第54話 ロールパン

「どれもすごくおいしい!」



 莉望がほっぺたに手を置きながらそう言う。まるでCMに出てもおかしくないくらい、おいしそうに食べているのだ。

 僕は「そうだね」と言いながら口の中にパンを放り込む。

 たしかにおいしいけど、僕は1口1口を味わうほどの余裕がなかった。

 だって、だって! 元気な莉望は僕の細胞1個1個を震え立たせるのだから。いつもの僕でいられなくなるのだから――。

 莉望が正面に座っていることでパンを食べることでしか、僕は莉望から視線を逸らせなかった。



「景さんもお腹空いてたんだね。食べるの早い!

 ロールパン半分にするね。よいしょっと、あ!」



 莉望は1つのパンを左右に開いて2つにした。でも、力の入れ具合を失敗したようで斜めに割れてしまい、大きさにばらつきが見える。



「あはは! 莉望大丈夫だよ。小さいほうちょうだい」



 僕がそう言うと、莉望は「え、いいよ。こっちあげる」と言いながら、大きい方のパンを持った手を僕に伸ばした。



「ちょっと莉望、小さくていいってば。莉望ここのパン気に入ったみたいだし」


「そうだけど――」


「いいから。そっちちょうだい」



 僕は、伸びていない方の莉望の腕に向けて自分の腕を伸ばした。莉望はしかたないなぁ、という顔で僕の手の上に小さい方のパンを置く。

 近くで見てみると、やっぱり形は歪で僕はその形に少し笑わされた。

 莉望らしいというか、なんだろ……。途中まで素直なんだけど、少し思い通りにいかない、そんなところが形に現れているなって思ったのだ。

 でも少しして今の僕にも見えてきた。そう、思い切りがなく中途半端な感情を持った僕に。ひねくれていて、すぐ逃げる大人とは言いきれない僕に。


 歪だ。僕は綺麗になれない。

 莉望は素直で明るくて社交的でかっこよくもあって、こんなにも、天使のようなのに。



「景さん? はい、あーん」



 考え事をしていた僕に、莉望は話しかけながら口元に何かを当てた。突然のことによくわからないまま僕は口を開ける。するとほんのり甘いバターの香りが口に広がった。



「これで半分に出来たね!」



 莉望の言葉に、今、僕が莉望の手からパンを食べたことを思い知らされる。そしてこのパンのほのかな甘みが僕の恋心を引き立てた。けれど、パンの奥ゆかしいバターの風味はスッと去った。その速度に、この恋が僕から逃げていくこと、叶うのが困難だと言っているようで、後味のせいで僕の胸はキュッと締まった。



「はぁ、おいしかった。ごちそうさまでした!」



 莉望はそう言って手を合わせる。それだけなのに、天使がお願い事をしているように見えた。

 パンのせいだ。僕の心をいたずらしたパンの、せいだよ。


 僕は莉望を見れなくなった。この思いを吐き出しそうになる。泣きたくなる。初めての感情に気づけたのに……! 僕の任期まであと98日――。




「景さん、少し聞きたいことがあるんだけど」



 下を向いている僕に莉望はそう言った。僕は顔を上げることに恐れて、そのままで「何?」とだけ言葉を発する。



「あのさ、昔、小学生くらいの時、景さん入院したことある?」



 答えるために昔の記憶をたどる。あ……。忘れていた。

ここでの生活に慣れすぎて、昔のこと、前の世界にいた時のことを思い返すことが少なかったからか、本当に忘れていた。



「ある、あるよ! 本当に昔だけど、盲腸で2週間だけ――」



 莉望は何とも言えない顔をした。口も半開きだし、強いて言うなら困惑した顔、でもあきらめているような顔にも見えた。

 ようやく口を閉じたと思ったらまた莉望が審問を述べる。



「それって東京の西側で1番大きい病院だった?」


「1番かはわからないけど、西側の総合病院だったよ」



 僕の言葉に莉望は涙を落とした。悲しい顔ではなく嬉しそうな顔だった。

 綺麗な顔だったんだ。

 その顔をした理由を僕は知りたくなかった。でも知る運命だったのだと思う――。

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