◆1-2
始原神は、混沌を照らすため、光を増やした。
すなわち、金陽神と銀月女神である。
始原神は、混沌を形作るため、龍を作った。
すなわち、原初の七龍である。
始原神は、混沌を丸く収めるため、雫を作った。
すなわち、海原神である。
(創世・第一章第二、三、四文より)
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がいん、と響く音。じんと震える両腕に、剣を落とさないようにと少年はどうにか堪える。切るというよりも、剣の腹で横殴りしてしまったのだが、それが却って良かった。それほど鋭くない刃で切ろうと手間取っていれば、多少の怪我は覚悟で男に剣をもぎ取られていたかもしれない。
反撃を許したら自分が死ぬ。それも、少年はちゃんと解っていた。物心ついた頃から幾度となく行われてきたこの儀式の中で、命が簡単に消えていくのをよく知っていたからだ。
衝撃に堪らず倒れた男の頭へ、棒で叩くのと同じように、思い切り剣を振り下ろした。
男はまた制止の叫びをあげようとしたようだが、それよりも先に切っ先が男の頭蓋を叩く。
1回、2回、3回。鈍い音と共に、少なくない血が乾いた地面に塊を作る。
4回、5回、6回。男の動きが反射的な抵抗から、小さな痙攣に変わった。
7回目は叩かず、少年は息を切らせたまま、大振りの剣を男の首に当て――柄に両手を引っ掛け、思い切り体重をかけた。
ぞぐ、と肉と骨が圧し切られる嫌な感触が少年の背筋を僅かに粟立たせるが、彼の顔には満足があった。己が死なずに済んだことに対する、満足だった。
しん、と辺りは静まり返っている。番狂わせに、観客達も先刻までの熱狂を忘れてしまったようだ。少年はその静けさをまったく意に介さず、ただ己の息を整えるために俯いていたのだが。
「――おお! 素晴らしい!」
朗々と響く声が、少年を称えた。
「祝福せよ! 我らが眷属に新たなる申し子が生まれた! 弱きものを屠る強きものとして、生まれ直したのだ! 皆、讃えよ! 祈れ! ディ・エ・アルード!」
熱の篭った教祖の声に浮かされるように、最初はぱらぱらと、だんだんと広がり――ひとつのうねりとなって、叫ぶ祈りの声が広がったその時。
僅かな水音と共に、少年の血が砂に散った。
「――ぐ、っ」
少年は、悲鳴を堪えた。己が両手で青銅剣の抜き身を掴み、刃が手指に食い込むのも構わず、その切っ先を、己の身へ突き刺した為に。
無論、自死を望んだわけではない。彼が望むのは唯一つ――身に刻まれた、悍ましい崩壊神の紋章を、己の手で抉り出そうとしたのだ。
「貴様、何を――!」
「止めろ! 馬鹿か!」
観客と同じように、跪いて祈りを捧げていた兵士達が慌てて闘技場へ駆け込み、少年を押さえつけて腕を捻り上げる。その光景を見ていた教祖は慌てたように、兵士に向かって命令を飛ばす。
「殺してはならぬぞ! その幼子はこの儀式の勝者にして強者! 崩壊神様の落とし子であるぞ!」
「ははっ!」
勝手なことを言い募る相手に対し何とか一矢報いようと、手足をばたつかせている内に、首筋に強い一撃を食らって、少年の意識は闇に落ちた。
×××
「……馬鹿の子だねぇ。もうちょっと大人しくしてりゃあ、教祖様付きの剣奴になれたかもしれないってのに」
呆れたような、女のしゃがれた声が耳に届き、レタはようやく目を覚ました。
暗い、石を削ったような狭い洞の中、土がむき出しの地面。生まれてこの方よく見慣れた景色の中に、何も敷かず寝かせられていた。当然だが、洞の狭い入り口には木格子がはめ込まれている。
「ああ、起きたのかい。まだ動くんじゃない、折角血が止まったのにまた出ちまうよ」
身を起そうとすると、胸元に鈍痛が走り、更にぐいとその傷の上を女の腕で押された。堪らず身を大人しく地面に戻すが、どうにか瞼だけ開ける。
レタの目の前に座っているのは、嘗てはそれなりの美貌を保っていたのだろう女が一人。何故過去形なのかというと、彼女の顔だけでなく体中が、酷い火傷のような痘痕に覆われているからだ。
容赦のない方法で少年を寝かせた女は、普段生意気な子供の弱った様がおかしいのか、口の両端を引き上げてひ、と僅かに引き攣るような笑いを零した。
「少しは大人しくしときな、どうせまた新しい印を押されちまうんだから」
「いやだ……」
がらがらに乾いた喉に唾を飲み込み、何とか否を答えると、女は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「なんだい、もう大分元気じゃあないか。心配して損したよ」
損をした、と嘯きながらも、少年の頭をぎごちなくも撫でているこの女の名前を、少年は知らない。否、名前などこの洞で生きて――否、生かされている人間にとっては無いも同じ。教祖を初めとした外の者達は、皆奴隷を番号で呼ぶ。少年は419番、女は228番。二人とも奴隷としてはそこそこ生きて来たので、あまり名誉とは言えない渾名で呼ばれてはいるが。
「……
「あんたらしいけどね、
がりがりと頭を掻きながら、呆れたように女は少年を渾名で呼ぶ。
