奴隷の少年
◆1-1
はじめに、混沌があった。
その中に、光があった。
すなわち、始原神である。
(創世・第一章第一文より)
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砂を敷き詰められた円形広場を底にした、擂鉢上の闘技場に、観客達の声が重なり響く。
広場を囲む壁の上、石を積み上げて作られた階段状の客席にひしめいている群衆が叫ぶのは、しかし剣奴に対する賞賛や罵声では無かった。
「ディ・エ・アルード! ディ・エ・アルード! 崩壊神様へ血肉の贄を!」
「ディ・エ・アルード! ディ・エ・アルード! 暴虐と病と死の父、偉大なる崩壊神よ!」
「ディ・エ・アルード! ディ・エ・アルード! 我等の祈りに応え給え!」
人数を数えれば恐らく五百を越す人々が、殆どずれ無く異句同音に、祈りの言葉を繰り返す。彼らが報じる神へ捧げる為の御題目だ。
その声を背に受けるのは、大振りの青銅剣を手に持ち、簡素ではあるが皮鎧に身を包んだ大柄の男。彼もまた野太い声で、観客と同じ祈りの言葉を、しかし冷めた顔で呟いている。観客達と違い、彼にとって神は熱狂するものではなく、己を雇う相手が奉じている故に従っているだけなのだろう。むき出しにした右肩に墨で彫り込まれた崩壊神の神紋も、彼にとっては己に箔をつける為のものでしかなかった。
そんな男に立ち向かうのは――否、無理やり闘技場の奥、奴隷達の洞牢から引き摺り出されてきたのは、年の頃は十四、五に見える少年だった。ずた袋を被ったような服一枚に、武器は手のひらに収まるほどの刃物が一本だけ。男の物よりも大分小さな黒い紋章が、左胸の上、鎖骨の下あたりに焼印で押されているのがちらりと見えた。
建物の奥に繋がる扉は全て木杭の格子で封じられており、更にその奥から見張りの兵士達が弓矢を構えている。逃げ出すことは叶わない。
普通の子供なら、恐怖に震え、涙を零しながらこの広場を逃げ惑い、或いは目の前の男に命乞いをすることしか出来ないだろう。
しかし、その少年は違った。
闇夜にも負けない程暗く黒い瞳には、確かに恐怖がある。しかし、それ以上の怒りが恐怖を捻じ伏せていた。
少年は憤っていたのだ。己に与えられた運命の理不尽さに。
そして瞳で睨み付けているのは、目の前の剣奴ではない。壁の上、観客席の北側。一番高い位置に据えられた、飾り立てられた悪趣味な椅子。其処に座っている、一際豪奢な黒い祭服を金で飾り立てた、長い髭の老人。
少年の視線に気づいた風もないその老爺は、熱狂する観客達に対してすっと片手を上げる。その動きだけで、一斉に歓声は静まり返り、老爺は満足げに頷いて口を開く。
「我ら、『黄昏の凋落』教団に与えられし、崩落の儀式をこれより開催する!」
しん、と静まり返った闘技場の中に、この教団で絶対の権力を振うもの――すなわち、この教団の教祖による声だけが響き続ける。
「対するものを殺し、壊し、滅びを与えてきた剣奴隷達よ! それこそが崩壊神様が定めた、この世における唯一の理。そなた等は崩壊神様の慰めであり、血肉を捧げる尖兵である。存分に戦い、相手に死を齎し、己の命を崩壊神様に捧げるが良い! 祈れ!」
「ディ・エ・アルード! ディ・エ・アルード! 崩壊神様へ血肉の贄を!」
「ディ・エ・アルード! ディ・エ・アルード! 崩壊神様へ血肉の贄を!」
再び手を振り上げた教祖に対し、観客達は一斉に熱狂し拳を振り上げ、再び題目を唱え始める。一糸乱れぬその声を背に受け、二人の剣奴は自分の武器を構えた。
小刀を真っ直ぐ相手に向けて、僅かに肘を曲げて構える少年に対し、男は己の得物を持ち上げて軽く鎧に包まれた肩を叩く。
目の前の少年を見て、剣奴の男は相手に纏わる噂を思い出していた。「崩落の儀式」には男も何度も担ぎ出され、その度に生き残ってきた。相手は他の剣奴である場合もあるし、獅子や狼、毒蛇のような獣と戦うこともある。大の男でも、油断すれば簡単に死ぬ。勿論男は、生き残るのは難しくは無いと思うぐらいの腕は持っていた。
しかしこの子供は、奴隷達の洞牢で生まれてこの方、十かそこらの時から、最初は単なる贄として儀式の場に引き摺り出され、そこで襲ってきた狼を、たった一人で返り討ちにしたという。勿論まぐれを含む、幸運によるものだったそうだが。
それだけならば、この教団で決して珍しい存在ではない。贄から生き残ることにより、剣奴として召し上げられるのが、奴隷達にとっては唯一の、命を長らえさせる手段だからだ。勿論、出来る者は僅かしかいないが。
しかし、目の前の少年は、他の奴隷達とは一線を画していた。
この教団において奴隷身分には皆名前など無く、番号で呼ばれるのが常であるが、その珍しい子供には渾名がついていることも、剣奴の男は聞き及んでいた。親しみなど何もない、嘲りと僅かな恐れを含んだものだったけれど。
少年の体には、修羅場を潜り抜けただけのことはある沢山の傷が見て取れた。刃物や牙だけでなく、毒によって焼け爛れ腫れ上がった痕もある。何より一番大きいのは、口元を何か無骨な得物で抉られたのだろう、口端から頬、右耳辺りまで、肉が盛り上がった傷跡が出来ている。喋ることにも影響を与えるだろうその大きな代物を見て、誰もが思う事――
「――
