に腰かけ、片肘を肘置きに預けて頬杖をついている。口元にはほんの僅か笑みが浮かんでいたが、その金色の眼は教祖も、信徒も、奴隷たちも、何も目に入っていないようにぼんやりと揺らめいているように見えた。

「おお……! よくぞお越しくださいました、アルード様!」

 祈りを終え、ようやく顔を上げた教祖が歓喜の声を上げる。神と呼ばれた男はそれに答えない。視線すら向けない。それでも教祖は熱に浮かされたような声のまま、己が信奉する神に向かって告げる。

「此度の贄はこれに! 存分に嬲り、犯し、食らいなされませ!」

 唐突に告げられた死刑宣告に、奴隷達が一斉に慄く。奴隷の悲鳴と信徒の歓声が混じる中、黒い男は、――レタの目には、酷く。退屈しているように見えた。

「……多いな」

 ぼそり、と呟かれただけの言葉なのに、何故かそれはその場にいる全ての人の耳に届いた。

「は、お気に召されなかったでしょうか、大変申し訳なく……」

「アラム。少し減らせ」

 恐縮したように身を縮める教祖を全く見ず、無造作に、黒の男が言い放った言葉とほぼ同時。

 少年の横で、風が動いた。

 びしゃ、と温い液体が背中にかかる。同時に、自分を抱え込んだままだった女の腕が、何かに引っ張られたようにどさりと地面に落ち――振り向いた時には、何処にも、いなかった。

「――……っ」

 残っているのは、痘痕だらけの、骨と皮だけの細い腕が、一本だけ。肩から先は何もなく、地面に打ち捨てられていた。恐らくその場に居た他の奴隷達の、腕や脚や、首などと一緒に。

「う、わあああああああっ!!」

「ひいいいい!」

 一瞬の沈黙の後、一斉に上がる悲鳴。そして――大勢の奴隷の体を、三つの大顎に山ほど咥えている、巨大な三つ首の狼が、擂鉢の中に顕現していた。

 黒い剛毛に身を包んだ獣の目は、三対六つ。どれも金色の輝きを持って、奴隷達を睥睨している。

「おお! 暴虐神アラム様だ!」

「アルード様の眷属、一の御子息!」

 信徒達がやんやと歓声を送る闘技場は、恐怖から混乱の坩堝に陥った。

 狼が爪と牙を大きく振うだけで、奴隷達の首が、手足が、引きちぎれて飛ぶ。僅かに武器の心得があるものは立ち向かおうとするが、次々と屠られ、噛み砕かれる。悲鳴を上げて逃げ惑う、怪我人や老人、子供達も同様に。

 まったくの慈悲もなく、闘技場のど真ん中で振るわれる暴虐に、生き残った奴隷たちは壁にへばりついて許しを請う。少年も、押し合い圧し合いする中に混ぎれてしまい身動きが取れない。梃子摺っている内に、犠牲者は見る見るうちに増えていった。

「素晴らしい! 崩壊神様が望むままに、血と苦鳴の儀式を重ねておりましたが、やはり暴虐神様のもたらす救いに勝るものなどありますまい!」

 興奮した、教祖の叫びが悲鳴の嵐の中聞こえる。こんな時でもなかったら舌打ちの一つでもしてやりたい、と少年が思ったその時。

「――飽きたな」

 ぼそりと。また、あの男の声が聞こえた。囁いた筈なのにはっきりと。言葉の意味が解らず、壁際から教祖の席を見上げた時、少年の耳には新たなる死刑宣告が聞こえた。

「アラム。分かれて、平らげろ」

 その声を聴いたのは、暴虐を働く化け物も同じだったらしい。座ったまま動かない黒い男に向けて、三つの首が天を仰ぎ、三つの口が同時に開き大きく吠えた。

「「「――承知!」」」

 人の言葉だ、少年がそう思った瞬間。まるで影絵が分かれるように、大狼の体が三つに裂けた。黒い体毛がざわざわと蠢き、一つの頭をもった三頭の狼に、その身を分けたのだ。

 そのありえない姿に人々が慄いているうちに、二匹の狼が僅かに身を沈め、大きく跳ぶ。壁の上、客席へ向けて。

「ひい!? わあああ!!」

「な、何故アラム様が我等を――ッ」

 あっという間に客席は錯乱し、今までお題目で揃っていた声が、悲鳴と驚愕、罵声が織り交ぜられた只の雑音に代わる。狼はひたすらに、逃げ惑う人間を引き裂き、噛み砕いていくだけだ。それは、丁度狼の目の前にいた、教祖も例外ではない。

「ほ、崩壊神様! な、ぜ――」

 彼の中で有得なかったのであろう展開に、驚愕の声をあげようとした教祖の首が、がぶりと。狼の口で、丸ごと噛み千切って飲み込まれた。

「きょ、教祖様が!」

「何故――何故です、崩壊神様!? うわあああっ!!」

 地獄絵図が広がっていく中、少年は血と肉の雨から必死に逃げ惑っていた。狼はまだ一匹、闘技場の中にいるのだ。少なくなってきた人込みを掻き分けながら、誰が捨てたのかわからない剣を拾う。

