死女神の庇護
◆2-1
崩壊神は世界を壊すため、さまざまな悪事を働いた。
魔の女王を妻に迎え、三柱の邪神を生ませた。
すなわち、暴虐神、病神、死女神である。
始原神はそれを罪とし、五百年の眠りを与えた。
(イヴヌス記・第三章第一文より)
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――温かくて柔らかいものに、全身を包まれている。
まるで己の肉も骨も、全て泥のように柔らかく蕩けてしまったようで、上手く力が入らない。
奴隷の身に生まれてから十数年、こんなに安らぎを覚えたことなどただの一度もない。
このままずっとまどろんでいたい、そんな欲で頭と体が満ち満ちていて。
意識すらも、甘くて柔いその渦の中に溶けて掻き消え――
思い出した。
こんな柔らかさとは無縁の、がさついた肌の細い体が。
血塗れで、化け物の顎からまろび出ていたことを。
「っ――!!」
その瞬間、レタの意識は全て覚醒し、起き上がろうとして――なんの支えも無い、僅かなぬめりと沢山の泡が浮かぶ湯の中にひっくり返った。
「ぶ……ごぼっ、げほ!」
一息で器官の中にお湯が溜まり、苦しさに暴れると、掌が湯の底を叩いた。どうやら思ったよりも浅いらしいそこを支えに、如何にか顔を水面まで持ち上げ、思い切り咳き込む。
僅かな苦みを持つお湯を如何にか吐き出して、そのえぐみに辟易していると、自分のいる場所の異質さに漸く気づくことが出来た。
生まれも育ちも、砂と石に囲まれた国で、水は大変貴重なものだった。当然、奴隷身分のレタに与えられるものなど、口を濯げるほんの僅かなもので、体を拭くという行為すら碌に許されなかった。
しかし今レタが居る場所は、芳醇な湯気を湛え、大量の湯で満たされた巨大な湯船だった。黒く滑らかな石を組み合わせて作られているのは湯船だけでなく、洗い場であろう床や壁、天井に至るまで、美しい意匠が施された黒石で覆われていた。しかも、この部屋自体が、あの忌まわしい闘技場と同じぐらいの広さを持っている。赤土で作られた煉瓦と土の中に広げただけの洞しか知らないレタにとって、初めて見る光景に呆然としてしまう。
透明な湯は壁の穴から常に湧き出しており、そこから湧き立つ細かい泡は僅かに甘い匂いがした。その湯の中でゆらゆらと揺蕩う感触は、レタにとって今まで味わったことのない心地良さで、ついつい瞼が下がってしまうが。
「く……!」
頭を振り、微睡を追い払う。今自分が何処にいるのか、何が起こっているのか全く分からないのに、眠りに逃げるわけにはいかない。世界がどれほど残酷で容赦のないものか、充分すぎるぐらい解っているつもりだった。
湯船の中から立ち上がるが、出ようとしたところで膝の力が抜け、縁にへたり込んでしまう。その時、まるで水面のように綺麗に磨き上げられた石の床に、己の体が映って見えて。
「……ぅ、ぐ」
途端に込み上げてくる吐き気を如何にか堪える。この身に与えられた変異が夢でもなんでも無かったことを、認めるしかない己の姿を見てしまったからだ。
体中に残った古傷は、これが紛れもない己の体だということを伝えてくれる。しかしその輪郭は、自分が慣れ親しんだものとはかけ離れた代物に成り果てていた。
肉の碌についていなかった胸は柔らかく隆起し、足の間にはきちんと男の象徴が鎮座している。男でも女でもなくなってしまった自分の体が悍ましくて、耐え切れずレタは湯の中にざぶりと、頭まで身を沈めた。そうしても、この体が再び溶けてもとに戻るわけではないと解っていたけれど。
一時の混乱が沈黙と共に過ぎると、次に沸き起こるのは新たな疑問だ。温い湯の中から顔だけ出して、改めて辺りを見回す。
