第55話 想い
「私ね、景さんと会ったことあるんだと思う」
莉望はそう言いながら鼻をすすり上げた。
「え?」
「覚えてない? 景さんが入院してた時、階段の前に立ち止まっていた、この髪より少し長かった私を」
そう言われて僕はハッとする。
莉望がセミロングの髪形をした時に見覚えがあったのは、病院の朝ごはんを思い浮かんだとき、絶対牛乳だって思ったのは、僕が、幼い昔の僕が、すでに体験していたからか。
納得して、さらに記憶が確かになっていく。
「思い出した、よ」
語尾に迷いが出るくらい、僕は困惑していた。
「久しぶり、景くん」
「……久しぶり」
「私、景くんみたい退院できなかったんだ。
あの時、外に行ってみたくて、でもエレベーターの使い方はわからなくて、階段の前でどうしようか迷っていた私に、声をかけた景くんはこう言ったよね。“今降りてみてもいいと思うけど、退院した階段を降りれるよ。それまで待ってもいいよね”って。
ずっと私、退院することを夢見てたんだけどなぁ。無理だったの」
実はね、というように、初めて死んだことを話す口ぶりで莉望は音をつないでいた。
「景くんは私と出会った次の日に退院したんだよね。でもその後もずっと、景くんの言葉を思い出して、退院して階段を降りるっていう夢を思い続けていたんだよ。
あ、そうそう。あなたの名前が“景くん”っていうのは看護師さんからの呼び名で知っていたの。
ずっと探してた。私が初めて、胸の温度を上げたのは景くんの言葉だったから。
すっと会いたかった。会えるなんて思ってなかったよ」
肩をすぼめて、ぼろぼろと涙を落とした莉望は最後にこうつぶやいた。
「ずっと、ずっと好きだった」
時間が止まったかと思った。思わぬところで想いが通じていて、でも僕はどう答えるのが正解かわからなかった。わずか、ほんの1ミリ、僕の気持ちに嘘をついた方がいいと、頭の中で誰かが言った。
あまりの沈黙に莉望の方が先に口を開く。
「ごめんね。景さん。
びっくりだよね。こんなこと言われて。迷惑だよね、ほんと。
私、わかってるから、つい言っちゃっただけだから……、景さんさえよければ変わらず接してほしい。ダメ、かな?」
俯いていてもまだ声は泣いているし、足元に水たまりはできているし、莉望を想ったら、好きだと想ったら「大丈夫、何も変わらないよ」と僕はそう言っていた。……自分の首を絞めながら。
「ありがとう」
顔を上にあげて、ぐちゃぐちゃな顔で莉望は笑った。すっきりとした雨上がりのような笑みだった――。
僕は莉望の前に水の入ったコップを置いた。堀部さんのように静かに、僕は莉望が落ち着くのを待っていた。
「景さん、ありがとう」
水を喉に通してから莉望はそう言った。僕は「うん」とだけ返す。
潤った天使は「勇気を出して聞いてよかった。景さんがやっぱり神様だね」と笑った。
「神様じゃないよ」
僕ははっきりそう言った。
だって僕が神様なら運命から抗って、莉望を悲しむことを全部なくすのに。
任期をなくして、莉望の気持ちに応えるのに。
苦しい苦しい苦しい苦しい!
なんでこんなにも息がしずらいのだろう。
「ううん、神様だってば。何回も私の心を救ってくれたし……。
景さんが私に出会ってくれてよかった。景さんが私に能力を継承してくれてよかった!
あのね、景さんが景くんだってことはさっき気づいたばっかなんだ。私たちこんなに成長して、長い時間は離れていたから――。
気づいたのは、眠夢様が“景くん”って呼んだ時。頭の奥がビビッとした。でも確信はなくて、だから外に行った時に眠夢様の能力を聞いて、眠夢様ならもしかしたらわかるかも、って思って仕事終わりに聞きに行ったの。
そしたらね、“教えられないわ”って言われちゃった。だから景さんとぶつかるしかなかったんだ~」
ふふふ、と満足そうに莉望は笑みを見せた。
「でもそんな昔から会ってるなんて、もしかしたら運命なのかもね、眠夢様が繋いだ」
「そう、だね」
――莉望の言葉にふと頭に浮かんだことがある。
なんであの時、眠夢様は継承先を莉望にしたのだろう。
僕らが出会っていることを眠夢様は知っていたのか? 知らずにやったのか――?
「ねぇ、景さん午後はどうする? ゲームする?」
莉望はそう首を傾げた。
「特に決めてないけど……莉望は何かしたい事ある?」
「んー、もう一回、外に行きたい。今度は階段で」
莉望の言葉に僕は胸が痛んだ。あの時が頭で再生されて、そのせいで莉望を苦しめたから。あんなことを言ったのに、何もできていないから。
だからこれは、今一緒にいるのは、今までの償いなんだと思う。無責任なことをした、苦しめてしまった莉望への償い。
そして僕らは部屋を出て、階段の前で立ち止まった――。
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