崩壊神と世界の傷

@amemaru237

プロローグ

人里離れた森の中に、場違いなお屋敷があったら、決して近づいてはいけない。

そこはきっと、黒き貴婦人の住処なのだ。

黒き貴婦人は世界を彷徨い、夫を探しているという。

もし黒き貴婦人に出会い、彼女が子供を孕んでいたら、更に注意だ。

彼女の連れる黒犬達に、ずたずたに引き裂かれてしまうよ。

(世界御伽噺全集・「黒き貴婦人の謎」より)


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 アンセルムは強ばった顔のまま、古びた扉のノッカーを大きく二回、鳴らした。

 しかし目の前の屋敷からは返事どころか人の気配も感じ取れず、途方に暮れて建物の屋根を見上げる。

 外から見る限り、大きくはあるものの、かなり年代物の屋敷だ。先刻隣の窓からこっそりと覗いてみた限りは、家の中は綺麗に整えられているようだが、外の壁はあちこち皹が入り漆喰が剥がれ、ちょっとした幽霊屋敷の様相を醸し出している。

 改めて、アンセルムはノッカーを掴んだ方と逆の手で握り締めていた手紙を見遣る。其処に記されている住所は、何度確認してもこの屋敷で間違いなかった。

 神学者として一応大学に籍は置いてあるものの、威張れる程の業績は無い。先日漸く発表した論文も、お偉い様方には総すかんを食らった。八柱教の神官が要職に納まっているこの国では、職業だけで少々風当たりが強い。

 現在「歴史」として国中に広がっている神話の内容を少し否定しただけで、まるで魔の者であるかのように多方から罵られる。就職先を世話してくれている教授にも、研究の転向を求められてしまった。

 落ち込んでいる時、数々の批判の文書に紛れて届いたのが、彼が今握り締めている一通の手紙。その中身は、彼にとって喜ばしく、且つ驚きのものだった。



 “先日、貴方の論文を拝見した。

  非常に興味深く読ませて頂いた故、まずは感謝を捧げたい。

  貴方の持論はこの国で重用されることは難しいだろうが、当方は貴方の主張は一考に値すると考えている。

  不躾ではあるが、一度貴方の話を直接お伺いしたく、こうして筆を取ることに相成った。

  本来ならば当方から出向くべきであろうが、生憎と、身体的な理由で屋敷から迂闊に離れることが出来ない。

  手間をかけて申し訳ないが、都合の良い時分に、下記の住所へ尋ねてくれないだろうか。

  無論、出来得る限りの礼はさせて頂く。

  そして当方からも、貴方の研究の助けになる話をお伝えすることが出来るだろう。

  返信不要。貴方が当方の屋敷に足を向けてくれることを、或いは永遠に訪れないことを、返事として受け止める。

  良き返事を期待している。”



 署名も無し、内容も不躾な言い草ではあったが、蜜蝋で封をした封筒は上質で、ある程度の富と地位を持つ者が差出主であることは容易に知れた。

 アンセルムは素直に喜んだ。元々三度の飯より研究を取るような生活を続けており、謝礼などよりも、己の論文に興味を持って貰えたことが嬉しかった。誰もがそっぽを向いた代物に対しての好感だったので、尚更である。

 そして、手紙を受け取った次の日には、箪笥の奥から引っ張り出した埃まみれの一張羅を纏い、こうして住所を辿ってやって来たのである。

 元々研究にかまけ、人付き合いがあまり得意ではない彼は、並々ならぬ緊張を堪えてもう一度ノッカーを揺らす。

 屋敷の中からはやはり何も気配がせず、これは担がれたか、という思いが失望と共に男の胸に沸いた時。

 ぐるるる、と僅かな呼気の音と唸り声が足元から聞こえた。

「ひっ」

 いつの間にか、庭に潜んでいたらしい大きな犬が二匹、僅かに唸りながら男を挟んでいる。首輪も鎖も付けておらず、毛並は真っ黒、目はぎらぎらと輝く金色で、男を睨みあげている。唸り声をあげる口からは乱杭歯が覗いており、きっと襲われたら、大の男でも酷い怪我を負うだろうことは容易に解った。

