◆5-4

私達の日々の生活は、神々の慈悲によって授けられたものです。

私達が神の慈悲を忘れ、祈りを捧げるのを止めてしまった時。

始原神イヴヌス様は嘆き悲しみ、再び崩壊神アルードの封印を解くでしょう。

オクトコルムナの盤をひっくり返すように、世界は滅びを迎えるでしょう。

(真神書・第八章第八節より)


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 割と甲高い、子供のような声だったと思う。迫力があるとは思えないのに、レタの体は弾かれるように寝台から飛び降りた。まるで、命じられた言葉に従うかのように、自分の意思と関わり無く。

「お母様! どうぞこちらでお待ち下さい。わたくしにお任せを!」

 同時に駆け出したラヴィラも、まるで何かに引き摺られているかのようにつんのめり、無理やり足を動かされるように走っていった。レタの体も全く抵抗を意に介さず、部屋を出て外に向かおうとする。

「く、そ……!」

 必死に歯を噛み締めて悪罵を叫ぶと、ちくんと指先が僅かに痛み、同時に体が自由を取り戻して床に膝を突いた。驚いて手を見ると、鎌首を擡げた白い蛇がしゅるりと手首に巻き直る。

「……お前がまた、助けてくれたのか?」

 ちかりと輝く赤い宝石のような目を見詰めるが、返事は無い。どちらにしろ、ラヴィラをひとりで放っておくのも据わりが悪い。自由になった足を動かして、廊下を駆け出した。

 先刻のような声は聞こえなかったが、外が騒がしいことに気付いた。剣戟の音と、地を駆ける重たい足元が響いている。中庭を覗ける廊下まで辿り着くと、庭の向こうで三つ首の狼が怒りのままに吼えているのが見えた。

「「「何の用だ戦神ィ!! 今此処で終焉を与えてやろうか!!」」」

「落ち着け、アラムよ!」

 相対しているのは、一度だけ見たことがある、アルードと親しいように見えた大柄な男だった。飛び掛ってくるアラムに対し、片腕で軽々と巨大な槍斧を振るい、猛撃をあしらっている。それがまた腹立たしいのか、アラムが再び激昂した。

「親父殿の留守を狙って現れるとは!」

「しかもあの小煩い秩序神まで連れてきたな!」

「今すぐその首落としてやるわ!!」

「ええい、いつになく苛立っておるな、やはり――おお、奥方殿!」

 次は三頭に分かれて襲い来る狼を振り払いながら、かなり離れている筈なのに戦神ディアランの目にはレタが見えたらしい。驚いているうちに、宙を二、三回踏んで、巨体に似合わぬ素早さでレタの目の前に着地した。

「いや騒がせて申し訳ない! 此度の訪問はあくまで、タムリィの護衛なのだ!」

 叫ぶように語りながら、後ろから迫ってくる魔狼に向き直り再び打ち合う。

「すまんが今暫し、お付き合い願いたい! いずれすぐあやつも――」

『黙りなさい、ディアラン』

 また、声が響く。先刻と同じもの。その言葉と同時に、ディアランは大口をばくんと閉じた。また、彼も何かに命じられるように動いたのだ、と感じると同時。

『全員、跪け』

 レタの体は、廊下の磨かれた床に押し付けられるようにへばりついた。

「っ、ぐ……!」

 何、と思う間もなく、完全に体の自由を奪われた。それはレタだけでなく、ディアランも、アラム達も同様だ。体の上から凄まじい圧がかけられ、腕どころか指一本も動かせない。

 やがて、足音が近づいてきた。音は軽い。這い蹲ったまま、どうにか視線を動かして見えた、人影の背も低い。恐らくレタよりも若干小さいだろう。体も細く、白絹で覆われたその姿は、幼い少年のようにも見える。見目は整っているが、目つきは鋭く、レタの体を睨みつけるように見下ろしていた。

 蔑みと苛立ちの籠った視線を送られるのは決して目新しい事でも無いので、眉間に僅かに力を込めて見返すことを選ぶと、少年は僅かに舌打ちをした。

 彼の服の裾からは無数の細い鎖が伸びていた。それに少年は足を引っ掛けてぐいと動かすと、レタの隣にごろんと体が転がってきた。恐らく同じように動けぬまま、鎖で拘束された黒髪の美しい娘だった。

