第58話 感情

 帰る途中、建物に入る前。莉望が「昼も思ったけど、外装は病院みたいだね」と僕らが住む家を指さした。

 たしかにアパートでも、ビルでも、マンションでもないし、縦よりも横の方が長く、病院のように大きい。



「莉望は病院、嫌だよね?」



 確認するような僕の言葉に「今は平気! 景くんと出会えた場所だもの。景さんと再会した場所だもの!」と莉望は笑った。

 うすい夕焼けに染まる莉望の肌に、綺麗に反射する莉望の瞳に僕は吸い込まれそうになる。

 あまりに耐えられなくて僕は莉望を視野から外した。

 まっすぐで素直な莉望は好きだけれど、その反対に心の内を見せる覚悟のない僕に嫌気が差す。

 この偽物の空のように、青とオレンジがうまく混ざらないように、僕の感情はごちゃごちゃだったのだ――。






 部屋の前で莉望は立ち止まった。



「今日もご飯、一緒に食べてもいい?」



 断れるはずのない莉望の提案に、僕は「いいよ」と答える。



「ありがと! ちょっとトイレだけ行くから待ってて」


「わかった」



 こうして僕らはそれぞれの部屋に帰った。






 ボフッ。疲れた……。僕は布団に飛び乗った。

 莉望に出会ってまだ2日に過ぎないのに、僕の体は疲れ果てていた――。






――――――






 ん、ん~……。

 あれ? 今何時だ?

 時計の上の針が“90”になっている。あ、寝てたのか……。

 あ! 莉望!!!!

 莉望の部屋に行かないと――。

 ベッドに手をついたとき、不思議な感触が腕に走る。


 ……莉望!?

 隣に眠っている莉望がいた。今眠っているってことは……レム睡眠の前ってことだからまだ眠りが浅いのか?

 じっと動かない莉望を僕は見ていた。

 肌はつやつやで髪はサラサラで、見ているだけでドキドキするし、ましてや莉望に触れたいと思ってしまう。

 ――さっき、帰って来る時だってそうだった。無意識だった。無意識に莉望の手に触れた。白い声が魅力的で、笑顔が可愛くて、隣に居たくなって思わず掴んだ。まるで焦っていたかのように――。

 はぁ……、苦しい。

 こんなにも近くにいるのに、こんなにも向き合うのが難しいなんて……。

 僕はさっきまで温かかったはずの手をギュッと、爪の痕がつくまで、握りしめていた――。






「んっ、んん……。

 あ、景さんおはよう」



 莉望が眠たそうな、ほわっとした顔でそう言った。



「あ、うん。おはよ……」


「……どうしたの? そんな顔して」



 莉望がぽかんとした顔をしながら、首を傾げた。

 その顔に僕はもっと困ってしまう。



「ううん、大丈夫だよ」



 と、嘘でも言っておく。莉望はそんな僕に「また難しいことでも考えてるの?」とあっさりと笑った。

 僕は黙り込んだ。



「そんなに悩んでるなら、私はここにいない方がいい?」



 莉望の問いに僕はすぐに答えられなかった。

 だって側に居てほしいと思ったし、でも莉望に側に居られたら僕の心臓は壊れてしまいそうだから。


 空いた時間に莉望は悲しそうな顔をして「また、明日ね」と歪な笑みを見せた。気を遣ったその笑顔に僕の心はてつく。

 そんなどうしようもない僕から莉望は離れていった。

 莉望の去っていく姿や残り香から、僕は逃げるように布団をかぶる。混ざった感情に見て見ぬふりをしながら──。






 ――それからどれくらいの時間が経っただろう。

 僕は何をしていたっけ。

 時計は“60”が一番上で、針は14時32分を指している。

 隣の部屋、莉望の部屋から物音はしない。

 怒っていてもおかしくないし、もしかしたら泣きじゃくっているかもしれない。

 ましてや莉望の事だ。僕なんか忘れて、やりたいことをやっているかもしれない。

 まぁ、会いに行くのは後でいいか……。






『景さん、元気になったら会いに来て』



 偶然見たスマホ。莉望からのメッセージに気づいて仕方なく僕は起き上がった。



 そして莉望の部屋のドアをノックする。

 コンコン。

 中から返事はない。



「入るよ」



 僕はそう言って莉望の部屋のドアノブを捻った。

 しかし、中には誰も、莉望の姿はなかったのだ──。



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