◆1-3
始原神は、混沌から生み出したものに、名をつけた。
すなわち、鳥獣女神である。
しかし、混沌から零れ落ちるものもまた生まれた。
それこそが、魔である。
始原神は、混沌を世界と成すため、力と智と法を与えた。
すなわち、戦神と、智慧女神と、秩序神である。
(創世・第一章第五、六文より)
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奴隷達の一日には、朝も夜も関係ない。松明の僅かな明かりが燃え尽きれば完全な暗闇になる洞の中で、次の明かりが灯されるのを木格子の向こう側から待つだけだ。
この闘技場と並び立つ神殿に勤めている雑用奴隷は、決まった時間に兵士達に連れていかれ、様々な肉体労働を行う。建物の改築、物資の搬入、神官達の身の回りの世話、他の奴隷の面倒を見る者もいる。彼らはまだ、貴重な労働力としてある程度の自由と、儀式参加の免除が言いつけられていた。
逆に、それらの役に立たないとされたもの。老人、子供、病人に怪我人。或いは、仕事で失敗した雑用奴隷は、儀式用の奴隷として更に奥の洞へ荷物のように詰め込まれる。そして、崩壊神に捧げるという名目のもと、闘技場へ引き出されるのだ。
「愚かで哀れなる者たちに、教祖様の慈悲として、崩壊神様の教えを拝聴することを許す」
そして奴隷達に課せられる労役はもうひとつ。毎日こうやって洞牢へ降りてくる神官による説法を聞くこと。せめてもと縋り、真剣に聞き入るものはごく僅かだ。大抵の奴隷は、自分達に理不尽を与える元凶が「神」という存在だと理解している。
あちらこちらから不満げな視線が寄越されるのに対し、牢の中で何が出来ると言いたげに神官は鼻で笑った。愚者に賢者の教えを分けてやろうという傲慢を言葉に込めて、朗々と語りだす。
「この世の始まりは、始源神が『混沌』より、光を作り上げたことによる。すなわち、始源神よりも原初に存在したのが『混沌』であり、その申し子である崩壊神様こそが原初の神なのだ」
言いくるめに聞こえる説法を、だいぶ傷の癒えたレタは一番奥の洞牢で、マキュラと並んで聞くとはなしに聞いていた。何度も繰り返されすぎて、この辺りの下りはもう覚えてしまったのだ。
「世界の終焉に、崩壊神様は始源神に反旗を翻し、金陽神と銀月女神を天へ追放される。そして暴虐神様は秩序神、海原神、戦神を喰い潰し、病神様は大地を毒と呪いで蹂躙し、死女神様は地の底で君臨し続けよう。それこそがこの世の終焉であり、真理である。崩壊神様をお迎えする前に、我らがその地均しをせねばならない」
沢山の洞を繋ぐ共通路の真ん中で、神官の説法は延々と続く。神の教えなど、奴隷達にとっては忌まわしいものでしかないが、迂闊に逆らえば儀式が待っている。皆暗がりの中で不満げな顔を隠しながら、俯いて祈っているふりをしていた。一つ鼻を鳴らし、神官は傲慢に宣言した。
「お前達のような塵芥も、崩壊神様をお呼び立てする糧となれば本望であろう。――これより7つの金陽と7つの銀月が浮かび沈んだ後、『召喚』の儀式を執り行う!」
その言葉に、さわさわと奴隷達がさざめく。その儀式の名を知っているものは慄き、知らぬものは戸惑う。
一番奥の洞に居たレタも、初めて聞く儀式の名に隣の女を振り仰ぐ。マキュラは、いつも通り不機嫌そうな顔をしていた。しかし、僅かな明かりに照らされる顔は、いつもよりも青白く見える。
「……召喚の儀式、ね。もう十何年は前に一回だけあったねぇ。その頃は、あたしはまだ儀式付きじゃあなかったし」
少年の視線に気づいたのか、僅かに唇を噛み締めてから女は呟く。その儀式の、恐ろしさを。
「やることはいつも通り、奴隷が引っ立てられて殺されるだけさ。それをやるのが、神様だってだけ」
「かみさま……」
「召喚、ってのは、神様を呼ぶってことさぁ。――来るんだよ。化け物どもを引き連れた、崩壊神とやらが」
膝の上で握り締められた痘痕だらけの女の手は、力を入れすぎて白くなっている。嘗ての儀式に恐怖を覚えているのは、容易に知れた。
「でかくて真っ黒い、三つ首の犬と、一抱えより太い身の大蛇。骨で組上げられたみたいな馬車もあった。首の無い馬に引っ張られているのがね」