 あの化け物に剣が効くとは思えないし、そも、あの速さに当てられるかどうかもわからない。それでも、このまま座して死を待つだけというのは我慢ならなかった。

 身の丈に合わない剣をどうにか構え、狼に向き直った、その時。

 ……乱杭歯の中から覗いている、血や怪我とは違う痘痕の浮かんだ女の体が、力なく垂れ下がっているのが見えて。

「あ、ぁぁあ゛あああッ!」

 爆発した。理不尽に対する己の感情、怒か悲か、とにかく何か、凄まじい奔流となって迸った。ただ、それを返せ、それを離せと、それだけを込めて狼の間合いへと飛び込み、剣を横薙ぎに――

「っぐあ!」

 する前に全身に衝撃が走り、吹き飛ばされた。原因は無造作に振られた、狼の尾の一撃。剛毛に包まれた鞭のような尾は、五月蠅い虫を払うかの如く、小さな体を払い除けた。

 ぐるんと視界が回転し、客席の上にレタは落ちた。石段に叩きつけられた痛みに呻きながらもどうにか目を開けると、辺りは観客達の死体と血臭が充満していた。ぐらりと傾ぎそうになる意識をなんとか保ち、辺りを見回す。

 どうやら、随分と上まで弾き飛ばされたらしい。近くに倒れているのは、一際豪奢な衣装を着けた、上半分の無い死体。そしてその目の前に据えられた金銀で飾られた椅子と――そこに座ったまま、目を閉じている黒髪の男。

 態勢は彼が始めて現れた時から全く変わっていない。教祖から神と呼ばれていた男。不気味な瞳は、今は閉じられている。突然現れ、恐ろしい狼を呼び出し、すべてを殺してこの地獄を作り上げた立役者。

 それが、目の前に広がる阿鼻叫喚に欠片も興味を示さず――両の目を閉じて、眠っているように見える。

 レタの心はいよいよ乱れて止まらない。この地獄を作り出した元凶であるにも関わらず、何も興味など無いと言いたげに目を閉じたまま、見ることすらしない。

 許せなかった。教祖よりも、狼よりも、誰よりも何よりも。この男が、許せなかった。

 奥歯を思い切り噛み潰し、剣を構える。まだ両手も、両足も動く。狼達は目につく者を片端から食い荒らしており、少年にまで注意を払っていない。この好機を、逃すわけにいかなかった。

 声をあげそうになる唇を噛み切って堪える。そうでもしなければ己の心の奔流が、叫びとなって迸りそうだった。重い剣を振り子のように揺らし、下から上へ、横から男の体をかちあげるように思い切り、振る!

 ぎん、と鈍い音。びり、と震える腕。そしてレタは、驚愕する。

 渾身の力で振るった剣は、頬杖をついたままの男の、二の腕に当たって止まっていた。皮膚どころか、服に一筋の傷も入っていない。

 驚きと恐れが浮かぶ己の心をねじ伏せて、二撃目を当てようとした少年の目の前で。ぱかりと、瞳が開いた。

 右目は、ごく普通の瞳。魔の証とされる金色であること以外は。しかし、もう片方の左目は、思わず背筋が震えるようなおぞましさだった。白目が無く、まるで虫の目のように沢山の金瞳孔が犇めき合い、その目ひとつひとつがぎょろぎょろと動き――全て、少年の顔に視点を合わせた。

「なんだ、お前?」

 そこから目を逸らせなかったレタは、不意に聞こえた言葉が誰のものか一瞬解らなかった。漸く目を開けた男が、心底不思議そうに呟いたのだと気付くのも、一瞬遅れた。すると男は無造作に、押し付けられたままだった青銅剣を片手で払う。手指と刀身が触れた瞬間、剣の方がぼろりと砂礫の塊になって、崩れて消えた。

「っ……!」

 頼みの綱の武器があっさりと、ありえない方法で消え、それでも諦めずにもう一度武器を探そうとした時。伸びた男の手指が、少年の首を思い切り掴んだ。

「あ、がっ……!」

「何のつもりだ? 聞いてやるから、答えろよ」

 不気味な金瞳は、もはや僅かな輝きも無い、どろりと濁った底なし沼のようで、少年の姿を映していない。聞いてやるという傲慢な言葉が示す通り、まるでほんの僅かな暇つぶしにすら期待していないと言いたげに、本当に――つまらなそう、だった。

 そんな顔を見た瞬間、挫けかけていたレタの心に火が灯った。自分達の死が、この世界では嫌というぐらい軽く扱われているのは解っていたけれど。暇潰しにすら、ならないというのは、許せない。

「――こ、ぉ」

「ん?」

 今にも潰されそうな喉の奥から、言葉を絞り出す。男はゆっくりとだけれど、不思議そうに一度だけ瞬きをした。見間違いかもしれないが、僅かな興味を引くことには成功したらしい。首に食い込んでいた指が、僅かに緩んだ。

