◆6-2

神に死など存在しません。あるのは封印だけです。

竜に死など存在しません。あるのは空疎だけです。

魔に死など存在しません。あるのは混沌だけです。

死女神ラヴィラの恩恵は、人にだけ与えられたのです。

(真神書・第四章第二節より)


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 球体の中もまた、奇妙だった。確か、人ひとりがそのまま入れるぐらいの大きさしか無かった球体の筈なのに、中は驚く程広かった。レタとアルードの他に、八人の人影がぐるりと円を描いて中空に腰かけていても、充分な余裕がある程に。

 薄暗く生温かく、何も無い空間に、並ぶ者達は皆、白い簡素な装束を付けた人、に見える――否。彼等こそが人の原型、この世界の理そのものなのだと、何故かレタにも理解できてしまった。順繰りにその顔を見渡したアルードが、ふんと鼻を鳴らす。

「全員揃い踏みか。暇な奴等だ」

「貴様、言うに事欠いて何という……!」

 アルードの嘲りにすぐさま反応したのは、ラヴィラの神殿に現れた秩序神タムリィだった。既にその体は完全に修復されており、苛立ちも露わにアルードを睨み付ける顔も全く陰りは無い。

 その右に、戦神ディアランが苦笑しながら立ち、逆隣には口元をヴェールで覆った小柄な少女が無言のまま座っている。彼女の隣には、殆ど裸にしか見えない、僅かな布だけ纏った豊満な肢体の女。ディアランの逆隣に、青く美しい髪を水のように流した男がアルードを睨み付けている。

 更に、アルードとレタから丁度反対側に位置する一人を挟んで、金色の髪の美丈夫と銀色の髪の美しい娘が侍り、これで八人。ぐるりと輪をかいて、様々な思いが混じっているのであろう視線でアルードとレタを見てくる。

 皆、人のかたちをしているのだな、と普通に感じて、すぐ誤りに気付く。恐らく逆だ。神が、自分の体に似せて、人を作ったのだ。恐らく、この中で唯一、レタ達に視線を向けないものが。

 アルードと対極に位置し、中空に座ったまま動かない、線の細い青年にしか見えない男。髪も肌も酷く白く、伏せたままだった瞼がゆるりと開くと、まるで紅玉のような美しい赤の瞳が見えた。まるで芸術作品であるかのような、均整の取れた美しさを表しているのに、何故だかレタの背筋に怖気が走る。

 理由はすぐに分かった、似ているからだ。色は違うし、瞳孔が片目に詰っていたりしないのに。美しい瞳の中に光は無く、ただ虚ろな穴のようで――アルードの瞳と、酷く似ていたからだ。

「随分と、楽しそうだな、アルード」

「ああ、楽しいとも、イヴヌス」

 よく似た声が、互いを呼んだ。落ち着きと嘲りの音の差はあるが、本当に声は似ていた。自分の襟首を掴んだままのアルードの手指に、僅かに力が籠ったのを感じて驚く。――緊張している? まさか。一瞬動揺している内に、ぐいと神の円の中に自分の体を突き出された。

「お前の理を、こいつは既に一つ壊した。魔女王を滅ぼし、秩序神の命令すら跳ね除けかけた。もう二度とあの女は生まれないだろうな!」

 また、冷たい腕で抱きしめられる。それなのに、その腕がどこか縋りつくように感じたのは、気のせいだろう、多分。

「タムリィが……!?」

「戯言を言うなアルード。そのような事、あるわけがない」

 豊満な女が驚いたように目を見開き、青い髪の男が不機嫌そうに吐き捨てる。ヴェールの女が隣に目線を遣ると、タムリィは酷く不機嫌であると言いたげに眉を顰めたまま、ぼつりと呟いた。

「非常に。非常に、許容出来ませんが、事実です。人が神に逆らう理など、成立出来る訳が無いのに。……貴様が、崩壊神アルードが、人の理を壊したが故に! もうそれは人でも魔でも竜でも神でもない、そんな悍ましきものを! そも、全てを壊す理しか持たぬ貴様が、何かを創るなど片腹痛い!」