女から聞かされる話は、俄かには信じがたいものだった。レタも儀式の中で、剣奴の他に獣とも戦ったことはあったけれど、そんな化け物がこの世にいることが信じられない。
レタの戸惑いが解ったのか、女は不意に両手を伸ばし、その細い体を掻き抱いた。膝に抱き上げようとした腕が震えていることに気づき、レタは抵抗を止める。
「そして、もうひとり。いつもは教祖が座る偉そうな椅子に座ってた、黒づくめの男がいた」
「……それが、神?」
胸の上で呟いた問いに、女が頷く気配がする。
「見た目は、ただの男さ。いや、顔立ちは随分と整った、酷く目立つ奴だったけれどね。ただ――あれは、あいつは、駄目だ。あんなもの、人間であるわけがない。金色の、気持ち悪い目をしてた」
ぎゅうと、力いっぱい抱きしめられ、息苦しさに呻いても手は緩まなかった。女はまるで少年に縋るかのように、腕に力を籠め続けている。
「……その時、洞にいたありったけの儀式奴隷が、連れ出された。いつもより何人も、何倍も多く。それを、全部――全部、化け物に食わせたんだ、あいつは」
彼女が幼いころに味わった恐怖を、少年は知らない。だが、言われた言葉で思い至ったことにはっとする。その時と同じ儀式が、また行われるということを。
無理やり体を捩り、マキュラの腕から顔を出すと、腕の震えはもう止まっていた。いつも通り、すべてを諦めたような顔をして、レタの顔を見下ろしている。
「覚悟の決め時だよ、坊や。……まあ、こんな面になってからは、良く生きられた方だと思うけどねぇ」
眼前に迫った死を許容する彼女に、少年の心には嵐のような感情が湧いて出る。憤怒も悲嘆もあるけれど、もっとも強いのは――悔恨だ。
どれだけ足掻き、反逆者と呼ばれても、上に立つ者の気まぐれひとつで命を奪われるのが、自分と、この女なのだと突きつけられるのが、悔しくて仕方が無い。
じり、と目頭が熱くなり、薄暗い視界が歪む。
「泣くんじゃないよ、水の無駄さ」
「泣いてない……」
「はい、はい」
掠れた少年の声を聴こえないふりをして、女はもう一度少年の小さな体を膝上に抱き寄せた。
今度は緩く、簡単に逃げ出せる拘束だったけれど、そこから動くことが出来なかった。
×××
金陽と銀月が七回沈んだ夜明けの空は、腹が立つぐらい晴れていた。
闘技場に集められたのは、洞の中にいた奴隷全員。剣奴だけではなく、様々な理由で洞に押し込められている者たちが、全員引きずり出された。
嫌だと嘆く者は、槍の柄で打ち据えられた。抵抗するものは、連れていかれる前に殺された。
レタはマキュラと手を繋いで、洞から闘技場へ繋がる道を歩く。彼女の動きの鈍い片足の代わりに、肩を貸しながら。
いつも通り、観客席には信徒達がびっしりと座り、いつも通り、御題目を奏で続けている。
砂を踏み、擂鉢の中に入る。レタの肩に回った腕が、僅かに緊張したのが解って、繋いでいた反対側の手をしっかりと握り締めた。
やがて――儀式の始まりを告げる、鐘の音が鳴る。死刑宣告にしかならないその音に、奴隷達はさざめき嘆くことしか出来ない。
少年は恐怖を堪え、教祖の席を睨み上げる。いつもそこに偉そうに踏ん反り返っている老人は、しかし今日はその椅子の脇に立ち、周りに向かって大きく声を張り上げた。
「一同、頭を垂れよ! 今日は記念すべき日、十と七年の時を経て、今再び我らが崩壊神様が顕現なされる日ぞ!!」
信徒達は一斉に、席から降りてその場に跪く。奴隷達も周りの兵士に追い立てられ、次々と地面に膝をついた。
「そら、貴様等も座れ!」
無造作に、槍の柄でレタの肩が小突かれ、女と引き離されそうになる。反抗しようとしたが、咄嗟にマキュラの方がレタの頭を無理やり下げさせたので、大事には至らなかった。
蹲る奴隷達に一切視線を動かさぬまま、教祖は熱に浮かされたような声で、叫ぶように宣言した。
「祝福せよ! 我らが救い、暴虐と病と死の父、
「ディ・エ・アルード!!」
「ディ・エ・アルード!!」
同じく熱狂する信徒達の祈りの中、こっそりと頭を上げたレタは、ふと違和感に気づく。
――教祖が跪いて仰ぐ椅子の上。一回瞬きしただけの間に、何かが、座っていた。
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