呼ぶと、少年の肩が僅かに動いたので、彼自身が噂の人物であることに確信を持つ。そこで漸く、少年の目が男を睨み付けた。その眼には、男を含めた他の奴隷達に見ることのできない、強い意志の輝きがまだ残っている。
その眼が不快で、男は眉を顰めた。彼がこの儀式の執行者となってから半年程経つが、無駄な抵抗をする奴隷は、それなりにいた。しかし、ここまで強い目で見てくるものは初めてだった。ただ己に蹂躙されるだけの、生贄に過ぎないものが見せるには不相応でしかない。乱暴に唾を吐き捨て、剣の切っ先をまっすぐに少年に向けて嘲った。
「ただの血袋が、生意気な目をしやがって。跪いて泣き叫ぶなら、片足切って奴隷の世話係に回してやってもいいんだぜ」
祈りの御題目は諳んじられても、男にとっては儀式などただの鏖殺に過ぎない。ただ弱者を甚振るのは嫌いではないし、こんな楽な仕事で飯と住居が与えられるのなら、兵士崩れにとってここは良い職場だったのだ。
「右足か、左足か? 選ばせてやるよ」
下種の笑みを浮かべて近づく男に、少年はやはりその身を震わせたけれど――己の唇で、ぼそりと呟いた。
「――る」
「何?」
大歓声の中、聞こえなかった声に男が訝しげに首を傾げると、少年は黒曜石のような瞳で男を見据えて、今度ははっきりと、痙攣する口元をねじ伏せるように叫んだ。
「殺、してやる……!」
それは、意志だった。ただの敵意から来る罵声ではない。今、この男を殺さねば己が死ぬのだと、ちゃんと理解した上でそれを成そうと望む、紛れも無い彼自身の意志。
この少年は知っている。殺さなければ死ぬことを。弱ければ死ぬことを。何よりも――油断したら、死ぬことを。
「――この餓鬼が!」
その、己よりも上に立たんという意思に対し、男は激昂した。爪先のような刃物一本で何が出来るのかと、嘲りながら。
次の瞬間、少年は踵を返して走り出す。当たり前のように逃げをうった行動に、観客達からは罵声と笑いが巻き起こるが、男は虚を突かれた。結果、剣の届く範囲より少年を逃がしてしまう。
「ちぃ! 逃がすかよ!!」
男は完全に頭に血を上らせていた。たとえ鋳型で作られただけの血糊だらけの剣でも、子供の頭を果物のように割ることは出来る。大股で踏み込めば、あっという間にその背中に追いつくことが出来た。
壁際まで獲物を追い詰めたことを確認し、大きく振りかぶって、小さな背中に剣を振り下ろし――
がぎん! という鈍い音と共に、剣が止まった。
「っぐ!」
激昂した男は、愚かにも剣先の長さを、一瞬だけ忘れてしまっていた。少年が壁にたどり着いた瞬間、屈んでその身を縮めた為に、石壁を強かに剣で叩いてしまったのだ。びんと痺れが手首に伝わり、僅かに指の力が緩んでしまう。
しかもこれは男にとって不運以外の何者でもなかったが、石壁の隙間に剣ががちりと挟まってしまったのだ。刺さらず弾き返ってしまえばまだ立て直せていたものを。
そして男は、驚愕のままに更に愚を重ねてしまう。己の得物を取り戻すために、両手で剣を抜こうとしたのだ。男の膂力ならば、剣を捨て素手でも子供を絞め殺すことは容易だったろうに、突発的な事態に冷静な判断が出来なかった。
そして――、目の前に転がった好機を、少年は逃さなかった。頼りない武器を両手で握り締めたまま、がら空きになった男の胸元に向かって飛び込む。
胸と腹は皮鎧で守られている。首までは背が届かない。何より、急所を狙えるほどの目も腕も利かない――少年が其処まで考えられたかどうかは疑問だ。ただ彼は、一番狙いやすくて、一番近くにあった場所に思い切り刃を突き刺しただけだ。即ち、男の右太股に。
「ぎっ、があああああああ!!!」
迸る痛みに堪らず男は悲鳴をあげ、剣から両手を離して少年の体を引き剥がしにかかる。当然力では負けるわけもなく、小さな体を思い切り石壁に叩きつけた。しかし彼に傷を与えた武器は、少年の手にしっかりと握り締められたままだった。
「ぐっ、ちきしょう、血が……!」
太股の血管に刺さっていた刃が抜けて、びゅる、と少なくない血が噴出したことで男は恐慌した。多量の出血は死を招くし、後遺症が残るほどの傷ならば、今日は勝てても明日は勝てない。役に立たなければ捨てられるのが、剣奴を含めた全ての奴隷だ。咄嗟に手で傷口を抑えて止血をする。早く戦えという罵声が降って来ても構わずに。
壁に頭を打ちつけた少年も、歪んでいるであろう視界に耐えながら立ち上がる。顔にかかり、口の中にまで入ってしまった男の血を、唾と一緒に吐き出しながら。
「――あ」
僅かに、少年が声を上げる。ふらつき、再び壁に背を当てた少年の目に、刺さったままの剣が目に入ったのだ。目の前の男はまだ生きており、考えている時間は無い。少なくとも、手の中の血塗れの武器よりは、ずっと頼りがいがあるように見えたから。
「っ!」
柄に両手で飛びつき、体重を思い切りかけると、簡単に剣は抜け落ちた。がしゃんと地面に少年ごと落ちた剣の重量は、中々のものだったが――少年が、両手で振り回せない程ではなかった。
「っ、やめ――」
敵が凶器を手にしたことに気づいた男が静止をかける前に、少年は倒れこむように駆け出し、力いっぱい、目の前の男の頭を、横から殴りつけた。
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