◆2-2

眠りから解放された崩壊神は、またしても悪事を働いた。

戦神を魔の女王の国へと連れて行き、罠にかけた。

戦神はほうほうの体で魔国から逃げた。

始原神はこれを罪とし、五百年の眠りを与えた。

(イヴヌス記・第三章第二文より)


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 ぐらぐらと揺れる視界の中、運び込まれたのはこれまた広い、磨き上げられた黒い石壁の部屋だった。

 部屋の真ん中に据え付けられた天蓋つきの寝台、そこに敷かれた黒布の上に馬鹿丁寧に寝かされ、更に滑らかな布で丁寧に体を拭われる。

 やっと逆上せのような熱さが引いてくると、まるで赤子のように扱われていたことに対し僅かな羞恥心が頭を擡げてきて、レタは気まずげに身を捩る。先刻神と名乗った娘は抵抗することなく、新しい薄布をそっとレタの体に被せた。

「御召し物をご用意いたしましょうか? それとも、お食事の方が宜しいでしょうか?」

 あくまで笑顔のまま問うてくる言葉は、当然レタが今まで向けられたことなど一度もない気遣いばかりで。上手く返答出来ず口端を震わせるだけだったが、体の方はもっと素直に答えを返した。食事、と聞いた瞬間、腹の虫が僅かに鳴いたのだ。

「まあ。――お食事を先にした方が、よろしゅう御座いますね?」

 ついに頬を赤らめたレタを労うように微笑みかけ、娘は礼をしてから席を外す。一刻もかからず戻ってきた彼女は、銀色に磨き上げられた食器を沢山乗せた手押し車を運び、レタの前で食事の配膳を始めた。

 敷布で体を覆いながら――恐らく目の前の相手は気にしないだろうけれど、晒すのは憚られた――レタが身を起こすと、差し出されたのは温かな深皿がひとつ。中に並々と注がれているのは、色とりどりの野菜が細かく刻んであるスープだった。汁物どころか温かい食事など今まで食べたことのないレタにとって、信じられないぐらいの御馳走だ。

 食事を至れり尽くせりで配膳されることも初めてなのに、恐らく銀製であろう匙を娘が持って、スープを掬って差し出された時には、どうすれば良いのか解らずに固まるしかなかった。

「どうぞ、お召し上がり下さいまし」

 娘はあくまで微笑んだままだ。何故自分にここまで手間をかけているように見えるのが信じられない。咄嗟に敷布の隙間から手を伸ばし、匙を掴んでもぎ取ろうとすると、抵抗はされなかったが僅かに汁が飛び、寝台を濡らした。

「まあ、無作法を申し訳ありません。どうぞご自由にお召し上がり下さいまし」

 どう見ても作法を失したのはレタの方である筈なのに、娘は嫌な顔一つせず詫びてから、零れたスープを丁寧に拭き取っている。何とも酷い居心地の悪さを味わいながらも、スープの馨しい匂いに耐え切れなかったので、無造作に食事をひと匙掬って口に入れた。

 その瞬間、芳醇な香りと味が一気に口の中に広がり、驚きに固まってしまった。こんな美味なものを、口に入れたことなど一度もない。嬉しさや喜びよりも、二口、三口と勝手に体が動く。そんなに大きくなかったスープの皿は、あっという間に空になってしまった。作法も何もない、傷で歪んだ口元からスープを零し続けてしまう汚い食べ方だっただろうに、娘は嬉しそうに笑う。

「御口に合ったようで、何よりですわ。御代わりは如何ですか?」

 娘の提案は非常に魅力的なものだったが、ひと心地ついたお陰で疑問が再浮上したので、かぶりを振って鍋の蓋を再び開けようとした娘を止めた。やはり娘は逆らわず、畏まりましたと微笑んで皿を片付ける。

「……色々、聞きたいことが、ある」

「何なりと、御申しつけ下さいまし。ラヴィラはお母様の命に従わせて頂きますわ」

「まず、それだ。……何で俺が、母親なんだ」

 苦虫を噛み潰したような顔でまず一番聞きたかった思いを問うと、全く崩れない笑顔のまま、すんなりと答えが返ってきた。

「お母様が、お父様の伴侶となられたからですわ」

「待て。何を勝手に決めてる!!」

 声を荒げても、少女はほんの少し申し訳なさそうに眉尻を下げるだけだ。

「お母様の意志は、その理に介在しておりません。決めたのはお父様ですもの」

「あれが、あの、金の目玉の奴か。そいつが、勝手に!」

 心当たりはひとりしかいないので叫ぶと、やはり笑顔で頷かれた。

「然様でございます。世界の全てを壊すもの、混沌の体現者、全ての終わりを司る尊き御方、わたくし達のお父様。崩壊神アルードにございます。お父様が決められたことに、逆らえるものはおりませんわ」

