◆3-3

魔女王ヴァラティープは、自分の髪を束ねて切り落とした。

髪を混沌の海に落としこみ、蛇に変じたそれを飲み込んだ。

そして孕み、生まれたのは世界を巻き取る巨大な白蛇であった。

これこそが、病毒の大蛇シブカである。

(魔術書ヴァラティカグリモア・病の章より)


=================================================================




 地を駆ける三つ首の狼達の動きは、熾烈を極めた。

 深い森の木々に毛並みを擦りつけるように駆けたと思えば、岩壁に思うさま己の背を叩きつける。強靭な骨肉と剛毛で守られたその体は逆に岩を砕き飛ばしたが、そこにへばりついているレタにとっては堪ったものではない。

 両手の指で黒毛を掴み、荒れ狂う嵐に翻弄されるのが精いっぱい。ひたすらに堪え、目すら開けられない暴風を凌ぐ。

 やがて、諦めたのか捨て置くことにしたのか、狼の足が僅かに緩む。しがみついたまま如何にか瞼を開くと、いつの間にか辺りの風景が様変わりしていた。

 白と黒しか存在しなかったラヴィラの館と対照的に、草木は毒々しい様々な色合いに染まり、禍々しくねじ曲がっている。そんな不気味な森を躊躇わずアラムは駆けていき――やがて、風の匂いに嫌なものが混じり始めた。

 腐った卵のような不快な臭気にレタが眉を顰めると、服の襟元が自然にめくれ上がり、鼻と口を覆った。先刻の水の中と同じ、すぐに呼吸が楽になり安堵する。どうもこの服は、レタが不快に思ったり危険を感じたりした場合、自動的に防御態勢を取るらしい。ただ、それがレタの意識外からの攻撃――例えば先刻の弓矢など――であると、守ることが出来ないようだ。あくまでこれは、レタの意志で伸び縮みする手足の一部、と思えばいいのかもしれない。

 さて、服のおかげでレタは随分楽になったが、この臭気は狼達にとっても不快なものらしい。三匹とも不満げに鼻を鳴らし、くしゃみでもするように強く息を吹く。そして、更に地下の奥へと進むのであろう、巨大な洞穴を下り始めた。

「ふん、途中で降り落ちていればここまで来ずに済んだものを」

「これが魔の国の入り口よ。この瘴気、人であればあっという間に肺腑を腐らせる毒となる」

「今から尻尾を巻いて逃げ出すならば、捨て置いてやってもいいぞ」

 口々に己を揶揄する狼の声を聴き、レタは返事の代わりに、もう一度強くアラムの毛皮を掴んだ。ここで逃げ帰るつもりも、放り棄てられるつもりも毛頭ない。

「ふん――とっとと朽ち果てて落ち転げろ!」

 吐き捨てるように中央の首が叫び、再び魔狼は駆け出した。



 ×××



 大気に硫黄の匂いの煙が充満する魔国は、死女神の神殿よりも更に地の底、巨大な洞窟にあった。

 地上の神人達――神以外が創った人間、巨人や竜人などがいる為こう呼ばれる――が作り上げた街とは、外観が全く異なる巨大な建物が、天蓋から吊り下げられる形で乱立している。秩序は無いが、活気に溢れている国だ。

 そして、市街地よりも更に高い位置、吊り下げられたように立つ、神殿と呼ぶには派手な外観を持つ城の、奥の奥。

 魔女王ヴァラティープは、久々の逢瀬にその豊かな胸を焦がしていた。

 宝石と黒布であしらわれた服を妖艶に肌蹴させ、彼女用の広い寝台の上に寝そべる。その隣に目を閉じて横たわっている、見目整った黒髪の崩壊神を熱の籠った瞳で見つめながら。