 すっかり臆してしまったアンセルムの腰が今にも砕けそうになった時、がちん、と鍵の開く音が扉の向こうから聞こえた。ぎぎぎ、と僅かな軋みを立てて、開く。

「おやめ下さいまし。そちらは、お客様でございます」

 しっとりとした艶を含んだ女の声が、男の耳を擽った。同時に、犬達が不意に興味を失ったかのように踵を返し、木々の生い茂る庭に去っていく。

「申し訳ございません。家の者が無作法を」

「は、ああ、いえ。大丈夫です」

 後ろから聞こえた謝罪に、慌てて振り向き頭を下げる。顔を上げれば扉の内にいたのは、長い黒髪を背に流した、美しい使用人の娘だった。彼女の方も頭を深々と下げており、それが上がると同時に見えた、ゆるりとした笑顔が随分と艶っぽく感じ、どぎまぎとしながら何度も頭を下げ返す。

「アンセルム様でいらっしゃいますね? ようこそお出で下さいました。お早いお返事に、主人を始め、私共は皆喜んでおります」

「ああ、申し訳ありません。こちらこそ無作法を――」

 確かに、いくら文面の通りに行動したとはいえ、手紙が来た次の日に訪れるとは、礼儀に反した行為だったかもしれないと、慌ててもう一度頭を下げる。使用人の娘はそんな男に微笑み、いいえ、とあくまで優雅に続けた。

「とんでもございません。主人も貴方とお会いできる事を心待ちにしておりますわ。どうぞ、お上がり下さいまし」

 その声に顔を上げ、男は初めて彼女の瞳の色に気付いた。先刻の犬達と同じく、輝くような金色だ。

 黒い体毛と金色の目を合わせ持つは魔の証――この国だけでなく、大陸全体に広く伝わる言い伝えだったが、男は勿論そんな事を信じていなかった。崇めるのではなく、あくまで研究対象として神や神話に接しており、別大陸には黒髪の人種が多数存在する事も知識として知っていたからだ。

 故に気にすることもなく、美しい使用人に促されるまま、男は薄暗い屋敷の中に足を踏み入れた。

 床は足を踏み出すたびに僅かに軋むが、絨毯は上質な毛足で、掃除も行き届いていた。廊下を抜け、恐らく一番屋敷の奥であろう、大きな扉の部屋に程なく辿りつく。

「失礼致します。お客様をお連れいたしました」

 ノックをしても部屋の中からは何も返事が無かったが、娘は勝手知ったるとばかりに男に向かってにこりと笑い、一拍開けて扉を開いた。



 ×××



 部屋は明るかった。レースのカーテンにより僅かに日の光を遮っているものの、廊下よりは余程明るい。

 応接用であろう一人掛けのソファが二つ、小さな丸テーブルを挟んで設えられている。そのうちの一脚に、人影が座っていた。

 その姿を目に入れて、アンセルムは三回驚いた。

 まず、ソファに腰かけているのが、黒いドレスを身に着けた婦人であったからだ。手紙の書き方からも予想して、使用人の言う「主人」とはてっきり男性だと思い込んでいた為、驚かざるを得なかった。

 もうひとつ驚いたのは、主人であろう女性が、顔を黒いレースのヴェールで覆っていた為だった。ドレスも上質ではあったが飾り気は無く、まるで喪服にしか見えない。まるで御伽噺にある、世界を彷徨う黒き貴婦人のようだ。

 そして最後に、その喪服を着けた女性の腹部が、綺麗に丸く隆起していたこと。年の離れた兄弟を持つアンセルムには、それが肥満ではなく、妊娠している為だと気付くことが出来た。

 驚きに目を瞬いているうちに、喪服の女性はベールの下から、客人に視線を合わせたようだった。

「ようこそ。早い訪れに、感謝する。何分こんな体だ、座ったままでどうか許して欲しい」

「いえ、お気になさらず! こちらこそ、お手紙をいただけて感謝しております」

 喪服の女性の声は非常に静かで、貴婦人としてはやや朴訥な口調だったが、その気配は人の上に立つ貴族らしい雰囲気を保っている。その堂々とした振る舞いは、彼女がこんな寂れた屋敷に住んでいるのを不思議に思う程だった。

