◆5-2

しかし、おぞましき魔は神々の隙を突いて、私達を脅かします。

他人に対する悪意、恨み、妬み、嫉み……それらは全て、魔の糧となるのです。

嘗ての神人達は魔に踊らされ、互いに争い始めました。

その時、私達を守ってくださったのが、戦神ディアランです。

(真神書・第八章第四節より)


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 ゆらりと、意識が揺れる。くっついてしまったような重い瞼をどうにか動かすと、霞んだ視界に自分を覗き込む黒髪の美しい娘がいた。

「――お母様、御目覚めになったのですね。……よくぞ御無事で……!」

 すぐに相手はレタの覚醒に気づいたらしく、沈んでいた顔を見る見るうちに破顔させ、目尻に涙を浮かべながら安堵の息を吐いて見せた。大げさな反応に、それでも今は安堵を覚えてしまって――身を捩ったところで、全身に激痛が走った。

「ぐぅ……!」

「嗚呼、お母様! まだ動いてはいけません、皮膚の再生が終わっていないのです。どうぞ、今暫しご自愛くださいまし……」

 堪らず悲鳴をあげると、宥めるようにそっと、ラヴィラの冷たい手が頬や肩を撫でてくる。

 少しずつ、あの熱を孕んだ城でのことを思い出す。成程、あれだけの火傷を負えば動けぬぐらい全身が痛いのも当たり前。それでも――どうにか持ち上げ、視界に入った己の腕は、その三分の一程が既に瘡蓋が剥がれ、まだ薄桃色の新しい皮膚が張っていた。人間ではありえない速度で、傷が癒えているのだ。他の古傷は当然のように残っているのが、奇妙過ぎて眉を顰めた。

「もう一眠りすれば、ご自由に動けるようになりましょう。それまで、御辛抱くださいましね。神の紐もそれまでには、お母様に相応しい姿を取り戻すでしょう」

 言われて、自分が素裸に黒布を一枚かけられているだけの姿であることに気づく。今更彼女に対して羞恥心も無いが、自分の体を見るのはあまり気持ちのいいものではないので、その薄布に安堵する。

 暫く、沈黙が続く。レタとしてはラヴィラは良く喋る娘だと認識していたのだが、レタに負担をかけない為に口を噤んでいるらしい。却ってその方が居心地が悪いので、大分痛みの取れた喉に無理やり唾を飲み込み、口を開いた。

「……ラヴィラ」

「はい、お母様。何かご入り用ですか?」

「アラムと……シブカ、か。あいつらは、無事なのか?」

 言ってから、神という名の化け物の身を案じる己を随分おかしいと感じたが。ラヴィラは気にした風もなく、寧ろとても嬉しそうに答えを返して来た。

「はい、お兄様達はお母様をこちらへ送り届けた後に、神域の守護に戻りました。シブカの方は――その、大変申し訳ありませんが、お母様の傍から離れたくないと」

「?」

 困ったようなラヴィラの声に、口に出さずに疑問符を提示すると。彼女は恭しく且つ慎重に、先刻持ち上げた方とは別のレタの腕に手指を添え、そうっと掲げた。

「……あ」

 小さく驚きの声を上げる。重さも何も感じていなかったが、手首に、真珠色に輝く腕輪がきっちりと嵌められていた。隙間なく、まるで腕に絡みつき、己の尾を咥えた蛇のような意匠で――

「まさか。……これが?」

 いい加減神々の出鱈目さには慣れたつもりだったが、それ以上のことがすぐに起きてしまうのが腹立たしい。確かにあの巨大な蛇が、自分の腕に巻き付いた記憶はあったが、落ち着いてみると意味が解らない。

「はい、恥ずかしながら末弟のシブカですわ。意識はございます、ご命じになれば如何様にも役立ちましょう。どうぞ、お邪魔にならない程度にお使いくださいまし」

 そう言われたものの、見た目だけならただの腕輪にしか見えないものをどう扱っていいのか戸惑う。それより何より、

「――こいつも、お前も。どうして、お前達は」

 寝転んだまま、視線を動かすと、ラヴィラはやはり微笑んでいる。どんな事でもお答えいたしますと言いたげに。それほどまでに、己の存在が大切なのだと、言葉や態度で示されて――やはりレタは、納得がいかなくて、戸惑う。