 綺麗に塗られた長い爪の指で、彼の冷たく硬い体を撫でる。服の帯を解き、その素肌に大胆に触れても、その瞼はひくりとも動かない。

 彼にとって退屈過ぎるこの世界では、眠ることぐらいでしか無聊を慰められないのだろう。

 それでも構わない、とヴァラティープは思う。

 魔はこの世から零れ落ちた澱。神が捨て去り、不要と断じた衝動をその身に満たして形を成すもの。肉体によって神に奉仕し奇跡を授けられる神人とは違い、その豊かな情動で神から力を奪い慰めとするのが魔。彼女が魔の王となれたのは、他でもない、この崩壊神に慕情を抱き、その焦がれが誰よりも何よりも強かったからだ。

 彼の寵愛を欲し続けた結果、ヴァラティープは三柱の神を孕むに至った。魔の身籠りに人間のような体の交わりは必要ない。ただ、彼に対する思いと彼が望むままのものを腹の中で作り上げた結果だ。全てを噛み砕く魔狼、死を支配する娘、病毒を振りまく大蛇を。

 彼女にとって、生れ落ちた子供が何をするのかには興味が無い。アルードに仕えようが反旗を翻そうが、始原神の手駒にされようが、一向に。それが崩壊神の興味を引かない限りは、無視している。大切なのは愛する男だけなのだから。

 全く動かない頬に触れ、薄い唇に己のそれを合わせ、舌を這わせる。呻きも震えもしない人形のような体に、何度でも。

 何一つ反応を返さないその姿を、ヴァラティープは嘆かない。彼が己の意志で動くのは唯一つ、この世界を崩壊させる時だけ。彼はそういう存在であったし、だからこそ惹かれた。

 ――それで充分だし、それ以外などいらなかったのに。

「申し上げます、魔女王陛下!」

 ばたばたと響く足音と、逢瀬を遮る無粋な声に、ヴァラティープは笑みを一瞬で消して、無言のまま炎のような視線を乱入者へ向ける。部下である山羊頭の獣人は怯えつつも、跪いて言葉を続けた。

「も、申し訳ありません、ご報告を」

「手短になさい」

「ははっ! 先刻、国境を越え暴虐神アラム様が参られました。神域を汚した償いをその血で贖えと――」

「捨て置きなさい」

 言い終わる前に、魔女王は結論を下した。彼女にとっては息子に当たる暴虐神の怒りなど、何の意味も為さない。あれの怒りがどれだけのものであろうとも、己の存在を揺らがせるものではないと理解しているからだ。魔女王はそういうもので、暴虐神もそういうものだ。定められているし、変化することもない。

 そして息子がむずかる程度では、崩壊神の無聊を慰められない。視線を未だ眠りに落ちたままの愛しい男に向け、もう一度愛でようと手指を伸ばしたその時。

「そ、それと、もう一つお耳に。アラム様と共に、討ち損じたあの出来損ないが――」

 その言葉が耳に届いた瞬間、ヴァラティープの眦が吊り上がったが、それよりも先に。

 今まで、美しい爪先で体を撫でられても何一つ反応しなかったアルードが、まるでばね仕掛けのように上半身を跳ね上げて起きた。悍ましき金目を爛々と見開き、その顔に浮かぶ表情は――歓喜。大きな口の両端を引き上げて、我慢できずに声を上げた。

「は、はははは! 全くあいつは、面白いな!」

 その顔を見て、あらんかぎりの嫉妬がヴァラティープの心臓を焦がして溶かす。何故、何故あんな出来損ないの神疑きの行動一つで、彼がこんなにも喜色を得るのか、彼女には全く解らないし解りたくもない。

 神も竜も魔も人も、自分ですら彼に何も齎さなかったのに。何故、彼自身が選んだ、あれだけが。

 美しい顔を怨嗟と憤怒に塗れさせ、魔女王は寝台から飛び降りる。口の端から怒りのままにめらめらと炎を燻らせ、部下に向かって命じた。

山羊人バフォメット牛人ミノタウロスの部隊を全て向かわせなさい! 一片の血肉も残さず、愚息と出来損ないを踏み潰しておしまい!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る