◆3-2

魔女王ヴァラティープは、海に落ちた神人を集めた。

一万人を贄として、混沌の海と煮込み、腐らせて飲み干した。

そして孕み、生まれた腐肉の塊を蝋人形の中に詰め込んだ。

これこそが、死者の女王ラヴィラである。

(魔術書ヴァラティカグリモア・死の章より)


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 黒い草と白い花の生えた庭を何するでもなく歩く。こんな風に、何の縛りもなく外を歩くという行為は物心ついてから一度も無く、落ち着かない。

 空を見上げると高い天蓋が見える。金陽も無いのにこれだけ明るいのにも、何か理由があるのだろうか。熱も伝わらないからなのか、庭はただひんやりとした空気を湛えている。

 ふと、結構大き目の黒い池を見つけ、興味の赴くままに近づいた。何せ、生まれてからこれだけ大量の水を見たのは初めてだ。乾いた大地に住む奴隷には、いつもろくな飲み水も与えられなかったのだから。

 深そうな水に感じる僅かな怯えを堪えて、そっと片手で水面を掬い、驚く。水が澄みすぎて黒い土の底が見えているのかと思ったら、水自体が粘性の無い真っ黒な液体だった。慌てて手を振るが、皮膚や布を汚す様子も無く、綺麗に零れ落ちていく。

 覗き込んでも、何も見えない。黒く動かない水面には、逆に自分の姿が映ってしまって眉を顰める。見覚えの無い体が不快で、目を 逸らした。

 ……ラヴィラは死を司る女神だという。人間が死んだ後、最期の最期に相対する神。彼女が住まうこの建物は、既に死の世界なのだろうか。嘗ての自分はとうに死んでいて、今の自分はただの神の玩具に過ぎないのだろうか。

 無意識のうちに顔を撫でていた。指先から伝わる傷の凹凸に、安堵する。

 この古傷が、自分が自分であるという証明な気がして、指先に力が篭る。この傷を与えられた痛みも怒りも、まだ覚えている――思い出せる。

 例えこの体が本来のものとかけ離れ、おぞましいものに作り変えられてしまったとしても。もう一度水面に映した顔には、数多の傷が残っている。奴隷剣闘士や獣、神官達に刻まれた形も、痛みも、まだ覚えている。

 そしてこの自分の感情は、途切れることのない怒りと悔しさは、あの神に対する殺意だけは、ずっと自分の魂に刻み付けられて残っている。

 それなら自分は、ずっと「傷」のままだろうと――

『――レタ』

 あの神が呼ぶ声を思い出して、鳥肌が立った。

 息を吐き、しゃがみこんでいた膝を伸ばして立ち上がろうとした瞬間。

 ひゅ、と僅かな風切音。何か、と思うより前に、空を裂いて飛来したものがレタの肩口に突き刺さった。

「っぐ!」

 熱い、と感じたのが一瞬、次に襲い掛かる痛み。肩口から生える凶器は、思ったよりも長い矢だった。鏃は深々と肉に突き刺さり、じくじくとした痛みを訴えてくる。

 このあたりに遮蔽になるような木は生えていない。建物までは百歩程度、辿りつく前に背へと更なる矢が襲い掛かるかもしれないが、どこから飛んでくるか解らない今、とにかく逃げるしかない。

 そう思って立ち上がった瞬間、爪先すれすれの位置に第二射が突き刺さる。咄嗟に踵の高い靴ではバランスが取れず、レタの体はよろめく。更に飛んできた第三の矢を、無理やり躱そうとして――体が宙を舞った。

