第61話 時間

 コンコン。ドアを叩く音が聞こえる。

 僕は急いで玄関に向かってドアをゆっくり開けた。姿が見える前にホワイトムスクの香りが先にはいり込んでくる。やってきたのが莉望だとすぐにわかった。



「景さん、ご飯食べに来たよ」



 時計の針を確認すると、19時前になっていた。お腹の具合からすると、まだ夕方に思えたのに。まぁ、パンを食べたし、考え事もしていたし、時間が勝手に進むのは不思議ではないけれど、まだ少し整理をする時間が欲しかった。

 だから莉望を見て、考えもせずに抱きしめてしまったのだ。



「莉望。ありがとう」



 こんなはっきりもしなくて、じれったいだけの僕を好きになってくれて……。心の中で言えない想いをなぞる。

 初めて出会った日、一昨日もこんな風に抱き合ったなぁ。

 ――この時気づいた。もうあの時には始まっていたこと。むしろ、あの瞬間があったから莉望を意識し始めたのだと、気づいてしまったのだ。



「え、ちょっと!? 景さん」



 戸惑った声で莉望は優しく僕に腕を回した。触れたところからじわじわと熱が広がって、僕の全身が、細胞が鼓動に踊らされているようだった――。






 玄関でどれくらいの時間を過ごしただろうか。



「ねぇ、どうしたの? 景さん。昨日と今日、変だよ」



 この莉望の言葉がなければ、まだ、ずっと抱き合ったままだろう。そんなことを考えながら僕は「ううん、大丈夫」と答えて莉望を部屋の中に入れたのだった。



「ごめん、お腹すいたよね」



 僕がそう言ってスマホを出すと、莉望は「あ、大丈夫」と断りを入れた。



「え、どうしたの? 具合でも悪い?」


「ちがう……。その、胸がいっぱいで」



 顔を俯いて、耳まで真っ赤にした莉望に僕は黙り込む。ドクンと跳ねた心臓にびっくりしたからだ。



「……だって! しょうがないでしょ、好きな人に抱きしめられたら、その……嬉しいに決まってる」



 莉望はそう、口ごもらせながら話す。



「そっ、か……」



 また、沈黙が生まれた。僕は耐えられなくてゲーミングPCの前に座る。すると、莉望は「私もやる!」と、もう1つのPCの前に座った。






 僕らがやったゲームは“影絵シューティング”という堀部さんが作ったものだった。ルールは簡単で、右上に出る画像と同じものの、影絵を打ち抜く、というものだ。的は障子で、撃つと障子の鈍い音が心地よく、リアルに響くのだ。


 正直、僕はこのゲームが苦手であった。なぜなら画像そのままでなく、影絵を正確に思い出す必要があったからだ。しかも、影絵に関しては無知である。知っているものといえば、ちょう蜘蛛くもくらいだ。




 ――でも僕の反射速度なら勝てると思っていた。この、ボンッという障子の音がリズムよく流れるときまでは。






 ゲーム中の緊迫感がリザルト画面で解かれる。

 そして莉望が立ち上がった。



「やった~! 景さんに初めてゲームで勝った!」


「すごっ、なんで迷わずに撃てるの?」


「え、だって私病院で育ったから、こういう“子ども遊び”は看護師さんがよく教えてくれたんだ!」



 まさか知識で負けるとは……。でもそれだけじゃない。反応速度だって前より良かった。それに正確さも磨かれているし。

 なんなんだ莉望は。なんでこんなにも才能ばかりなんだ。……天使だからか?

 ならそれを僕は破る。

 こうして莉望は負けず嫌いな僕に火をつけた。それから疲れて眠るまでゲームを対戦していた。






 この時の僕は目の前の敵、莉望にいっぱいいっぱいで、訪れる未来に完全に油断していたのだ――。

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