 生まれた時から、己に価値など与えられなかった。十把一絡げの奴隷として、ただ消費されるだけの存在だった。

 それが悔しくて、このままただの死体にだけはならない為と、目の前に立つものを殺して、殺して、殺していって。

 それでも、上の者からの扱いは何ら変わらず、諦めの目を持つ他の奴隷達からも忌み嫌われた。

「アルードも……アラムも、解る。ああいう扱いには、慣れてる。でも、お前達は違うから」

 己の事を慰み物、何の価値もない物だと扱われるのは、許せないが理解も出来るのだ。己はそういう存在なのだろうと思うし、それを認めたくなくて激昂と共に刃を振っているけれど。

 それなのにラヴィラは、こんな己のためにせっせと世話を焼き、怪我を負ったことを嘆き悲しんでくれる。シブカは、一度ならず二度までも、己の命を助けてくれた。そんなことをされるのは、初めてで。どうしたらいいのか、とても、困る。

 困惑のまま、上手く言葉を紡げないレタをどう思ったのか。ラヴィラは、ゆるりと金色の目を細めて微笑み、宥めるように寝転がったままの手をそっと撫でてくる。

「……お母様。ラヴィラにとって、お母様は、この身を捧げられるほどの大切な方です。何故なら、お母様は――」

 そしてレタの身に負担の無い程度に、きゅっとその手を握りしめ、祈るように、また誰にも聞かせたくないというように、耳元で囁いた。

「神の理を破壊することの出来るかもしれない、唯一のお方だからです」 

 言葉の意味はやはり解らなかったけれど、泣きそうな声に聞こえた。

「……ラヴィラ」

「はい、お母様」

「……、」

 色々聞きたいことは山ほどあるのに、今まで言葉を碌に使ってこなかったレタには、上手く質問を構築することが出来ない。考えて、漸く絞り出せたのはやはりアルードのことだった。

「あいつは……アルードは、今どこにいる?」

「お父様は――全くもって不本意ではございますが、現在、封じられております」

「封じ?」

 聞き慣れない言葉に首を傾げると、ラヴィラは普段の笑顔をほんの少し陰らせて、それでも淡々と告げた。

「魔国を滅した罪を海原神に告発され、始源神による封じを受けました。現在は南海でお眠りになられています。刑期は五百年程になりましょう」

「な」

 聞き捨てならない言葉を聞いて腰を浮かせる。留めるように腕輪が締め付けてくるけれど、気にせず叫んだ。

「五百年だと!? ふざけるな、今すぐあいつのところに――」

「落ち着いて下さいまし、お母様。もう既に半分は過ぎ去りましたので、あともう暫くすればお戻りになられますわ」

「……何を、言って」

 そっと肩を押さえられ、当然のように言われた。驚きや苛立ちよりも先に、ずっと感じていた違和が形になった気がして、浮かせた腰を下ろす。

「……ラヴィラ」

「はい、お母様」

「俺はどれぐらい、寝ていた?」

「そうですわね……二百年程、でしょうか。最初に御目覚めになった時からでしたら、もう千年程前にございます」

 信じたくない事実を、ゆっくりと噛んで含めるように言い渡され、軽く眩暈がした。いつの間にか自分は、人の寿命をとうに超えていたのだ。己が人ならざるものに成り果てたということは解っていた筈なのに、引き攣る胸が滑稽だった。

「お母様……申し訳ございません。お母様が辛いお気持ちになられるかと思い、伏せておりました。どうぞ、お叱り下さいまし」

 ふと顔を上げると、思ったよりも泣きそうなラヴィラの顔が其処にあった。神の癖に人の心の機微を慮るのか、と嫌な気持ちが浮いてくる。唇を噛んで堪え、息を吐いて落ち着く。

「……違う。お前を責めても、如何にもならないことは、解ってる」

 自分に言い聞かせて憤りを散らしていると、逆にラヴィラはもっと泣きそうな顔になってしまった。

「嗚呼、お母様。何て、お優しいのでしょう。……申し訳ございません、お母様はきっと、この世界の理について何もお知りにならないのですね?」

「世界の、理……?」

 そんなものが本当にあるのだろうか。あのふざけた教団が長々語っていた、お題目のようなものが理などと認めたくない。レタの不満を感じ取ったのか、ラヴィラはちょっと困った顔をしたまま、話し始めた。

「どこから、お話すれば良いのでしょうか。御不明な点がございましたら、いくらでも仰って下さいまし」

 そう前置きして、ラヴィラは黒い唇を開く。人間にとってはあまりにも広く遠い、神の理というものを語る為。

「あの女――魔女王ヴァラティープが、神以外の者に命を獲られたのは、なのです」

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