「――お母様ッ!!」

 異変に気付いたのだろうラヴィラの悲鳴のような声が聞こえた瞬間、レタの体は深い水の中に落ちた。



 ×××



 ごぼ、と空気を吐いてしまい、代わりに喉奥に襲い掛かってくる黒い水を何とか息を止めて堪えた。

 生まれ故郷は岩と砂の乾いた大地しか知らなかったレタにとって、当然泳ぐことなど出来ない。水の中で息が出来なくなることすら、今の今まで知らなかった。

 息苦しさと傷の痛み、尚且つ沈み続ける己の体を如何すればいいかも解らず、がむしゃらに手足を動かすが、まるで別のもののように重たい。

 混乱している内に、堪え切れずに肺腑の空気を全て吐き出してしまう。体中に水が入り込む苦しさに咳き込むことすら出来なくなったその時、不意に服の襟元が変形した。

 ずるんと幾本かの皮鞭になった襟が、ぐるぐるとレタの鼻と口を覆う。尚更息が出来ないと思った瞬間、不意に呼吸が楽になる。

「――……!?」

 水を吸うと、覆いを通して空気だけが胸の中に入ってくる。飲んだ水を吐き出すのも簡単で、地上よりも幾分ゆっくりではあるが、呼吸をすることが出来た。

 まずひとつの苦しさから解放されて安堵し、改めて肩口に刺さった矢に触る。一瞬迷うが、引き抜いた。傷口から流れる血よりも、今は動きやすさを優先させたかったのだ。当然、水の中では血が簡単には止まらないこともレタは知らなかった。泳ぎ方など、猶更だ。

 両手足を動かし、身をくねらせて進もうとするが、力んでいるせいで体は沈むばかりだ。地上に戻ろうと必死に僅かに明るい水面を目指しているのに、遅々として進まない。

 どうすれば、と苛立ちを覚えた際、ゆらりと水が揺れた。何か、と思った瞬間、脇を物凄い速度で何かが通り抜けた。

「――うあ!?」

 幸い触れることは無かったが、それによって生じる水の流れに、当然ながらレタの体は巻き込まれ、再び水底へ向かって引きずり込まれる。浮かんだまま上手く態勢を立て直すことが出来ないうちに、また何かが近づき、レタの小さな体を翻弄していく。

「くそ……!」

 咄嗟に、右手を振った。今までぴくりとも動かなかった長手袋は、水の中であっという間に解けて絡み、反りのある剣へと変わった。昨日からの動きを考えると、レタが命の危険を感じたことが変形の引き金になっているようだ。

 しかし折角武器を得ても、黒い水の中では相手の姿が見えず、細い剣でも碌に奮うことは出来ない。

 どうする、と思っているうちに、水よりも黒い穴のようなものが現れた。何、と思う前に、その中に水ごと吸い込まれる。

「っうあ……!」

 更に奥に流される恐怖から、咄嗟に奮った剣は、何か柔らかいものにざくりと刺さった。手ごたえを確認する間もなく、辺りに凄まじい音が響く。

【MaAAAAAaaaaaa―――――!!!!】

「っぐう!」

 吸い込まれた穴の奥から、わんわんと響く音。鳴き声なのか、地響きなのかすら判別が出来ない。ただ、凄まじい地響きと共に鳴る音の圧に吹き飛ばされた体が、硬い棘の並んだ壁にぶつかる。

 そこで、いつの間にか自分が奇妙な部屋の中にいることに気がついた。酷く狭い洞穴のような、じっとりと湿って柔らかい、気付けば黒い水も無くなっているが真っ暗で何も見えない。

 戸惑いつつ、床に刺さったままの剣にしがみつき、揺れを堪えていると――ざばりと水音が聞こえると同時、闇の天蓋がばかりと開いた。

「お母様ッ!! ああ、よくぞご無事で……!」

 すると目の前に、目に涙を溜めたラヴィラが現れて驚く。どうやったのか、いつの間にか水の中を出ていたらしい。明るさに目を眇めて、改めて今いる場所を確かめると。

「……、あ」

 漸く、気付いた。剣が刺さったままの柔らかい床は、細長い、と言ってもレタが座って余裕があるぐらい大きな、先端の分かれた舌だった。大きく開いた顎には白く鋭い牙が連なって並んでいる。つまり自分が、巨大な生き物の口の中にいたことに気付き、慌てて剣を抜いて外へ転がり出た。