 喋っている内にタムリィは再び激昂した。周りの神々にも、僅かな驚きが広がっていく。レタは崩壊神の腕に抱き込まれたまま、改めて一番遠い場所にいる白い神を見遣った。

 彼の表情には何一つ、感情が浮かんでいない。どれだけタムリィとアルードが、言葉を重ねても、何も返すことは無い。気にした風もなく、アルードもまた叫んだ。

「そうとも! 俺が壊して俺が手に入れた。いつか、いつか必ずイヴヌスよ、お前が創り上げた全てを壊してやる、永遠に! 俺じゃない、こいつがだ! ついにやっと漸く、全てが終わる時が来る!!」

 アルードは、笑っていた。本当に、嬉しそうに。ずっとずっと望んでいたことが、今にも叶うと言いたげに。結局レタ自身が勝手に巻き込まれていることに変わりは無いのに、その顔が随分と、何の嫌味も無く笑っていて、レタは唇を噛んだ。

 だってこいつは、多分きっと、己に降りかかる理不尽を全て弾きたいと望む、自分と、同じ、で。

「――それを望むのは、お前の本質である」

 不意に、低くも高くも無い平坦な声が球体の中に響き、全員が口を止めた。赤い瞳はやはり虚ろで、何も映っていないまま、白い始原神はゆっくりと、首を巡らせながら、他の神の名を呼んだ。

「タムリィ」

「なんと愚かな。世迷言を言う暇があるのなら、粛々と己が役目を果たせば良いだけでしょう!」

 名を呼ばれた秩序神は、イヴヌスに向けて深々と礼をしてから、アルードとレタを睨み付けて吐き捨てた。

「スヴィナ」

「……わたしは応える言葉を持ちません。故に何も申し上げられません」

 ヴェールで覆われた口からほそほそとそれだけ囁き、智慧女神は瞼を閉じた。

「ディアラン」

「タムリィの怒りは、最もであろうが。奴の鬱屈は、儂も解らんでもない。僅かな合間だけでも、慈悲を頂きたい」

 筋骨逞しい腕を組んだ戦神は、眉間に皺を寄せながらも静かに答えた。

「ビスティア」

「興味が無い。どうせいつもと同じでしょ、好きにして」

 肌を露にした鳥獣女神は、緩く首を振る。突き放すような声と裏腹に、その瞳はまるで崩壊神を慮るような視線を向けていた。

「ルァヌ」

「最近の彼奴の動きは目に余ります。厳然たる御裁可を」

 青い髪の海原神は、きっぱりと言い切るだけだった。

「リチア」

「わ、わたしは……みんな、仲良くすればいいのに、て思います」

 美しい髪の銀月女神は、おろおろと周りを見渡した後、どうにか稚気の残る声でそれだけ言って一歩下がった。

「アユルス」

「己が役目を果たさぬ神なぞ、存在価値はあるまい」

 金髪の美丈夫、金陽神は厳然たる口調でそれだけ述べた。そして再び、イヴヌスが口を開く。

「皆、ありがとう。アルードの専横を、忌々しく思うものは多いようだが」

 そこで初めて、赤い瞳がこちらを見た。アルードでは無く、レタを。自分だけでなく、アルードの腕も驚いたように僅かに震え、ぎゅうと抱きしめる強さがきつくなった。自分の体に皹が入ったような音がしたので勘弁してほしい。

「アルードがそれだけ上機嫌なのも、それがいるからか」

 それだけ言って、彼は何もしない。ただ、じっとレタを見詰めるだけ。何、と思った瞬間、ぶわっと全身の熱が上がり――同時に、アルードが片腕を持ち上げて無造作に振るった。

 ぎご、と僅かな軋みが起こり、体の熱が一気に冷めて、空間が割れた。たまたま当る場所にいたスヴィナと呼ばれた女が、巻き込まれてその体を半壊される。ぐらりと小さな体が傾ぐが、すぐに時間が巻き戻るかのようにその体は元に戻った。空間のひび割れも、一瞬で。