 ひゅ、と空気を肺の中に取戻し、絞り出すようにレタは叫んだ。

「殺してや、る……!」

「――へぇ?」

 声に己の心を乗せる。そうすれば、恐怖は消える。どんなに体の大きな剣奴にも、恐ろしい姿の獣にも、それをぶつけて生き続けてきたのだ。それ以外に、生きる術など、知らなかったから。

 両手にどうにか力を込めて、男の手に爪を立てるけれど、当然びくともしない。それでも、どうにか視界に入れた男の顔は――何故だか、随分と驚いているように見えた。

「……、は」

 やがて、僅かに空気が震えた。同時に、ぎり、と再び首をつかむ指に力がこもり、レタの体が痙攣する。

 遠くなる意識をどうにか堪えていると、不意に。

「は、ははは、はははっはははははは!!!」

 哄笑が響く。少年の体を片手で吊し上げたまま、神と呼ばれていた男は笑う、笑う、笑う。

「お前! 本気か! 本気なんだろうな! 本気でこの俺を、殺そうと思ったか!?」

 鼻の頭が触れ合うぐらいの位置に引き寄せられた。目の前にある不気味な金色の瞳は、先刻までの様が嘘のように光を取戻し、苦しげに顎を動かすレタの姿が全ての瞳に映っている。霞む目でそれを捕え、朦朧とする己の意識を引き留める為に、どうにか言葉を絞り出す。

「殺してやる……殺して、や、る……!」

 もう腕に力が入らない。肺に空気も残っていない。それでも、諦めきれなくて。

「ははは――! いいな、お前。悪くない。少し手伝おう」

 意味の解らない言葉が耳に届いた瞬間。

 少年の体は、無造作に投げ打たれ、ぐしゃんと、石段に背中から突っ込んだ。石で組まれた階段状の椅子だったものが、まるで落石が落ちたかのように凹んで潰れる。一瞬のうちに、少年を中心にした擂鉢を作り上げた。

「ああ、待て、違う! いきなり死ぬなよ、もう少し生きろ!」

 慌てたようにそんな傲慢な台詞を告げられても、今のレタには全身に響く痛みよりも、ようやく喉を解放された安堵の方が強い。

「がっ、ハ! ぁう……!」

 小さな身を震わせ、何度も咳き込んで空気を求めているうちに、その体を跨いで神の足が地を踏む。

「どうするかな。壊し過ぎたら駄目だ、駄目だ――それじゃあ意味が無い。人で無くしてもいいが神にするのは駄目だ」

 口元に手をやりながら、ぶつぶつと真剣そうに呟いている相手を、如何にか睨み返そうと苦鳴を堪えて天を仰ぐと、また無造作に肩を踏まれた。めき、と骨の折れる音が聞こえて、喉奥から小さく悲鳴を漏らす。

「ぁ……が!」

「おい、これでも駄目かよ! 脆いにも程があるぞ、よくこんなものを作ったなイヴヌスは!」

 空を仰いで両肩を竦め、呆れたように神が言う。不満と苛立ちもあるが、それでも何かを諦める気は無いらしく、乱暴に頭を掻いてから、両膝をついて少年の腹に手を当てる。

「なに、を」

「くそ、面倒だな。まあいい、普段の世話はラヴィラに任す。とりあえずお前の、人の理を壊すぞ」

 言われた言葉の意味が全く理解できず、ただ嫌な予感だけを信じて体を捩る前に――男の長い指が、少年の腹、忌まわしい焼印を押された丁度その場所に、ずぶりと。血の一滴も出さずに、埋まった。

「っぐ!? ひ……!?」

 反射的に悲鳴を上げたが、痛みは全く無かった。ただ、己の体をそのまま指で掻き回される嫌な感触だけが露骨に伝わり、全身に怖気が走る。身悶える体に跨がる男は全く意に介さず、まるで泥遊びをする子供のように、無邪気にすら見える笑顔で――無造作に、突き刺したままの指を動かし、抉り、握りつぶす。

「ッひっがァ! あああ! ゃ、め――!!」

 如何にか静止の言葉を絞り出そうとしても、腹の中の気持ち悪さと、それに合わせたかのように熱を持っていく体にレタは翻弄されるしかない。

 まるで体が、焼けた銅のようにどろどろに溶け、別の形に押し固められているように感じた。そしてそれは決して、錯覚では無く。

 まだ幼さの残る、細い少年の体が、ずぐりと崩れる。神の指がその腹腔を暴くごとに、皮膚がさざめいて形を変える。

 体に残る無数の傷はそのままに。肋の浮いた胸板は柔らかく隆起して。それなのに、股の間にある男の象徴は崩れずに残った。

 漸く、白く冷たい指が、血の一滴にも汚れずにずるりと引き抜かれた時、堪え切れず浮かんだ涙に塗れた少年の目に、神の瞳に映って見えたものは。

 男と女がそのまま混じり合ったようなものに成り果てた、己の体だった。

「ぁ――……」

 絶望と動揺と、何よりも疲労感に耐え切れず、ぎりぎりまで保っていたレタの意識が、ぷつんと途切れ。

「これでお前は、――でも――ない。せいぜい――……」

 何か、言っているような声が遠くから聞こえたが、その意味を理解できる筈もなく、そのまま、落ちた。

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