「ラヴィラッ!」

「お母様……申し訳、ありません……!」

 そちらも首を動かすことすら出来ないのか、固まったまま心底申し訳なさそうに嘆くラヴィラを見て、我慢ならずレタは無理やり体を持ち上げようとして、少年の細い足で顎を思い切り蹴られた。

「が!」

「お母様ッ!」

 今までの体の重さが嘘のように吹き飛び、床を転がって、また動けなくなる。ここでやっと自分の体が重くなったのではなく、自分の意志で動かせなくなっているのだと知った。

「タムリィ! 何をしている、そのような狼藉はお前の役目ではあるまい!」

「黙りなさい、と言った筈ですディアラン」

「ぬぅ……、だが、こ奴はアルードの――」

「その名を私の前で出すのではありません。汚らわしい」

 ディアランはこの中で一番、言葉の効きが鈍いらしく、どうにか体を持ち上げるがぴしゃりと再び少年に封じられた。

 真白い少年は、心底不快そうにレタを見下ろし、もう一度顎を爪先で掬ってくる。その顔に嘲りや侮りは無く、ただ、ただ、それは怒っていた。まるで、理不尽を押し付けられたレタと同じように。

「崩壊神に踊らされた、哀れな石塊。慈悲を持って、私が裁きます。砕かれた理を戻し、純然たる秩序を取り戻すのが私の役目です」

 その怒り自体が不快だとでも言いたげに、少年は淡々とした声で続けた。なるほどつまり、こいつは――アルードとは全く正反対に、腹立たしい存在なのだとレタは理解した。好き勝手に使うか、好き勝手に捨てるかの違いでしかない。

「……どいつも、こいつも」

 口だけは何とか動かせた。酷く体は重いが、悪態のひとつは付ける。

「どいつも、こいつも……!」

 腹腔が熱い。これは怒りだ。どうしようもない理不尽しか押し付けてこない連中が、ただただ腹立たしい。司るものが秩序だろうが崩壊だろうが、腹が立つことに変わりはない。

 手首に巻き付いた蛇が、僅かに締まったように錯覚したが、そのおかげで拳を握り締められた。腕を地面に押し込めるように力を籠め、体を、起こす。

「な――馬鹿な」

 ほんの僅か動揺した少年の声に快哉をあげようと、無理やり首を持ち上げた時。


「あぁ。お前が一番邪魔だな」


 ぎご、と変な音がしたと同時。偉そうに喋っていた白服の男が、床にへばり付いた――否、床に埋まった――否。

 その体は一瞬で、半壊して床に散らばっていた。突然その上に現れた裸足に、踏み潰されて。

 黒い布に包んだ脚で残骸をゆっくり踏みしめながら、初めて見た時から全く変わらぬ姿で、傷一つなく、崩壊神アルードが嗤っていた。嗤いながら、心底鬱陶しいと言いたげな声で尚も吐き捨てる。

「折角気分良く夢を見ていたのに、台無しだ。タムリィ、お節介の使い走りめ。このまま全部砕いてやろうか」

「き、さま……! ふざけるな、まだその時では無い! イヴヌス様が望まれた時まで、暴挙を許すわけにはいかん!」

 驚いたことに、その身を半壊させたままでも、タムリィと呼ばれた少年は構わず喋り続けていた。そこに痛みや苦しみなどは無いのか、汗一つかいておらず、ただアルードが望まぬ動きをしたことだけを責め続けている。彼もやはり神である以上、体を砕かれた程度では死なないのだろう。

 当然のように言い募る言葉を、アルートは一度目を閉じて、聞き流すように頭を揺らし。

「知った事か」

 片目だけを開くと、数多の瞳孔がぎらりと輝いた。同時に、まるでその瞳孔がひとつひとつ分かれていくかのように、瞳に、瞼に、顔に皹が走っていく。罅割れた中から、涙と言うには酷く悍ましい、黒い粘性の液体が血のように漏れ出て、床に落ちると床ごと、どろりと溶けた。

