◆2-3

眠りから解放された崩壊神は、三たび悪事を働いた。

魔の女王を疎ましく思い、魔国の天蓋を砕いて海に沈めた。

同時に、海にも巨大な穴を開けてしまった。

始原神はこれを罪とし、五百年の眠りを与えた。

(イヴヌス記・第三章第三文より)


=================================================================




「っ……!?」

 まるで世界にあるものすべてが、何かを警戒しているような、酷い緊張感が辺りを支配している。ラヴィラは笑顔のままだが、それでもすっと姿勢を正し、誰かを待つ姿勢を見せた。死の女神と名乗り、始原神の名を呼び捨てにした彼女が、そこまで敬意を払う者と言えば。

「――漸く起きたか。待ち草臥れたぞ、おい」

 聞き忘れる筈もない、嘲りの含まれた笑い声が、寝台の上から聞こえた。振り向くより先に、黒い服に包まれた長い腕が伸び、レタの首に絡んでぐいと引き倒した。仰向けに倒され、それでもどうにか上手く動かない首を捩って抜け出そうとする目の前に、逆さまの顔で覗き込んでくるのは――金色の瞳。左の目玉の数多の瞳孔が、まるで嘲笑うように全てこちらを向いている。酷く濁っているのに、自分を見つめている事だけは、はっきりと解った。

「――アルード!!」

「おお、もう充分馴染んだみたいだな。行くぞ」

「ッぐ、何……!」

 レタの襟首を抱え込み、崩壊神はにやりと笑って寝台から飛び降りる。荷物のように引き摺られたまま、どうにか顔を上げると、困ったように笑って、それでも深々と頭を下げる黒髪の少女が自分を見送っていた。

「お帰りはいつ頃になりますか? お父様」

「さあな。ディアランの張り切り次第だ」

「畏まりました。ラヴィラは良い子なので、中庭に馬車をご用意しておりますわ。お使いくださいまし」

 娘の言葉を聞きながらも、男の足は止まらない。レタがどうにか踵の高い靴で立ち上がり、歩こうとする前に、暗い廊下を通り抜け、恐らく庭であろう外に出た。

 その庭も、随分と奇妙な代物だった。草木は生えているのだが、葉も幹も芝も、皆燃やされて灰になったかの如く色の抜けた白。設えられたであろう大きな池は、真っ黒な水が溜まっていて底が見えない。木の枝に止まっている鳥は、肉も羽も無い、骨だけで組み上げられたカタカタと鳴き声を上げる不気味な生き物だった。上空に広がるのは青空ではなく、仄かに光を含む岩の天蓋だった。

 そして何より少年の目を引いたのは、恐らく何がしかの生き物の骨で組み上げられ、黒布で幌を作った巨大な馬車。二頭引きの豪奢な代物だったが、繋がれた馬は生きながらに首を落とされており、その傷口から青い炎をめらめらと上げている化け物だった。

 不気味な馬車に絶句しているうちに、レタは体を無造作に持ち上げられ、御者台の上に放り投げられた。咄嗟に受け身も取れず痛みに呻いているうちに、長い足でその体を跨いだ神は、上機嫌でその隣に腰を下ろす。

「行け!」

 そして足を振り上げ、踵で馬の尻を軽く蹴りつける振りをすると、馬は嘶きを発する代わりにまるで煙のように炎を首から吐き、その四足で駆け出した。地面でなく、空に向けて。

 まるで坂を上っていくように、宙を駆けていく馬車が信じられず、レタは思わず馬車の下を覗いてしまい――先刻まで己が居たであろう黒い石造りの建物が、見る見るうちに小さくなっているのを確認し、ひゅっと身を竦ませて椅子に両手でしがみ付いた。今まで全ての物を見上げることしか出来なかった少年が、初めて味わう落ちたら間違いなく死ぬ高さというものに、反射的な恐怖を感じてしまったのだ。

「なんだ、怖いか?」

「ッ誰が!」

 しかし揶揄が籠った言葉で隣から問われ、咄嗟に反論した。いまだ疑問や不満は喉の奥に山ほど渦巻いているが、それよりもこの男に見縊られるのだけは我慢できなかった。露骨に睨み付けてやると、何故か神である筈の男は心底おかしそうに笑った。

