世界の終わり

◆7-1

始原神の慈悲を三度突き返し、崩壊神は罪を贖う。

その体は黒き混沌の波と化し、世界を飲み込んだ。

(創世・第八章第一文より)


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 落ちる、落ちる、落ちる。

 地面にめり込んでいるとは思えない程早く、強く、地の底へ向かって落ちていく。

 痛みは感じない。あまりにも強すぎる衝撃で麻痺してしまったのか。体が削れて砕け散るかと思ったのに、ただ自分という存在が質量の中を落ちていく。

 意識が白んで、皮膚の感覚が無くなり、どれぐらい経ったのか――己の周りは土塊でも岩盤でも無く、どろりとした柔らかい何かに包まれていた。

 色はただ黒い。冷たくも熱くも無い。自分の体全部を覆って纏わりついてくるのに、息苦しさは全く無い。ただ、ただ、何の支えも引っ掛かりも無いその緩い液体の中を、落ちていく。

 自分と言う存在はまだある筈なのに、その中に包まれた自分がどういう形をしているのかさっぱり解らなくなる。

 その認識すら、段々と薄れ、なにもなくなり――

「……、っつ」

 ちくん、と指先に痛みが走る。指先の形が解る。同時に、全身の傷跡が呼応するようにずきずきと痛み、堪らず体を捩らせた。――からだが、ある。

「……しぶ、か……?」

 その痛みに覚えがあり、どうにか名前を呼んだ瞬間。

【――――uuuuuUUUUUUU――――……!!!!】

 ぶるぶると、混沌が震える。白く冷たいものが、指先から腕を這い上がってきて、見る見るうちに膨れ上がって体を包み込む。そこで初めて、レタは自分の輪郭を全て思い出すことが出来た。

 頭に響く唸り声は何処か弾んで矢継ぎ早に聞こえ、戸惑っている内に冷たい鱗が柔く体を締め付けてくる。己を取り戻せたのは僥倖だが、今自分がどこにいるかさっぱり解らない。ならば今出来ることは、

「戻、る」

 あのふざけた神々のもとに戻らなければ。最後に見た、どろりと濁っている筈なのに、中に綺羅星のような輝きが閃いた、金色の瞳。あんな目で見られたら、見返してやるしかないではないか。

【ma―――Maaaaaaaaaaaaaaaaaa―――――!!!!!】

 またぶるぶると世界が蠢動し、先刻までとは別の柔らかいものにがばりと体が包まれる。中は暗く、温かく、棘が並んでいて、帯のようなものがそっと腰に回ってきた。この感覚には、覚えがある。どうやらまた、自分は今大蛇の口に包まれているらしい。

 沈黙は僅かで、ばしゃんと水音がしたと思った瞬間、牙の並んだ口が大きく開く。そこは、海と呼ばれる大きな池のど真ん中だった。

「――お母様ッ!!」

 切羽詰まったラヴィラの声が聞こえ、シブカの頭がそちらへ向かってすいすいと泳いでいく。空に浮かんでいるのは、骨馬車だ。その御者台に、黒髪を振り乱した美しい娘が立っているのを見て、自然と肩の力が抜けた。

 青黒い帯――つまりシブカの舌に腰を巻かれ、ゆっくりと馬車に降ろされた瞬間、巨大な白蛇はあっという間に体を縮めてレタの腕輪に戻ると、別の冷たく硬い肢体が抱き付いて来た。

「ああ、ああ、お母様、よくぞ御無事で……!」

「……悪い。心配を、かけた」

 自信は無いが、多分事実なのだろう言葉をぽつりと呟くと、父親にあまり似ていない金色の瞳がはっと揺れて、潤む。

「勿体ないお言葉にございます、お母様……なんと慈悲深くお優しいのでしょう……」

 ほろほろと泣きながらもう一度抱き付いてくるラヴィラに困り、自然と顔を仰のかせた時。

「――何だ、あれは」

 有り得ないものを、見た。

 空に、大地が広がっている。

 そうとしか形容できない。

 巨大な大陸が、広い水溜りが、空に広がり、金陽を遮ろうとしている。

 それは壁のように、ゆっくりと、こちらに倒れ込んで来ているようにすら見えた。

「……始源神イヴヌスの裁定が下されました」

 耳元で小さく呟かれ、レタは視線を娘に戻す。ラヴィラは酷く悲しそうな、それでいて既に諦めたような、静かな瞳のままただ囁く。

「もはや幾度目か数えることも意味をなさない、世界の終焉です。大地と海を折り曲げて、その中心にお父様を――崩壊神アルードを封じることにより、世界を完全に砕きます。その後、イヴヌスが新しく世界を創り上げるのです。いつも通りに、いつもと変わらず」

 信じられない事象を淡々と説明されて、息を飲む。

「っあいつは。あいつが、そんなこと――」

「ええ、ええ、お父様はそのようなこと、望んではおりません。何も――何も、望んではいけないのです」

 また、ぎゅうと冷たい腕で抱きしめられる。太さも力もまるで違うのに、何故か縋りつくようなその腕が、アルードに似ていると思ってしまった。

「お父様は、そのように創り出されたのですから。それを見越してイヴヌスも、ここ数千回は同じ方法を取っております。こうすれば否が応でも、世界が、お父様を中心に壊れ切るので」

 つまり、あのふざけた神は。

 全てを諦めた顔のまま。

 世界の全てを壊せるのに、何よりそれを望んでいるのに、始原神の意思ひとつで、また生まれ直させられるのだ。

「そして、この世界は生まれ直ります。もう一度、同じように、全ての神も竜も魔も。でも、ああ、でも――」

 むずかる子供のように、何度も首を振ってラヴィラは訴えてくる。

「お母様。人としてお生まれになって、お父様により壊されたお母様。お母様が、次の世界に生まれ直すことを、イヴヌスは決して許さないでしょう」

 ぴしり、と音がする。驚いて顔を戻すと、ラヴィラの喉がまた罅割れていた。

「わたくしは、混沌の淵に立ち、全ての命を見送るもの。その神域には、イヴヌスとて干渉して来ません。どうか、わたくしと共に参りましょう、お母様」

 美しい筈のラヴィラの声が軋む。これはきっと、彼女の役割を超えた誘いだからだ。神々は皆、最初に定められた理から抜け出すことは出来ない。それなのに、この美しい娘は、死を司る女神は。

「……い、や。いや・です。いやーーです、おがあ、さま。おか、あざ=…しな、な、で」

 砕けた喉から腐汁を零しながら訴える、しゃがれた声に呼応するように、ぎゅっと手首が締め付けられた。

 ラヴィラも、シブカも、恐らくアラムも――父の願いに呼応していたのかもしれない。滅びに通じる権能を持っているのに、終わらない世界に飽いて、それを終わらせてくれるかもしれない存在に傾倒したのかもしれない。

 そんなことは、やっぱりレタには、理解できなかったけれど。

「ふざけるな――ふざけるな!」

「お母、さま……?」

 噛み締めた口から悪罵を放つ。驚いて体を離すラヴィラの金の眼を見据え、はっきりと告げた。

「全部壊れようが、生まれ直ろうが、知ったことか……! その前に必ず、あいつを殺してやる!」

 理不尽な世界を跳ね除ける宣言を受けて。

 虚ろに見えた金色の瞳が、嬉しそうに揺れて、透明の雫が零れ落ちた。

「お母様、お母様……! ありがとうございます……! どうか、どうか、お父様の望みを叶えて差し上げてくださいまし……!」

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