魔女王の襲撃
◆3-1
魔女王ヴァラティープは崩壊神に恋焦がれ、混沌に身を浸した。
狼を三匹捕らえ、混沌の海で噛み砕いて飲み込んだ。
そして孕み、生まれた子供は三つ首の狼であった。
これこそが、暴虐の魔狼アラムである。
(魔術書ヴァラティカグリモア・暴虐の章より)
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次に目が覚めた時、レタはひとりだった。
慌ててがばりと身を起こし辺りを見回すが、あの崩壊神はどこにもいない。寝台以外は何もない部屋だ、誰も隠れていないのは容易に知れた。
暫し迷うが、このままじっとしているのも座りが悪いので、寝台を下りて部屋の外へ向かう。脱げもしない服も靴も、着ている感触すらこちらに与えないのが却って不気味だ。
部屋から出て長い廊下を抜ければ、昨日と同じ中庭に出る筈だが、その途中に僅かな音を立てている部屋を見つけたので、慎重に壁に背をつけて覗き込む。
中は、厨房のようだった。真新しい壁や食器には、煤や汚れも一切なく磨き上げられている。竃には青い火が燃え盛っており、くべられた鍋からは食欲をそそる匂いが漂っていた。そしてその鍋の前には、昨日と同じ格好をしたラヴィラが、手際よく刻んだ食材を鍋の中に放り込んでいる。
声をかける前に、相手がレタの気配に気づいたらしく、振り返りぱっと顔を輝かせた。
「まあ、お母様、御目覚めになられたのですね。おはようございます」
「……うん」
いい加減呼び方を訂正するのも面倒になったので、ぶっきらぼうに返事だけする。彼女は気にした様子も無く、しかし僅かに眉を下げて申し訳ありません、と頭を下げた。
「只今お食事の支度が終わりますので、もう少々お待ちいただけますか? お母様のお腹を空かせたままでいるなんて、ラヴィラは悪い子ですわ」
「別に……気にしなくてもいい」
「まあ、まあ、お母様はなんてお優しいのでしょう! ラヴィラは感激しましたわ!」
いちいち大げさな彼女の声に溜息を吐きつつ、厨房には椅子が無いようなので適当な台に寄り掛かった。正直、食事は有難かったし、また建物の中をふらついてあれに捕まるのは御免蒙りたい。
敵は今、何処にいるのか。上機嫌なラヴィラの小さな鼻歌を聞きながら、何気ないふりをして問うた。
「……アルードは何処だ?」
「魔国へ出向いておりますわ」
「まこく?」
きちんと振り向いて告げられた答えに、僅かに首を傾げる。答えの内容ではなく、それを告げたラヴィラの顔に違和感を持ったからだ。
少なくともレタに向ける時は笑顔を保っていた彼女が、どこか不満そうに眉尻を下げて、黒い紅を差した唇を尖らせている。何故かと問う前に、続いて答えが来た。
「この世界から零れ落ちた澱から生まれ、始源神に逆らうことを宿命づけられた、魔の者達の国です。この神殿よりもっと東の果て、叫ぶ大穴より繋がる国ですわ。……全く持って、不本意ではございますが。ラヴィラ達の母親の、呼び立てをお受けなさいましたので」
言われた言葉に驚きと納得をする。ラヴィラの母ということは、すなわちアルードの妻に他あるまい。それならば、
「やっぱり、俺が母じゃないじゃないか」
「いいえ、いいえ! 産みの母はたしかにあの女でございましょう。ですがラヴィラがお母様と呼ぶのは、お父様の伴侶であるお母様だけですわ!!」
ほんの意趣返しのつもりだったのに、何故か心底泣きそうな顔で目の前まで迫られて、流石のレタも二の句が継げなくなる。少なくとも彼女は、実の母親である者に対して、一方ならぬ不満があるらしい。僅かに潤んだ瞳と、睫毛が触れ合うぐらいの位置からどうにか仰け反り、改めて問う。
「……一体、何者なんだ、そいつは」
「魔の者の、王。魔女王ヴァラティープ。身の程知らずにもお父様に懸想し、三柱の神を産み落とした。あの女の成果はこれだけにございますわ」
「三柱?」
「一に我が兄、暴虐神アラム。二に私、死女神ラヴィラ。三に末の子、病神シブカ。この三柱でございます」
成程、全て寝物語に聞いていた説教の中で覚えがある、穏やかでない神の名だった。しかもそのうち、アラムという名前には別口で聞き覚えがある。
「……アラム、っていうのは、三つ首のでかい狼か?」
「まあ! お母様、既にお兄様達には御目通りを叶えていらしたのですね? ラヴィラは羨ましく思ってしまいますわ」
出会い方は実に洒落にならないものだし、アルードとは別の意味で許せない相手だ。別に彼女に告げることではないと思ったので口を噤んだが。