「はっは! 落ちたくなけりゃ、しっかり掴まってろ! 飛ばすぜ!」

「――ッ!!」

 その言葉と同時に、ぐんと馬車の速度が本当に上がり、慌ててレタは座席の背もたれにしがみつく。その様を見て、男はもう一度、心底楽しそうに笑い声を上げた。



 ×××



 骨の馬車は空を駆ける。風の道を走るかのように。

 あの黒い建物があったのは、巨大な地下の空洞だったらしい。空に開いた穴を垂直に駆け上がり、抜けた瞬間今までと比べ物にならない程明るくなった。金陽を酷く近く感じ、目を瞑る。

「――ぁ」

 頬に風を感じ、瞼を開ける。 

 振り仰ぐと、遠ざかっていく巨大な漏斗型の山岳が見えた。どうやらあの頂点から、飛び出してきたらしい。山を越えた先は、砂と岩で囲まれた砂漠地帯。赤い煉瓦で作られた建物が僅かに見えたので、恐らくレタが生まれた地であったかもしれない。僅かな寂寥感が湧くが、それは次々と変わっていく景色によって押し流されてしまった。

 砂と岩が途切れると緑色の草原が広がり、更に木々に包まれた豊かな山々が見え、それを超えれば巨大すぎる水溜まりが広がっていた。初めて見る自然の光景に、恐怖も忘れてレタは目を見開き、その光景をつぶさに見た。

 やがて、広すぎる水場を超えた先、また荒野と草原が続く地表で、胡麻粒のような人間達が集まっているのが見えた。興味を覚えて僅かに身を乗り出した時、馬車は自然と高度を下げ、何もない中空で止まった。思わず隣を見るが、アルードは休憩のつもりなのか、深く椅子に腰かけて目を伏していた。不気味だが、これの心境など考えるだけ無駄だと思い、改めて馬車の縁から下を見る。

 地表に蠢く者達は、各々白か黒の布地を頭や首に巻き、同じ色の細長い旗を何本も立て、槍や剣を持って互いに向けていた。怒号と悲鳴が上がり、二人が戦うと一人が倒れる。残った一人に三人が突きかかり、また倒れる。

 凄惨な戦の様はレタの血の気を僅かに引かせたが、恐怖は僅かなものだった。隣にいる規格外の生き物とこの馬車に比べれば、人間同士の争いなどそれほど恐ろしくは無い。何故なら、人間の敵ならば殺せば死ぬからだ。

 だからこそ冷静に眼下の戦を分析できた。白黒両方の戦いは最初互角だったが、黒い側がじりじりと人員を削られ、下がっていく。

「白い側が戦神ディアランを奉じた連中だ。あいつの加護があれば、負け戦はあり得ない」

 ふと、後ろから声が聞こえた。意味を訪ねようとした瞬間――本当に無造作に、背中を蹴りつけられた。ごく軽くにしか見えなかったがその衝撃は中々で、つまりレタの小さな体は簡単に、宙に舞った。

「っ!? お前――!!」

「この戦局、ひっくり返して見せろ!」

 心底楽しそうな男の声に悪罵を返す間もなく――レタの体は地面に激突した。

「んぐっ……!」

 堪らず悲鳴を上げるが、思ったよりも衝撃は受けない。落ちた瞬間、衣服が柔らかくしなり、受け止められたような気がした。気味悪さはあるが、痛みが無かったのは幸いだと思い体を持ち上げ――囲まれていることに気づいた。

 レタを十重二十重に囲んだ、というより集団のど真ん中にレタが落ちてきたせいだが、白と黒の軍勢は、互いに戸惑っているように見えた。

 無理もない、天から突然人間が降ってきて、しかも何事も無かったように身を起こしている様は、彼らにとっては冗談のようにしか見えまい。如何するか、とレタも内心戸惑っている内、恐らく隊長格なのだろう白い軍の男が一人、声を張り上げる。

「何をしている!! 死女神の馬車から生まれ出でた、黒き悪魔に違いあるまい! 戦神ディアラン様の名のもとに、根から絶やせ!」

 隊長格の煽りに、白い軍は一斉に武器を掲げ、切っ先をレタへと向ける。

 じわりと、憤りが湧いて出た。いきなり連れ去られ、放り出されて、またこの様だ。いついかなる時も、自分には虐げられることしか許されないのかと。

 ――ふざけるな。

 足元に転がっている、誰のものとも知らぬ剣を一本拾う。青銅製の武器しか使ったことのないレタにとって、初めて見る鈍色の金属だったが、銅剣よりも余程軽く感じた。軽く振り、感触を確かめ――構える。