「未だその時ではない。世界が飽和するまで、待て」

「俺のものに、手を出すな」

 怒り。噛み合わない会話の中、ぞろりと低いアルードの声に込められた感情が、レタの心を竦ませた。もしかしたら初めてかもしれないぐらい、このふざけた神は激怒している。対するイヴヌスはやはり変わらぬ口調で、淡々と返す。

「それは、元に戻すべきものだ。神は神、竜は竜、魔は魔、人は人。それが世界の理である」

「知ってるさ、だからこそ、何物でもないこいつは俺のものだ!」

 アルードの叫びに呼応するように、空間に皹が走る。神達は逃げない。多少体が壊されても、痛みをひとつも訴えることなくすぐに再生していく。酷く出来の悪いお伽噺を見ているようで、気分が悪くなった。

 つまり、この世界は何もかも、この神という存在の匙加減ひとつで作り出され、壊され、やり直されるのだと、腹立たしいが理解できてしまった。アルード自身の、鬱屈とやらも。

 世界の全てを壊すのが、この神の役目で。恐らく、破壊を喜び滅びを尊んでいるのも、間違いなくて。

 それなのに、だからこそ。世界を壊す行為全てが、茶番で徒労にしかならないのだ、永遠に、絶対に。何故なら、何を何処まで壊しても、結局始原神が創り直してしまうのだから。

 だからこそ、全てを完全に、今度こそ崩壊させる為に、この腹立たしい神は、レタを巻き込んだのだ。

「いい加減にしろ! お前らの勝手に、これ以上振り回されてたまるか!!」

 苛立ちのままに叫んだ。神々が訝しげに、あるいは怯えるように眉を顰める。アルードがほんの僅か、喉の奥で笑う音が、体に伝わってきてこちらも腹が立つ。腕の中から無理やり身を捩って、相手の顎と自分の鼻先が触れ合いそうな位置で叫んだ。

「お前もだ! お前のものになんて絶対になってたまるか! どれだけ時間がかかろうと、必ずお前を殺してやる!」

「――あぁ。そうだ。それでいい」

 悪罵を放ったのに、先刻まで怒りに震えていた筈の金瞳は、全部の瞳孔が柔く蕩けてレタを見下ろしていた。不気味な筈のその瞳が嬉しそうに細められて、続きの悪罵が出せなくなった時。

「ならば、仕方あるまい。世界が飽和するあと僅か、動かさないようにしよう」

 その静かな声と同時。不意にレタの全身を、。アルードの体を、簡単に跳ね飛ばして。

「な――」

「チィ!」

 アルードの舌打ちと同時、その壁は霧散する。しかし消える傍からまた湧き上がり、レタの体を覆っていく。咄嗟に握り締めようとした剣も動かせず、腕も足も固定されていく。

「理を失った存在など、世界に必要ない。アルードよ、世界を回せ。いつも通りに、いつもと変わらず」

「黙れよ……!」

 まるで繭のようにレタの体を覆っていく壁を、アルードがむしり取っていくが、止まらない。胸から首、顔まで覆われようとしたその時。崩壊神の顔がぐいと近づいてきて、

「んぐぅっ!?」

 まだ僅かに露わになっていた顔に、否、唇に噛みつかれた。口をこじ開けるように何かが滑り込んできて、咄嗟に噛み千切ると、硬かったのに思ったよりも簡単に口の中でかしゅりと崩れて、飲み込んでしまった。

 唇が離れると、そこから短くなった舌を見せて、崩壊神は嗤う。

「耐えろよ、レタ。どうにか間に合わせろ」

「何、」

 言い返す前に、アルードの拳が腹部に叩きつけられた。

「ぎ――!!」

 体がばらばらになるような衝撃に、悲鳴も上げられず意識が飛ぶ。自分の体が、地面に物凄い速度でめり込んで行く。まるで石塊が水に落ちるように地の底まで落とされていくのを、どこか他人事のように感じていた。

「――混沌まで落としたのか!?」

「馬鹿な、流石にそれでは奥方殿は――」

「大丈夫さ、あいつなら――そうだろ?」

 嘲っている筈なのに、何故だか哀願に聞こえた声を最後に、レタはただ底へ堕ちていった。

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