しかし、兄が巨狼で妹が一見普通の人間というのは、見た目には何の共通点も無い。神を人の常識で図るのは何の意味もないと、いい加減理解はしているが違和感が凄まじい。
「最後の、シブカっていう奴は?」
「ああ、申し訳ございません。本来でしたらお母様にお目通りをすべきですのに、あの子は臆病で恥かしがり屋なもので、混沌の海から中々顔を出さないのです。どうか、ご挨拶に来た時には叱ってやって下さいましね」
どちらかというと見た目の方を知りたかったのだが、ラヴィラは姿を現さない理由の方を説明してきた。病の神が臆病とはどういうことなんだろうか、と首を捻りつつ、どんなおぞましいものが来ても覚悟だけは決めておくことにする。
と、スープの他に色々な皿を準備し終わったらしいラヴィラがぱっと顔を輝かせてレタに告げた。
「さ、お食事のご用意が全て整いましたわ。今日は、庭の方でお召し上がりませんこと? お母様の御口に少しでも合えば、ラヴィラは幸いでございます」
×××
白と黒しか色の無い庭に、場違いな色とりどりの料理が並べられた。
鮮やかな野菜をふんだんに使ったとろみのあるスープと、焼き立てのパン、更にこれでもかと籠に盛られた見たことのない果物。いったいこんな食材をどこから手に入れているのか疑問は湧くが、生憎レタの食欲がそれを頭の隅に押しやってしまう。
てきぱきと給仕をするラヴィラに進められるまま、食べられるだけ食べた。スープの味は先日食べたものよりも数段複雑で美味だったし、パンはとても柔らかく口の中でとろけるようにすぐ消えた。果物は皆甘く瑞々しく、喉の渇きすら癒してくれる。思うさま頬張っているうちに、彼女に対する警戒も薄れていった――何せ絶対的に警戒しなければならない者は別にいるので。
恐らく生まれて初めて、腹が満ちるという感覚を覚え、レタは満足げに息を吐く。それをどう見て取ったのか、ラヴィラはにこにこと笑いながら更に促してきた。
「もう一杯、おかわりをご用意致しましょうか?」
「いや、もういい。……美味、かった」
「! お母様の御口に会いましたのなら、ラヴィラは本当に嬉しいですわ!」
青いぐらいに白い頬を綻ばせ、両手を胸の上で組んで笑うラヴィラの姿は、今までレタが見たことのあるどんな女性よりも魅力的に見えてしまった。僅かにどぎまぎとする心臓を抑え、目を逸らした時にふと気づく。彼女が自分の給仕に終始して、一口も食事をとっていないことを。
「お前は、いいのか? 食べなくて」
気にせず食事を取って構わない、という意味合いで告げた言葉だったのだが、ラヴィラは笑顔のまま首を横に振る。
「わたくしには、食事は必要ございませんので」
あっさりと告げられた言葉に驚く。俄かには信じられず、思わず咎めるような声が出てしまう。
「そんな馬鹿な。じゃあなんで――こんな食物や、厨房がある」
「ええ、お母様をお迎えするにあたり、全てご用意させて頂きました。料理についてはまだまだ未熟ですが、精一杯頑張らせていただだいておりますわ」
笑顔のまま言われた言葉に、絶句した。彼女が嘘を言っているようには見えないし、そんな嘘を吐く理由も思いつかない。あの立派な厨房もこんなに潤沢な食料も全て、レタの為に準備して――いらないと告げたら、何の躊躇いもなく全て捨て去るのであろうことも、肌で理解した。
それより何より、食事を取らないと微笑んだ、美しい人形のようなその顔を見て。昨日触れた、崩壊神の血すら通わない冷たい体のことも思い出してしまい、ぞくりと震えた。
「お母様? 体調がよろしくないのでしたら、どうぞお休みくださいまし。寝台のご用意を――」
「いや……いい。少し、ここに居ていいか」
込み上げる僅かな吐き気に気取られないように、目を逸らして呟く。ラヴィラは気に病む風もなく、畏まりました、と頭を下げて答えた。
「では、片づけをして参ります。庭の中はご自由に散策していただいて構いませんので」
「……別に逃げるつもりは無いぞ」
あの神を殺すまでは、とは流石に口には出せなかったが、てきぱきと皿を重ねながらラヴィラはいえいえ、と首を横に振った。
「お母様の道を妨げるつもりは、ラヴィラには毛頭御座いません。ですが――神殿の外には、不届き者も多いですので。出来る限り、お出でなさらないようして頂ければ、幸いにございます」
忠告なのか脅しなのか、レタには判断がつかなかったが、とりあえず是と頷いた。
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