「こいつは、」

 黒い水から顔だけ出していたのは、乳白色の鱗を持つ巨大な、蛇だった。光に当った鱗は僅かに虹色の光をぬらぬらと散らして、黒い水の中にも長く伸びている様を見ることが出来た。

 呆然としている内、大きく広がった顎がゆっくりと閉まる。大口を閉めると、巨大な顔の脇に鎮座している金色の巨大な目が、ゆっくりと皮膜を開閉させレタを見た。

「お母様、申し訳ございません、神殿の中に狼藉者を許すなど! 何の申し開きも出来ませんわ、ラヴィラは悪い子です。どうぞ叱ってくださいまし……! 今すぐに、御怪我の手当を!」

 不意にラヴィラから抱きしめられ、今更傷の痛みを思い出している内、巨大な蛇はくるりと顎を引いて再び水の中に潜っていった。巨体なのに音も無く静かに沈んでいく様に、ラヴィラの方が珍しく声を荒げる。

「シブカ! お母様をお助けしたことは褒めて差し上げますが、きちんとご挨拶をなさい!」

 返事は無く、僅かな気泡を残すだけで黒い泉は何も返さない。眉を顰めた美しい娘は、白い手指でレタの傷をそっと撫でる。

「全く、もう。お母様、愚弟のご無礼をお許し下さいまし。このような傷、すぐに治療いたしますので」

「――いや」

 何の薬も包帯も無く治せるのかと問う前に、レタはラヴィラの手を掴んで剥がしていた。命に関わるような傷ではないし、――もし古傷まで消されてしまったら嫌だったから。

「大丈夫だ。それより、お前は? 何が攻撃してきたんだ」

「お母様……! 不覚を取ったわたくしの方を心配してくださるなんて、なんてお優しいのでしょう……問題はございません、狼藉者は全てお兄様達が仕留めましたわ」

 感極まったように喜ぶラヴィラに、呆れた溜息を吐きそうになった時。ずしゃりと、大きな足が草を踏む音がして、息を呑む。

「――ふん、死に損なったか、人擬きが」

 低く重く響く、男の声。アルードに何処か似ているが、彼よりも低く、彼よりも艶が無くしゃがれている。そしてレタも、聞いたことのある声だった。

 俯いていた顔を振り仰ぐ。目の前に立っていたのは、闇のような黒い毛で覆われた八足の体と、金色の瞳が三対六つ。先刻の巨大な蛇よりも長い牙が並んだ顎も三つ。

 巨大な体躯の、三つ首の狼。レタがあの日、味わった地獄を作り出した化け物が其処に居た。その三つの顎に一つずつ――腕やら足を千切り飛ばした、血みどろの躯を引っ掻けたまま。

 その光景は、レタに対してどうしても嫌なものを思い出させてくれた。乱杭歯の中に、まるで潰れた果物のように寝そべって動かない、痘痕だらけの女の腕を――

 握ったままの剣の感触を確かめる。まだ、解けてはいない。巨躯を睨み付けると、三対の金瞳は悠々とこちらを見下ろして鼻を鳴らして見せた。

「何だその面は。我等の手を煩わせた弱者の分際で」

「親父殿の命が無ければ、見捨てていたところだ」

「いっそあのまま、愚弟に喰われておれば良かったものを」

「まあ、お兄様達! お母様に向かって何てことを仰いますの!?」

 獣の瞳でぎろりとレタをねめつけ、口々に人の言葉で悪罵を放つ狼に対し、ラヴィラが心底不本意そうに諌めるが、気にした風もない。三つの口が咥えたままの骸をぐちゃりと噛み砕く。最早どんな生き物か判別できないそれは、皆嫌な音を立てて、狼達の喉に飲み込まれた。

「「「舐めるなよ愚妹。こんな無様なモノが、我等の母であるわけがない」」」

 そして血みどろの三つの口が同時に、レタに告げた。なるほど、この兄――達と言えば良いのか――は、腹の立つことにどうやら一番父親に似て、こちらのことを塵芥としか思っていないらしい。

