◆2-4

三つの罪を犯した崩壊神は、神の祭壇に括りつけられた。

混沌の海に体を浸され、腕と足を失った。

戦神はそのさまを見て嘆き、どうか慈悲をと始原神に願った。

始原神はその祈りを受け、神の紐のいましめを解いたが、

崩壊神はあざけり笑い、混沌の海へと潜っていった。

(イヴヌス記・第三章終文より)


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 一瞬、雷が鳴ったと錯覚するほどの大声がびりびりと空気を揺らす。

 白の軍勢が一斉に、その場で武器を天に掲げたまま膝を折る。

 黒の軍勢は一斉に、悲鳴を上げてその場から逃げようと散り散りになっていく。

 そして次の瞬間、僅かに地面を揺らし、レタの真横に巨体が降り立った。

 筋骨隆々の大柄な男が、手でレタを指しながらその視線を空――すなわち其処に浮かぶ馬車に向けて、大声を張り上げる。あまりの煩さに思わず耳を塞いでしまうが、それぐらいではとてもこの胴間声を遮れない。

「イヴヌス殿に与えられた役目も忘れ、娘の神殿で寝て暮らしているかと思えば! 今度は何を企んでおるか、この馬鹿者めい!!」

 白い鎧と戦装束に身を包み、槍斧を地面に突き刺して尚も叫ぶ髭面の男は、理由はともかくあの崩壊神を非難しているらしい。それだけでレタは割と共感できてしまい、嵐のような罵声の中、顔を上げると。

 馬車は宙に浮かんだまま、僅かに揺れ。

 ふわりと、まるで高さを意に介さないまま、黒い影が飛び出して来た。

「――は。漸く出て来たか、戦馬鹿が」

 その顔に心底馬鹿にしたような嘲笑を浮かべたまま、地どころか空気を揺らすことすらなく、裸足で地面に降り立つ。と、髭面の男はますます眦を吊り上げ、憤懣やる方無いと言いたげに更なる叫びを上げた。

「馬鹿とは何であるか! 儂は戦神ディアラン、全ての戦に勝利をもたらすものぞ!」

 名乗りを聞いて、レタも驚きと共に納得する。成程、彼もまた神というふざけた存在のひとつであるらしい。厚い胸板を張って威張る男に対し、アルードは全く笑顔を崩さず、僅かに目を眇めてレタに視線を流してから、言い放つ。

「これだけ場違いな奴が出てくれば、すぐにお前も引っ張り出せると思ったんだがなぁ。お前が存外、鈍すぎるのを忘れていた、こいつはうっかりだ」

「ぬうう、良く解らんが儂を馬鹿にしているのであるな! 貴様の言葉はいつもそうだ!」

「……おい。お前等」

「はっは、馬鹿にしているって事には漸く気づいてくれたか。嬉しい限りだぜ」

「む? まあ貴様が嬉しいのならばこちらも悪くは無いが――いや待て! 貴様やはり儂を謀っておるな!? 魔女王の城に戦を仕掛けた時もそうだったではないか! 吾輩を全ての矢面に立たせておいて、貴様は魔女王と乳繰り合いおって!」

「おい」

「あれはお前が率先して城に突撃して、罠だの謎掛けだのを悉く踏みつぶしてくれたからじゃあないか。感謝しているとも」

「なんと。貴様がこの儂に感謝を捧げるとは……時を経て少しは吾輩の得難さが解ったのであろうな!」

「……」

「ああ、お前の扱いやすさは神共の中では一級品だ、誇っていいぞ?」

「ふはは、よせよせ。照れるではないか!」

 アルードも、ディアランと名乗ったもう一柱の神も、レタよりは頭二つ分ぐらい背が高い。自分の遥か頭上で交わされる全く持って実りの無い言い合いに、先刻暴れたお陰で僅かに下がっていた溜飲が再び持ち上がってしまい。

「――聞け!!」

 握ったままの黒い剣を、容赦なく横薙ぎに振った。当然アルードへ向けたものだったのだが、

「おっと」

 こちらを見てもいなかったのに、無造作にアルードは一歩踏み下がり、避けた。その隣に立っていたディアランの腕を、切っ先が僅かに掠める。

「う、おお! いきなり何をするであるか、人の子もどきよ!」

 肌には触れなかったが衣服は切り裂けたようで、開いた穴を指で抓んで慌てたディアランの言葉に、しかしレタは今の状況を咀嚼するのに精いっぱいで、返すことが出来なかった。

 ――躱した? 初めて出会ったあの忌まわしき場所では、こちらの攻撃を見もせず、受け止めることすらしなかったこいつが?

