◆5-3
戦いが広がり、私達が傷つくのを悲しんだ始原神イヴヌス様は、新しき神々を創って下さいました。
智慧女神スヴィナ様と、秩序神タムリィ様です。
このお二方がお生まれになり、私達は知と法を授けられたのです。
(真神書・第八章第五節より)
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「……此度、って」
「お母様にとっては、まだ解せないでしょうが――そも、神にも、竜にも魔にも、死というものは存在しないのです」
意味が解らずに目を瞬かせるレタに、死を司る女神は微笑んで、残酷で理不尽な真実を告げた。
「眠りはします。肉体を損傷すれば、癒すために動かなくなります。魂を砕かれれば、再び集めるのに時間はかかります。それでも、それでも――決して、死にはしないのです」
驚きと衝撃に目を見開いたままの母を宥めるように、冷たい手指でそっとレタの手の甲を撫でながら、ラヴィラは言葉を紡ぐ。
「イヴヌスが混沌から創り上げた真円の世界を、お父様が砕いて壊し、混沌に還す。これが原初の理でございます。イヴヌスが他の神々を創り、原初の七竜を創り、魔が零れ落ちて人を創りました。そして世界が飽和したら、壊して還し、再び創るのです」
「何の、ために」
思わず問うた。そんな、何の意味も無いことを繰り返すなど、理解できない。ラヴィラはやはり、困ったように笑ったままだった。
「理由など、無いのです。勝負が終わった後に、オクトコルムナの盤をひっくり返すように。この世に生まれるものすべて、この世から死ぬものすべて。すべてに、すべてに、意味など無いのです」
声は変わらず優しいのに、酷く突き放されたようで、レタの喉が詰った。否定したいのに、何も言うことが出来ない。きっと、恐らく彼女は本気で、――意味など要らない、のだろう。多分きっと、他の神々も。
「そしてあの女は、魔女王ヴァラティープは、生まれる度に王となり、生きる度にお父様に恋をして、お兄様か、戦神か、お父様に討たれる――それが必ず訪れる、あの女の終焉にございます。これもまた、イヴヌスの定めた、理なのです」
まるでお伽噺のように淡々と告げられる言葉を、レタは俄かには信じられなかったが、そんな言葉で、ラヴィラが自分を惑わすとも思えない。あの、狂おしく叫んだ傲慢で残酷な女が、本当にそんな終焉を望んでいたのだろうか。或いは、それでも構わない、と思っていたのだろうか。
何故か、あの女が哀れに思えた。きっと酷く、偉そうな考えなのだろうけれど。
自分の中に常にある苛立ちが、棘を増やして心臓を刺してくる。唇を噛んで耐えていると、冷たい掌がレタの手を包んだ。はっと顔を上げると、ラヴィラは金色の瞳を僅かに潤ませて、微笑んでいた。
「ですが、此度。お母様は間違いなく、あの女を殺して下さいました」
真っ直ぐに金の瞳で見つめられて、本当に嬉しそうに、そんな事を言われて。レタはやっぱり、どうすれば良いか解らなくなった。
「始原神が作り上げた理は、『魔女王は暴虐、戦、崩壊、どれか一柱の神に屠られる』。お母様はこの理を、壊し砕いて下さいました。それが、ラヴィラがお母様に頭を垂れる理由であり、お父様が、お母様をお選びになった理由でございましょう 。本当に、得難い幸福としか申し上げられませんわ」
「まて――ちょっと、待て」
あまりにも理解の埒外の事を言われて、取り敢えずレタは静止の声をかける。
生まれてから、死ぬまで、否。死なずに、死んでも――その生き様全てが、頂点の神によって決められているとでも言うのなら。
「俺も――人も、そう、なのか? あの教団も、奴隷も、全部。そうなるように、決められたのか?」
生まれたことを呪ったことがある。生きていることがとても辛かったことも。それでも死にたく無かったし、生きる為なら何でもやった。それを決めて来たのは、他ならぬレタ自身の意志だ。何の疑問も無く、そう思っていた。
それなのに、生も死も全て、最初から決められた理の通りに明滅するだけのものが、命だとするならば。意味など無いと、するのならば。
悔しさに歯噛みするレタの肩を、ラヴィラはそっと抑えた。彼女にとっては、レタがここまで混乱している理由を理解しきれないようで、どうか御心をお鎮め下さいと言いながらも言葉を続けた。
「いいえ、人に始源神が与えた理は、この世界を構築する神に奉仕すること、その一点でございます。故に人は、獣達と同じ定命と繁殖の力を、鳥獣女神スプナより与えられました。神でも竜でも魔でもない――お母様はお怒りになるかもしれませんが、人は、それだけのもの、なのでございます」
それだけ、と言いながらも、ラヴィラの言葉はどこか熱に浮かされているようで。
「だからこそ。だからこそ、お母様ならば――全ての理を壊すことが出来るのだと、ラヴィラは信じておりますわ」
金色の瞳が潤んだまま、真っ直ぐにレタを貫く。其処に溢れる感情は、期待だ。どうしようもないほどの。