「押し包めい!!」

 隊長の叫びと共に、鬨の声。一斉に襲い掛かってくる槍衾に対し、その場でしゃがみこむことによって躱した。

 沢山の穂先が噛みあい、けたたましい音を立てる中、槍の柄を掻い潜り一番近場に居た兵士の手首へ向かって、剣を振う。

「――ひぎぁ!」

 悲鳴と、飛び散る血と――皮一枚でぶらりとぶら下がった手首に、己が起こした様にも関わらず驚愕した。無造作に振っただけで、そこまで力も入れていない。手に持つ剣が余程強力な武器だとしても、ここまでの切れ味を誇っているとは思えなかった。

 しかも、嘗て闘技場で戦っていた頃よりも、体が軽い。動くのも、走るのも、初速が違う。一歩踏み込むだけで、簡単に相手の間合いに踏み込める。本来ならば在り得ない動きに戸惑うも、今この場にとっては有用であるに違いない。

「く、くそ! こっちに来るなっ!」

「――ぁっ!」

 僅かな気合を吐き、黒の兵士が突き出してきた槍を躱し、その柄を半ばから切り落とす。怯んでいるうちに、首筋に剣先を叩きこんだ。

「つ、強いぞ……!」

「怯むな! 所詮一人だ!」

 浮足立っていた兵士達も、目の前の存在を明確な敵と認識したらしく、白い兵士だけでなく黒い兵士達も次々と武器を構え、レタに向かってくる。絶望的な戦力差だが、レタは全く歩みを止めるつもりはなかった。

 視線だけを空に遣る。不気味な馬車は、まだ浮かんだままだったが、下から見てもあの化け物の姿は見て取れない。また、御者台に深く腰掛けて目でも閉じているのかもしれない。

 じわりと、怒りが湧き出てきて奥歯で磨り潰す。あの存在の暇つぶしになるのも業腹だが――それにすらならないのは、口惜しすぎた。

「っ……ああああああああああああああ!!」

 叫んだ。

 今までの憤りを、悔しさを、全て詰め込んで吐き出すつもりで。

 例え今この場に提示されている道が、地獄まで敷かれた石畳だとしても。

「殺してやる……!」

 死ぬ前に、相手を殺す。何物にもならないまま、死ぬことだけは我慢ならなかった。

 只管に剣を振り、捌き、突き、打ち合わせ――

 何十合目かの末、鈍い音を立てて剣が砕けた。

 咄嗟に視線を周りに移すも、転がる得物は己が砕いたものばかり。尚且つ、好機と見た兵士が一人、突き出す槍の穂先が眼前まで迫っていた。咄嗟に頭だけは庇おうと、右手を翳した、その瞬間。

 二の腕から爪の先まで、覆っていた黒い布が、じゅるんとまるで生き物のように柔らかくうねり、動いた。その感触に鳥肌を立てる間もなく、それはレタの手先に集まり、細く長く形を変え、まるで生き物のように腕を動かして穂先を叩き落とした。

「――これは……」

 レタの手の中に、まるで体の一部であるかのようにしっくりと、一振りの剣が収まっている。

 剣と言うには随分と刃先が反り返っており、まるで、蛾眉の銀月のようだった。先刻の得物にも増して重さを全く感じない。柄に当たる部分には美しい意匠が彫り込まれ、同じく黒色の宝石まで埋まっている。見た目だけなら美術品としての価値も充分あるだろう。

 これが何であるか、レタは一瞬考えようとしてそれを取りやめ、足が止まっていた兵士の横面に向け、その刃を思い切り振りぬいた。

 ぞぬ、と僅かな音がして、刃が固いものと柔らかいものに滑り込む感触がして、すぐに消える。

 悲鳴も上げず、哀れな兵士は丁度耳を半分にする位置で、鼻から上の頭を空に放り投げて絶命していた。

 あまりの切れ味にレタの身にも怖気が走るが、これならばまだ戦える、と剣を再び構えた時。

「――どういうつもりであるか! アルードよ! この黒紐は、イヴヌス殿の眷属ではないか!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る