神とは何か

◆5-1

金陽神アユルスは温もりを、銀月女神リチアは安らぎを。

そして海原神ルァヌは恵みを授けてくださいました。

鳥獣女神スプナの慈悲をもって、私達は大地に生きる術を得ました。

魔に侵されぬ美しい大地を、私達は神々より貸し与えられたのです。

(真神書・第八章第三節より)


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 広大な海に、穴が開いていた。

 擂鉢状にごっそりと、底まで水が抉り取られ、巨大な盆地と化しているのだ。水は本来の理を失い、流れることも動くこともない。

 そこに存在していた水が、生物が、海底が、その下にあった魔国までもが――全て全て、崩壊神に抉り砕かれたからだ。世界を作り変えた神は、その穴の中心を見下ろす空に浮かびながら、別に大した仕事をしたわけでもないと言いたげに、つまらなそうに息を吐く。

「――まさか、このような事になろうとは」

 不意に、アルードのものではない声が聞こえ、巨大な穴よりも僅かに離れた、未だ水を湛えた海原が持ち上がり、ざぶりとその身を現す。

 滑らかな濃い藍色の鱗が、水を滑らせて落とす。アラムよりも更に巨大な、流線型の体から伸びた、長い首。その頭を彩る額冠のような鰭と、透き通った水色の、縦に長い瞳孔を湛えた瞳。

 まるで海の水を固めて作り上げたような美しい海龍、その頭の上に立ち上がってアルードを見下ろす男が一人。

 年の頃は見た目だけなら、そうアルードと変わりない。竜と同じような藍色の長く真っ直ぐな髪を身長よりも伸ばし、竜の額に絡めた美しい男は、しかし笑顔一つ見せずに、油断なくアルードを睨み付けながら口を開く。

「貴様が、ここまでするのも珍しいことだ。せいぜいが、地下の国の外壁を壊して海に沈めるぐらいが常だったものを」

「興が乗ったんでな」

 男と龍に睨み付けられながらも、アルードは僅かに口元を上げて嗤って見せた。不快な笑みに男はますます眉間に皺を寄せたが、まるで宥めるように龍が僅か、笛の音のような細い鳴き声を喉から立てると、肩の力を抜いてそっと龍の角を撫でてやっている。

「この海原神ルァヌ、そして私が伴侶、水龍ナヤンブの愛でるべき地、その理を砕いた罪は重いぞ、崩壊神。此度の件については全て、始源神様にご報告させて貰う」

 睨み付けられたまま、告げられた言葉に、アルードは心底興味なさげにひらひらと片手を振る。好きにしろ、と言わんばかりだ。世界の一部を粉々に砕き消したこの神には、疲労も、一仕事を終えた満足感も無い。ただ、いつものことをいつもの通りにこなしたのだと言いたげに、黙ったままだ。

 返答しない崩壊神に対し、海原の神は不満げに息を一つ吐いたものの、最早視線すら向けず。己の伴侶である水龍の頭の上にしゃがみこみ、鱗で覆われた肌をそっと撫でる。

『――――!!!』

 それに答えるように、竜は咆哮を上げる。海が震え、波が立ち、水底が揺れる。水壁は砕け、今までの不自然さが嘘のように海底へとその腕を伸ばしていき、一刻も経たない内に水の穴は消え去り、静かな海面を取り戻した。

 僅かな波の音だけを湛えた海を満足げに見遣り、ルァヌは改めて崩壊神を糾弾すべく見上げる。彼にとって海は、始原神に与えられた己が司る場所であり、伴侶と共に守るべき大切な場所だ。これ以上崩壊神がこの海上に居ることすら耐え難かった。

「しかし――まさか魔女王を殺したというのか、人が――」

 故にその言葉は、思わず漏れてしまった小さな呟きだったのだが。

「ああ、そうだとも」

 耳元で囁かれ、背筋が凍った。振り仰げば其処にいつの間にか其処に、黒尽くめの神が立っている。両の口端を思い切り吊り上げた崩壊神が、酷く神経を逆なでする顔で笑っていた。

「殺したとも。ああ、殺した。人疑き、否、もはや神疑きだ。そいつが振った神の紐で、両の心臓を潰してな!」

 崩壊神は笑う、笑う。自分の計った企みが、上手くいった嬉しさを堪え切れずに。

「ああ、だから今日は機嫌が良いんだ。イヴヌスの言う通り、魔が巣食う国は全て砕き尽くして海に沈めてやったとも。理の通りにしてやったさ、何も問題は無いだろう!? はっはははははは!!」

 宙を裸足で歩き回りながら、崩壊神は笑い続ける。その様を見ながら、ルァヌは心底不快に思い、苦虫を噛み潰したような顔で言った。

「これで満足か、崩壊神。秩序神は既にこの事を全ての神と竜に伝えた。いずれ貴様達には始源神様のお呼び立てがあるだろう」

「ははは! だろうな、そうだろうな! あの堅物はさぞかし大慌てだろうさ! 神の理は、既に一つ欠けたぞ、ルァヌ! 誰よりも何よりも、俺はこの事実を祝福する! ははは、生まれてこの方初めてだ、何かを祝福するなんてな!」

 まるで酒に酔い歌うように、両腕を広げて朗々と宣言したアルードは、跳ねるように飛び上がり、更に中宙に浮かぶ。それを追うようにルァヌは叫んだ。

「これから何を行う気だ! お前は、これ以上何を求めるのだ!! 本気で、全ての理を砕くつもりか!」

 叫びには嘲りがあった。そんなことが出来るわけがない、叶わぬことを足掻き続ける愚者に向けての罵声だった。それなのになのか、だからこそなのか――堪え切れずにアルードは声を上げて嗤う。

「はっは! 気に病むなよ海原神、お前はお前の理を守り続ければ良い! 俺も、全てを壊すとも! その為に崩壊神おれは創られたのだからな! ははははははは――!!」

 皮肉にしかならない言葉を叫び、崩壊を司る神は嗤い続ける。その不快さに耐え切れず、海原の神は宣誓した。

「――此度の貴様の罪はひとつ。魔国を潰す為とはいえ、我が妻の愛する海を削り壊し、生きとし生けるもの全てを滅ぼしたこと。故に海原神ルァヌの名において、崩壊神アルードの糾弾を望む。始源神イヴヌスよ、許可を!」

 朗々とした声が海原に響いた瞬間、アルードはぴたりと笑うのを止めた。金色の異様な瞳は、輝きを忘れたように、全ての瞳孔がどろりと濁った。

 それを許さぬかのように、空が煌めく。海に負けぬ程の青く遠い空に、星が――否。光り輝く巨大な槍が、所狭しと並べられ、雨の如く、降り注ぐ。まっすぐに、全て、崩壊神へ向けて。

 アルードは指一本動かさず、その光の雨を受けて――

 彫像の如きその体は、ばらばらと崩れ散って――

「……ああ。全く――」

 僅かな溜息と共に、その体は全て、海の奥底へと沈んでいった。

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