「どうか、お父様の願いを叶えて下さいまし。お父様に、本当の終焉を与えられるのは、きっと――」
声が不意に途切れた。同時に、ぎち、という何かが引き攣れる音がして――真っ白に晒されていたラヴィラの首に、突然皹が入った。
「っ、な」
「お、父様ののz==ガg――==..=」
同時に、彼女の柔らかい唇の中から、聞くに堪えない、錆びついたような雑音が吐き出された。言葉が発せられる前に、ぐしゃぐしゃに砕いて潰されたように。それと同時に、石がはじけるような音が続き、彼女の喉が、唇を動かすたびにひび割れて、中から酷い臭いを放つ腐汁が溢れてくるのをレタは見て。
「っもういい! 止めろ、もういいから!」
信じられない光景に、彼女が「言ってはいけない」ことを言おうとしているのだと理解して、レタは弾かれたように彼女の両肩を掴んで止めた。ラヴィラは驚いたように目を見開き――にっこりと、嬉しそうに微笑んだ。
「ぉ母様、ラヴィラの身を案じて下さったのですね。感激ですわ」
そう言われた言葉は元のような、鈴を転がすような美しい声音で安堵する。首に刻まれた皹も、砂が風で動いて足跡が消えるように、見る見るうちに消えていく。
……不意に、魔女王の城で、レタを助けなかった為に黒い液体を吐いた狼達のことを思い出した。彼らも、理というものに対し、己の意思で従っているわけでは決して無く、ただ逆らえないだけなのではないかと、否が応にも理解できてしまって。
「ラヴィラ……」
「はい、お母様」
「神ってのは……一体、何なんだ……?」
途方に暮れた上で、呟いたその言葉に。
「……神はこの世界の理。それ以上でも、それ以下でも無いのです」
死女神はただ、それだけを返した。
×××
傷が癒えて――正確には古傷以外が癒えて、暫く。レタとしては信じられないほど、穏やかに時が過ぎた。
ラヴィラは毎日何くれとなくレタの世話を甲斐甲斐しく焼いた。食事だけでなく湯汲みや本の朗読、身嗜みの整えや遊戯の教示まで。
シブカは何も語らず動かず、ただレタの腕輪としてじっとしていた。話しかけても応えは返って来ず、手首が漸く元通りになった神の紐に包まれてもすぐに浮かび上がり、脱いでも邪魔にならずに擦り抜ける。不思議で不気味だが、慣れてしまった。
アラムは――決して神殿の中に入ってくることは無かったが、庭を三体に分かれてうろついているのをよく見た。妹の神殿を守ると同時、レタの見張りもしているのだろう。見かける度に睨みつけてくるが、罵声を放ってくることは無かった。
アルードは、一度も顔を見せなかった。ラヴィラの言うとおり、始原神イヴヌスによりずっと封じられているらしい。彼女曰く、人間における睡眠とあまり変わらないらしいけれど。
あの傍若無人を絵に描いたような奴が、縫いとめられ自由を奪われている。快哉を叫んでもいい筈なのに、何故かレタの心は浮き立たなかった。別にあれの身代を心配しているわけでは勿論無い。ただ――酷く、納得がいかなかった。神は理そのものであり、従う以外に無いのだと、ラヴィラにあれだけ言われても。
眉間に皺を寄せたまま、寝台の上に広げられた盆を見下ろす。円型の盆の上に、美しく模られた十二個の駒が並べられている。まるで人をそのまま指で抓める程に小さく縮めたように、細部まで精巧な人形だった。
そのうちのひとつを悩みながら抓もうとして、きゅっと手首が締め付けられたので止める。もう一つ隣に指を動かすと今度は反応が無かったのでそちらを抓んで動かした。
「まあ、シブカ。お母様の手助けをなさいましたの? 勝手を申し訳ありませんわ」
「……いや」
向かい合うラヴィラに教えて貰った遊戯のルールを未だ全て把握できていないレタにとって、助言は有難い。
盤の上で駒を互いに動かして陣地を取る遊戯、オクトコルムナ。ラヴィラ曰く、始源神イヴヌスが人間の慰めとして与えたもの、だそうだが、生まれてこの方レタの目に入ったことは無かった。もしかしたらあの教団のお偉方は興じていたのかもしれないけれど。
やがて、善戦はしたもののラヴィラに一番強い駒を取られて、何十回目かの敗北を喫した。
「下手を失礼致しました、お母様。もう一度始めましょうか?」
溜息を吐いて首を振る。この遊戯自体は嫌いではないが、少しずつ自分の体が鈍っていくような感じが嫌だ。時間を作って剣を振ってはいるものの、命を賭けて戦わなければいけない状況では無いという事実こそが、レタを鬱屈させてしまう。何せ生まれてこの方、初めてのことなので。
ラヴィラは無理強いせず遊戯盤を片付けようとして、ぴたりと動きを止めた。笑顔が消え、寝台から立ち上がる。
「ラヴィラ?」
「少々、お待ち下さいお母様。狼藉者が――」
不審に思って名を呼ぶと、どこか緊張を孕んだ声が途中で途切れた。凄まじい大声が、この建物全体に響いたからだ。
『――秩序神の詣でである!! 出てくるが良い、アルードの妻とやら!!』
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