ここは、闘技場を有する教団の神殿、その地下に掘られた奴隷の住処だ。日の光など一切差さない、蟻の巣のように無数に作られた洞、明かりは僅かな松明だけ。外に連れ出されるのは、この教団のおぞましき「儀式」に参加させられる時のみ。どこまでも軽い命しか与えられない、生まれた時からこの洞の中で過ごす彼ら奴隷にとって、教団や教祖に逆らうことを続けられた者はそういない。正確には、そんな反骨心を持ち続けたものは、老若男女問わずすぐに殺される。少年と女のいる洞にも、昔は呼ばれる数字に値するだけ、沢山の奴隷がいたのだ。今残っているのは、少年と女の二人だけ。少年が今にも同じ道を辿るであろうことを、女は危惧しているのだろうか。
マキュラは、元々教祖の傍付きの女奴隷だったのに、病で顔を崩してからは剣奴の世話係として地下に戻された。彼女の瞳に、もう地上への憧れも教団に対する反発も無い。唯々諾々と従えば、生きていけるのだ、儀式に連れ出されるまでは。
そんな女の諦念を、少年はちゃんと知っている。生まれてこの方、たぶん自分の両親であった者たちを初め、皆同じような目をしていたからだ。足掻き続ける少年を嘲笑うものも、心配するものも沢山いた。皆、死んでしまったけれど。
それでも。
そっと、胸糞悪い紋章が押し付けられていた場所に手を当てる。巻かれているがさがさとした包帯は、女の服の裾を破いてどうにか作ったものだろう。奴隷の傷の手当など、地上の信徒達は気にもかけない。奴隷達の間でもそれは同じだ、他人の命まで気遣える者などそういない、筈なのに。
「……あんたは、俺に。生きろって言うんだろ」
顔だけ横に向けて問うと、女は酷く、ばつの悪そうな顔をした。彼女もこの行為が、ただの気休めに過ぎないことを理解していて、それでも少年のために行った行為であることを現すように。
「生意気な口を利くんじゃないよ、餓鬼の癖に」
びしっ、と額を指で弾かれた。衝撃に堪らず少年が目を閉じた隙に、女の小さな声が矢継ぎ早に呟く。
「……死んじまうより、生きてる方が大分マシさ」
そんな言葉だけでも、少年にとっては充分過ぎた。女が産んだ子供は――教祖や、他の兵士、奴隷達に孕まされたものを含め――皆、十になる前に死んだのだと、一度だけお節介な他の奴隷から聞いたことがあった。
「……逆らっても、逆らわなくても。みんな、すぐに死ぬ」
「まあ、ねぇ」
今まで少年が味わってきた世界の事実を告げると、女はちょっと困ったように眉根を寄せる。
「だったら、俺は逆らう。ただ死ぬために、従うのは、嫌だ」
「……どうせ死ぬんなら、それまで楽に生きてた方がいいと思うんだけどねぇ」
「どうせ死ぬのなら、楽に死ぬほうが、嫌だ」
駄々を捏ねるように、あるいは現実を忌避するように。両目をぎゅっと瞑って少年が言うと、また呆れたような溜息がひとつ。
「それ以上、傷だらけになってどうするってのさねぇ。もうちょっと利口になりゃあ――」
女の声が、ふと途中で止まる。身を起こしかけた少年を再び寝かせるように促すと、動きの悪い片足を引き摺りながら牢の格子へ向かう。
洞を歩いてやってきたのは、松明を掲げた兵士と、それを引き連れた神官達だった。普段は教祖の周りに侍り、奴隷達など歯牙にもかけない。彼らが降りてくるのは、腹も膨れない説教をする時か、奴隷に祝福という名の罰を与える時だ。
彼らが手に提げているのは、先端に判が彫ってある金属の棒。兵士が格子戸の鍵を開けるとともに、無言のままぞろぞろと入ってくる。
「神官様、こいつはまだ今日の飯も食べてないんですよ。せめて明日まで――っぁ!」
女が彼らの前に身を躍らせた瞬間、兵士の槍の柄が女の顔を殴りつけた。どさりと伏せる女に駆け寄ろうとレタは身を起こすが、素早く兵士たちに抑え込まれる。
「419番。崩壊神様の紋章を自ら穢した罪により、本来ならばその命を捧げねばならぬ。だが此度の活躍と教祖様の温情故、新しく紋章を負う名誉を与えてやろう。今後とも、その血肉を崩壊神様に捧げるがよい」
レタの前に立ち、一番高い地位にいるのであろう神官が、被った外套の下から朗々と説く間に、他の神官達が金属の棒の先を熱し、焼印の準備を始めている。
完全に身を抑え込まれ、服を捲られて傷だらけの腹を晒される。どうにか暴れて逃げようとする内に、真っ赤に焼けた金属が、嫌な音と臭いを立てて少年の腹に突き立てられた。
「ッッ!! ガ、ぁ――……ぅうう!!」
悲鳴を上げてしまい、それが悔しくて思い切り唇を噛む。それでも歪んだ口端から、呻きが出るのを抑えられない。
肉を焼く煙が牢の中に充満する頃、漸くレタは解放された。ぐたりと身を投げ打つ少年と、蹲ったままの女を置いて、神官達は小声でお題目を唱えながら牢から出ていった。
暗い天井を眺めながら、少年の視界は滲んだ。痛みによるものではない、何も出来ないが故の悔しさによって。
「っ、ふ、ぐ……」
己には何もない。ただ生かされているだけ。忌まわしき神の名を所有物の如く刻まれて、この教団の慰み物として、いつか死ぬまでの命。
認めたくないけれど、それを打破するだけの力も無い。それがただ、ただ、悔しかった。
ようよう起き上がった女が、せめてもの慰めとばかりに彼の頭を撫で続けても。
彼の嗚咽は、いつしか眠りにつくまで止まなかった。
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