「そも、あれに従う理由は、俺に無い。お前も知っているだろう? お前を砕き散らして、崩壊の狼煙としようか」

 残った部分の体に足を置き、ぐ、と力を込めると、タムリィの身体だけでなく、床にも、壁にも、空気にすらも細かく皹が走った。まるでこの空間そのものを壊しそうな有様に、いつの間にか重石から解放されていた体を動かそうとすると、冷たい腕の中に抱き込まれる。

「ラヴィラ、」

「今動いてはなりません……お父様がお怒りです……どうか今は、御辛抱を……!」

 潜めた声で必死に囁く切実な言葉に、抵抗を止めた。自分を抱きしめる腕が細かく震えていることに気付いたからでもあった。彼女も恐れているのだ、父親の力を。

 ――同時に、思い出してしまった。思いついてしまった。もう顔も忘れかけてしまっているのに、自分を抱きしめる細い皺だらけの腕を。

 あの女も、自分を守ろうとしていたのか、という事に今更、本当に今更、気づいてしまい、目の奥が酷く熱くなった時。

「アルード!」

 緊迫した空気を切り裂くような覇気の声と同時、走り込んできた男が振るった槍斧が、アルードの体に叩きこまれた。ぎん、という鈍い音だけで、片腕で受け止めてみせたが、その刃は半ばに食い込んでいる――当然、血も流れないが。神の力ならば、やはり神の体を傷つけることが出来るのだろう。

「ここは、抑えよ。タムリィの暴挙を見逃したは儂の咎、儂の顔に免じて許せ」

「は。お前の顔に何の価値がある?」

「曲がりなりにも、幾億と時が過ぎようとお前を友と思う者の顔だ。僅かばかりは汲んでくれ」

「ふん」

 嘲るような笑いを漏らすが、アルードはそのまま足を引いた。罅割れていた世界が、顔が、少しずつ埋まるように戻っていく。半分砕かれたタムリィの体は、槍斧を引いて背負い直したディアランが抱き上げた。

「タムリィよ。アルードの奥方殿については、いずれイヴヌス様が沙汰を下すと告げられた筈。汲んで先んじるのはお前の良いところだが、それが却って悪いことに転じることもあるのを忘れてはならん」

「……戦神に道理を語られるとは、不覚ですね。良いでしょう、私の過ちを認めます」

 歩くことすらできない体にも関わらず、タムリィの口調は崩れなかった。

「ですが今回の件については過たず、イヴヌス様にご報告をさせて頂きます。いずれお前も召喚があるでしょう、それまで余計な動きはせずに待ちなさい、アルード」

「聞く理由は無いな」

「やめんかお前ら」

 知った事では無いと言いたげなアルードから、ぎりりと歯を噛み締めるタムリィを遠ざけつつ、ディアランは踵を返す。途中で、レタの方を見て緩く頭を下げられた為、驚いた。曲がりなりにも神と言う存在が、自分に対して頭を下げるのかと。

「騒がせて申し訳ない、奥方殿。――今暫く、アルードの傍にいてやってくれ」

 理不尽な言い草である筈なのに、豪放磊落な彼らしくなく酷く静かな願いのような声に、上手く返事をすることが出来なかった。戸惑っている内、ディアランは大股で去っていく。

「――お母様! お母様! 凄いですわ、素晴らしいですわ、タムリィの縛りから抜け出せそうになるなんて……!」

 不意に後ろからぎゅうと抱きしめられて、身を固める。ラヴィラはすっかり感じ入った様子でレタの体にしがみつき、頭を撫で、頬を擦り寄せてくる。それだけでも困るのにどこか満足げにアルードがこちらを見ていることに気付き慌てて振り解いた。こいつの前でどのような隙も見せたくない。

「確かに悪くない――が、まだ足りないな。ただ待つのも癪だ」

 軽く肩を竦めて、先刻まで封じられていた筈の崩壊神は、心底楽しそうに、にやりと嗤った。

「ああそうだ、こちらから出向いてやろう。イヴヌスはともかくタムリィは、まだ早いと悔しがり転がるだろうな!」

 酷薄な笑みがアルードの唇を持ち上げ、金色の目が己を見下ろしてくる。嫌な予感からレタはすぐさま踵を返して駆け出そうとしたが、その時には襟首を掴まれていた。

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