 誇らしげに告げる娘にとって、父親の決定というのは絶対に覆せないもの、らしい。あの出鱈目な存在の事を考えれば、そう諦めてしまうのも仕方ないのかも、しれないが。

 ぐ、と奥歯を噛み締める。自分以外のものが決めた理に、従わされる理不尽。神という冠を頂く者ですら、そう決められているというのか。レタの心に巻き起こるのは、怒りよりも悔しさだ。己の心のままに生きることすら出来ない己の存在が、何よりも腹立たしい。

 膝に指を食い込ませるほど握り締めた手の上に、冷たい手がひたりと添えられた。びくりと一瞬、引きそうになるが、そうするにしては手の触れ方は随分と優しかったので、出来なかった。何せここまで自分に柔らかく触れてくる相手など、あの女以外一人もいなかったから。

「……申し訳ありません。ラヴィラは何か、お母様のお気に触ることを申し上げてしまったのでしょうか。どうぞ、叱って下さいまし」

 今までほとんど笑顔を保っていた少女が、泣きそうに顔を歪め、心底申し訳ないと言いたげに顔を覗き込んできている。金色の目尻に僅かに涙まで溜めており、レタの方が戸惑う。

 泣く女ならいくらでもいたけれど、そのまま牢の隅で蹲って死んでいく者がほとんどだ。媚を売ろうが縋りつこうが、そういう者から殺されるだけ。だから、こんな自分だけに訴えかけてくるような泣き顔の威力など、今まで知らなかった。一番近しかった女は自分の前では絶対に涙を零さなかったから、尚更に。

「……お前は、別に悪くない、だろ。……泣くな」

 ぼそりと如何にか付け足して、宥めた。何とも座り心地が悪くて目を逸らしてしまうと、もう一度ぎゅうと手を握られる。今度は、両手で。驚いて顔を上げると、目の前の顔は相変わらず涙を浮かべているけれど、

「お母様……! 無作法な娘にそのようなお優しい言葉を頂けるなんて、このラヴィラには勿体ありませんわ! 何てお優しいのでしょう!! 感激ですわ!」

 今まで見た中で一番、満面の笑みで迫られた。色々と言いたいことは未だにあるが、正直毒気が抜かれてしまう。肩の力を僅かに抜くと、裸の肌にひやりとした部屋の空気を感じ、体が震えた。

「――っくし」

「まあ! 大変、お母様にお寒い思いをさせてしまうなんて! すぐに御召し物をご用意させて頂きます!」

 反射的にくしゃみをしてしまっただけで、実際はそこまで寒くは無かったのだが、ラヴィラは慌てて立ち上がり部屋を出ていく。どちらかというと敷布がずれた際に見えてしまう自分の体の方に寒気がしたが、そう思うよりも先に少女は走って戻ってきた。その手に、真っ黒い液体の入った瓶をひとつ携えて。

「大変お待たせいたしましたお母様! どうぞお召し替えくださいませ」

 そう言うと同時、娘は瓶に嵌っていた硝子の蓋を音も無く抜き、中身を無造作に零した。その黒い水は寝台に落ち――る前に、まるで蛇のようにぐにゃりと鎌首を擡げ、避ける間もなくレタの足元まで辿り着き、絡みついた。

「っうあ……!?」

 体の上を得体のしれないものが這い回る感触に耐え切れず悲鳴を上げている内、液体はずるずると伸び、あっという間にレタの体を覆った。腰に胸に腕に、まるで張り付くように絡みつき、どんな仕組みか固まって一枚の布になる。ばさりと腰布が広がり、足元まで伸びると同時に、晒す肌は顔と肩ぐらいしか無く覆い尽くし、止まった。

「……何だ、これ」

 二の腕から指先まで、不思議な黒革に覆われた己の手を見つめ、呆然と呟く。足先は硬質で踵の高い靴になっており、全身の肌に吸い付くように黒布は体の線に纏わりついているが、着心地自体は悪くないのが逆に気持ち悪い。

「まあ、まあ! とてもお似合いですわお母様! イヴヌスの眷属もお母様の御役に立てるのでしたら幸いでございましょう」

 白い頬を僅かに上気させて嬉しそうにはしゃぐラヴィラを見ていると、どうにも突き返すのは難しいしどうやって脱ぐかも解らないが。

「これ、本当に服か? 生き物じゃないだろうな」

「意志はありますが、水にして布にございますわ。お母様が望むがままの形を取り、きっとお母様の、お力になるとラヴィラは愚考致します」

 思わずぼやいた言葉に返ってきた娘の声が、どこか固く感じたのでふと顔を上げるが、目の前に立っている娘はやはり嬉しそうな笑顔のままだ。

 感じた違和に、レタが再び言葉を発するよりも先――不意に、ぎしん、と空気が凍った。

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