 しかも、神と名乗ったもうひとりの偉丈夫に、僅かながら傷すらつけることが出来た。

 まじまじと、己の袖と手袋が変じたその剣を見ていると、一歩の距離をすいと縮めたアルードが、ぼそりと呟いた。

「……そいつはイヴヌスのとっておきだからな。神でも、斬ることぐらいは出来るだろう。殺すとなったら、まあ無理だろうがな」

 己が手に入れた武器に対する僅かな高揚は、心底つまらなそうなアルードの声ですぐに萎み、苛立ちにとって代わった。なるほどこの武器を与えたのも、奴の遊びの一環に過ぎないということか。

 そう思った瞬間、手の中の剣がまるで解けるようにばらりと崩れ、あっという間に二の腕まで覆う手袋に戻ってしまった。不思議さと気持ち悪さはあるが、折角手に入れた貴重な武器を何とか取り戻したくて、慌てて腕を撫でたり布を引っ張ったりするが何も起こらない。そんなレタを見てどう思ったのか、偉丈夫は僅かに眉を潜めて呟いた。

「……アルード。お主、本気であるのか。嘗ての人の子を、奥方に据えるなど」

 今までの大声を止めて、ディアランが囁く。まるで、誰かに聞かれるのを恐れるように。周りには確かにまだ幾人かの人間が畏まりひれ伏しているが、恐らく聞こえてはいないだろう。

 レタが不思議に思う間もなく、アルードがにやりと笑い、首根を掴まれた。細い筈なのにびくともしない腕が首に絡んできて、引き寄せられる。

「お前も知ってるだろ? あいつに付き合うのも、とっくに飽き飽きだ。邪魔をするなよ、戦神」

「……何れ必ず、邪魔はせねばならぬのであるがな。それまでは、見て見ぬふりをしてやろう。友の誼である」

 やはり囁くように、重々しく。ディアランの言葉を聞いても、レタは何を言えばいいのか解らず唇を噛む。何せ、友という言葉も何を指すのか知らなかったので。

 ふと、髭の巨漢が、初めて真っ直ぐレタの方へ視線を向けた。

「ふむ、では問おう。人の子疑きよ、名は何という」

「俺は――」

「レタ」

 言い返そうとする前に、不意に、名を呼ばれた。今まで、自分から名乗ることなど一度も無かった筈の渾名を。

 驚いて、拘束を解くために動くことも忘れ、隣を振り仰ぐ。こちらを見ないまま、いつもの腹立たしい笑みとは少しだけ違うように見える、どうにも形容しがたい笑顔を浮かべた神がいた。

「傷、か。儂が言うのも何であるが、もう少し良い名は無かったのか」

「それでいいのさ、こいつは」

 その言葉を聞いた、瞬間。拘束が緩み、態勢を立て直す暇もなく、襟首を掴んで放り投げられた。

「っ!? が!」

 ぶわ、と耳元で空気が渦巻き、いつの間にか地面に降りていた馬車の椅子に放り込まれた。背もたれに頭を強かに打ち、どうにか立ち上がろうとする前に、アルードが隣に乗り込んでくる。

「じゃあな、戦馬鹿! せいぜいイヴヌスの望むままに戦い続けろ!」

「もとより、そのつもりである。――息災でな、奥方殿」

「誰が――っぐ!」

「っはははは!」

 ディアランに反論しようとして、いきなり馬車が動き出したので、もう一度ひっくり返る。その様を見て、崩壊の神は、可笑しそうに笑っていた。



 ×××



「お帰りなさいませ、お父様、お母様!」

 行くときよりもかなり速度を上げていた骨馬車は、あっという間に巨大な水たまりを超え、山の空洞を潜り抜けて元の建物へと帰りついた。ゆるりと庭に着陸するのを出迎えに来たラヴィラが、丁寧な礼を取り、速さと揺れにぐったりとしていたレタを労いながら手を貸してきた。

「お疲れ様でした、お母様。少しお休みになりますか? それとも何かお飲み物を?」

「俺は寝る。来い」

「ぐぁ、だから、首を掴むな!」

 再び襟首を掴まれて、嫌な吐き気がいよいよ湧いてくるのを防ごうと必死に抵抗するが、相手はどこ吹く風で。どうにか首を振り向かせると、ラヴィラは困ったように、それでも嬉しそうに微笑んで見送る礼を取っている。レタに対してあくまで献身を捧げてくれても、それ以上にアルードの決定が彼女にとっては最重要らしい。

 勝手に浮かんだ僅かな失望を振り棄てようと首を振るうちに、先刻寝かされた寝台の部屋まで辿りついた。

 乱暴に固い寝台へ放り投げられ、文句を言う前にその隣にどさりとアルードが身を投げた。仰向けになり、両の手を腹の上で緩く組んで、目を閉じている。本気で、寝る態勢に入っているようだ。

 自分はこの存在に舐められているということが痛いほど解り、怒りが限界まで胸の内に湧きあがる。左手で自分の右手首を握り締め、僅かに息を吸い、飲み込む。

 ――あの剣をもう一度。思い出せ。あの時は武器が無くて、それでも死にたくなくて、だから――

 ぐにゃりと、僅かに服が蠢く。そうだ、この世界で一番殺したい相手が目の前にいる。殺されるとは微塵も思っていないだろう、傲慢この上ない奴が。

 生まれた時から、手に持てるものなど僅かしか無い。折角得ても、奪われるのが当然だ。それでも、ほんの少しだけ身の内に残っていた、灯火のような欠片でさえ、ぐしゃぐしゃに噛み潰して奪い尽くしたのはこいつが原因だ。

 ――殺してやる。殺してやる、殺してやる、殺してやる!