一体ここは何処なのか。レタの居たあの教団が住まう地は、赤い砂の荒れ地に覆われた酷く乾いた大地に、煉瓦造りの建物を並べていた。こんな潤沢な水や、綺麗に磨き抜かれた石の壁面など見たことも無い。
温かい湯の中なのに、寄る辺の無いが故の寒さをぞくりと感じ、改めて立ち上がろうとした時――
部屋の隅に設えられていたアーチ型の入り口は黒布の帳で覆われていたのだが、そこが音も無く翻り、誰かが入ってきた。思わず身構えるレタに対し、その影は――見たことのない装束を身に着けた、長い黒髪を背に流した美しい娘は、花が綻ぶようににっこりと微笑んでみせた。
娘は大きく広がった装束の裾を両手指で抓み、優雅に腰を折って礼をして見せた。他でもない、生れ落ちてより奴隷としての身分しか与えられなかった、レタに向かってだ。
そして、抜けるような白い色の肌に、黒い紅を引いたような、ふっくらとした唇を開き――レタに向かって、笑顔のままこうのたまった。
「漸く御目覚めになられたのですね、お母様。ラヴィラはとっても嬉しいですわ」
「は――」
言われた言葉の意味が全く理解できず、レタの唇から呼気が僅かに漏れる。
その様を全く意に介した風も無く、美しい娘はにこにこと笑いながら、滑らかな布の服が濡れることも全く厭わず、ざぶりと湯の中に足を沈め、レタに近づいて来る。
「大分お疲れのようでしたので、薬湯にマナを含ませました。まだ、馴染むまでには時間がかかりそうですが……何かご不便なことがございましたら、何でもこのラヴィラにお言いつけ下さいましね」
不意に、濡れないよう懐に仕舞っていたらしい、やはり柔らかな素材の布巾を取り出した少女が、そっとレタの額の汗を拭いに来た。反射的に湯を蹴り、一歩下がって避けると、娘は気にした風も無く「ご無礼を致しました」と頭を下げる。
「お前、は――」
その姿を見るにつけ、レタの心には疑念しか渦巻かない。確かに見目麗しい娘の姿には目を晦ませられるが、得体のしれない場所に慣れ親しんでいるその姿と、己の事を「母」と呼ぶのが凄まじい違和感だ。何より笑顔のままこちらをずっと見つめている、あれに非常に良く似た金色の瞳が、レタの警戒心を最大限に際立たせる。
「一体、何なんだ?」
警戒が、詰り気味の問いになった。吐き捨てるような言い方だったのに、少女の方はあくまでおっとりと、両手を己の頬に当てて、まあ! と感嘆の声を上げた。
「申し訳ありません、お母様にちゃんとしたご挨拶も捧げていませんでしたわ。どうぞラヴィラを叱って下さいまし」
そう言って、改めて目の前の少女は、湯に沈めた筈なのに全く濡れていない装束をもう一度摘み上げ、膝を折り。
「わたくしは、崩壊神アルードの娘にして第二子。死女神ラヴィラと申します、以後お見知りおき下さいまし、お母様」
レタにとって、恐ろしい内容でしかない自己紹介をして見せたのだった。
「何、を」
否定と罵声、どちらを先にあげるべきかと迷っている内に、ふらりとレタの体が傾いだ。どうも先刻から、上手く体に力が入らない。おぞましく作り変えられた体のせいなのか、それともこの湯に何か得体のしれないものでも混じっているのか。抵抗したくても上手く体を持ち直せず、そのまま湯の中に――
「お母様! 申し訳ありません、少しマナが強すぎたのですね。今すぐお部屋にお運び致しますわ!」
倒れ沈む前に、目の前の女神と名乗った娘に受け止められた。背丈はほぼ変わらず、細いレタの体ぐらいならば簡単に支えられるようだ。何とか振りほどこうともがいてみるが、その細腕の拘束から全く抜け出せない。
結局、半ば抱えあげられる形で、湯船の中から引き揚げられた。
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