 憤りを堪える理由がなくなり、手に持ったままの剣を構えようとした時、レタが落ちた泉の黒い水面が、まるで抗議をするようにごぼりと泡立った。それをじろりと見咎めて、狼達が左から順に口を開く。

「ほう、愚弟の奴、珍しくまだ戻っておらぬか」

「愚弟、貴様も愚妹と同じく、この人擬きを慕っておるのか?」

「あれは底抜けの甘えただ、好きにさせておけ」

 狼達が口々に詰ると、水面はすぐに静かになった。説明を求めて隣のラヴィラを見ると、彼女は労うようにレタの肩をそっと撫でながら言う。

「ええ、いつもはもっと深い場所で眠っているのですが――お母様の危険を察知して、助けに参ったのですわね。褒めてあげましてよ、シブカ」

「じゃあ……さっきの大蛇が、お前の弟、なのか」

 呟くように言うと、もう一度答えるようにごぼりと水面が鳴り、そのまま沈黙する。臆病で恥ずかしがり屋だというラヴィラの表現は正しいようだ。どう見てもこの三つ首狼よりも巨躯を持っているのに何故、とレタは不思議に思ってしまう。

「それよりも、だ。親父殿は何処だ、愚妹」

「……お父様はあの女の呼び立てにお答え致しましたわ、中兄なかにい様」

 三つ首の真ん中に問われ、ラヴィラが固い声で返事をすると、今度は左側の首が答える。

「――成程。舐められたものだ、たかが地虫の分際で」

 ぐるる、と狼達が喉を鳴らす。彼らにとっても、ラヴィラと同じように、自分達の母親は許されぬ存在であるらしい。母というものの存在を知らないレタにとっても、そういうものかとしか思えないが。

「お兄様達、此度の刺客は間違いなく、お母様を狙ったあの女によるものです。どうか――」

「ほざくな、愚妹。貴様に言われずとも全て承知よ」

 自分が狙われているという事実にも目を剥くが、その糸を引いているのが魔女王とやららしい。そして三つ首の狼は、その獣の顔に怒り皺を寄せ、まるで遠吠えのように天を仰いだ。

「我等の母を気取るは、まあ赦そう。この無様な人擬きを殺すも、好きにすれば良い」

「だが――我等が守る愚妹の神域にて狼藉を働くような真似は、断じて赦せぬ!」

「あの淫売のそっ首、噛み千切って粉々に砕いてくれるわ!」

 三つ首の狼が吠える。母親の命を奪うと躊躇いも無く宣言した巨躯の獣が、足を撓ませ駆け出そうとした瞬間。レタは傷の痛みを堪えて立ち上がり、その獣の背に飛び乗った。

「お母様!? 何を――お待ちください!」

 ラヴィラの慌てたような言葉は、すぐに後ろへ飛んでいった。レタは剛毛の毛並みを掴み、地を駆けだして波打つ背にしがみつく。当然狼達は体を捩り、走りながら振り落とそうとするが、無理やり堪えた。

「何のつもりだ、人擬き!」

「命を狙われて、そのままにしておけるか!」

 吠える狼達にも怯まず、レタは叫び返す。もし本当に自分の命が、魔女王とやらに狙われているのだとしたら。

「どうせこれも、アルードのやり口なんだろう! ――俺も連れていけ!!」

「ふざけた口を叩くな、この人擬きがっ!」

「舐めるなよ塵ッ! とっとと落ちろ!!」

 狼達は激昂したように叫び、体を振りながら森の中を駆けていく。躊躇いなく棘だらけの藪に突っ込み、服に覆われていない顔や肩があっという間に擦過傷だらけになるが、レタはぎりぎりまで体を伏せて耐えた。

 更に狼達は怒り、駆ける速さと揺れが更に酷くなる。レタは己の両手指に全力を込め、逃がしはしないとばかりにしがみつき続けた。 

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