 殺意でじわりと視界が赤くなり、右腕の布が解けようと揺れた、その瞬間。

「まだ、だ。まだだレタ、焦るなよ」

 目を閉じたまま、名を呼ばれ。完全に虚を突かれた瞬間、ぐいと腕を引かれた。

「っぶ……!」

 しまったと思った時には、完全に片腕だけで、アルードの胸上に押さえこまれていた。服越しの体は石壁よりも冷たく硬く感じ、熱を奪われる感触にぞくりと震える。すると耳元で、低い声が囁いた。

「それなら、多分俺を殺せるかもしれない。だが、駄目だ、それだけじゃあ駄目だ」

 まるで幼子を諭すように、静かに。その癖、上手くいかない憤りを抑え込むようにも聞こえた。今まで自分を嘲る声しかかけられた事の無いレタにとっては、随分と驚いた代物で。

「……創造の紐は、イヴヌスの眷属だ。今お前がそれを使っても、いつもと同じだ。何も変わらない」

「何を言って――」

 身じろぐと、ますます強い力で締め付けられた。苦しさに喉奥から息を吐くと、ほんの少し笑い声が聞こえた。それも今までのものよりは随分と、控えめなもので。

「なぁ。お前は俺を殺したいんだろう? どれだけ不可能だと解っていても」

 嘲りのようで、それでいて縋りつくようで。込められた感情が何なのか解らず、レタは憤りを抑えられぬまま返す。

「……ああ。お前も、同じだ」

「うん?」

「あの教団の奴らと。教祖と呼ばれてた奴と。引き合わされる剣闘士や、獣と。腹立ちまぎれに小突いてくる兵士と、ふざけた焼印を押し付けてくる神官と、全部、全部だ。お前らなんかに、一欠片だって、従ってやるものか」

 ずっと自分の周りには、そういうものしかいなかった。そうでないものは、もう無くなってしまった。

 だから、多分きっと、この世で一番の理不尽な相手であるこの神とやらを、殺さなければ気が済まない。どれだけ無謀で不可能なことであろうとだ。

 言葉を募って相手の顔を睨み上げると、驚いたことに、金色の瞳が大きく見開かれ、じっとレタの方を真っ直ぐ見ていた。右の普通の瞳も、左の不気味な沢山の瞳も、同じように。

 居心地が悪いが、目を逸らすのも悔しいのでじっと見返してやると、くっと喉が鳴る音がして。

「く――はっははははは! そうか、そうかそうか――! 俺も、人どもも、何も変わらないか! お前にとっては!」

 しがみつくように抱きしめられて、息が止まった。否、みしりと背骨が軋んだ。自分の体に皹が入った気がして必死に抵抗すると、案外すぐに力は緩んだ。それでも腕の中から逃れることは変わらず、耳元でぼそりと囁かれた。

「神の紐をお前のものにしろよ、レタ。眷属の理すら壊せずに、神を殺せるなんて思うなよ?」

 言われる言葉の意味は、さっぱり解らないのに。何故か、止めることが出来なかった。

「全ての理から、外れろ。人としての柵も全部、全部だ。そうすれば、きっとお前は――」

 声が途切れた。三回呼吸をしても続きが出てこず、不審に思って如何にか顔を相手の顔へ向けると。

 金色の瞳は確りと閉じられており、ぴくりとも動かない。レタの体を両腕と片足で拘束したまま、完全に眠りに落ちていた。

「この、はな、せ……!!」

 冗談じゃないと身を捩り、手足をばたつかせ、何とか拘束から抜け出そうと足掻くが、徒労に終わった。相手の体はびくともせず、起きる気配も全くない。まるで岩の蔦に絡みつかれたように、身動きが全く取れなかった。

 苦し紛れに、唯一どうにか動く首を持ち上げ、アルードの胸元に思い切り頭突きを食らわせてやる。当然起きることは無く、返って己の額の方が痛くなったので、やむなくその場に突っ伏したが――そこで、違和感に気づく。

「……心臓の、音が」

 聞こえない。左側の胸元に、耳をつけて顔を埋めているのに。逆の胸にも耳を向けてみるが、やはり何も、この体の中では動いていなかった。

 岩の蔦、どころではない。この体はまるで、石から削り出された彫刻のように、硬く、冷たい。先刻まで動いて、喋っていた筈なのに、寝息の一つすら聞こえてこないのだ。

 これが、神、というものなのか。

 ぞくりと、レタの全身が震える。何故だか酷く、寒くなった。こいつの体が冷たいからだと思い、また身じろぎを始めるが全く拘束は緩まず。

 結局、レタの方が睡魔に負けるまで、神の冷たさを存分に味わう羽目になった。

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