 使用人に促されるままソファに腰を下ろし、改めて互いに挨拶をする。女性はマキュラと名乗り、家名は既に潰えて久しいとして明かさなかった。貴族のしがらみとして色々あるのだろう、とアンセルムはそれなりに納得した。相手の家柄が何であろうと、自分の研究を他者に開示出来るのならばそれで良いと思っていたからだ。

 使用人が入れた良い香りを放つ茶と共に、二人が挟む小さなテーブルには、オクトコルムナの遊戯盤が置かれていた。八つの駒による陣取りゲームで、この国だけでなく世界で様々なルールを使い遊ばれている、子供でも知っているものだ。

 しかしアンセルムは、この女主人が何故この遊戯盤を用意しているのかすぐに理解でき、顔を綻ばせた。自分の論文の取っ掛かりが、まさにこの遊戯だったからだ。

 貴婦人の黒い手袋に包まれた指が、王の駒の頭を軽く撫でる。

「貴方の論文に書かれていた、八柱神と四地神の他にもう一柱、新しく加えるべきだという論に対し、詳しく伺いたい」

 ヴェールの下からの問いを受け、どうにか作法通り茶を一口飲んで喉を湿らせてから、アンセルムは頷きながら口を開いた。

「はい。現在、この国及び中央大陸で広く信仰されている創造神の教義において、神と認められているのは八柱。

 即ち、全ての始源神イヴヌス。

 金陽神アユルス。

 銀月女神リチア。

 海原神ルァヌ。

 鳥獣女神スプナ。

 戦神ディアラン。

 智慧女神スヴィア。

 秩序神タムリィ。

 これらは人の守護者であり、イヴヌスを始めとして各地で信仰されています」

 子供でも諳んじられる神の名を呟きながら、白い駒を順に指す。現在は王・王子・王女・賢者・将軍・魔女・騎士・兵士という名で呼ばれている駒だが、嘗て神殿が、神に与えられた遊戯であると広めた頃には、駒は全て神の名で呼ばれていた。現在は同じ名で呼ばれている黒駒にも、別の名があった。

「黒駒には、四地神の名が嘗て付けられていた、と貴方は書かれていたが」

「ええ。始源神と対をなす、

 崩壊神アルード。

 暴虐神アラム。

 病神シブカ。

 死女神ラヴィラ。

 これらも人が司る要素であるとして、東大陸では一部で現在も信仰されているようです。もっとも、我が国では邪教として禁じられていますが」

 くすり、と女主人が笑った。最初アンセルムは自分が笑われたのかと思ったが、その笑いは純粋なおかしみというか、神を奉じること自体に関して滑稽だと思っているかのように聞こえた。やはり不思議なご婦人だ、と思っていると、こつこつと黒駒が黒い指で突かれる。

「数が合わないのでは?」

「はい、一見そうですが、暴虐神アラムは三つ首の狼とも、三頭の狼とも言われております。嘗ての黒駒の種別は王・王子・王女・戦車・騎士・兵士・魔女・奴隷。この内戦車と騎士、兵士は嘗て、獣に跨った姿で模られていることが多かったのです。この三つをアラムとし、魔女をアルードの妻とされる魔女王ヴァラティープに対応させれば、席は埋まります。そして最後のひとつ」

 駒を一つずつ動かして、最後にシンプルな丸い頭の駒を抓む。一番弱い、取れる陣も少ない、捨石としてもよく使われるが、唯一王を取れる駒。

「この、嘗ては奴隷と呼ばれていた駒に対応する存在が、最早名も忘れられたもう一柱の神ではないかと、愚考したのです。もはや名前も伝わっていない、お伽噺の中でしか現されない、崩壊神のもう一人の妻――」

 静かに、だがはっきりと告げられた言葉に、アンセルムは滑りの良くなっていた唇を止めた。レタ――レタ。聞き覚えのない言葉だが、確か――古代神紋語では「傷」を現す筈。

 薄い筈なのに何も透けて見えない布の向こうにある、貴婦人の見えぬ顔を見詰めると、ヴェールの下からもう一度はっきりと聞こえた。

「それの名だ。もう、有り得ない程の昔、それはそう呼ばれていた」

 その声は、酷く疎ましいような、それでいて懐かしそうな、酷く複雑な響きを孕んでいた。

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